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オーストラリアの歴史について文化・移民・アボリジニなど完全解説!

オーストラリアの歴史は長いとも短いとも言われています。それは有史以前のことを考えると非常に長く、有史以降のことを考えると非常に短いからです。

このようにオーストラリアの歴史をユニークにしているのは、オーストラリアが南半球にあり長いこと「地の果て」として北半球の世界から孤立していたという事実です。

長くて短い歴史を持つオーストラリアがどのように発展して現在のような近代国家になったのか、そしてどのように120以上もの言語が話されている多文化主義でありながら紛争の少ない平和な国になったのかということを基調として、次の4つの観点からオーストラリアの歴史をご紹介したいと思います。

・オーストラリアの国の始まり

・オーストラリアの政治の歴史

・オーストラリアの産業の歴史

・オーストラリアの移民政策の歴史

 

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Contents

オーストラリアの国の始まり

オーストラリアの近代国家としての始まりは1788年とされていますが、オーストラリアにはその前から長い間アボリジニという先住民が住んでいました。

そのアボリジニの国だったオーストラリアがなぜ現代のような多民族の住む国になったのか、オーストラリアの現在の国が始まった時点に戻ってその歴史を辿ってみたいと思います。

 

オーストラリアの先住民はアボリジニ

有史以前のオーストラリアにはアボリジニと言われる先住民が住んでいました。

アボリジニは5万年ほど前にオーストラリアに住むようになったのではと長い間考えられていましたが、2017年に新しい化石が発見され、それによるとアボリジニがオーストラリアに住むようになったのは、もっとずっと前の65,000年も前からだということが証明されました。

つまり、6万年以上もの長い間、オーストラリア大陸にはアボリジニ以外の人種が住んだことがなかったのです。

ただし、一部北部の太平洋側にはポリネシア人などの他民族が接近したこともあると言われていますが、住んでいた史実はないのです。

そのためアボリジニは、1770年にイギリスのキャプテンクックがオーストラリア大陸を発見するまでは外の世界の刺激をほとんど受けずに狩猟生活を続けていました。

 

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オーストラリア大陸の発見

オーストラリア大陸を発見したキャプテンクックはフルネームをジェームス・クックといい、1768 年から1779年の約10年間に世界を3回航海しました。

オーストラリアの東海岸を発見したのは1回目の航海の時です。

キャプテンクックはその後イギリスに戻りこの新しい大陸の発見について報告しました。

それから18年たった1788年、イギリスの艦隊11隻がアーサー・フィリップ指揮の下、シドニー湾に来航し上陸したのです。

この1788年が現在のオーストラリアの建国の年となっています。

この時に船に乗ってやってきたのは、約1200人の入植者と780人の囚人だったと言われています。

ちなみにオーストラリア大陸を発見したキャプテンクックは3回目の航海ではハワイに一度寄った後1779年に再びハワイに戻っているのですが、この時にハワイの革命グループにより殺されてしまいました。

 

入植地としてオーストラリアを選んだ理由

ではなぜ、イギリス人はオーストラリアを入植地として選んだのでしょうか。

それを知るには当時の世界情勢、特にアメリカの情勢を理解する必要があります。

 

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当時のアメリカの状況がオーストラリアの入植に影響

イギリスがオーストラリア大陸を発見した1770年以前、イギリスはアメリカを植民地にしていました。

正式にアメリカを植民地にしたのは1732年で、この時にはアメリカ国内に13の植民地が成立しました

イギリスはアメリカに植民地として税を課すことによりイギリス本国に利益をもたらすことを主な目的としていましたが、同時にイギリス本国の犯罪人の流刑地としても活用していたのです。

このような状況の中でイギリスはアメリカへの税を次第に重くするようになり、アメリカの発展に何も貢献せずにただ税金だけ取っていく政策を取るようになっていました。

この重税がアメリカに入植した人々の反感を買うことになり、アメリカの独立革命につながっていったのです。

独立革命は1775年に始まり1787年に終わっていますが、このことにより、イギリスは収入源を失っただけでなく流刑地も失い、それに代わるところを探していました。

候補の一つとしてあがったのがアメリカの隣のカナダでしたが、カナダは厳寒地でありその暮らしにくい環境を考慮して入植地とすることをあきらめました。

その代わりに選んだのがオーストラリアでした。

 

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イギリスにはなぜ多くの犯罪人がいたのか

では、イギリスにはなぜ他国に送り出す必要があるほど犯罪者が多かったのでしょうか。

同時のイギリスは産業革命の真っ最中でした。急激に発達した工業化のため、労働者は長時間労働や低賃金など搾取の対象となり、そのため労働運動の気運が高まっていました。

こうした労働運動に参加した人々が政治犯として逮捕され、一般の犯罪者の仲間入りをさせられたのです。

と同時に当時イギリスはアイルランドを併合しようとしていました。

これに対しアイルランド人は激しく抵抗したため、ここでも多くのアイルランド人が政治犯として逮捕されたのです。

結局アイルランドは1801年にイギリスに併合されることになるのですが、それ以降もアイルランド人の抵抗は続き、難を逃れるためにオーストラリアに渡った人の中にはアイルランド人の割合が非常に高いのです。

 

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アメリカ入植政策とは異なっていたオーストラリアの入植政策

さて、オーストラリアの現在のシドニーに上陸したイギリス人はそのエリアを開拓し入植を始めました。

アメリカの独立革命で苦い経験を味わったイギリスは、オーストラリアに対してはアメリカに課したような重税を課することはありませんでした。

そのためオーストラリアに渡ったイギリスの植民者は、オーストラリア人でありながらイギリス本国に強い感情を持ったまま現在に至っているようです。

まず最初に植民地の総督に選ばれたのが最初の11隻の艦隊を率いてシドニー湾に上陸したキャプテン・アーサー・フィリップです。

オーストラリアの上陸には前述の通り780人の囚人がいましたが、送られてくる囚人の数はその後も増え、1822年までには27,000人が送られて来ました。

 

