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シンガポールの歴史

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はじめに

シンガポールは東南アジアのマレー半島南端、赤道の約140kmほど北に位置する小さな都市国家です。シンガポール島およびその周辺の島々を領土とし、その面積は約716平方キロメートルで東京23区と同程度です。人口は約547万人(うちシンガポール人・永住者は387万人)(2013年9月)となっています。

シンガポールは、今やスイスから世界最大の金融センターの座を奪い取ろうとしています。また、東南アジアにあって、一人当たりの国民所得は日本よりも高いとされていて、政治的安定と高い経済水準で知られている国です。これほどの勢いでアジアを越え、世界的な経済の中心のひとつとなっているのです。

その民族構成は中華系74%、マレー系13%、インド系9%、その他3%というように、多民族国家となっています。このため、国語はマレー語とされていますが、公用語として英語、中国語、マレー語、タミール語などが使用されています。また宗教も仏教、イスラム教、キリスト教、道教、ヒンズー教と多様です。

めまぐるしい発展を遂げるアジアにあって、さらに際立った発展を遂げる国がこのシンガポールです。シンガポールは今、全世界から注目されています。

しかし、その歴史となるとシンガポールという国の知名度と比べてあまり知られていません。しかし、非常に小規模な国家であるシンガポールが発展した背景には、この国の平坦とは言えない紆余曲折の歴史があるのです。

そこで、ここではシンガポールの歴史について、「どのホームページよりも詳しく」ということをモットーに、少しづつ、丁寧にみていきたいと思います。

シンガポールは一般に「歴史の短い国」であると言われています。シンガポールが世界史のなかで注目されるようになるのがイギリスによる植民地支配がはじまる19世紀以降で、今日のような「国際都市シンガポール」としての発展の始点となっているのがこの時期のことですので、そのように考えられるのも故なきことではありません。ですが実際のところは13世紀以降、文献史料にしばしば登場しており、他の国々と比べて決して「短い」とは言い難い歴史があります。

シンガポールの歴史は以下のように時代を区分することができます。

1.初期史(~15世紀)

2.近世史(16世紀~18世紀)

3.近代史(1818年:イギリス植民地設置~1965年:独立)

4.現代史(1965年8月9日:独立~)

以下、シンガポールの歴史について簡略に述べながらこの時代区分について詳しく説明します。

シンガポールに関するもっとも古い歴史的記録は3世紀ごろの中国の文献に登場する「婆羅洲」です。以降、13世紀の中国の文献などに記録がみられます。

古代のシンガポールはインドネシアを中心とするシュリーヴィジャヤ王国の支配をうけていました。その後、シュリーヴィジャヤ王国が没落すると、マジャパヒト王国、ついでマラッカ王国に支配されました。

「シンガポール」はインドの古典語であるサンスクリット語に由来するものです。すなわち、サンスクリット語で「ライオン」を意味するSingaと「集落、漁村」を意味するPuraがあわさって、「ライオンの街」という意味をもつシンガポール(Singapore)となりました。

伝説によると、古代インドネシアにあったシュリーヴィジャヤ王国の王子が暴風のためこの島に上陸した際に、これまで見たこともない異様な動物を見て、これをライオンだと誤認したことがその名の由来であると言われています。

以上のように、中国や東南アジアとの交渉をつうじて、文献資料にシンガポールが登場する15世紀までのシンガポールの歴史を「初期史」として設定します。

つづく「近世史」についてみてみましょう。

14世紀以降、マレー半島の南端という地理的条件もあって、シンガポールは貿易の場、船舶の寄港地として利用され繁栄するようになりましたが、ヨーロッパが大航海時代を迎えると、16世紀にはポルトガル人の攻撃を受け、つづいて17世紀にはオランダ人に支配されます。

いち早くインド航路を開拓したポルトガルが東南アジアに到達した頃、マレー半島ではマラッカ王国が繁栄していました。そのマラッカ王国は1511年にポルトガルとの戦闘の末に滅亡しました。これにより、ポルトガル領マラッカが成立します。そして、シンガポールも1513年にポルトガルによって侵略されました。マラッカ王国からの移住者をはじめとした多くの人びとが虐殺され、町は壊滅状態となってしまいます。

マラッカ王国最後の王・マフムード=シャー1世の次男であるアラウッディン=リアヤト=シャーは、1528年、マレー半島南端にあるジョホールに移り、ジョホール川上流のプカン・トゥアでジョホール王国を建国し、王朝を再建しました。こうして16世紀以降、シンガポールは、対岸のジョホール王国のスルタンの支配下におかれることとなりました。

以降、ポルトガルはマラッカ海峡の覇者となって香辛料貿易を独占し、大きな利益をあげました。

オランダは1602年にオランダ連合東インド会社を設立してアジアに進出して以降、ポルトガルから香料貿易を奪い取って、海上帝国を形成しました。これによって世界各地からもたらされる貿易の富がアムステルダムに流れ込み、17世紀のオランダは黄金時代を迎えて栄えていました。このころの東南アジア・東アジア地域におけるヨーロッパの勢力は、イギリスやフランスを退けてオランダが最盛期を迎えており、当時のシンガポールもまた、その勢力下にあったのです。

このように、これまで主に中国や東南アジア諸国といった比較的近隣の地域と交渉する時代から、近代のイギリスによる支配につらなるヨーロッパ勢力がシンガポールに進出し、支配する時代へと変化していくのが16世紀以降のシンガポールの歴史です。この時期のシンガポールは近代以前の歴史と近代史との橋渡し、近代の前提となる状況が次第に形成される時期ということで、この時代を「近世史」とします。

1819年、イギリスの東インド会社がシンガポール港植民地を建設しましたが、この植民地はイギリスの東南アジアにおける植民活動の中心となりました。1867年にはイギリス本国の直轄植民地となりました。

1869年、スエズ運河が開通し、同じ頃に蒸気船が登場したことで大いに繁栄しはじめます。シンガポールはマレー半島の錫(すず)とゴムの需要増加とともにマレー半島の天然の港として成長を遂げました。

第一次世界大戦後にはイギリスは大量の資金を投入して、シンガポールに大規模な海軍基地を建設しましたが、これは東南アジアにおけるイギリス勢力の象徴となりました。しかし、1942年1月に日本軍がマレー半島に侵攻し、シンガポール植民地当局および英駐屯軍は日本に降伏することとなりました。

1946年、シンガポールは他のマレー半島地域と分離され、再びイギリスの直轄植民地とされます。1959年には完全な自治権を獲得し、1963年にマレー連邦の一員としてイギリスの植民地支配から完全に脱します。ところが、マレー連邦政府との対立の末、結局は連邦から脱退することとなって、1965年8月9日に独立国家となりました。

ここまでが近代史、そしてそれ以降の独立後の歴史が現代史となります。

このページでは、シンガポールの歴史について以上のような時代区分を基礎としながら叙述していきます。

しかしながら、近代以前の歴史については史料が多くなく、近年、大規模な発掘作業によって徐々にその実態が解明されつつあるものの、近現代史と比べるとわかっていないことが数多くあります。このため、初期史と近世史の前近代の時期をを一つの章とし、その後は近代および現代についての叙述が中心となります。

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シンガポールの前近代

交易船が出入りする海港「トマセック」

イギリス東インド会社のラッフルズが上陸する以前のシンガポールについての歴史的叙述においては、長いあいだ「貧しい漁村だった」という叙述が一般的でした。これまで、ラッフルズ上陸以前のシンガポールについては文献史料がほとんどないとされていて、マラッカ王朝までのマレーの歴史書(歴代王の記録)である『マレー年代記』に記された神話だけが知られるのみでした。

シンガポールに関する歴史的な記述で最古のものは3世紀の中国の文献です。そこでは「半島の先端の島」を意味するプールォチュンPu-luo-chung(漢字表記:婆羅洲あるいは蒲羅中)という名称で呼ばれています。

7世紀ごろには古代インドネシアで栄えたシュリーヴィジャヤ王国の勢力下にありました。シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配していた、多くの港市国家をしたがえる交易帝国でした。東にスマトラ島のパレンバン、西にマレー半島西岸のクダあるいは北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていました。このシュリーヴィジャヤという海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドとも活発に交易をおこないました。

そして、当時のシンガポールは漁村「トマセック」として知られていました。「トマセック」というのは「海の町」という意味です。この名のとおり、トマセックはあらゆる航路が交差するマレー半島の先端に位置するという地理的条件もあって、いろいろな国の船舶が寄港していたとされています。

シュリーヴィジャヤ王国が没落してのち登場しするのがマジャパヒト王国です。マジャパヒト王国はジャワ島に興ったヒンドゥー教の王朝です。もともとジャワ島にはシンガサリ朝がありました。1292年に元のフビライ=ハンの遠征活動で、元の侵入を受けました。この時、反乱が起こって当時ジャワ島を支配していたシンガサリ朝のクルタナガラ王が殺されます。その女婿のヴィジャヤはジャワ島東部のマジャパヒト(苦い果実という意味)村に落ち延びて、王位回復のため元軍の協力を取り付けるのに成功して、反乱軍を鎮定しました。こうして成立したのがマジャパヒト王国です。その後、王は巧みに元軍を帰国させてマジャパヒト王国の独立を保ち、元および明に朝貢をしながら、存続しました。

そのマジャパヒト王国の宮廷詩人であるプラパンチャが14世紀に書いた『王朝栄華物語』にはマジャパヒト王国の服属国としてトマセックの名が登場しています。このことから、少なくとも14世紀まではこの名で呼ばれていたようです。

また、同じ時期に書かれた中国・元代の旅行家である汪大淵の旅行記『島夷誌略』にも現在のシンガポールには「海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた」ことなどが記録されていることから、外国船が停泊する貿易港として当時から機能していたことが分かります。

『マレー年代記』の記録では、フォート・カニングの丘の王宮最後の王であるパラメシュワラ王が14世紀末にマジャパヒト王国に襲撃されたためにマレー半島のマラッカに逃れてマラッカ王国を建国した、とあります。しかしながら、パラメシュワラ王がシンガポール最後の王を殺害して数年間統治したが、タイ南部のアユタヤ朝からの攻撃によってマラッカに逃げた、とする別の文献もあります。こうした内容の若干の相違はあるものの、これら文献からうかがうに、14世紀にはフォード・カニングを中心とするシンガポールの王朝があったということが分かります。

マラッカ王国支配下の「シンガプーラ」

マジャパヒト王国で内戦(パルグルグ戦争)が発生し、パレンバンの王子パラメシュワラが内戦を逃れてマレー半島各地を転々としていました。パラメシュワラがシンガプーラ(現在のシンガポール)に逃れた際、アユタヤ王の女婿であったシンガプーラ王を殺害した事件を契機として、シンガプーラを含むマレー半島の覇権をめぐってマジャパヒト王国とアユタヤ朝シャム(タイ)とのあいだの対立が激化します。機をみてマラッカに移ったパラメシュワラは1402年、マラッカ王国を建国しました。そして、現在のシンガポールもその支配下におさめることとなりました。

パラメシュワラが登場する14世紀末ごろからこの地の呼称として「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ」という名称が定着し、現在の「シンガポール」(Singapore)の由来となりました。

なぜ「シンガプーラ」かは諸説ありますが、言語的にはインドの古典語であるサンスクリット語に由来するものです。すなわち、サンスクリット語で「ライオン」を意味するSingaと「集落、漁村」を意味するPuraがあわさって、「ライオンの街」という意味をもつ「シンガプーラ」(Singapura)となりました。

あらゆる説のうち、古代インドネシアにあったシュリーヴィジャヤ王国の王子が暴風のためこの島に上陸した際に、これまで見たこともない異様な動物を見て、これをライオンだと誤認したことがその名の由来であると言う伝説は有名です。他には、マジャパヒト王国の属国地の通称であるという説や「シンガ」は寄港を意味するもので、単に寄港地という一般名称であったとする説などがありますが、シンガポールではスマトラよりここを訪れたサン・ニラ・ウタマという人物によって建設され、彼によってこの名がつけられたとする説を通説としています。

15世紀に皇帝の命により東南アジアを経て中東からアフリカまで遠征した中国・明代の鄭和(ていわ)の記録には、シンガポールが重要な寄港地として登場しています。貿易拠点として15世紀にいたっても繁栄していたことがうかがえます。

大航海時代のはじまり

ここで、やがてシンガポールもその波に呑み込まれることとなる、世界的な歴史の動きに目をむけてみましょう。

15世紀になるとこれまで強大な勢力でユーラシア大陸を制したモンゴル帝国が衰退しました。ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土を有するモンゴル帝国の支配は一方で東西交易を活性化させていましたので、ヨーロッパにとっては東方の軍事的脅威であると同時に、経済活動の原動力ともなっていました。したがって、モンゴル帝国の衰退は少なからず、ヨーロッパの経済に影響をおよぼしました。

そこに、さらにヨーロッパにとって不利な要素が加わりました。15世紀中頃まで、東洋との貿易はシルクロードを通して行なわれていました。そこでは、ヴェネツィアやジェノバといったイタリアの海洋都市国家やビザンツ帝国が仲介商人として活躍していました。

ところが、西アジア地域で勃興したイスラム教徒のオスマン=トルコが勢力を伸ばし、その勢力圏を拡大していました。そして、1453年にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、繁栄していたイタリアの都市国家にも勝利して地中海の制海権を奪うこととなりました。こうして、東西交易の中継地を制圧したオスマン=トルコは、地中海交易を支配するようになったのです。そして、地中海での交易に高い関税をかけました。これによって、東西貿易の取引量は抑制されることとなり、地中海交易は次第に衰退していきました。

このような事情から、ヨーロッパは新たな交易ルートの開拓を模索しはじめます。

他方で、15世紀の半ば、ポルトガルとスペインは国王を中心として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐する「レコンキスタ」を展開していました。これを通じて、長期にわたって、イスラム王朝の支配を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が高揚し、国王を頂点とする中央集権制度がほかのヨーロッパ諸国よりも早い時期に成立しました。

また、このころ造船技術が飛躍的に向上し、羅針盤もヨーロッパに伝来しました。こうしてヨーロッパ人が外洋航海することが可能になりました。ポルトガルとスペインはイベリア半島とその周辺におけるイスラム勢力の衰退とともに北アフリカ地域に進出するようになりました。