鎖国により保守的な政策実施

入植当時、総督はこうした囚人に土地を与え労働力として使いました。

地理的に見てもオーストラリアはどの大陸からも離れていたので、そうした囚人たちが逃走する心配もなかったはずですが、それでも懸念して鎖国制度を敷きました。

具体的には船を作らせないようにし、輸送業の発達を押さえました。

この鎖国制度は当時オーストラリアの北側の海で活発化していた東インド会社の交易の影響を避ける役割も果たしました。

このように初期の頃の入植政策は保守的であり、長期的なものではなかったのですが、この保守的な海外政策は初代のフィリップ総督から始まり5代目のマッカリー総督まで続きました。

 

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オーストラリアを初めて一周航海により新しい土地発見

この間に、イギリスの探検家マシュー・フリンダースが初めてオーストラリアを一周航海し現在のニューサウスウェールズ州の各地やビクトリア州のメルボルンがあるポートフィリップ湾、そしてクィーンズランド州のケープヨークなどを発見しました。

マシュー・フリンダースは「テラ・オーストラリアへの航海」という報告書を書き、この中で初めて「オーストラリア」という名前で呼ぶことを提案しました。

こうしてオーストラリアの各地が発見され、入植が進んでいったのですが、やはり最初に開発された産業は農業でした。

この農業の発達については「オーストラリアの産業の歴史」のところで詳しい内容をお伝えします。

 

アボリジニとの抗争

これまではオーストラリアの歴史をイギリス人の立場から書いてきました。

そのため「入植」という言葉を使ってきましたが、この言葉はある意味曖昧な言葉でもあります。

入植はその地に入ってその土地を生活のために開拓することですが、先住民からすればそれは侵略になります。

そのため、入植する側とされる側はいつも抗争することになりますが、オーストラリアの場合も例外ではありませんでした。

入植のためにオーストラリアにやってきたイギリス人も先住民のアボリジニもと抗争することになるのです。

 

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アボリジニへの迫害

具体的には多くのアボリジニがまるで狩猟で動物が殺されるように殺されたと言われています。

例えばメルボルンの南にある島州タスマニアではアボリジニは全滅さえしているのです。

また、メルボルンでは虐殺することはなくても、不公平な物々交換を通して土地を失ったアボリジニも多かったのです。

例えばそれほど価値のないマッチなどを土地と交換することなどです。

さらには、1905年から1969年に掛けては、アボリジニを「教育」するという意味で、アボリジニの子供を親から奪い取り白人の家庭で養育した時期がありました。

この時期は「盗まれた世代(Stolen Generation)」と呼ばれており、実際に親から離された子供たち(今ではすでに成人になっていますが)が当時のことを悲しく物語ることもあります。

 

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今でも尾を引くアボリジニ問題と和解政策

このように、近代国家としてのオーストラリの始まりは決して良いものではありませんでしたが、オーストラリア政府もそれなりの和解策を講じてきました。

一つは、アボリジニであるとみなされた場合に特別な手当てを受けられる制度を確立しました。

ただ時代が過ぎるにしたがって、アボリジニとオーストラリアの他の人種との間の混血が進みアボリジニとしての純粋性も薄れてきているのが実際のところです。

そのためアボリジニの定義が難しくなってきているのです。

以前はアボリジニの血が1/8以上流れていれば(曽祖父母の誰かがアボリジニであれば)アボリジニとして認められましたが、現在ではその基準は州によって異なり、例えば、ビクトリア州では、とにかく先祖にだれかアボリジニの人がいることが証明されればよしとし、西オーストラリアではアボリジニの血が1/4以上流れている場合にアボリジニとみなすことにしています。

 

政府が正式にアボリジニに謝罪

政府の政策としては、このほか、2008年に当時のラッド首相が国としての正式な謝罪を表明したことが挙げられます。

こうした政策の甲斐あってか、アボリジニと一般のオーストラリア市民との衝突はそれほど起きなくなってきたのですが、それでも毎年、1月26日の建国記念日「オーストラリアデー」がやってくると、各地でアボリジニが集会を開きデモをする光景が見られます。

それはこの1月26日はあの11隻のイギリスの艦隊がオーストラリアに上陸した日であり、アボリジニにとっては「侵略の日」であるからです。

 

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オーストラリアの政治の歴史

オーストラリアの政治の歴史は正式には1901年から始まります。この年は連邦政府ができた年でそれまではイギリスの入植地として存在していました。

ですから、1901年はある意味ではオーストラリアがイギリスから独立した年とも考えることができます。

その年から118年立ちますが、ここでは、このオーストラリアが「住みやすい国」と言われるようになるまでの背景にあったオーストラリアの政治の歴史を辿ってみます。

 

イギリスの連邦国としてのオーストラリア

オーストラリアの国の長が今でもイギリスのエリザベス女王であることはあまり知られていないのではないかと思います。

国旗を見てもイギリスの国旗のユニオンジャックがオーストラリアの国旗の片隅に入れられています。

ではオーストラリアはまだイギリスの植民地なのかと問われれば、答えは「否」となり、オーストラリアはれっきとした独立国なのです。

では、イギリスの女王は何のためにオーストラリアに君臨しているのでしょうか。これについては、はっきりした理由が見つからないのですが、オーストラリアに移民した多くのイギリス人の心の支えのために存在していると言うしかないように思われます。

それほど、はっきりしない矛盾とも言えるこの事象については長い間賛否両論が交わされてきました。

 

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オーストラリアの共和国運動

実際、1999年には、オーストラリアを共和国にすべきだと言う声が高まり、国民投票が行われたのですが、共和国支持派はわずかの差で敗れ、オーストラリアは未だにイギリス連邦に加盟するオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)とし存在しているのです。

このようにオーストラリアはイギリスの影響下で発展してきたため、その政治の在り方もイギリスの方式を採用しています。

つまり労働党と自由党いう2大政党が選挙により政権を取り政治を行います。

ここで、労働党を先に紹介したのはオーストラリアではまず先に労働党が誕生したからなのです。

 

労働党の誕生

オーストラリアの労働党は、1900年に結成されたオーストラリアでは長い歴史を持つ政党です。

しかも自由党よりも先に誕生していることが他の国とは違っています。

例えば産業革命が起こったイギリスやその他のヨーロッパの国では、産業の発達を進めるために自由党がまず誕生し、次いで労働問題が発生するために労働組合が生まれ労働党や社会主義党などが結成されるのが通常の流れです。

 

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金鉱の採掘から生まれた労働運動

ではオーストラリアではなぜ自由党よりも先に労働党が結成されたのでしょうか。

それは1800年代の中ごろにオーストラリアで金鉱が発見されたことと関係しています。

金鉱についての詳しい内容は後述の「オーストラリアの産業の歴史」のところで説明したいと思いますが、発見された金の採掘のために中国から中国人労働者を多数雇い入れました。

移住してきた中国人は団結して行動し良く働いたため、その勢力を恐れたイギリス系の労働者が自分たちの権利や立場を守るために労働組合を結成しました。

結成された労働組合はイギリスですでに結成されていた主に製造業における労働組合を模範にしたものですが、すでに8時間労働の協約を勝ち取るなど活発な動きをしていました。

 

アイルランド人の反抗精神

さらにこれに拍車をかけたのがアイルランド人の存在でした。アイルランド人は本国ではイギリス人により圧迫されていましたから、オーストラリアに移住してからもその反骨精神を忘れることがなかったのです。

このような状況で労働組合が増え労働運動が活発になったためオーストラリア全体の組合のまとめ役として労働党が結成されました。

そしてこの労働党は1901年にイギリスの植民地に終止符を打ちオーストラリアの各地域をまとめ連邦政府を作ったのです。

 

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自由党の誕生

労働党結成のいきさつは上述の通りですが、ではもう一つの政党自由党はどのように生まれたのでしょうか。

 

世界的な冷戦の影響

自由党が結成されたのは労働党ができてから43年後の1943年でした。

第2次世界大戦も終盤に入ったころで、世界はすでにアメリカやイギリスを中心とする自由主義国家とソ連や中国を代表とする社会主義国家が激しく対立する冷戦の時代に入ろうとしていました。

一方オーストラリアは共産主義とまではいきませんでしたが、労働党が政権を取り社会主義に近い政策を展開していました。

この情勢を危惧し、反共の旗を掲げて立ち上がったのが、後に自由党の初代党首となるロバート・メンジースでした。

 

メンジースによる自由党

メンジースはアメリカとイギリスに接近した政策を取ったため、結果として、オーストラリアはアメリカやイギリスが起こしたいくつかの戦争に駆り出され、翻弄されることになるのです。

また国内的には、それまでの労働者保護の政策から一転して保守的な政策を取るようになりました。

しかしそれにもかかわらず、自由党は、1972年にふたたび労働党が政権を握るまでの29年間政権を握ることになります。

特に、メンジースは再選も果たし、最初の期間を合わせると18年間もの長期にわたり首相の座についており、彼はオーストラリアでもっとも長く首相を務めた人物として歴史に残っています。

 

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2大政党によるオーストラリアの政治

現在オーストラリアには労働党と自由党の2大政党があります。

その他にも民主党や緑の党などの政党もありますが、政権を取るのは常に労働党か自由党です。

経済がまだ今ほど発展していなかった頃は労働党は労働者のための政策を掲げ自由党は経済発達に重きを置いていたため雇用者側に立つ政策を行っていました。

ですから労働党が政権を握ると国民の生活にはゆとりが生まれますが、その代りに国の借金が増えることになります。

その反対に自由党が政権を握ると経済が発展しますが、そのしわ寄せ(長時間労働など)が国民に来ることになります。

では、オーストラリアの2大政党である労働党と自由党の特徴を最もよく表している2つの政権、労働党のウィットラム政権と自由党のハワード政権を例に取り、それぞれの政党の政策の違いを具体的に説明します。

 

労働党のウィットラム政権

労働党のウィットラム政権は、1972年に自由党のメンジース政権の後にできた政権です。ウィットラム政権はそれまで23年に渡って続いていた自由党の政権を倒したわけですからオーストラリアの歴史では画期的なことでした。

そしてそのように長い期間、自由党の政権下にあったことで渦巻いていた不満や怒りが一気に爆発したからでしょうか、ウィットラム政権は、短期間で多くの改革を実施したのです。

そのいくつかをあげると次のようになります。

・無料の国民保健制度(メディバンク)の導入。(現在はメディケアと呼ばれ収入に応じて0%~1.5%徴収)

・大学授業料の無料化。(現在は貸付制度に変更)

・学校補助金の交付

・アボリジニの土地所有権の承認

その他女性の地位を向上する政策や文化芸術活動の支援金の給付などの政策を展開しました。

 