以上のように、地中海に代わる新たな交易ルートの確保の必要性、「レコンキスタ」をつうじて成立した中央集権的絶対王政、そして航海技術の発達を背景として、ポルトガルとスペインは遠くアジアへの航路を求めて海に出て行くようになりました。「大航海時代」のはじまりです。

 ポルトガルのアフリカ・アジアへの進出

このうち、ポルトガルはまず北アフリカに進出し、1415年、3人の王子が北西アフリカにあるセウタを攻略しました。つづいてポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島およびマデイラ諸島を探検してシエラレオネ付近まで進出します。さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナに拠点をつくって奴隷貿易をはじめました。

そして、ついに1488年、バルトロメウ・ディアス率いる船団がアフリカ最南端に到達します。これにより、ポルトガルによるインド航路開拓が確実なものとなったと考えた国王ジョアン2世はこの地を「喜望峰」と命名しました。

次なるポルトガルの目標は、インドへの到達と直接交易です。ポルトガル国王・イマヌエル1世はヴァスコ=ダ=ガマにインドとの直接航路開拓のための航海を命じました。こうして、1497年7月8日、ヴァスコ=ダ=ガマは船団を率いてポルトガルのリスボンを出発してインドを目指しました。

ガマの船団はこれまで先人によって蓄積された航海の知識をもとに4ヶ月で喜望峰に到達しました。そして、アフリカ南端からモザンビーク海峡に到達した船団は、イスラム商人からインドへの航路についての情報を収集しました。

1498年5月20日、ヴァスコ=ダ=ガマとその船団は前人未到の航海の末、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到達したのです。そしてその翌年、インドの香辛料をポルトガルに持ち帰ることに成功しました。

残る課題は航路の中間にいるイスラム勢力を制圧することでした。そこで、1509年2月、ポルトガル国王の命でフランシスコ=デ=アルメイダが遠征艦隊を率いてイスラム勢力を攻撃します。ディーウ沖海戦です。この戦いに勝利したポルトガルは、念願のインドとの直接交易路を確保しました。

その後、ポルトガルは順調にマレー半島(後述)・セイロン島へと勢力を拡大しました。そして、1557年には中国大陸のマカオに要塞を築いて東アジア地域におけるのポルトガルの拠点とします。また、1543年には日本の種子島にポルトガル船が漂着して鉄砲を伝えるとともに、これを契機に日本との交易もはじめました。

こうして、ポルトガルはヨーロッパ諸国のなかでいち早く、香辛料貿易によって海洋帝国を築きあげたのでした。

こうして16世紀末以降にオランダ、そしてイギリスが勃興するまで、ヨーロッパからアジアにいたる海域ではポルトガルがわがもの顔で船を航海させ、交易をおこない、ときには周辺の陸地を武力で侵略・支配する時代となりました。

ポルトガルの侵略とオランダの隆盛

このような世界史の荒波にシンガプーラは呑み込まれます。

1509年、ディオゴ=ロペス=デ=セケイラの率いるポルトガルの遠征隊は、海上貿易で繁栄するムラカ(マラッカ)に初めて到達して通商を要求しました。はじめ、マラッカ王国のスルタンであったマフムード=シャー1世はポルトガル人に交易と商館の建設を許可します。しかし、インドにおけるポルトガル勢力のムスリム迫害のはなしを聞いたマフムード=シャーは、ポルトガル人の排除に急遽方針を変更して、ポルトガル人約60名を殺害しました。これにより、ポルトガル艦隊は24人の捕虜をムラカにのこしてインドに撤退します。

報告を受けたポルトガルのアフォンソ=デ=アルブケルケ(アルバカーキ)・インド総督は1511年7月に、16隻の艦隊を率いてムラカに到着しました。そして、マラッカ王国に捕虜の釈放と要塞建設の用地の提供、および賠償金を要求しました。しかしながら、マラッカ側は捕虜の釈放以外の条件に難色を示します。これに対して、アルブケルケ率いるポルトガルの武装集団は上陸してムラカの港市に攻撃を加えました。マラッカ王国はこれに応戦して、熾烈な攻防戦が展開されましたが、同年8月に、ムラカは陥落してしまいました。いわゆるポルトガルによる「マラッカ占領」です。

こうして、繁栄していたマラッカ王国が1511年に滅亡しました。これにより、ポルトガル領マラッカが成立し、マラッカ王国の商人や王族の一部がシンガプーラへと逃れていきました。

しかしながら、シンガプーラも1513年にポルトガルによって侵略されました。マラッカ王国からの移住者をはじめとした現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となってしまいます。その結果、シンガプーラは以前の繁栄の面影を失ない、以降は漁民と海賊が居住する、マングローブの生い茂るさびれた漁村となってしまいました。

マラッカ王国の王族たちは、各地に逃れ、後継王朝を築いていました。そのうち、マフムード=シャー1世の次男であるアラウッディン=リアヤト=シャーは、1528年、マラッカ王家の分流・パハン王家の助けを得て、カンパルからマレー半島南端にあるジョホールに移り、ジョホール川上流のプカン・トゥアで王国を再建しました。ジョホール王国です。

こうして16世紀以降、シンガプーラ島は、このマラッカ王国の後継王朝として建国された対岸のジョホール王国のスルタンの支配下におかれることとなりました。

これ以降、ポルトガルはマラッカ海峡の香辛料貿易を独占し、大きな利益をあげていくこととなりました。

他方、16世紀後半、スペインと対立して八十年戦争の最中であったオランダは、スペインが貿易制限や船舶拿捕などを行なったため大きな経済的打撃を受けていました。そんななか、当時、東南アジアの香辛料貿易をほぼ独占していたポルトガルは、1580年にスペインによって併合されていました。このため、オランダはポルトガルを通じた香辛料の入手が困難になっていたのです。

そこで、オランダはみずからアジア航路を開拓し、スペインに対抗する必要がありました。オランダは1595年から1597年までの航海によってジャワ島のバンテンとの往復に成功しました。そして、オランダのいくつかの商社が東南アジアとの取引を本格化させていきます。しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったため、東南アジアでの香辛料購入価格が高騰しました。加えて、一方のオランダ本国では競合商社間で価格競争が熾烈となり、香辛料の売却価格が下落していきます。さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことにより、オランダの国際競争力への懸念をつのらせました。

このような状況にあって、ホラント州の政治家であったオルデン=バルネフェルトが、香辛料貿易を行なっていた複数の商社をまとめて、1602年3月20日、オランダ連合東インド会社を発足させました。会社といっても普通の会社ではありません。商業活動ばかりでなく、条約の締結権や軍隊の交戦権さらには植民地の経営権といった、アフリカ南端の喜望峰以東におけるあらゆる特権が与えられた勅許会社でした。こうすることによって外国に対抗しようとしたのです。そして、アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフにそれぞれ支社が置かれました。ちなみに、この会社は複数の株主による投資によって運営され、利潤が配分されていて、世界初の株式会社であるといわれています。

以上のようにして、オランダは東インド会社を組織し、国家レベルで本格的にアジア貿易に乗り出していました。やがて、オランダは先行していたスペインやポルトガルにかわってヨーロッパにおける海洋交易国として浮上してきます。

そして1641年、ついにオランダがマラッカを攻撃し、ポルトガルからマラッカを奪い取りました。これによってオランダ領マラッカが成立し、今度は、オランダがマラッカ海峡の香辛料貿易を独占するようになったのです。また、ジョホール王国はオランダの影響下にはいることとなり、シンガプーラもオランダの勢力圏となりました。

さらに、オランダは日本やタイとの交易にも乗り出します。中国との交易については、中国国内に拠点をもつことは許されませんでしたが、台湾を占拠して中国との貿易の拠点としました。日本ではカトリック国であるスペイン・ポルトガルに警戒を強めていた江戸幕府を説得してポルトガルを日本との交易から排除することに成功し、いわゆる「鎖国」下の日本においてヨーロッパ諸国で唯一、交易が認められることとなりました。

こうして、アジアにおけるポルトガルの海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって衰退したのです。

また、1623年にはインドネシア・モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイギリスの拠点をオランダが襲い、イギリスの商館員全員を殺害するという事件が発生します。アンボイナ事件もしくはアンボイナ虐殺事件と呼ばれるものです。これによってオランダはイギリスの勢力を東南アジアにおける香辛料貿易から排除し、アンボイナ島の権益を取り上げてしまいました。

このような事件の影響もあり、イギリス東インド会社やフランス東インド会社も、オランダとの競合関係を回避して、東アジアや東南アジアから撤退して、当分のあいだはインド経営に専念することとなりました。

以上のように、オランダは1602年にオランダ連合東インド会社を設立してアジアに進出して以降、ポルトガルから香料貿易を奪い取って、海上帝国を形成しました。これによって世界各地からもたらされる貿易の富がアムステルダムに流れ込み、17世紀のオランダは黄金時代を迎えて栄えていました。

このように、このころの東南アジア・東アジア地域におけるヨーロッパの勢力は、イギリスやフランスを退けてオランダが最盛期を迎えており、当時のシンガプーラもまた、その勢力下にあったのです。

これまでみてきたように、前近代のシンガポールは東南アジアを制したものが支配する地でした。そして、それらの勢力の興亡を見てきた場所だったのでした。

2014年にはじめて歴史教科書に登場した「ラッフルズ以前」のシンガポール

これらラッフルズ以前のシンガポールの歴史が次第に明らかになる重要な契機となったのが1984年からフォード・カニング、旧国会議事堂、パダンといったシンガポール・リバー周辺を中心に発掘調査が行なわれたことでした。この調査はシンガポール国立大学教授のジョン=ミクシクによって始められました。

発掘調査ではインドのものと考えられるガラス製ビーズ、腕輪の一部、中国元代の陶器、唐宋期の銅銭など数千万にのぼる遺品が発掘されました。

これら発掘調査によって、14世紀ごろにはマレー半島の先端に位置しマラッカ海峡の玄関口となるシンガポールの地の利を活かして、 海港「トゥマセック」と呼ばれるマレー世界の交易拠点として繁栄していたことが明らかになったのです。

これまでほとんど顧みられることのなかったラッフルズ以前のシンガポール繁栄の歴史は2014年、つまりシンガポール独立50周年の前年になってようやく中学校の歴史教科書に建国以来はじめて記述されることとなりました。

これからも、さらなる調査・研究によって、これまで知られていなかったかつてのシンガポールの姿に21世紀の私たちが出会うことになるでしょう。

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「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

世界帝国「大英帝国」形成と東南アジア

16世紀以降の東南アジアには前述のポルトガルによるマラッカ占領をはじまりとして、その後、1571年にはスペインがフィリピンのマニラを占領、さらにオランダによるインドネシアのジャカルタ占領というように、次々とヨーロッパ諸国が貿易拠点の確保を目的として進出し、みずからの勢力圏として次第に植民地化していきました。

そのようななか、イギリスがその列に加わりました。1577年から1580年にかけてのフランシス=ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出しはじめましたが、その性格は、略奪、探検、冒険航海という性格が強かったとされています。

当時のイギリスには、すでに、レヴァント会社という会社がありました。地中海やモスクワを経由して地中海東岸地域との貿易を専門とするこの商社が、イギリスにおけるアジアとの貿易を独占していたのです。しかし、1595年にオランダがジャワ島バンテンに4隻の船団を派遣します。この派遣は成功し、これがヨーロッパじゅうに衝撃を与えました。

イギリスのレヴァント会社はオランダが直接、アジアから物産を大量に仕入れるのを見て、自分たちの独占が脅かされるのではないかと心配します。とはいっても、当時のイギリスの航海技術、資本の蓄積ではオランダのような事業を展開することは高いリスクをともなうものだったのです。

その打開策として、レヴァント会社の関係者が中心となって、1600年、航海ごとに資金を出資する形でイギリスに東インド会社が設立されることになりました。東インド会社は専従の従業員を有するジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立されました。さらに、エリザベス1世にアジア貿易の独占権を認めるように請願しました。

こうして、イギリスは1600年にスペインの無敵艦隊に勝利して以降、これまで世界各地に占領地を築いて交易のネットワークを形成していたスペイン・ポルトガルが徐々に衰退していくと、これにかわって、上記のようにしてアジア交易のために設立された勅許会社・東インド会社のもとでアジア地域への進出をはかりました。東インド会社は体裁としては民間企業ではありましたが、独自の軍隊をもち、その軍事力によって他国を攻撃・占領することができるなど、実質的にある種の国家のような存在でした。

イギリス東インド会社の当初の最大のターゲットは南アジアの大国であるインドでした。インドにはすでにポルトガルの拠点がありました。またフランスも進出を図っていましたが、17世紀以降、次第にイギリスが圧倒していくこととなりました。

インドを支配していたムガル帝国は、最大領域を実現したアウラングゼーブ帝の死後、18世紀はじめ以降に没落していました。各地の地方長官の離反、帝国内の小王国の反乱、在地勢力としてのザミーンダール(徴税請負人)の台頭、シク教徒の反乱などによって、17世紀まで繁栄をきわめたムガル帝国は、崩壊の危機に瀕(ひん)していたのです。

このような時期に、イギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出するなかで両者の利害対立が深まって、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発しました。1757年6月のプラッシーの戦いではイギリスはムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍を破ります。他方、同年8月にはムガール帝国の弱体化に乗じて中部インドのデカン高原を中心とした地域に、マラーター王国の宰相を中心に結成されたヒンドゥー教徒のマラータ族封建諸侯の連合体であるマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(1757年 – 1758年)によってインド全域を占領する勢いを見せました。そのような情勢下で1760年のヴァンデヴァッシュの戦いにおいて、フランス東インド会社にイギリス東インド会社が勝利しました。

一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していました。1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権,)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進しました。さらに、イギリス東インド会社は一連のインドを侵略する諸戦争(マイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となったのです。

こうしてインドを勢力圏に収めたイギリスにとって次に課題になったのが、アジアのもう一つの大国である中国との交易路の確保でした。東インド会社の拠点はカルカッタにありましたが、ここから中国に至るルートとしてはマラッカ海峡を経由して南シナ海に抜けるのが一般的でした。この当時、この距離を補給なしで航行するのは不可能でしたので、イギリス東インド会社にとって寄港地を確保することが重要でした。