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総督に罷免された労働党のウィットラム首相

ここまでなら、素晴らしい業績をあげたことになるのですが、こうした政策をするための資金繰りがうまく行かず、結局は歳出が増えすぎてしまいました。

3年間という短期間でこれだけの改革を行おうとしたわけですから無理ないことなのですが、そのために、1975年に時のオーストラリアの総督であったジョン・カーによりウィットラム首相は罷免されてしまったのです。

総督は入植時代はイギリス政府の使命を受けてオーストラリアを管轄する義務を持っていました。

オーストラリア連邦政府樹立後、総督は政治に関わることは許されていませんが首相を罷免する権利を有しているのです。

その権利を使ったのがこのウィットラム首相の罷免だったと言うわけです。

 

ウィットラム政権の遺産

このようにウィットラム政権は、あまりにも性急に物事を実行したために、その政治生命をわずか3年で終わらされることになったのですが、その時に敷かれた医療保険制度や大学制度の基本的な考え方、そして女性の地位の向上などは今でもオーストラリアの政策の根幹となっていると高く評価されているのです。

ウィットラムは1914年に98歳で亡くなりましたが、国主催の告別式が行われ、その時には労働党だけでなく自由党の政治家も参加して氏の功績を讃えました。

 

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自由党のハワード政権

自由党のハワード政権は1996年に始まった比較的新しい政権です。

首相のジョン・ハワードが就任する前は、オーストラリアが抱えていた一番大きな問題は膨大に膨れ上がった赤字でした。

この問題を解決するためにハワード首相が取った政策は国営機関のいくつかを民営化することでした。

この時に民営化された機関は郵便、空港、病院、通信、鉄道、水道などです。

ただし、建物と権利のすべてを民間企業に売り渡すのではなく、貸出し制を取り経営をリース化したのです。

また、消費者税(GST)の導入もハワード政権の時に始まったものです。

こうした政策の甲斐があって、赤字は縮小しオーストラリアの財政問題は解決しました。

 

行き過ぎた経済政策で4期目で衰退

ハワード首相が常に言っていた言葉が「大切なのは(国民に)仕事があることだ」というもので、政策としても経済の発達を特に重要視しました。

しかし、4期目に入るとハワード首相は「ワーク・チョイス」という労使政策を導入したのですが、これは雇われる側が雇い主と労働条件を交渉する際に労働組合を使わず、個人個人で交渉しなければいけないというもので、明らかに労働者にとって不利なものでした。

経済を発展させたハワード政権もこの新しい労使政策のせいで国民の不評を買い、2007年の選挙では労働党に敗れてしまいました。

けれども11年間続いた政権を通してハワード首相が率いた経済政策は今のオーストラリアの安定した経済の基を築いたということができるでしょう。

 

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違いが少なくなった労働党と自由党

オーストラリアはこの2つの政党が状況に合わせて応対することにより福利厚生と経済発展とをうまく調和しながら発展してきた国だということができます。

もちろん政権を選ぶのは国民ですから、オーストラリアでは国民がイデオロギーに固執せず情勢に合わせてフレキシブルに票を投じて政党を選んでいることがわかります。

特に、中国の経済が発展してきた1980年ころからは、国内の問題だけを論じていては対応しきれずグローバル的な観点から政策を推し進める必要性が生まれたため、労働党も自由党も産業を存続させることに重点を置くようになり、イデオロギーの違いは薄れていきました。

 

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オーストラリアの産業の歴史

オーストラリアの産業は入植時代の農場の開拓に始まり、金鉱の発見による鉱業の発達、そして日本やアメリカなどの企業の進出により工業化し、その後現在のグローバル化に至るまで大きな変化を遂げてきました。

 

オーストラリアの農場の発達

今でこそオーストラリアでは農業が主要産業の一つになっていますが、イギリス人が入植した当時、アボリジニは狩猟生活をしていましたから農地というものが存在せず、広大な土地にもユーカリの木が生育しているだけでした。

そのため、入植者たちが農業を始めるにはすべて一から行わなければなりませんでした。

 

刑期の終わった囚人による農地開拓

まず最初のイギリスの艦隊がオーストラリアに上陸したのは1788年の1月ですからオーストラリアは夏であり、しかもその年は水不足に悩まされた年でした。

そこでより住みやすい土地を探し見つかったのがシドニーの西にあるパラマタ地域でした。時のフィリップ総督はこのパラマタを農業の中心とすることにしました。

農地の開拓には開拓に必要な道具、小麦とトウモロコシの種、そして1年分の配給物を刑期を終えた囚人に与えました。

こうして始まったオーストラリアの農地開拓は、開拓に直接携わった元の囚人たちが自主性を持って遂行するようになっていきました。

その後シドニーの北西にあるホークスベリーの土地が肥沃であることがわかったため、農業の中心はこの地域に移りました。

ところが肥沃な土地のおかげで前よりも作物が順調に育ち余った時間が発生するようになったため、農夫たちは飲酒したり、ギャンブルしたり、はたまた大騒ぎをして騒動を起こすようになったため、監督側はより厳しい規制を敷くようになりました。

 

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すべて「輸入品」で始まった酪農畜産業

オーストラリアの農業では現在、酪農や畜産が盛んですが、入植当時はカンガルーやコアラなどオーストラリア特有の動物しかいませんでした。

悪いことには、こうした動物は家畜としては不向きだったのです。

そのため、現在酪農や畜産に使われている牛や豚、鶏などはすべて南アフリカやインドなどから連れてきました。

家畜の中では牛がまず最初に連れてこられたのですが、1788年の最初の上陸の時にすでに雄牛1頭と雌牛4頭を連れた来たとの記録が残っています。

ただしこれらの牛は、物の運搬のために連れてきたため、まだ酪農は始まっていませんでした。

ところがそうこうしているうちにイギリスの艦隊第2陣、第3陣がやって来るようになり、牛やその他の家畜も連れてきました。こうして酪農畜や畜産が本格的に始まったのです。

 

輸入品としてのラクダの繁殖

その後農業はオーストラリアの重要な産業として今日に至るまで発展を続けています。

参考までに、オーストラリアに輸入した動物にはこのほかラクダもいます。ラクダは物の運搬用に連れてこられました。

ラクダが最初に入って来たのは1840年頃ですが、ラクダを食べる動物がいないため今では75万頭以上にまで増えてしまい、内陸部で農場に入りむなどの被害が出ており、政府は数を減らす対策を行っています。

 

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金鉱の発見により鉱業が発達し都市が生まれる

オーストラリアでは、1800年代に金鉱が発見されゴールドラッシュの時代を迎えます。

金を求めた人々の生活はどのように変わって行ったのでしょうか。

 

シドニー近辺で金の採掘始まる

オーストラリアで最初に金鉱が発見されたのは1851年で、この時からゴールドラッシュが始まります。イギリス人が初めて入植してから63年後のことです。

ゴールドラッシュのきっかけは、これよりも前、アメリカで金探しをしていたエドワード・ハーグレイヴスという人がオーストラリアに金脈があるという話を聞き、アメリカでの金探しに見切りをつけオーストラリアに移住しシドニー周辺の渓谷で砂金を見つけたことでした。

砂金発見のニュースはオーストラリアの各地にまたたくまに広がり、金鉱付近にはオーストラリア国内だけでなく、国外からも多くの人が集まってきました。

やって来た外国人には中国人が多かったのですが、これは金採掘の労働力として当時の政府が入国を認めたためです。

 

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団結する中国人金採掘者

中国人の移住に関しては前述の労働党の誕生のところでも触れましたが、中国人は、オーストラリア人とは文化や言葉が異なるため自分たちだけのコミュニティーを作り、しかも厳しい労働条件にも耐えよく働いたため、一般の白人の目には仕事を奪う人間として映りました。

そのため、白人たちは労働組合を作り中国人に圧力をかけるようになったのです。

ただオーストラリアにとってラッキーだったのは、オーストラリアでは金の埋蔵量が多かったため、アメリカで起きたような金の取り合いのような醜い争いはそれほど起きなかったことです。

 

ゴールドラッシュで栄えたビクトリア州

シドニーで発見された金鉱に続いてビクトリア州でも金がみつかりました。ビクトリア州ではバララットとベンディゴが有名な金鉱の町として知られています。

この2つの町はメルボルンから100kmほど離れた所にあり、金が発見される前はほとんど人の住んでいない地域でしたが、金の発見に伴い多くの人がこうした地域に移住するようになりました。

特に時の政府は奨励金を出して、金の採掘を奨励したため、ビクトリア州の人口は急激に増え10年間で53万人となりました。これは初期の頃の5倍に当たります。

現在はバララットとベンディゴの金は掘り尽されたため、鉱業は途絶えましたが、この2つの町はその後も農業や観光業を中心に地方都市として健在です。

 

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金採掘に絡む争議が頻繁に起こる

オーストラリアにおける金の採掘は、前にも書きましたが、アメリカと比べると埋蔵量が多かったため金の取り合いといった争いは少なかったのですが、それでも騒動が皆無だったわけではありません。

その中でも、もっともよく知られているのが1854年にビクトリア州のバララットで起きた金工夫たちによる「ユーレカ砦の反乱」です。

大きな事件が起きる時には、大抵の場合、それまでに反乱を起こす側に不満が蓄積されており、ちょっとしたことをきっかけに大きな事件へと展開していくことが多いのですが、ユーレカ砦の反乱の場合もそうした背景の下で勃発しました。

 

ユーレカ砦の反乱

1851年バララットで金の採掘が始まると、政府は金採掘者から採掘料金を徴収する制度を導入しました。

つまり、採掘料金を払った場合にのみ「採掘許可証」を発行し、しかもこの許可証は常に身に付けていることが要請されました。

ところが採掘者の中には、採掘料金を払わないで採掘をしている人もでてきたため、政府は警察の力を利用して「採掘許可証狩り」を実施したのです。

こうした政府側の権力は、やがて権力の拡大と汚職の増長へと進展することになり、金採掘者の中に不満が溜まるようになっていました。

そんな矢先、ユーレカホテルの近くで一人の金採掘者の死体が発見されました。これは殺人によるものと判断されユーレカホテルのオーナーが容疑者として逮捕されます。

ところが、このホテルのオーナーは警察と近い関係にあり逮捕されたにもかかわらず免罪されたのです。

このことがそれまで権力側に対して不満をいだいた採掘者たちの怒りを爆発させることになり反乱となりました。

 

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民主主義の基礎となったユーレカ砦の反乱

約5000人の採掘者たちはユーレカホテルに火をつけ焼き落とし、「バララット改革連盟」を結成しユーレカに砦を作り反抗しました。

これに対し、同年12月3日、政府側は軍隊を派遣し反乱者を鎮圧しました。

結果として、反乱側20人、政府側5人が死亡し、翌年1855年には反乱の指導者たちが裁判に掛けられました。

裁判の結果は反乱側に有利なものとなり、その後それまでの採掘許可証の取得料金は値下げされ、採掘者の参政権も認められたのです。

このユーレカ砦の反乱の裁判が人民側に勝訴をもたらしたことは民主主義の始まりだったと高く評価されています。

 