このような話をすると、ずっとお読みいただいている方からこんな疑問が出るかもしれません。「イギリスは東南アジアから手を引いていたんじゃないの?」と。

たしかに、イギリスはかつて、アンボイナ事件を契機として、東インド諸島から全面的に撤退を余儀なくされていました。そして、当分のあいだはインド経営に専念していました。ところが、18世紀後半以降、中国との広東貿易が盛んになり、他方で19世紀初めのヨーロッパじゅうを巻き込んだナポレオン戦争によって、東南アジアを支配していたオランダの勢力が後退していました。すなわち、オランダは18世紀末から19世紀初めにかけてナポレオン率いるフランスの支配下に置かれ、その後もしばらく混乱状態にあったのです。

具体的には以下のような事態です。フランス革命の際、フランス革命軍が1793年にネーデルラント周辺を占領しました。そして、フランスへ亡命していた革命派らにバタヴィア共和国を樹立させました。さらに、ナポレオンがフランスで皇帝に即位すると、1806年にナポレオンの弟ルイ=ボナパルトを国王としてバタヴィア共和国はホラント王国となりました。その後、ナポレオンは1810年になってホラント王国を廃止してフランス帝国の直轄領とします。そして、総督フランソワ=ルブランがアムステルダムに駐在することとなりました。この混乱のなかで東インド会社は解散しました。そして、東南アジアの東インド植民地(オランダ領東インド)を当時、フランスと敵対関係にあったイギリスが1811年から1816年にわたって一時占領するという事態まで発生しました。1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたもとのオランダ王家・オラニエ=ナッサウ家がオランダに戻り、ウィレム1世が即位してネーデルラント連合王国を樹立しますが、つづいてベルギーが分離独立を主張して戦争となり、1830年に独立します。

このようなオランダの混乱状態に乗じて、イギリスは再び東南アジアと東アジアで活動するようになったのです。

オランダの混乱に乗じて、日本でもイギリスは事件を起こしています。1808年に長崎で起きたフェートン号事件です。10月4日(文化5年8月15日)に、イギリス船フェートン号が、敵対国であったフランス支配下のオランダの船舶を拿捕するため、長崎に侵入したのです。そして、オランダ人を人質として薪水や食料の提供を要求しました。当時の長崎奉行であった松平康英は日本側にこれを撃退するだけの武力がないと判断して、イギリス側の要求を受け入れました。この事件はナポレオン戦争期のアジア地域でオランダがいかに空白をつくっており、その空白をついて、イギリスがどれほど「やりたい放題」に振る舞っていたのかということを物語るものです。

インドと中国を結ぶ航路の寄港地としてはマラッカがもっとも適していました。しかしながら、すでにみたように、マラッカはポルトガルの占領ののち、オランダによって占領されていました。勢力が衰退していたとはいえ、オランダと直接衝突してその獲得を考えることは現実的ではありませんでした。

こうしてイギリス東インド会社はマラッカよりも南にイギリス船舶の寄港地を確保することを目標とすることになりました。

イギリスによるシンガポール植民地化

このように、アジアとの交易を目的に設立されたイギリスの勅許会社・東インド会社は、中国とインドの植民地を結ぶ貿易ルートを確保するために、マレー半島南部付近に、イギリスの船舶の寄港地を必要としていました。

そのために派遣されたのが当時、イギリス東インド会社のサー=トーマス・=タンフォード=ラッフルズでした。ラッフルズは東インド会社の職員で、スマトラ島のイギリス植民地ベンクーレンの準知事をつとめていました。14歳から東インド会社に勤務し、ほとんど教育を受けていないのですがマレー語やジャワ語といった現地語に通じていました。あるいはジャワ史を著すなど、マレー地域についてとても博識な人物でした。そのため、マレー半島を中心にアジア貿易の推進のため長らく派遣されていたのです。

余談ですが、ラッフルズは動植物や歴史に非常に関心があり、ボロブドゥール遺跡や世界最大級の花である「ラフレシア」(花の名は彼に由来するものです)の発見者としても知られています。また現在、シンガポールを代表する高級ホテルである「ラッフルズ・ホテル」も彼の名をとっています。

ラッフルズは1819年1月28日、シンガポール川をすこし遡上した場所にある小規模なマレー人の集落である「カンポン」というところに補助士官であるウィリアム=ファークハルおよび兵士・船員・助手ら約120人のインド人を引き連れてシンガプーラ島に上陸しました。当時の島の人口は約150名ほどであったと言われています。島南部は天然の良港であり、飲料水の補給も可能なため、ここをイギリス東インド会社の拠点とすることを考えるようになりました。

そこでラッフルズの一行が島の事情を調査してみると、シンガプーラ島はジョホール王国の支配下にあり、その支配者であるスルタン(王)は島の外に居住していることが判明しました。さらに、この王国がオランダの影響下にあることもわかります。このためオランダがシンガプーラ島をイギリス東インド会社の拠点とすることに猛烈に反対することは明白なことでした。

一方で、オランダによる影響力のアキレス腱も分かってきました。それは、当時のスルタンをめぐって内紛が存在している、という事実です。すなわち、1812年に先代のスルタンが死亡した際に兄弟のあいだで王位継承をめぐる争いを経て、弟が当時のスルタンに即位していたのです。このため、王位に就くことのできなかった兄は大いに不満を抱いていました。

ラッフルズは、すかさずこの兄弟間の葛藤をきわめて狡猾に利用して、自分たちに有利になるように事を進めていきます。なんと、兄のほうが正統であるとして、みずからの勢力を背景としてスルタンに即位させてしまったのです。

そのうえで、スルタンに毎年、年金5000ドルを支払うことを条件としてシンガポール川河口周辺の一帯をイギリス東インド会社の領土として割譲することを認めさせました。そして、両者のあいだで1819年2月8日、そのことが明記された条約が締結されます。これによってシンガポールはイギリスの植民地となったのです。

しかしながら、この条約はロンドンのイギリス東インド会社本部の承認のもと結ばれたものではなく、ラッフルズが勝手に結んだもの、いわば彼の越権行為だったのです。また、マラッカ海峡をアジア交易の拠点にしていたオランダは、マレー半島へのイギリスの進出に反対しました。

結局、イギリス東インド会社本部はすでにシンガポールが植民地になっている、という既成事実を最後には受け入れるほかありませんでした。

また、オランダはイギリスと外交交渉を行ないます。その結果、1824年に英蘭協定が結ばれ、マレー半島のマラッカとスマトラのイギリス領が交換されました。これによって、マレー半島、シンガプーラ島はイギリスの勢力下に入ることとなったのです。

さらに、1824年にはスルタンとの契約が新たに結ばれ、1万8,000ドルを毎年支払うという条件でイギリス東インド会社はシンガポール島全体を領土とすることに成功しました。

さらに、イギリスは1832年、ペナン、マラッカを加えて直轄植民地として「海峡植民地」とし、その首都にシンガポールを定めました。1867年には、イギリス植民地省の直轄植民地となり、マレー半島の植民地の中心となりました。こうして、シンガポールはイギリスの植民地として20世紀にかけて発展が続きました。

スルタン一族とジョホール王国のその後

では、シンガポールをイギリスの植民地とする条約に署名した、ジョホール王国のスルタンやその子孫はその後、どうなったのでしょうか?

1819年に東インド会社のラッフルズと協定を結んだジョホール王国のスルタン・フセインは、1824年に正式にシンガポールの統治権をイギリス東インド会社に譲与する協定に調印しました。イギリスはスルタンの居住先として、ローチョー・リバー一帯を与えました。これにより、スルタンはここに居を構えることとなり、従来の拠点であったリアウ諸島にいた王族・臣下もここに移り住みました。

現在のマレー・ヘリテイジ・センターはその王宮で、イスタナと呼ばれます。フセインの子・アリが1840年に建設したものです。アリの代になると、ジョホール王国の海軍長官(トゥメンゴン)であったイブラヒムの勢力がアリをしのぐようになり、ジョーホール王国での支配地域がムアールの地域のみとなってしまいます。そして、残りの王国の統治権はイブラヒムが握るようになりました。その後、ジョホール王国のスルタンはイブラヒムの子孫が継承することになりました。

イギリスはその後、マレー半島内部にあったスルタン領諸国に干渉し、1896年にはこれら諸侯国を保護国化し、クアラルンプールを首都とするマレー連合州を組織しました。1899年から始まったジョホールの鉄道敷設交渉では、スルタンとなったイブラヒムとイギリス植民地省が対立しました。これにより、イギリスがジョホールに対する攻勢を強めることとなりました。

マレー連合州は1909年、カリマンタン島のブルネイやマレー半島内の非連合州とともにシンガポール駐在の海峡植民地知事の管轄下に置かれてイギリス領マラヤが完成しました。ジョホールも非連合州でしたが、イギリスの総顧問官が置かれることとなり、王国の実権はイギリス人顧問が握ることになりました。こうして、ジョホール王国はほぼ完全にイギリスのコントロール下に置かれて、その独立は名目的なものとなってしまったのです。こうして、イギリスはマレー全土への支配権を確立しました。

しかし、イギリスの支配下にあっても、ジョホールは諸侯国のひとつとして世襲のスルタンが王位を継承していました。その後もマレーシア連邦成立ののち現在にいたるまで、連邦を構成するジョホール州ではスルタンは世襲されており、他州のスルタンとともに、マレーシアの国王候補の資格を有しています。

1981年から2010年までジョホールのスルタンであったイスカンダル(Sultan Iskandar ibni Almarhum Sultan Ismail)は1984年から1989年のあいだ、マレーシア国王の座にもついていました。

スルタン・フセインの子孫の子孫の話にもどります。

1897年にはシンガポールのイスタナとその周辺の土地の権益をイギリスが奪います。そして、アリの子が死亡したのち、3人の王妃による相続権争いが発生し、法廷で争った結果、裁判所が土地の一切の所有権を王族から回収してしまいました。ただし、ここに居住する権利は認めました。これにより、シンガポール独立後も王族の子孫たち数百人がこの王宮内に居住していました。

1993年にシンガポール政府がこの地域を再開発する計画を発表しました。このとき、200人近い王族が、老朽化し荒廃した王宮の建物で文字通り「肩を寄せ合って」暮らしていました。1999年3月、王宮・イスタナをマレーの伝統文化と歴史を展示する「マレー・ヘリテイジ・センター」に改修することを決定したシンガポール政府は、ここに住んでいた王族の子孫たちに補償金として30年にわたり総額で35万シンガポールドル(日本円で約3,000万円)を支払い、公共住宅を転居先として準備しました。

こうして王族の子孫たちは公共住宅に移り、イスタナも2004年11月、「マレー・ヘリテイジ・センター」となってオープンしました。

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イギリス統治下のシンガポール

無関税の自由港「シンガポール」の発展

マレー半島の先端という、アジア周辺へのアクセスの良さからラッフルズはこの地に新たな港を作る事を決めました。その際に「シンガプーラ」という名前を、イギリス人が発音しやすいイギリス風の「シンガポール」という名前に変えました。これが現在のシンガポールという国名の由来となっています。

イギリスは植民地支配のための植民地統治機構を設置します。シンガポールを統治するのはカルカッタを拠点とするイギリス東インド会社総督でした。そしてその下にシンガポール総督がおかれ、初代総督にはファークハルが就任しました。

ラッフルズは、シンガポールの港を自由港にする政策を決め、無関税の自由港を建設する計画を立てました。この時期にはすでにヨーロッパ諸国が東南アジアの各地に植民地を建設しており、その土地で一次産品を生産してアジア各地そしてヨーロッパなどに輸出することで利益を得ていました。このような状況にあって、ほかの東南アジアの港湾が入港税を徴収しているのに対し、ラッフルズの政策はシンガポールの地理的優位性とも相まってシンガポールの発展に大いにプラスに作用しました。

すなわち、この無関税の自由港という魅力的な政策により、シンガポールは東南アジアの貿易拠点としての地位を獲得したのです。そのためビジネスや就労のチャンスを求めて東南アジア、中国やインドなど周辺諸国の人々がシンガポールに移住を始め、人口・労働力ともに力をつけていきました。こうして、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していったのです。

植民地初期のシンガポールにおいて、ラッフルズが交易のパートナーとして最も期待したのが、ブギス人でした。ブギス人は、中国市場向けの重要な商品である燕の巣や鼈甲(べっこう)、砂金、龍脳、安息香といった特産物を東部インドネシア各地やスマトラ島・カリマンタン島などからシンガポールへ運び、そこでインド産の綿布やアヘン、ヨーロッパ産のタバコを入手しました。蒸気船が一般的なものとなる19世紀後半までは、ブギス人が東部インドネシア海域で最も活発に交易活動を担ったのです。

第2代クロウファード総督の時代である1826年、シンガポールは既にイギリスが領有していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに、イギリスの「海峡植民地」の一部とされ、1832年には海峡植民地の首都と定められました。この当時もまだ、シンガポールはインドの植民地当局のもとにありました。

この体制に変化があらわれるのが1857年にインドで発生した反英暴動以降でした。この暴動によってイギリスは植民地支配体制の大幅な見直しをせまられることになりました。1858年には植民地統治を行なってきたイギリス東インド会社が廃止されます。そしてイギリス本国に植民地省があらたに設置され、インドはインド省の下に設けられた植民地政府が統治することとなります。そして、シンガポールをはじめとする海峡植民地もいったんはその管轄下にはいりましたが、シンガポール在住のヨーロッパ人たちはイギリス本国の直接支配をイギリス当局に求めました。

結果、1867年には海峡植民地はイギリス本国の植民地省直轄の植民地となり、海峡植民地総督はその下に属することになりました。さらに総督の補佐機関として、行政評議会と立法評議会が設置されました。この体制は1942年の日本による占領がはじまるまで継続することとなります。

イギリスの植民地となったのちは、同じイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、そして中国(当時の王朝は清でした)などとのあいだでアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割を果たしました。さらにはそれだけににとどまらず、隣接するマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展していきます。

シンガポールの貿易中継港としての重要性がより高まるのは1869年のスエズ運河開通以降でした。これまでアフリカ南端の喜望峰経由での東西海上交易路が地中海からアラビア海に抜けるルートができたことでヨーロッパと東アジアとの距離が一気に縮まったのです。