オーストラリアの経済を促進させた金鉱業

金鉱業の発達はオーストラリア経済の発展にも大きな影響を与えました。

すでに触れたように、金の発見により人が集まりそこに町ができマイクロ経済が生まれました。

金の採掘量が増えるとそれをイギリスに輸出できるようになり、売ったお金でイギリスから工業製品を買い入れることができました。

つまり、金鉱業の発達のおかげで国全体の経済が発展したのです。

もし、オーストラリアに金鉱がなかったら、オーストラリアは今ほどの発展は遂げていなかったかもしれません。

 

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オーストラリアの主要鉱山物

オーストラリアでは金鉱の発見に続きその他にも多くの種類の鉱物が発見され産出されています。

2016年現在で世界における埋蔵量としてのランキングでは次の7種類の鉱物が1位に入っています。数値は世界の埋蔵量に対するオーストラリアの埋蔵量の割合(%)を示します。

・ゴールド  17

・鉄鉱石   29

・鉛     40

・ニッケル  24

・ウラニウム 29

・亜鉛    28

・ジルコン  67

 

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製造業の発達と労働運動の高まり

オーストラリアの製造業としては、1970年代までは家畜の肉処理業、羊毛業、ビールやワインの酒造業などの軽工業が主要でした。

そして、日用品などの工業製品はほとんどがイギリスやアメリカからの輸入品でした。

1970年代に入ると、高度経済成長で躍進を遂げていた日本の会社がオーストラリアに進出し工場を建てるようになり、この時からオーストラリアの製造業が始まりました。

こにれにより、オーストラリアは本格的な工業化時代を迎えたわけです。と同時にそれまでもすでに活発化していた労働運動にさらに拍車が掛けられることになり、オーストラリアの産業の歴史では激動の時代を迎えます。

 

オーストラリアに進出した日本の企業

日本の企業がオーストラリアに進出し始めたのは1960年代で、まず鉱山の開発に参与する形で進出しました。

三井物産はクィーンズランド州に進出し石炭の合弁事業に参加しました。その後、扱った鉱産物の種類は増え、鉄鉱石、ボーキサイト、銅などの採掘事業にも参入しています。

このようにしばらくは日本の企業の鉱山事業での進出が見られたのですが、1970年代に入ると、トヨタ、日産がメルボルンに、三菱自動車がアデレードに工場を建設し自動車部品の生産から自動車の組立までの全工程をオーストラリア国内で行うようになりました。

 

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多くの雇用を造り出した自動車産業

この自動車産業の進出は当時大きな産業動向で、日系企業の他にもアメリカのフォードとオーストラリア自国のホールデン社が自動車の工場を建てました。

ですから、最盛期には自動車会社が5社もオーストラリアに工場を持っていたことになります。

良かったことは自動車産業はすそ野の広い産業ですから、オーストラリア国内に多くの雇用を造り出したことです。

自動車部品、機械製作、物流などの主要副次産業のほか、印刷、清掃、ごみ処理、修理業などのマイナーな産業も発達することになったのです。

 

労働組合の発展

産業が急激に発達すると、いつも問題になるのが労使関係です。オーストラリアの製造業が発展した時期も例外ではありませんでした。

ここで少し横道にずれますが、オーストラリアの労働組合の歴史について触れたいと思います。

オーストラリアの労働組合の形成については政治の歴史のところでも書いたように1800年代の後半からすでにその形を現わしていました。

そして組合の数も1920年代後半までは増え続けるのですが1929年に起こった大恐慌により組合員の数が急激に減り第2次世界大戦が始まるまでの間、労働組合としての力を弱めてしまいました。

 

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世界大戦後の労働組合

世界大戦が終わると、世界的な冷戦が始まりオーストラリアの労働者も社会主義の影響を受け、再度労働組合運動を活発化していくことになります。

このように活発化した労働組合により、労働時間の短縮、賃金の平等化、アボリジニの権利向上、女性や移民の権利拡大など数々の労働条件工場や社会問題解決の要求が実現されていきます。

さらには、労働運動は政治面でも影響を与え、南アフリカのアパルトヘイトやベトナム戦争への抗議や環境や文化的遺産の維持などの要求と言った具合に活動範囲を広めていきました。

 

活発化する労働運動とその衰退

このように高揚した労働運動の最中に進出してきたのがアメリカや日本の製造業者でした。中でも悪いことには、日系企業の場合は、オーストラリア人の中に第2次世界大戦時の敵国だった日本に対しての反感を持っている人もいたため、そうした感情が経営者となった日本の企業に向けられました。

労働者は雇用側を「搾取する側」とみなし、それに反抗する形でだらだらと仕事をし何かにつけ争議を起こし、さらに悪化するとストライキに入るような状態が続きました。

しかも、こうしたストライキの傾向は日系の企業に限らず、オーストラリア各地のさまざまな分野にも広がっていったのです。

 

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オーストラリアの歴史に残るパイロット労働組合のストライキ

中でも当時国営だった国内線航空のパイロットの労働組合によるストライキは賃上げと労働時間の短縮を要求して1989年8月18日に始まり4か月ほど続き、オーストラリアのストライキの中でもっとも長期でもっとも損失の多かったストライキとして知られています。

結局組合側と政府側は和解に達することができなかったため、政府はストライキに参加したパイロットに見切りをつけ、国内や海外から新たにパイロットを雇い、国内線の運営を自由化する方向に政策を改めました。

これにより、ストライキに参加したパイロット達は職を失うことになり、また一般市民の支持も得られず悪評となり、このころから市民の間に組合運動への不信感が生まれていったのです。

 

中国の進出により製造業低迷

労働組合運動が衰退化し始めた頃、世界では中国の経済が伸び始めていました。

中国から安い工業製品がどんどん入ってくるようになり、オーストラリアの製造業もリストラや原価低減対策に迫られました。

そして多くの中小企業が閉鎖もしくは労働賃金の安い東南アジアに会社を移設するオフショア経営に迫られました。

 

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製造業の要だった自動車産業がすべて閉鎖

製造業の中では比較的強かった自動車産業も最初の5企業すべてが閉鎖を迫られるまで衰退してしまいました。

まず日産が1992年に工場を閉鎖し鋳造工場だけを残すのみとなりました。

その後2008年には三菱自動車が、2016年にはフォード、そして2017年にはホールデンとトヨタが自動車工場を閉鎖し、オーストラリアの自動車製造業の歴史に終止符が打たれたのです。

その後自動車会社は輸入車の販売事業へと経営方針を変更していきました。

 

鉄鉱石の輸出が増加

このように中国の経済進出はオーストラリア産業の全体像をすっかり変えてしまったのですが良かったことは、中国国内の工業の発達によりオーストラリアからの鉄鉱石の輸出量が増えたことです。

一般に言われる「資源ブーム」が始まったわけですが、このブームのピークだった2009年に鉄鉱石の主要産出地域である西オーストラリアに行くチャンスがありました。

この時には、パースから出発して北に向かって進みポートヘッドランドという港湾のあるところまで行ったのですが、このポートヘッドランドはまさに鉄鉱石の町でした。

 

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索漠とした鉱山の町ポートヘッドランド

高い木はほとんどなく土は赤色、風が吹くと赤い砂ぼこりが舞い上がっていました。立ち寄ったスーパーマーケットでは暗い表情をした店員が働いていました。

そんな中で、元気だったのが鉄鉱石を運ぶ鉱山列車とその鉄鉱石を中国へ運んでいく中国の巨大貨物船でした。

鉱山の町というのは、索漠としていながらも鉱業関係の機械や乗り物だけが動いているという印象を受けました。

 

資源ブームにより変わったオーストラリアの生活

この資源ブームは、オーストラリア人のライフスタイルにも影響を与えました。

鉱山の町ポートヘッドランドの宿はインターネットで予約したのですが、西オーストラリアの他の都市と比べると宿泊料が異常に高く驚きました。

その時は宿泊料が高い理由はわからなかったのですが、実際に行ってみて納得しました。

つまり、鉄鉱石の需要が急激に伸び人手不足になったため、オーストラリアの他州から鉱山労働者を大量に雇い入れたのです。

そのため、住宅が足らなくなり余った人はホテル住まいを強いられていました。

それでホテルの宿泊料金が釣り上げられていたことがわかりました。

その代わり、他州から雇われた鉱山労働者の待遇は大変良く、宿泊費はすべて鉱山会社持ち、週末になると自分の故郷やインドネシアのバリ島などに会社の出費で休暇に行くことができるほどでした。

 

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好調だった資源ブームに陰り

さて、好調だった資源ブームに陰りが出てきたのは2012年ころです。

それはオーストラリア銀行のデータを見ると、鉱業への投資額が2012年がピークとなっていて、それ以降は減少しているからです。

そしてこの鉱業の下降線と時期を同じくして伸びてきたのが、高齢者福祉などの福利厚生分野と観光及び教育分野でした。

つまりこの時期から、オーストラリアでも高齢化問題が表面化するようになり、また活発化したグローバル化によって、豊かになった一般市民が観光や留学にお金を使い始めた時期だったと言えるでしょう。

 

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オーストラリアの移民政策の歴史

現在のオーストラリアはもともとイギリス人という外国人が移住して築いた国です。それ以降もオーストラリアはさまざまな国から移民を受け入れ成長してきました。

移民政策はオーストラリアの政治の中でも大きな比重を占めており、時代によって異なる政策を取ってきました。

 

オーストラリアが移民を受入れるようになったいきさつ

オーストラリアに最初に移住したのはイギリス人でしたが、その後イギリス人以外の移民が入って来たのは、すでにお伝えしましたが、金採掘のための中国人の採掘者を多数受け入れた時でした。1850年代のことです。

中国人の次に多かったのがインド人です。インド人を受け入れたのはサトウキビなどのプランテーションの労働力が不足していたためです。

またオーストラリアの砂漠化した内陸部の輸送手段としてラクダを輸入したのですが、そのラクダを操るためにアフガン人も受け入れました。

最初に移住したアフガン人は12人でこの12人が120頭のラクダの面倒を見ていたと言われています。

 

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白豪主義の始まり

このようにオーストラリアに最初に移住してきた外国人は、イギリス人を除けばアジア人だったのですが、金の採掘のところでお伝えしたように、中国人はよく働き、しかも自分達のコミュニティを作り自分達だけで団結していたので、白人の採掘労働者の中に不満がつのるようになり、それが白豪主義へとつながっていきました。

そして、そうした白人たちが自分たちの雇用を守るために結成したのが労働組合でした。

労働組合の結成はやがて労働党の誕生へとつながっていくのですが、このあたりの状況については「労働党の誕生」のところで詳しく説明していますのでそちらをご参考ください。

 

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白豪主義によりアジア人を圧制

1901年オーストラリアはイギリスの管轄から離れて自分たちの政府「連邦政府」を創設しましたが、この時の政権が労働党だったことはすでにお伝えしました。

普通労働党と言えば庶民の権利を守るための政策を打ち立てるのですが、オーストラリアの労働党ができた頃は庶民全般ではなく「白人の庶民」の権利を守る政策を掲げたのです。

ただ露骨に「〇〇人の移住を拒否する」という言い方は避け、移住しにくい法律を制定しました。それが「移住制限法」でした。

 