これにより、シンガポールは東アジアとヨーロッパを結ぶ貿易航路の中継港としての価値をますます高めていくこととなっていきます。こうして、シンガポールの発展は加速し、東南アジアにあって未曾有の繁栄を謳歌するようになったのでした。

1873年から1930年までの40年のあいだにシンガポールの貿易額は八倍も上昇していることからも、スエズ運河開通の効果がシンガポールにもたらしたプラスの影響をうかがい知ることができるでしょう。

民族・宗教・出身地によって分断された社会の形成

この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにや港湾荷役における労働者、あるいや貿易商や行政官吏として移民がさらに集まってきました。マレー半島から移って来たマレー人をはじめ、中国人は主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部から、インド人は主に南インドのタミル語圏から、そして現在のインドネシアなどから多くの移民がシンガポールへやって来たのです。また、植民地官吏や貿易商としてイギリスなどヨーロッパ人もやって来ました。

前述したように、ラッフルズがやって来た頃のこの土地にはほとんど人は住んでいませんでした。したがって、19世紀以降にやって来た人々(マレー人・中国人・インド人そしてヨーロッパ系のユーラシア人)の子孫が現在のシンガポール国民を構成しているのです。この時期の繁栄が今日の多民族国家としてのシンガポールの基盤となった、といえるでしょう。

ラッフルズはアジア系移民に対して、民族ごとの居住地を割り当てるという民族別の棲み分け政策を実行します。こうすることで、交わることで発生しうる民族間の対立を防止し、あるいは交流するなかでイギリスによる植民地支配への不満が民族をこえて1つになることを防ぎたかったのです。これにより、イギリス植民地期のシンガポール社会は民族や言語、宗教によって分かれた社会が現出されました。マレー人は母語であるマレー語で、イスラム教徒として生活していました。あるいは、中国人はそれぞれの出身地方の中国語方言を話しながら仏教あるいは道教を信仰していました。また、インド人はタミル語を話しつつ、ヒンドゥー教を進行しながら暮らしていました。このように、この時期のシンガポール社会は大きく3つの民族・信仰社会が分かれて存在する場だったのです。

1824年に最初の人口統計が実施された際にはマレー人が60.2%で最も多く、ついで中国人が31.0%、インド人が7.1%などでした。ところが、19世紀半ばになると、人口過剰であった福建省および広東省から、大量の中国人移民が押しよせるようになりました。こうして、1840年には中国人が過半数を超え、1910年にいたると中国人が72.1%に達し、マレー人が16.0%、インド人が8.0%などとなり、ほぼこのような人口構成が今日まで続きます。

また、男女の比率に関しては、移民のほとんどが男性が出稼ぎで肉体労働に従事することが多かったために、とりわけ当初は男性比率の高い社会でした。とくに中国人やインド人は傾向として男性比率が高く、1860年時点で中国人の男女比率が14:1、インド人では8:1となっていました。時が下るにつれ、このような極端な傾向は解消してゆきましたが、それでも1901年の中国人住民の男女比は4:1とやはり男性が多数を占める社会構造がありました。また、彼ら移民にとっては、シンガポールは一時的に出稼ぎをする場所との認識が強くあり、その多くは自国に戻るという考えでした。

このように、シンガポールにやって来た移民は中国人の比率が高かったのですが、ラッフルズはさらに彼らの中国における出身地ごとに居住地を分けました。そして、同郷コミニュティを作って暮らすようにさせたのです。

学校教育が普及しておらず、イギリス植民地期の中国系住民のほとんどが中国語の標準語である北京語=華語を話せませんでした。非識字者も多かったために筆談もできなかった当時、中国系住民同士でも出身地が違えば意思の疎通さえ難しい状況でした。

このような彼ら中国系住民にとって、同郷出身者がまとまって住むことのメリットは十分にあったのです。コミュニティの内部では故郷の方言のみでの生活が可能で、中国系住民は出身地ごとに「幇(バン)」と呼ばれる人的結合を形成し、その法人組織としての「会館」を設立していきました。このようにして、相互扶助のための組織を作って結束していたのです。これらの組織は同じ地方の出身者があらたに移民してきた際に世話をしたり、学校や病院を作るなどの事業を行うことによって、中国人移民の職業・教育・福利厚生における支えとなって大きな役割を果たしました。また、こうした組織があることで、中国からさらに多くの移民がやってくることにもなったのです。

中国人の出身地域について、1935年の統計をみると、最も多いのが福建語を話す福建人で彼らが43.0%を占めていました。ついで広東語を話す広東人が22.5%、潮州語を話す潮州人が19.7%、海南語を話す海南人が4.7%、客家語を話す客家人が4.6%となっていました。

このように、同じ民族内部でさらに出身地に分かれて社会を形成していたのは中国人だけではありませんでした。マレー人たちもまた、出身地によって分かれて社会を形成していたのです。すなわち、マレー人の中にもインドネシア出身のジャワ民族が存在していました。彼らはマレー系民族ではあるものの、使用言語が違っていたため、独立した民族社会を形成したのです。また、広大なインドには多くの言語がありました。インド人たちもまた、タミール語を話すタミール人、ヒンディー語やベンガル語を使用する地域出身者などに分かれて、それぞれの社会を形成していました。

以上のように、イギリス植民地統治下のシンガポールは、民族・宗教による分断の上に、さらに出身地によって分裂して多くの別個の社会が形成されました。そして、それぞれの社会間にはあまり交流はなく、シンガポール人というアイデンティティよりもそれぞれの分裂した社会の一員という意識が育ちました。そして、各地域にはそれぞれの出身地がそのままシンガポールに再現されたような空間が出現したのです。

もちろん、それぞれの社会が閉鎖されていたわけではありませんので、民族間結婚などを通じた交流もありました。しかしながら、それはごく一部の動きであり、全体としてはやはり分断された状態であった、といえるでしょう。

中国系住民=華人に芽生えた2つの政治的志向

これまでみてきたように、中国からシンガポールに来た移民たちは出身地別に社会を形成していましたが、20世紀にはいると、彼らのなかに出身地の違いをこえて大きく2つの政治的志向をもつ集団が生まれてきました。

もともと、彼らにはシンガポールを終(つい)の棲家とは考えず、「錦衣環郷」「落葉帰根」の語が示すように、一時的な出稼ぎの場所であると考えていましたので、そのような考えからは、そもそもシンガポールに対する政治的関心は生まれません。そのような傾向はイギリス植民地当局が政治活動を許さなかったため、さらに拍車がかかりました。

したがって、彼らが政治的関心を抱いたのはシンガポールではありませんでした。その1つは中国の情勢で、もう1つはイギリスを回路とした地位向上でした。

中国への政治的志向が強まる契機となった出来事が、中国で1911年に起こった辛亥革命でした。漢民族が満州民族の王朝である清を打倒したこの革命は、シンガポールに住む中国人たちにも大きな衝撃を与えました。そして、孫文ら、辛亥革命の指導者たちの思想に共鳴した人々によってシンガポールにも国民党が結成されることとなりました。

さらに、1915年に日本が袁世凱を大総統とする中華民国政府に対して「二一ヶ条要求」をつきつけたことに対して、彼らは日本製品のボイコットを行ないました。また、1919年に中国で起こった抗日示威運動である「五四運動」が発生すると、シンガポールに住む彼らも、日本製品に対するボイコット運動を強化したり、日本商品の置かれた商店を襲撃するなどして、中国での動向に呼応しました。

さらに時代が下って1930年代になると、日本は1932年に「満洲国」を建国したり、1937年に宣戦布告なしで中国との全面戦争(日中戦争)に突入しました。これは中国側の反発を買うもので、中国国内ではこれに対する抗日運動や抗日武装闘争が繰り広げられました。

シンガポールでも、このような中国での動きに呼応して、日本商品に対するボイコット運動が頂点に達していきました。具体的には日本人が経営する商店・病院・理髪店の利用拒否や、日本商品を扱う商店に立ち入ること自体を止める運動などが展開されました。

以上のような運動を行なった華人たちは「愛国華僑」と呼ばれました。そしてその代表的存在として彼らを組織化し、物心両面で支えたのがゴム事業で成功を収めた富豪・タン=カーキーでした。タン=カーキーは中国に対して巨額の資金援助を行ないました。

このような運動は、大陸で戦争をすすめる大日本帝国にとっては非常に悩ましいものであり、のちにシンガポールを日本軍が占領した際に、華人がまず弾圧のターゲットとなる背景にもなりました。

次に、イギリスを志向する人々についてみてみましょう。

このような思考が生まれてきた背景には、20世紀に入った頃から増加してきたシンガポール生まれの移民2世、3世の存在がありました。かれらは1世のように民族別の社会でやがては帰国することを考えるのではなく、民族や宗教をこえて「シンガポール生まれ」あるいは「海峡生まれ」というアイデンティティを共有するようになっていきました。

これらの人々は、母国への帰属意識よりも生まれ育ったシンガポールでの成功を考えるようになっていきました。そして、そのために重要なものは、支配国であるイギリスの言語、すなわち英語による教育を受けることだと考えました。こうして彼らはみずからのアイデンティティを祖先がいた国ではなく、宗主国であるイギリスに求めるようになります。このような中国人たちを「クィーンズ・チャイニーズ」と呼びます。

このような人々は英語による教育や、イギリスへの留学などをつうじて、イギリス式の教育を受けました。そして、イギリス植民地当局の下級官吏や医師、弁護士、技術者、外資系事務職員など、比較的高収入で社会的地位の高い職業に従事するようになりました。

彼らのイギリスへの帰属意識をイギリスもまた積極的に活用していきます。1900年に医師で典型的な「クィーンズ・チャイニーズ」であるリム=ブーンケンを指導者として海峡華英協会が設立されました。この協会では住民の福祉問題とともに、シンガポール社会におけるイギリスへの関心を高めることなどが議論されました。そして、第1次世界大戦の際にはこの海峡華英協会が戦闘機53機をイギリスに献納しました。さらには、ヨーロッパ戦線を助けるため、シンガポールの防衛をイギリス人に代わって志願する志願兵部隊も組織しました。

20世紀になって登場した、これら2つの志向をもった中国系住民=華人の集団は、前者が華語派華人、後者は英語派華人として、のちに独立運動の担い手となっていくことになります。しかしながら、両者は使用する言語や教育、政治性が相当に異なっていました。このため、社会的な接点はほとんどありませんでした。また、これまでみたように、彼らはシンガポールそのものではなく、一方は中国に、もう一方はイギリスにアイデンティティを感じていたので、独立運動の基盤となるナショナリズムはこの時期には育っていませんでした。

イギリスに対する反感

前述のように、イギリス植民地であったインド、オーストラリアと中国との三角貿易拠点や、天然ゴム等の輸出港として多くの移民が流入しました。シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配のもと、これらインドや中国からの労働力を背景として経済的には急速に発展していきました。

ところがその一方で、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きます。とりわけ労働層であるマレー人達への圧政はひどく、独立を抑制するため過酷な支配が行なわれました。すなわち、長年の間にわたり、マレー人をはじめとする地元住人はイギリスの植民地政府に3級市民として扱われ、一方的な搾取とイギリスからの独立活動への弾圧、虐殺の繰り返しという過酷な植民地支配に苦しめられたのです。イギリスの植民地化で虐殺されたマレー人は数万人にのぼるといわれています。

こういった圧政とこれに対する住民の反発を背景として、20世紀はじめには、一部の知識層のあいだで反英の機運が高まることとなっていきました。

これに対して、イギリス植民地当局は非常事態宣言を出しました。そしてイギリスによる支配に異を唱える活動家たちに対して徹底的な取り締まり・弾圧を行ないます。

このような植民地支配政策に対して地元民のイギリスへの反感がますます高まり、こうした反英感情は第2次世界大戦後まで引き継がれていくこととなります。そして、日本軍占領期に育ったナショナリズムの感情と相まって、のちにイギリスからのシンガポール独立を進める運動のエネルギーとなっていきました。

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第二次世界大戦とシンガポール

日本の近代化とアジアへの勢力拡大

1868年の明治維新以降、日本は精力的にあらゆる分野の近代化を推進し、帝国議会の設置や『大日本帝国憲法』の制定など国制の整備につとめながら、産業を発展(殖産興業)させ、軍事力を増強する「富国強兵」を国是としてきました。そして、朝鮮半島での主導権争いに端を発する清国との対立により1894年からはじまった日清戦争で勝利し、下関条約にもとづいて台湾を獲得して、はじめて海外植民地を領有するようになりました。それ以降、1905年には日露戦争の結果として、対立してきたロシアに朝鮮半島における日本の優位を認めさせ、当時の大韓帝国を保護国化し、さらに1910年にいたってこれを併合して、植民地としました。朝鮮半島の領有により足がかりを得た日本は大陸へのさらなる勢力拡大をめざし、辛亥革命後の1915年に中国に対して「二一カ条要求」を突きつけて中国での権益拡大を図ろうとしました。

「二一ヵ条要求」に対しては、中国の民衆が反発して五四運動が起こりました。そして、中国国内のみならず、東南アジアに暮らす中国系住民にも日本に対する反発が広がりました。シンガポールでも中国本土と連動して、華人たちが日本製品をボイコットするなどの「抗日救国運動」を展開しました。

その後、1914年にはじまる第1次世界大戦では日英同盟を理由に参戦し、中国のドイツ利権を奪うなどして「戦勝国」となりました。第1次世界大戦後には日本政府による欧米列強との協調路線により、軍縮がすすめられて、アジアでの日本軍の軍事活動は抑制されていましたが、日本軍の内部ではこのような政府の方針に対する不満が高まっていました。

そして、「大日本帝国憲法」に規定された、軍の統帥権(軍を率いる権利)が天皇に属するものであることを根拠として、天皇の統帥権は行政権から独立したもので、行政権を行使する権限があるだけの政府が軍の行動を縛ることに対する批判が起こります。これを「統帥権問題」といいます。

一方、1925年(大正14年)には、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国各地に乱立する軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出しました。このため日本は3回に及ぶ山東出兵を行ないました。

そして、1930年代になると日本国内では軍の勢力が強大となり、次第に独自の行動をとるようになっていきました。こうして、軍が台頭するなかで、1931年には中国で日本の関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされます。これに対し、日本政府は戦争不拡大の方針を内外にしめしました。しかし、軍が日本政府のこの方針を無視する形で翌1932年には満州事変に発展させ、関東軍が主導するなかで「満洲国」が中国から「独立」するという形態でつくられ、日本の勢力圏となります。さらなる中国での勢力拡大のために1937年には中国との全面戦争(日中戦争)に突入し、これに反対するイギリスやアメリカとの対立を深めていきました。

当初、中国との戦いを有利にすすめ、沿岸部の大都市を占領した日本軍の次のターゲットは東南アジアでした。とくに豊富な天然資源があるマレーシア(イギリスが支配)やインドネシア(オランダが支配)を日本軍は欲するようになっていきます。

その結果として、中国との戦争が長期化するなか、アジア太平洋地域での覇権をめぐって日本はイギリスやアメリカを中心とする連合国軍との戦争へと突入していくことになりました。

太平洋戦争の勃発とシンガポールの戦い

イギリスはシンガポールの経済発展を進めるとともに、シンガポールをアジア太平洋地域における大英帝国海軍の要塞として育てていました。すなわち、1920年代にシンガポール島の北岸に戦艦や駆逐艦を常備できるような巨大な海軍基地の建設が開始され、1938年に造船ドックを擁する最新式の海軍基地ができたのです。さらに北部には飛行場が3ヶ所造られています。こうして、シンガポールを東南アジアにおけるイギリス植民地の軍事的拠点と位置づけ、15万人以上のイギリス海軍と陸軍部隊を駐留させて要塞化していたのです。シンガポールは大英帝国の東アジア地域における自由貿易港であると同時に軍事拠点だったのです。基地建設において仮想敵国として意識されていたのは日本でした。

すでに述べたように、1930年代になると満洲事変をおこし、武力による中国大陸進出をはかっていた日本は、イギリスを中心にして「満洲国」建国を非難する動きが国際連盟でおこると、国際連盟を脱退し、これはその後、第二次上海事変などによって中華民国との全面戦争(日中戦争)に発展しました。そして、おなじくイギリスと対立していたドイツやイタリアと接近して三国同盟を結びます。こうして日本は次第にイギリスやアメリカとの対立を先鋭化させていくこととなりました。その結果として、1941年12月8日にはついにイギリス・アメリカと交戦する太平洋戦争(日本はこれをアジア解放のための聖なる戦争であるとして「大東亜戦争」と呼びました)が勃発しました。

その戦端はマレー半島で開かれました。日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれたのです。続いて日本海軍航空隊がハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を行ないます。日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始されました。

シンガポールは大英帝国の東アジア地域における軍事拠点、すなわち日本にとってはもっとも自国に隣接したイギリスの最前線基地でした。とりわけ、マレーシアやインドネシアの攻略するためにはシンガポールのイギリス軍基地は非常に邪魔な存在だったのです。また、この基地は日本からみてその先にあるイギリス連邦諸国(オーストラリアとニュージーランド)を日本軍の侵攻から守るためのものでもありました。このため、シンガポールを攻略することはアジア太平洋地域を制圧することをめざす日本軍にとっては必ず解決すべき重要課題となりました。

開戦当日の1941年12月8日、日本海軍はまず、イギリス軍航空機の拠点であったシンガポールの空港を爆撃してこの地域の制空権を奪いました。また、同年12月10日にはマレー半島東岸にあったイギリス海軍の軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈しました。これにより、マレー半島周辺の制海権も日本軍が握ることとなりました。

マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と各地で戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。

太平洋戦争においてシンガポールが本格的に戦闘に巻き込まれるのは年が明けてからでした。1942年1月までに日本軍はシンガポールを除くマレー半島全域を占領していて、シンガポールとジョホール水道で面しているジョホール・バルーの王宮に日本軍の陣が設置された状態でした。日本軍によるシンガポール攻撃が時間の問題であることは、誰の目にも明らかなことでした。日本軍は、1週間かけてシンガポール総攻撃の準備をすすめました。

こうして、シンガポールに駐留していたイギリス極東軍は、山下奉文中将が率いる日本軍によって激しい攻撃を受けました。この攻撃は1942年2月7日に開始されましたが、イギリス極東軍は苦戦を強いられます。

シンガポールの歴史が展示されているシンガポール国立博物館の日本占領時代のコーナーを訪れると、まず目に入るのが壁一杯にかけられている、たくさんの自転車です。日本軍が自転車でマレーシアとシンガポールに侵入してきたことをあらわすものです。

イギリス軍は、日本軍がジャングルに阻まれてマレー半島を南下するのはまず無理であると考え、シンガポール南方の海上から攻撃してくると予測していました。そして、セントーサ島のシロソに大きな大砲を設置して日本軍の上陸に備えていました。

ところが日本軍は、イギリス軍の意表をついてマレー半島を南下してきます。鉈で木を切り倒しながらジャングルの中に道を切り拓き、自転車を調達し、これに乗って北からに攻め込んできたのです。そして、日本軍が有利な状況で戦闘が繰り広げられました。

日本軍がシンガポールに攻撃を開始して一週間ほどが経過した1942年2月15日午前6時、シンガポール駐留イギリス極東軍のパーシバル司令官は前線からの戦況が芳しくないとの報告をうけました。そして、貯水池は日本軍に制圧され、24時間後にはイギリス軍の水が底を尽き、さらに食糧保管庫も押さえられ48時間後には食糧も尽きること、ガソリンも残り僅かで、対空砲の弾薬はほぼ使い果たしてしまった状態で、大砲が少し残るだけだったことなどの報告がありました。

午前9時半、窮地を打開する策を考えていたパーシバル司令官は前線指揮官を集め、今後の作戦会議を開きました。

ヒース中佐は、すでに補給が絶たれていてイギリス軍の持久力が極端に低下していることから、司令官に降伏を進言しました。ベネット中将らもヒースに賛成し、これ以上戦闘を継続するのは一般市民におびただしい死傷者が発生することにつながると考え、降伏はやむを得ないする意見が大勢を占めました。

しかしながらパーシバル司令官は、「イギリスの名誉」を理由に再考するように指示します。そして、あらゆる反撃のための作戦が検討されましたが、いずれも成功する可能性はないと判断し、出席者が全員が反対するにいたりました。パーシバル司令官は悩んだ末、最終的に日本軍に降伏することを決断します。

こうして、午前11時半にパーシバル司令官は、フォートカニング要塞を出て日本側に代表団を送って杉田中佐に停戦協定締結を要望する旨を伝えました。

午後、日本軍を率いていた山下司令官はこの報告を受けました。しかし当初、山下司令官はこれを増援隊が来るまでの時間稼ぎの作戦だと疑います。そして、山下司令官はイギリス軍側にあくまで無条件降伏を求め、パーシバル司令官との直接会談を要求しました。これをうけて、パーシバル司令官は、急ぎ本国のロンドンに降伏許可を求めました。

午後5時過ぎ、パーシバル司令官は、イギリス軍将校2名と通訳をともなって、降伏を意味する白旗とイギリス国旗であるユニオンジャックを掲げ、シンガポールの日本軍司令本部となっていたブギティマにあるフォード工場にやって来ました。この中の会議室で山下司令官と対面し、握手を交わして停戦交渉のための会談が始まりました。

パーシバル司令官は降伏文書を読んで、翌朝まで署名を待ってほしい伝えました。ところが、山下司令官は怒り出し、断固とした態度で無条件降伏をせまります。顔面が蒼白となったパーシバル司令官はトランス参謀と相談したながら苦悩し、結局、通訳に無条件降伏に“Yes.”と伝えたのです。

こうして、シンガポールに駐留していたイギリス極東軍は日本軍に無条件降伏することとなりました。これをもって、約1週間続いた「シンガポールの戦い」は終結します。

このとき、捕虜となったイギリス兵たちはタイとビルマ(現在のミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設のために動員されました。彼らは国際法上認められた捕虜としての権利が侵害された状況で、非常に厳しい環境のもとで労働に従事させられました。

この日から、3年8ヶ月にわたって、シンガポールは日本軍による占領統治時代を迎えることになりました。とても皮肉なことですが、この降伏の日、すなわち日本軍による占領が開始される日は、日本軍占領下で過酷な弾圧を受けることになる中国系の華人たちが一年で最も「おめでたい日」と考える、中国暦の旧正月でした。

日本軍による占領

軍事占領した日本は名称をシンガポールから日本風の「昭南島(しょうなんとう)」と改名しました。 そして、シンガポール市は「昭南特別市」と改められ、行政統治機関として昭南特別市政庁が設置されます。昭南特別市の初代市長には、日本人内務官僚の大達茂雄が任命され東京から赴任することとなりました。その後、多くの日本人官民が移り住むようになり、日本人を支配民族とする過酷な軍政が敷かれることとなりました。

昭南特別市は行政区画として7つの大区と、その下部にさらに小区がおかれ、小区が10の組にわけられました。そして、それぞれに区長、小区町、組長がおかれて、行政系統を形成しました。区長は各区内における食糧の配給、治安などの責任を負いました。さらに日本の隣組のような組織もつくられて、住民たちに互いを監視させあうしくみを構築しようとしました。

占領当局は軍票を発行し、これまでのイギリス植民地当局の紙幣を強制的に交換させました。そこにはバナナの絵が描かれてあったことから「バナナ紙幣」と呼ばれるようになりました。占領当局はこの紙幣を乱発し、激しいインフレに見舞われて、シンガポールの経済は大混乱しました。日本の敗戦後、この軍票「バナナ紙幣」は紙くず同然になってしまいます。これが住民の反感を買い、日本占領軍が長く恨みを買った理由のひとつとなりました。そして、「バナナ紙幣」という言葉は「価値のないもの」をさす代名詞になってしまいました。

また、占領当局はシンガポール社会の日本化をすすめようとしました。まず、学校においては日本語教育を強制しました。また、日本語新聞『昭南新聞』を発刊します。さらに、祝日も日本の天皇制に由来するものとされ、日本の国家神道を強制しようと昭南神社を設置し日本人ばかりでなく、イスラム教を信仰するマレー人を含めた現地の人々に参拝を強制しました。地名も日本式に変えました。また、シンガポールの標準時も日本時間に合わせました。

このような「日本化」政策が行なわれた理由として、日本がいう「大東亜共栄圏」の中心部に位置するシンガポールをその日本文化の拠点としていたことがありました。

食糧は配給制とされ、米、塩、砂糖などは家族の人数によって量が制限されて、公定価格での配給統制となりました。日本占領軍は、占領後間もなく食糧不足に直面しました。そのため、少しでもこれを緩和しようとして、30万人ほどの住民をマレーシアの東海岸に強制的に移住させて開墾させる計画を実行に移そうとしました。しかしながら、移住を望まない住民の抵抗によって、この計画は失敗に終わります。

また、日本軍による占領の時期、イギリス支配のもとでラッフルズ以来の自由港政策により発展し、シンガポール経済の原動力となっていた貿易は日本軍支配のもとで停滞していきました。

以上のように、日本の占領期には経済的混乱によってシンガポールの人々は苦しい生活を余儀なくされたのです。

一方、治安維持を担うこととなった憲兵隊はかつてイギリス植民地統治機関がおかれていた「エンプレス・プレイス」に本部を構え、中国人をスパイとして雇用するなどの方法で市内で住民を監視し、敵対者とみなされた者には拷問が加えられるなど、厳しい弾圧が加えられました。こうして憲兵隊はシンガポールにおける日本占領軍による圧政の象徴的存在となりました。

日本軍は、抑圧の度合いを民族によって異ならせる民族別の統治政策を実施しました。すなわち、マレー人を土着民として相対的に優遇したのに対し、華人は迫害、という差別を行い、民族間の対立感情を高めて分割統治しました。これが戦後のシンガポールにおける社会統合に悪影響を及ぼしたという指摘もあります。

暴動を抑えるために、日本軍は反日感情をもつ中華系住民の華人を中心に選別し、拷問さらには虐殺を伴う徹底的な弾圧を行ないました。当時は日中戦争中であったため、中国における日本軍の行動にたいする反発による反乱が発生することを恐れた日本軍は、中華系住民に対してとくに厳しい圧政をおこなったのです。

この厳しい占領期をシンガポールではその占領期間である「3年8ヶ月」という名称で呼んでいます。

シンガポール華僑虐殺事件

20世紀の半ばにあってシンガポールに住む華人の多くは、中国からの移民一世や二世で、家庭では福建語や潮州語、広東語といった出身地の中国語方言を話していました。また、華語で学校教育を受けており、華人たちには中国人としてのアイデンティティがありました。

華人たち、とりわけ中国語を生活・教育言語とする華語派華人たちは、イギリスによる植民地統治のもとでみずからの地位向上を実現するためには、内戦や列強の侵略で弱体化した祖国=中国が強大な統一国家となることが重要であると考えていました。すなわち、強大な中国がイギリスに外交圧力を加えるようになれば、自分たちの社会的地位も上昇する、と考えていたのです。特に19世紀後半にシンガポールやマレー半島へやって来た日本人移民が、日本の大国化によって地位を向上させていったのを見ていて、そのように考えるようになったとも言われています。そのため、前述のタン=カーキーのように孫文らが指導する辛亥革命や蒋介石が指揮していた抗日戦争に積極的に資金を援助する華人もいたのでした。

このような背景から、シンガポールを占領した日本軍は華人を極度に警戒しました。日本軍は、中国の蒋介石政権とつながる存在として考えていたのです。そして、「華僑に対しては、蒋政権より離反し、我が政策に協力同調せしむものとす」という方針を立てていました(「実施要領」)。

また、イギリス式の英語教育を受けてきた英語派華人もまた、敵国であるイギリスに対して好意的であることから、敵性勢力であるとみなしていきます。

さらに、抗日マラヤ人民軍を組織し、マレー半島でゲリラ戦を展開して日本軍に抵抗していたマラヤ共産党の構成員には多くの中国系住民が参加しており、これも華人を敵視する理由となりました。

以上のような背景のもと、山下軍司令官は河村少将をシンガポール警備司令官に任命し、2月18日の朝に、「抗日分子を一掃すべし」という「掃蕩作戦命令」をだしました。これにより市内にいる華僑の成年男子対象に数日分の食糧をもって集まるように命じます。抗日分子を探し出し、即刻処刑するようにという命令でした。この命令を企画立案するとともに、みずから現場で指導したのが第二五軍参謀の辻政信中佐でした。