いじわるテストを実施した「移住制限法」

移住制限法ではアジア人が簡単に入ってこれないように「ヨーロッパ語」による聞き取りテストを受け合格することを制定していました。

ヨーロッパ語というのは英語だけでなくスペイン語やフランス語などヨーロッパで話されている言語のことです。

例えばもし移住申請者が英語を得意としていれば、テストに使う言語はスペイン語やフランス語になりました。

これではほとんど誰も合格することはできません。

当時のオーストラリア政府はこのようにしてアジア人の移住を抑え白豪主義を実践していったのです。

 

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「ポイントシステム」を確率しヨーロッパ人受入れ

この白豪主義が取られていた時期、オーストラリアではアジア人は受け入れなくなりましたが、それでも経済の拡大や防衛のために移民を増やすことは必要なことでした。

そのために受け入れたのがヨーロッパ人でした。

ただ先に述べた移住制限法では、自分が得意とする言語以外の言語が聞き取れなければ合格しないわけですから、ヨーロッパ人でも合格することはできなくなります。

そのため、当時のウィットラム政権は移住制限法を「ポイントシステム」に切り替えました。

 

アジア人の移住は引き続き困難

このポイントシステムは移住申請者の年齢や能力にポイントを付け、基準以上のポイントに達すれば移住を認めるというものです。

ポイントシステムは、その後基準の内容は何度か変更になりましたが、現在のオーストラリアの移住受入れ制度にも適用されています。

ただ、このシステムでも優先はイタリア人やギリシャ人、そして共産主義だった東ヨーロッパの国々の国民であり、白豪主義であることに変わりはなかったのです。

 

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ベトナム難民の受入れにより移民政策大きく変わる

1901年から始まった白豪主義は、その後世界大戦終了後も続きますが、やがて終止符が打たれる出来事が起こります。それがベトナム戦争でした。

ベトナム戦争ではオーストラリアはアメリカイギリスとの連合の関係で軍隊を派遣していました。

この戦争は、1955年に始まり20年も続き1975年に終了しましたが、終了後多量の難民が輩出されました。

そのほとんどが連合国が加担していた南ベトナムからの難民であり、こうした難民の受け入れ国としてオーストラリアにも援助の依頼が舞い込んできたのです。

当時政権を握っていたのは労働党のウィットラムでしたが、ウィットラムはこの依頼を受け入れます。

つまり、ベトナムの難民の受け入れによってオーストラリアは白豪主義に決別し多文化主義への道を歩むことになるのです。

 

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アジア・太平洋寄りの政策への転向

70年以上も続いた白豪主義の下で生活してきたオーストラリア人にとって、急にアジア人であるベトナム人が多量に入ってきたことは大きなインパクトでした。

ただ、政府は今後はアメリカやイギリスとの連合は維持しながらも、地理的に近いアジア・太平洋地域の国々との接触が多くなると考え、アジア・太平洋寄りの政策へ転校することになるのです。

当時ウィットラムに変わって政権を握っていた自由党のフレーザー首相は「アジア太平洋経済協力会議(APEC)」を提案し、また「ASEAN地域フォーラム(ARF)」へも参加するようになりました。

 

移民に対して手厚いサポート提供

こうしてオーストラリアはベトナムだけでなく、広く世界に門戸を開きさまざまな国から移民を受け入れるようになったのです。

ちょっと考えただけでも50以上の民族の名前が出てきますが、国勢調査によるとオーストラリア全体では120以上の言語が話されているということです。

これだけ多い民族をまとめていくために、オーストラリア政府は、移民を受け入れる際に十分な生活費を支給し、英語学校に通わせ、また安い家賃の住宅などを紹介するといったような手厚いサポートを提供しているのです。

 

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多文化主義により民族間の紛争排除

オーストラリアでは公平で平等な憲法が制定され、人種の差別なく人権が守られていますが、同時に、それぞれの民族の文化も尊重されています。

どの民族も自分の言語を使った学校や自分たちの信仰する宗教の寺院を建てることができます。

学校では中国語、日本語、イタリア語、インドネシア語、マレー語などの第2言語が教えられ、さまざまな文化を紹介するアクティビティーが行われます。

これだけ多くの人種が同じ国に住みながら、テロや殺人事件などが少ないのはオーストラリアの人権を尊重する寛大な政策が功を奏しているからだと考えられます。

 

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まとめ

「長くて短いオーストラリアの歴史、南半球の『地の果て』から近代国家への変貌」と題してイギリス人が入植した時代から現在に至るまでのオーストラリアの歴史をお伝えしました。

この記事では、120以上もの民族が存在しながらも平和で寛大さと公平さにより統制されたオーストラリアという国がどのように築かれて行ったのかということに焦点を当てました。

そのため、史実をただ年代順に並べるのではなく、「国の始まり」「政治」「産業」「移民政策」の4つの観点を設け、それぞれの観点からオーストラリアの歴史を解説しました。

各観点の概要をまとめると次のようになります。

・オーストラリアの国はイギリス人の入植で始まり、当時は先住民アボリジニとの抗争と囚人の管理が大きな課題でした。

・オーストラリアの政治においては人権を重んじた労働組合運動を通して労働党がまず誕生し、後に自由党が結成され、以降2大政党制により国内外の情勢に対応してきました。

・オーストラリアの産業は農業で始まり金の採掘で経済力が伸び、アメリカや日本などの海外資本で製造業を発展させ、グローバル化でサービス産業に移行して現在に至っています。

・オーストラリアの移民政策は有色人種を拒否した白豪主義で始まりながらも今では世界各国から移民を積極的に受け入れる多文化主義を導入しています。

ここでお伝えしたオーストラリアの歴史が、現在のオーストラリアを理解する上でみなさまのさらなる助けとなるよう願っています。

 

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