日本軍は2月21日から23日までのあいだに、華人男子を市内五か所に集めました。こうして集められた人々の数は60万人を超えていました。そして、義勇軍に入っていた者、銀行員、イギリス植民地政府の仕事をしていた者、シンガポールに来て五年未満の者などは手を挙げよと迫ります。こうして、手を挙げた者が「抗日分子」だとされました。また、警官などに抗日的とみなされる者を摘発させたりもしました。このようにして「抗日分子」とそうでない者が分別され、そうでない者は帰宅を許されましたが、「抗日分子」として指定されたものはトラックに載せられ、海岸や郊外のジャングルなどに連行されます。そしてそこに大きな穴を掘らせたのちに機関銃で処刑されていきました。

その被害者の数をめぐって、日本側の主張は5~6,000人としていますが、この虐殺を追求する側は4~5万人という数字をあげています。占領時の混乱した状況での出来事であり、確実な史料を確保することが難しいために、真相を明らかにすることは容易ではありませんが、多くの人命がこの虐殺で奪われたことは間違いありません。

さらに、同じようにして2月末には西村琢磨中将を師団長とする近衛師団がシンガポール市外で「抗日分子」の粛清を行ない、ふたたび数多くの住民が処刑されました。

これらの事件を「シンガポール華僑虐殺事件」といいます。

住民に対する強制献金

さらに日本占領軍は5,000万海峡ドルの強制献金によってもシンガポールの住民たちを苦しめました。これは、シンガポール占領行政に必要な資金を住民による自主的な「募金」「献金」の名目で、シンガポールの住民たちに負担させようとして行なわれたものでした。

これを推進するために日本軍の主導で組織されたのが華僑協会でした。そして、その会長となったのが、なんと、リム=ブーンケンだったのです。前述のように、彼は親英的な英語派華人であり、海峡華英協会の設立者でした。リム=ブーンケンは華人社会において有力な指導者でしたので、そのカリスマ性とネットワーク力を利用して募金活動を展開させようとしたのです。

献金の額は強制的に割り当てられましたが、戦闘と占領により混乱した時期にあって、その資金を準備するのが難しい住民も多くいました。こうした住民は家財道具を売り払うなどして、無理に資金を準備しました。

そして、2.900万海峡ドルが住民からの強制献金によって集められ、不足分は日本の銀行である横浜正金銀行からの融資により住民からの「献金」がうまくいったように宣伝されました。

「許そう、しかし忘れない」

シンガポールのマリーナエリア、ラッフルズ広場には「血債の塔」と呼ばれる「日本占領時期死難人民記念碑」があります。

上述のシンガポール華僑虐殺事件について、戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から虐殺された人々の白骨が発掘されたことを契機として、日本に「血債の償い」 を求める集会が開かれました。血債には中国語で「人民を殺害した罪、血の負債」という意味があります。集会には数万人の市民が集まり、この問題がシンガポールの全国民的関心であることを内外に示しました。

その結果1967年に完成したのがこの「血債の塔」と通称される「日本占領時期死難人民記念碑」なのです。虐殺されたシンガポール住民を慰霊し、また同じことを二度と繰り返さないために、募金をあつめてこの塔が建設されたのでした。

この塔のフォークのように分かれた4本の柱は、中国人、マレー人、インド人、ユーラシア人(欧亜混血者)をあらわしています。前述のように民族別の分割統治を行なっていたとはいえ、民族を問わず、多くのシンガポール住民が日本占領軍によって被害に遭ったということです。

碑文には、「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」とあります。

なお、この問題については同じ1967年の9月、長期にわたる交渉の結果、強制献金で要求した額と同等の5,000万シンガポールドル(約60億円)を無償で2,500万シンガポールドル、有償で2,500万シンガポールドルを「協力金」として日本政府が支払うことで政治的に決着がつきました。「賠償」ではなく、「協力金」となったのは、1951年にサンフランシスコ講和会議締結時にシンガポールを支配していたイギリスが対日賠償権を放棄していたため、これを法的に継承しているシンガポール政府には「賠償」を要求する権利がなかったからである。

現在のシンガポールの人々は日本による戦争および占領に対し、「Forgive, but Never Forget(許そう、しかし忘れない)」と考えているといいます。

リー=クアンユー初代シンガポール首相は著書『シンガポールの政治哲学』のなかで「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と当時の様子を振り返っています。

現在、激しい反日感情が個々の日本人に向けられるということはほとんどないシンガポールですが、この「許そう、しかし忘れない」という言葉からも分かるように、日本軍による占領期の出来事がシンガポール社会にとって癒しがたい傷となっていることは事実です。

以上のような出来事は、日本人がシンガポールの人々と接する際に十分に留意すべき、忘れてはならない痛ましいシンガポールの歴史です。このような痛ましい歴史をふまえつつ、日本とシンガポールの平和と友好のためにいまの世代に何ができるか、両国の明るい未来に向かって考えてゆかねばなりません。

日本の敗退と独立運動の激化

開戦当初は優勢だった日本軍でしたが、アメリカ軍を中心とする連合国の生産力に圧倒され、やがて各地で敗北をつづけていきました。そして、戦争末期には激しい地上戦の末、アメリカ軍に沖縄が占領され、日本本土の主要都市は軒並み空襲によって破壊され、さらには広島と長崎には原子爆弾まで投下されて、国土は荒廃し、国民生活は破壊されました。

こうしてついに、1945年8月14日、ドイツにつづいて日本が連合国に対してポツダム宣言受諾の意思を伝え、降伏することとなりました。翌日の8月15日正午に昭和天皇が直接、そのことを伝える番組がNHKでラジオ放送され、東南アジア各地にも日本の敗戦が伝えられました。

こうして、シンガポールはじめアジア太平洋地域に展開していた日本軍は連合国によって武装解除され、シンガポールの占領状態は終結しました。

戦争犯罪者として7人の日本人が被告となり、華人虐殺や強制労働について裁く戦争裁判がはじまりました。裁判は1947年2月に終了し、被告は全員有罪とされ、2人が死刑、5人は無期懲役となりました。イギリス主導のこの裁判に対しては、とくに被害の大きかった華人からの不満がありましたが、戦後の不安定な社会状況への対応に追われるイギリス植民地当局はこれに対応することはしませんでした。

一方、日本軍によるシンガポール占領によって、シンガポールの人々にこれまでとは違った感情がひろがっていました。それは「シンガポールの独立」ということでした。これは日本が予期しなかった結果ですが、これまで絶対的だと考えていたイギリスが日本に降伏したことと過酷な日本の支配によって、シンガポールを統治するのはいかなる外部勢力でもなく、シンガポールで生活を営む自分たち自身しかいない、という感情を生み出したのです。

そのことを物語るリー=クアンユーの言葉を紹介しましょう。

「私と同世代の仲間は、第二次世界大戦と日本占領を経験した若い世代である。この過程で、われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した。われわれは、自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心したのである。」(History of Modern Singapore)

こうして、「自分たちで統治する、自分たちのシンガポール」というナショナリズムの意識が確実にシンガポールの人々に育っていきました。そして、その先に目指されることとなるのはが「独立」なのです。

敗戦により日本はシンガポールから撤退することになりますが、それに入れ替わってふたたび戻ってきたイギリスによって植民地支配が継続することになりました。シンガポールの人々の悲願であったシンガポール独立への道は閉ざされてしまうこととなってしまったのです。

こうして希望が再び闇の中に沈んでしまうかにみえたものの、長年培われた反英感情にくわえて新たに、そして確実にシンガポールの人々のなかに育まれつつあったナショナリズムは収まりませんでした。

一方のイギリスは戦勝国とはなったものの、戦争で大きなダメージを負っていました。そのような国内事情に加えて広大な植民地を有するイギリスは、その世界にひろがる各植民地で相次ぐ独立要求の高揚にも対応が迫られていました。インドをはじめとする他のイギリス植民地と同じようにマレー半島やシンガポールでも、植民地支配に抵抗する動きが高まります。

のちにシンガポール建国の父となったリー=クアンユーは当時のみずからの決意について、次のように述懐しています。

「われわれはイギリス人を追い出したかった。イギリスの武力崩壊を見た後、そして3年 半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否した。第2次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、痛めつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った。われわれは自ら治め、自ら尊厳ある国民として誇りを持てる国で、子どもたちを育てていこうと決心した」(リー=クアンユー『シンガポールの政治哲学』)

ヨーロッパが戦後の混乱状態にあって各地で植民地からの独立の気運が高揚し、イギリスの植民地に対する支配力が低下してゆくなかで、とりわけ遠く離れたマレー半島の支配はイギリスにとって非常に困難な状態に陥っていきました。このことは、シンガポール独立を求める勢力にとって追い風となっていきました。

歴史教科書のなかの「戦争の記憶」

苦難を味わった戦時期のシンガポールの記憶を、シンガポールは歴史教科書においてどのように継承しているのでしょうか?

ちなみに、シンガポールでは1980年代半ばまで、歴史教育自体を重視していませんでした。それよりも科学技術教育など、経済発展に直接資すると考えられた科目が大切にされていました。1975年には小学校の科目から歴史が消え、歴史・地理・道徳をあわせた生活科という科目がつくられましたが、日本占領期に関する教科書の記述はほんのわずかでした。その後、1984年から社会科が生活科に代わって導入されたシンガポールの小学校の教科書からは、そのわずかな戦争の記述さえも消えてしまいました。

他方、シンガポールの中学校では、1984年の学習指導要領の改定により、中学校ではじめてシンガポール史が教えられることになり、必須とされました。ここで第2次世界大戦について詳細に教育されることとなりました。その後、1994年、1999年、2005年と歴史教科書が改定されましたが、日本占領期の描写や教科書における記述の割合などについては大きな変化はありませんでした。

1999年からは小学校でも社会科教科書で日本占領期に関する記述がはじまります。その内容は中学教科書の内容に沿ったものでした。

教科書では、戦争にいたる背景や経緯とともに、日本化教育や華人粛清といった日本占領下のシンガポールの過酷な状況が詳しく記述されています。また、抗日運動を行なった人物を顕彰する記述もみられます。

現在のシンガポールの若い世代にも、歴史教育などによって戦争中に日本がシンガポールでなにをしたのかについての記憶がくわしく伝承されているのです。

シンガポール自立への模索

シンガポールの自治権獲得とリー=クアンユー首相の登場

シンガポールの統治者として復帰したイギリスは、1946年4月1日、これまでのマレー半島周辺の植民地を再構成します。すなわち、シンガポールはこれまで、海峡植民地としてマラッカ、ペナンと一つの単位をなしていて、マレー半島本土はこれとは別のマレー連合州という別の単位でした。戦後になって、これを改編し、マラッカとペナンをマレー半島本土と合わせてマラヤ連合(マレーシア)とし、シンガポールのみをイギリスの直轄植民地として分離したのです。今日のマレーシアとシンガポールの原型が、これにより誕生しました。その後の歴史は、このシンガポールとマレーシア、という単位で展開していくこととなります。

このような形で再編とシンガポールの分離が行なわれた背景には、イギリスとマレーシアそれぞれの事情が絡み合い、結果的にシンガポールの分離が両者にとって都合がよかったことによります。まず、イギリスの事情としては、戦後世界においてアジアにおける権益を維持・確保するにあたって、シンガポールのもつ軍事的・経済的な重要性によるものでした。マレーシアが独立を目指した場合でも、シンガポールを分離しておくことで、シンガポールでの影響力を確保できる、と考えたのです。他方のマレーシアの事情としては、マレーシアのマレー人がシンガポールの華人たちのもつ政治力と経済力がマレーシア全体に及ぶことを警戒していたことがあげられます。マレーシアはあくまでマレー人を中心とした社会を志向していましたので、華人が多数を占めるシンガポールとは距離を置いておきたかったのです。この問題はのちほど、より現実的な問題となって再燃します。

第2次世界大戦後のイギリスは、ヨーロッパの混乱と大戦前からアジアの各植民地で次第に高まっていた独立への機運が大戦の終結後になって一気に高まったことを背景として、戦後、アジアでの影響力が急速に低下していたため、少しでも各植民地での影響力を維持しようと自治権を付与・拡大するなどして植民地住民たちに譲歩をはじめました。

このような流れの中で、シンガポールでも1947年7月にはイギリス植民地当局によって立法会議選挙法令が公布されます。そしてこれに基づき1948年3月20日に議席の一部を民選とするシンガポールで初めての選挙が実施されました。この選挙は住民の一部に選挙権を制限した制限選挙でしたが、20万人のシンガポール市民が参加しました。

1948年にはマラヤ連邦に自治を認め、その後1955年にはリンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、シンガポールは部分自治を認められることとなります。すなわち、シンガポールの立法評議会を財政・外交・軍事など以外の自治権を持つものに改め、民選議員の割合を増やした上で自治政府が設立されることになったのです。これに伴い、シンガポールでは政党結成の動きが活発化しました。

この時の選挙では、のちにシンガポールの政治を事実上、一党独裁のもとにおく人民行動党は3議席を獲得するにとどまっていましたが、結党間もない政党としてまず政治参加することが同党の課題でした。

結局、英語教育労働者を支持基盤に持つ労働戦線が第一党となって、その党首であるイラン系のデビッド=マーシャルが自治政府の初代首相となりました。この当時の自治政府首相の権限は非常に制限的なものであったため、マーシャルは度々、イギリス植民地当局とぶつかります。このため、就任から1年ほどが過ぎた1956年6月に辞任してしまいました。

つづいて同じく労働戦線のリム=ユーホックが首相に就任しますが、華人の労働組合や学生運動が活発になっていて、不安定な政治情勢のなかでほとんど成果をあげることなく、次の選挙を迎えることとなりました。

1957年になると、イギリスの支配が弱まってゆくなかで、自治領という形ながらマレー半島内の一部がペナン・マラッカを中心に「マラヤ連邦」として独立しました。そして、初代首相にはトゥンク・アブドゥル・ラーマンが就任します。後述しますが、ラーマンはその後、シンガポールの歴史と深い因縁を結ぶこととなります。

そして、1959年にはシンガポールがこれまでの部分自治からイギリス連邦内の自治州として外交と国防以外の権限を行使することが可能な、完全自治へと移行してゆくのです。立法評議会の定員も増加し、全員が選挙により選出されることになりました。また、これまでの制限選挙から20歳以上の男子による普通選挙へと移行しました。このとき、全51議席のうち43議席を獲得し、圧倒的多数の第一党になったのがリー=クアンユー書記長率いる人民行動党でした。

こうして1959年6月3日、当時35歳であったリー=クアンユーが首相に就任しました。リー=クアンユーは閣僚として当結成時からの「第一世代」と呼ばれる人々のうち、英語教育を受けたトー=チンチャイが教育相、ゴー=ケンスィーが財務相、ラジャラトナムが文化相に就任し、英語を話す層が中心となった層が中心の新政権が発足したのです。その後、路線をめぐる党内の左右の勢力争いがくりひろげられました。すなわち、英語教育を受けた層を中心とするリー=クアンユーなど右派と、華語教育を受けた層を中心とする左派との対立が次第に深まっていくのである。

シンガポールの人民行動党は汚職のないクリーンな党として世界的に知られています。その元ができたのが、このリー=クアンユーが首相に就任した直後でした。まず、大臣級の給与削減を行ない、閣僚自身もボランテイアで清掃に参加する「シンガポール・クリーン・キャンペーン」を実施しました。そして、公職者の汚職を取り締まり、監視させる汚職調査局を設置しました。この汚職調査局は公務員や政治家の私生活まで監視して、不審な場合は徹底的な取り調べを行ないました。また、社会の風紀の乱れを糺すとして、ストリップショーやキャバレーが禁止されました。

リー=クアンユー自治政府の目の前には経済開発という政策課題が横たわっていました。それは中継貿易に依存していた経済構造を根本的に改革していくことでした。周辺の東南アジア諸国が独立してゆくなかで、これらの国々が工業化をすすめたことで、原材料を輸出し、ヨーロッパから工業製品を輸入する、という物流の流れに次第に変化があらわれ、東南アジア諸国の貿易が減少していきました。このため、ラッフルズ以来、ヨーロッパとアジアの中継貿易を主としてきたシンガポール経済は大きなダメージを受けていたのです。

これに対し、リー=クアンユー自治政府が立てた対策はゴー=ケンスィー財務相を中心とする工業化の推進でした。当時は失業率が10%を超えていたこともあり、大規模な雇用創出が見込まれる工業化推進は雇用問題を解決するうえでも切実な課題でした。人民行動党政権が成立するや、経済開発庁など政府行政機関の調整を行ないました。

また、すでに先行して工業化をすすめていた周辺国といたずらに競争関係になるのは得策ではありません。ですので、造船や石油化学といった重化学工業に重点が置かれることになりました。そして、重化学工業を担いうる国内資本が皆無であったことから、外国資本を誘致する戦略が採られました。そのための工業用地として、シンガポール島の西部にある沼地を整備して、ジュロン工業地区が建設されました。

このとき、問題なのがシンガポールで生産した工業製品を販売するための一定規模の国内市場の問題でした。シンガポールのような小規模な市場では当然ながら、そこで見込まれる需要は限られていました。そこで想定されたのが、将来の合併を見越してのマレーシアの国内市場化でした。

マレーシア連邦の成立

その後、上のような経済的な事情もあり、シンガポールのリー=クアンユー首相はシンガポールのイギリスからの独立とマラヤ連邦との合併を目指して積極的に交渉をすすめました。リー=クアンユーは「シンガポールの生き残りのためにはマレー半島との一体化が不可欠」だとシンガポールの住民に訴えます。一方のマラヤ連邦のラーマン首相は1961年、シンガポールやサバ、サラワク、ブルネイといった隣接するイギリス植民地と合併して「マレーシア連邦」を結成する構想を発表しました。

思惑が一致したリーとラーマンはシンガポールの合併に向けた協議を進めました。そして、両者による協議の結果、合併案がまとめられました。

その内容は、まず、シンガポールが引き続き自治州として、教育や労働政策も含めた強い自治権を保持することが盛り込まれました。その背景には、両者の民族政策のちがいがありました。すなわち、マラヤでは学校教育のマレー語化政策を進めていました。しかしながら、シンガポールでは引き続き英語や中国語による教育を認めていました。また、公務員採用や企業設立の際に、マラヤではプミプトラ政策と呼ばれるマレー人優遇政策が行なわれていましたが、シンガポールではこれを採用しなくてもよい、ということになりました。それぞれの人口における民族構成のちがいが配慮され、マラヤがシンガポールに配慮する形となったのです。

さらに、シンガポールでは自由貿易港を継続することとされましたが、一方で開発が遅れているサバとサラワクに融資するとされました。

こうしてリー=クアンユーはイギリスからの独立とマラヤ連邦との合併をさらに主張するようになりますが、これに強く抵抗した勢力がありました。それはリー=クアンユーが勢力を拡大するうえで当初、手を結んでいた与党・人民行動党内の左派でした。

彼らは当時、マラヤ共産党の影響下にある共産主義者でした。このマラヤ共産党は戦争中に日本軍に対するゲリラ戦をつうじて勢力を拡大させました。しかし、戦後は武装蜂起を企てたためにイギリスやマラヤ連邦によって徹底的に弾圧されて非合法組織とされてしまいます。しばらくはジャングルに解放区を設置して勢力をなんとか確保していましたが、これらも制圧されてしまった結果、シンガポールの労働運動が彼らの活動の場となっていたのです。

シンガポールの与党・人民行動党は左右の路線対立の末に1961年にいたって左派が脱退することとなりました。その契機となったのが、1961年5月にこれまで合併に否定的であったマレーシアのラーマン首相が、シンガポールの赤化防止のためにシンガポール合併を容認する方向へと変化したことでした。人民行動党を脱退した左派勢力は新たにバリサン・ソシエリス(社会主義陣線=社陣)を結成して活動を開始し、リー=クアンユー首相が主導するマレーシア連邦への編入をはげしく非難しました。

バリサンへ移った議員は13人でしたが、労働組合を基盤とする支部や専従職員らの多くがバリサンへ移ってしまいます。全体で51あった支部のうち、人民行動党に残留したのが16支部というありさまでした。これにより、リー=クアンユー政権は危機に瀕することになりました。

マレーシアとのあいだで協議された合併案に対し、バリサンは猛烈に批判します。シンガポールはマレーシアの総人口の2割を占めるのにもかかわらず、マレーシア下院におけるシンガポールに割り当てられた議席は159議席中15議席のみでした。さらに上院では55議席中シンガポールへの割り当て議席はわずかに2議席、そしてシンガポール住民が他地域へ移ると選挙権が行使できない、といった問題点を明らかにして批判するとともに、「シンガポール人はマレーシアの 『二等国民』にされるのだ」というキャンペーンを張ります。

これらの制限は、人口で上回る華人にマレーシアの政治主導権を奪われないため、ラーマンが絶対に妥協できない点でした。リー=クアンユーは1962年に住民投票を実施して、この合併案にシンガポールの人々のお墨付きを与えさせました。

この住民投票における選択肢は、「シンガポールは特別な自治州として合併するか、サバ・サラワク並みの自治で合併するか、マレーシアの普通の州として合併するか」という三択でした。つまり、「合併しない」という選択肢はなかったのです。そのため、バリサンはボイコットを呼びかけました。

このような状況にあって、1962 年12月にブルネイでマレーシアへの加盟反対を主張する北ボルネオ国民軍が反乱を起こしました。バリサンは北ボルネオ国民軍の反乱を「反植民地の民衆蜂起」と定義し、これを支持する声明を出します。この事態を口実に、リー=クアンユーはラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。そして反対派を弾圧したうえで、マレーシア連邦の結成が1963年8月31日に実施されることが決まりました。

このような連邦結成への動きに対して外部から妨害が入ります。インドネシアによるものでした。インドネシアの言い分は次のようなものでした。すなわち、そもそもマラヤやボルネオ島などマレー系民族の住む地域が分断されてしまったのは、イギリスとオランダによる植民地分割によるものであるので、独立するなら全てインドネシアとして統一国家になるべきだ、というものでした。

インドネシアのこのような主張の背景には、当時のスカルノ・インドネシア大統領が唱えていた「大インドネシア主義」があり、マレーシアに対して対決政策(コンフロンタシ)を宣言したスカルノ大統領は「マレーシア粉砕」をスローガンに周辺海域およびボルネオ島で軍事行動にまで出ました。また、国際社会に向けてインドネシア政府は「マレーシア連邦の結成はイギリスによる新植民地主義の陰謀」であるとして、これを阻止すべきであると訴えました。

これに対抗すべく、リー=クアンユー首相は当時、国際社会で発言力を強めていたアフリカ諸国を訪問し、35日間で17ヵ国を歴訪して各国の首脳と会談して自分たちがマレーシアへの統合を心底望んでいることをアピールするなどの外交戦略を繰り広げました。

こうして、この問題が国際紛争に発展しつつあることから、国連でもマレーシア連邦へのサバやサラワクの編入が妥当なものなのか、ということが問題となりました。そして、マレーシア連邦に加わることについての住民たちの意思を確かめる国連調査団の派遣が決定されました。これに伴って、連邦結成の日程も9月16日に延期されることとなりました。

このような事態に危機感を抱いたのがシンガポールのリー=クアンユー首相でした。合併延期によって国内でバリサンが支持を伸ばすことや、合併自体が実現不可能になった場合の政治的危機状況を恐れたのです。

そこでリー首相が考えついたのが、もともとの連邦結成の日であった8月31日にシンガポールだけがイギリスからの独立を宣言してしまう、という方法でした。この方法によって、シンガポールはただちにイギリスからの独立を成し遂げてしまいます。

一方のイギリスからすれば、いずれはマレーシア連邦に合併されるシンガポールの方便的な独立であることは十分にわかっていました。このため、イギリスはあえて抗議や反発をすることをしませんでした。

そして、一旦イギリスから独立したシンガポールはマレーシア連邦への合併を宣言し、1963年9月16日、シンガポールも含めた「マレーシア連邦」が誕生して、シンガポールはマレーシア連邦を構成するひとつの州となりました。

人民行動党(PAP)の台頭と党内闘争におけるリー=クアンユーの勝利

このようなプロセスでおこなわれた選挙をつうじてシンガポールで台頭してきたのが、独立後に政権の座に着くこととなる上述の人民行動党(略称はPAP、1954年結成)でした。人民行動党(PAP)は1955年の選挙で3議席を獲得したのを皮切りに、1957年の選挙では第一党となり、オン=エングェン(王永元)をシンガポール市長に就任させました。

オン=エングェン市長は民衆申訴局や密告局を設置して、住民の声を集約しつつ政府内部で横行していた汚職を一掃しました。また、市庁舎前に設置されていたエリザベス女王の銅像を撤去し、シンガポール独立への意思表示を明確にしました。さらに、華人が要求していた屋台営業の自由化および郊外のマレー人集落に水道を敷くなどしてシンガポール市民の人気を集めました。

このような市長の人気も追い風となり、1959年の総選挙では全51議席のうち人民行動党が 43議席を獲得して圧勝しました。こうして、人民行動党の党首であったリー=クアンユーはイギリス統治下のシンガポールにおいて外交・防衛以外の権限を持つシンガポール自治州首相に就任することとなりました。

オン=エングェンはオーストラリアへ留学した会計士でしたが、福建語の演説が巧みでした。福建語など中国南部地方出身の華人を基盤とする左派勢力を抑制するため、リー=クアンユーがオンを人民行動党にスカウトしたという経緯がありました。

しかし人民行動党内での首相候補争いに1票差で敗れてしまいました。結果、一度はリー=クアンユー政権の下で国家発展相に就任しましたが、予算配分をめぐってリーと摩擦が生じることとなり人民行動党から離党してしまいました。

オンは人民統一党を結成して1961年の補欠選挙では人民行動党を圧倒しました。そのため、中国語が苦手なリーは北京語に加え、慌てて福建語の勉強を始めた、というエピソードがあります。

その後、人民行動党に再度危機が訪れます。前述の党分裂によるバリサンの成立です。左派を党内から追い出しはしたものの、これまで呉越同舟的なかたちで共同してきた勢力が外部の対抗勢力として立ち現れました。

これに対し、リー=クアンユー首相は徹底的な弾圧で応じました。バリサンが北ボルネオ国民軍の反乱を「反植民地の民衆蜂起」として、支持する声明を出すと、この事態を口実に、ラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。そしてバリサンを排除したうえで、マレーシア連邦の結成が決められたのです。

リー=クアンユーの側からすれば、マレーシア連邦への合併問題によって、最大の敵対勢力を追い出すことができた、ということです。そして、バリサンの残存勢力についにとどめをさします。合併直後の1963年9月21日に実施されたシンガポール州議会選挙の際に、バリサンの支持基盤である労働組合の銀行口座を凍結するよう政府が命令を出すなどして選挙のための資金を不足させて選挙活動を妨害するとともに、マレーシア連邦政府が人民行動党を支持したのです。選挙の結果、全51議席のうち人民行動党が37議席、バリサンが13議席、無所属1議席となり、人民行動党の勝利に終わりました。

こうして、指導者を失ったバリサンは内部対立を繰り返して、急速に勢力を縮小していきました。

以上のような熾烈な党内闘争に勝利した人民行動党のリー=クアンユー首相のもとで、以降、シンガポールはマレーシア連邦への編入と脱退・独立を経験したのでした。

シンガポールにおける公用語の指定

1955年に部分自治を認められたシンガポールは、完全な独立を勝ち取るため、周辺の各国から移住してくる人々の市民権を認め、市民の大部分を占める中国、マレー、インドの3つのコミュニティを代表して3つの公用語を指定しました。

この3つの公用語である中国語・マレー語・タミル語は、現在のシンガポールでも継続して公用語となっており、今のシンガポールの多様な文化の基礎を築いたとも言えます。

連邦政府との対立

マレー人優遇を図りたいマレーシア連邦政府に対してイギリス統治時代に流入した中華系住民である華人(華僑)が大半を占めるシンガポールは、マレー系・中華系住民の平等を主張し、徐々に連邦政府と軋轢が生じていきました。

しかし、これがそのまま連邦からの離脱につながったわけではありませんでした。なぜなら、当時はシンガポールが単独で独立国家になることなど、非現実的であると考えられていたためです。

その理由として、以下のようなことがあげられます。

(1)シンガポールはそもそも小さな島にすぎず、狭小であって、国としての体裁を整えることは到底できない

(2)シンガポールはマレー半島の貿易港として栄えているため、マラヤ経済と切り離せるものではない

(3)水・食料をマレー半島に完全に依存しているため、これから分離してシンガポールは生存できない

(4)東南アジアの中央に中国系住民主体の国が出現することで、周辺諸国ばかりか世界の西側諸国から共産主義中国の影響下にある国と見なされて警戒・敵視される恐れがある

さらに、住民たちのみずからのアイデンティティについての認識の問題もありました。確かに、歴史的に見てもシンガポールはマラヤの一部でした。また「現地生まれの華人」と自ら称する人であっても、マレー半島の生まれだということが少なくありませんでした。住民のあいだにも、「シンガポールはマレー半島の一部である」という認識が根強くあったのです。

以上のような理由から、リー=クアンユー首相率いるシンガポール当局にとっては、対立する連邦政府との利害関係を調整することは課題になっても、連邦を離脱し、独立国家としての道を選ぶことなどは当初はありえないことでした。

選挙を契機とした連邦政府との対立激化

1963年には選挙をきっかけに関係がさらに悪化します。

それ以前からシンガポールはマレー系住民の優先政策を進める連邦政府と対立するようになり、リー=クアンユー首相が率いる人民行動党はマラヤでも中国系住民を基盤に勢力を伸ばしていました。

そして、選挙の際にマレーシア連邦政府与党である統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)とのあいだで、相互の地盤を奪い合う激しい選挙戦が展開されました。人民行動党は選挙にあたってサバ、サラワクとともに野党連合を結成し、マレーシア連邦政府との対決姿勢を明確にしめしていきました。マレー人優遇のマレーシア政府与党 VS シンガポール政党という構図が明白になりその葛藤は頂点に達したのです。

対外関係に目を向けると、インドネシアがマレーシア連邦の結成に強く反対していました。インドネシアのスカルノ大統領は、マレーシア連邦の結成はイギリスの陰謀であるとして批判したのです。そしてボルネオ島北部のサバ州とサラワク州はイギリスによって植民地化される以前はインドネシアの領土であったという主張をはじめました。そして実力行使による解決策(コンフロンタシ)を提示しました。

インドネシアはこれを早速、実行に移します。サバ州とサラワク州、そしてマレー半島に軍事力を行使し、攻撃部隊を上陸させたのです。これに対し、イギリス軍はマレーシアに軍隊を派遣しました。こうして、地域の緊張が急激に高まりました。

さらに、1965年3月になると、シンガポールのオーチャード通りの銀行ビルで爆弾テロが発生しました。死者3名、負傷者33名の人的被害が出たこの事件の犯人は2名のインドネシア兵士でした。

このような軍事的攻撃とともに、スカルノ大統領は、対シンガポール貿易を禁止しました。ちなみに、シンガポールの対外貿易に占めるインドネシアの割合はこの当時、全体の3分の1でした。これによって中継貿易で繁栄していたシンガポールは大きな打撃をうけます。さらに、フィリピンもサバ州を自国の領土であると主張し、マレーシアとの国交を断絶しました。

インドネシアやフィリピンとの関係という観点からみれば、マレーシアとの合併によってトラブルに巻き込まれるリスクが高まっていたのです。

しかしながら、さまざまな観点から、シンガポールにとってはマレーシアからの独立は非現実的な選択でしかなく、対立はあくまでも連邦にとどまる前提でのものと考えていました。シンガポール経済がマレーシア経済全体に占める割合の大きさへの自負心も、対立しても連邦はシンガポールが必要である、という自負心をもっていたとも考えられます。

ところが、1964年7月21日にはマレーシア連邦の憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策をシンガポールでも求めるマレー系のデモ隊と、一部の中国系住民が衝突する事態が発生して死傷者が出ました。「シンガポール人種暴動」と呼ばれる事件です。このように民族間の対立がシンガポールで先鋭化していたことは事実でした。

一方のマレーシアにとってはシンガポールを除けば中国系の人口がなんとか過半数にはならなかったにもかかわらず、シンガポールが連邦内に存在していることで、中国系がマレー系よりも上回ってしまっていました。マレー人たちにとってはシンガポールが連邦にとどまっていることで、中国系にマレーシアを乗っ取られるという危機感があったのです。

マレーシアのマレー人政治家たちは、この対立の責任がリー=クアンユーにあると主張しました。リーがマレーシアの国家原理に異議を唱えていることが、このような対立と混乱を招く原因になっている、という主張です。

彼らマレー人政治家たちのあいだで、リー=クアンユーの処遇が議論されるようになりました。強硬派はリー=クアンユーの逮捕を求めました。穏健派はリー=クアンユーを国連大使に任命して、マレーシアから離れさせ、シンガポール州首相の後任にはリー=クアンユーの片腕であるとともに、穏健な主張のゴー=ケンスィーがいいのではないか、との提案を行ないました。

1977年に刊行されたマレーシアのラーマン首相の回顧録には「リーは、シンガポールとマレーシアが一緒になるために懸命に頑張った。しかし、それ以上に、マレーシアを壊すためにもっと頑張った」と記しています。

激しい対立を経て、結局、マレーシア連邦首相・ラーマンと、シンガポール人民行動党・リーは、両者の融和が不可能と判断するにいたりました。

これ以上の民族対立による混乱を懸念したマレーシアのラーマン首相は、シンガポールをマレーシア連邦の外に放り出すこと、いわばシンガポールの連邦からの「追放」という選択をしたのです。ラーマンは1965年8月9日にこのことを国民に告げる議会演説を行ない、シンガポールを連邦から分離したのでした。

シンガポールの独立とリー=クアンユー体制

シンガポールの独立と華人社会

シンガポール州の首相であったシンガポール人民行動党のリー=クアンユーもまた、ついにマレーシア連邦政府との融和が不可能と判断してシンガポールの独立を決意します。

シンガポールの独立は市民には事前に何の予告もなく、1965年8月9日当日の朝になって、政府から発表がありました。すでに述べたように、これはシンガポールの意思というよりも、実際にはラーマン首相がリー首相にシンガポールの独立を迫って追い出したというのが真相に近いと考えられています。シンガポール側からすれば、対立こそすれ、連邦離脱ということは想像もしていなかったため、これは市民ばかりか政府自身にとっても「晴天の霹靂(へきれき)」であったのです。

リー=クアンユーの自伝によれば、マレーシア連邦側に独立を要求され、「独立しなければ戒厳令を敷いて逮捕する」と脅迫されたことが書かれています。シンガポールの独立は、それまで国内外でマレーシアとの合併の素晴らしさを宣伝し、マレーシアとの結合こそがシンガポール救済の道だと主張してきたリー=クアンユー首相にとって、苦渋の決断であったと思われます。そのことを物語るように、独立発表のテレビ記者会見の際、途中でリー首相は泣き出してしまったのです。

この会見でリー=クアンユーは次のように苦しい胸のうちを語りました。

「私には、これは苦悶の瞬間である。これまでの私の人生、とりわけ政治家になって以降、私はマレーシアとシンガポールの合併と統一を固く確信し、そのために行動してきた。両国は、地理的にも経済的にも社会的にも一つになるのが自然だからである。それなのに、私があれほど信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまったのだ……。」

このリー首相の言葉から、シンガポールにとってこの独立がそれほど意思に背いたものであり、望まざる独立であったのか、ということが分かります。

こうして1965年、マレーシア連邦から分離した都市国家として、現在のイギリス連邦加盟国であるシンガポールが誕生しました。

イギリス連邦(Commonwealth of Nations)というのは、かつての大英帝国がその前身となって発足し、イギリスとその旧植民地によって構成される、緩やかな国家連合体で、英連邦(えいれんぽう)、コモンウェルス(the Commonwealth)とも呼ばれます。その実態は、「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である」(コモンウェルス原則の宣言前文、1971年)とされていて、ゆるやかな独立主権国家の連合です。また、構成国各国は必ずしも同君連合、すなわちイギリスと同じくイギリス国王を君主にしている、という関係にあるとは限りません。シンガポールの場合は、象徴的な大統領がいるので、イギリスとは同君ではなく、旧宗主国と独立した旧植民地、という関係になります。

イギリスは加盟国国民に連邦市民権と呼ばれる権利を付与しています。すなわち、国政および地方選挙における選挙権および被選挙権、加盟国国民に対する査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置、自国の在外公館のない国におけるイギリス在外公館の援護です。これによって、とくにシンガポールの英語派華人たちとイギリスとの関係性が維持されることとなりました。

さて、シンガポールは人口の4分の3が華人(中国系)になります。しかしながら、一言で「華人」と言ってもそこにはいくつかのグループがあります。

グループ分けの1つの指標としては、東南アジアの他の国々と同じように、福建・広東・潮州・客家・海南島といった各出身地(および使用している中国の方言)によるものがあります。もう1つの指標はシンガポール独特のものなのですが、学校教育を中国語で受けたか、英語で受けたかというものです。シンガポールでは前者を「華語派」、後者を「英語派」と呼びます。

シンガポール独立への道のりは、イギリスの植民地支配に対する住民の自治・独立を求める運動からはじまりました。そして、さらにはマレー人中心のマレーシアと華人中心のシンガポールとの抗争へとつづきました。その後、独立に前後して繰り広げられたのが華語派と英語派との闘いでした。

最終的に独立したシンガポールで初代の首相となったリー=クアンユーは英語派の華人でした。しかし、マレー人を優遇する政策を実行するマレーシア連邦政府にリー=クアンユーが対抗するためには、独立までの過程において同じシンガポールの華人でも多数を占める華語派の支持は不可欠なものでした。

イギリスによる植民地支配が終焉したころの華語派の関心事は、シンガポールやマレー半島の情勢よりも、もっぱら中国で起きていた国共内戦の成りゆきでした。初期の選挙にも華語派は関心が薄く、結果として英語派が議会の主導権を握ることになりました。

このような華語派の姿勢に変化が訪れるのが1950年代からです。1949年に中華人民共和国が成立し、蒋介石率いる国民党勢力が台湾に逃れたことで、中国における国共内戦に決着がついたため、彼らの関心がシンガポールの内政に向けられるようになったのです。

彼らは次第にシンガポールにおける政治的権利の拡大や経済的要求を主張するようになります。50年代半ばには、中国との連携をはかろうとする左派の指導により、公民権獲得運動や労働争議が盛んになりました。

そして、1954年には華語派の住民を基盤にシンガポール独立後には一貫して政権の座につくこととなる人民行動党(PAP)が結成されました。その幹事長に就任したのがリー=クアンユーだったのです。

彼は中国語がほとんど話せない英語派華人でした。シンガポール住民の地位向上には民主化と独立が必要不可欠であると考え、国家社会主義的なマラヤを建設することを主張していました。そして、民主化する以上は、政治的な基盤として人口の多数を占めている華語派華人の支持を得る必要があると考えるようになったのです。こうして、労働運動を通じて華語派住民に強い影響力を持つ左派との共闘を実現するため、弁護士だったリーは労働組合の顧問弁護士を引き受けることで左派との結びつきを深めて、人民行動党を結成したのでした。

このようにして左派・華語派を一旦取り込むことで新生シンガポールのリーダーとなることに成功したリー=クアンユーにとって、その後の政治運営において、これらの勢力といかに対峙していくのか、ということが課題になりました。

リー=クアンユー首相は左派・華語派との党内闘争を経て、すでに述べたように彼らを排除することに成功して党内の実権を握り、政権を維持しましたが、英語派華人である自分たちが社会の多数を占める華語派華人を無視して政権運営をすることはできません。華語派華人をいかに押さえつけ、あるいは、いかに彼らと折り合いをつけてみずからの優位性を維持するのかが、シンガポール独立後のリー=クアンユー政権期全体の課題となっていきます。

リー=クアンユーによる支配体制の確立

このような経緯によって、リー=クアンユーは意図せず独立したシンガポールの初代首相となりました。彼は、小国の生き残りのため、経済発展を最高かつ唯一の国家目標とする開発至上主義を掲げました。

まず、リー=クアンユーの略歴についてみてみましょう。

リー=クアンユーは1923年生まれで、民族的には中国系移民である華人の4世にあたります。そしてそのなかでも高い教育を受けた「海峡華人」と呼ばれるひと握りのエリート層に属します。英語を話す華人(英語派華人)の家系に生まれたリー=クアンユーは、幼くして英語教育を受けます。彼の祖父であるリー=フンロンからは、クアンユーという中国式の名前(華名)とともに、Harry(ハリー)という英語名もつけられました。そして、家族や親しい友人からは中国式のクアンユーではなく、ずっと“ハリー”と呼ばれていました。

リー=クアンユーは幼い頃には中国語ができませんでした。このため、中国人の友人はほとんどいませんでした。彼が一緒に遊んでいたのはマレー人の子どもたちで、中国・福建省の方言である福建語が混合したマレー語で話していたといいます。

テロク・クラウ小学校、ラッフルズ学院を経て、ラッフルズ大学に入学したリー=クアンユーですが、その在学中に太平洋戦争が勃発しました。占領の混乱のなかで大学が閉鎖に追い込まれました。学業を中断せざるを得なくなったリー=クアンユーは日本軍占領期、タピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤を闇市で売って生計を立てました。一時、華人を敵視する日本軍に捕らえられたこともありましたが、機をみて脱出しました。もし、このとき彼の身に何かあったとすれば、今日のシンガポールは違ったものになっていたかも知れません。

その後、リー=クアンユーは大戦後の1945年にイギリスに留学し、ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律学を専攻しました。1949年に同カレッジを首席で卒業した彼は、短期間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通いました。そして、同年シンガポールに帰国したのちに弁護士資格を取得し、シンガポールの“Laycock and Ong”という法律事務所に弁護士として勤務しました。

そして、イギリス植民地当局の弾圧によって逮捕・提訴された労働組合や学生指導者たちが続出するなか、その弁護を引き受けた人物が、のちに初代シンガポール首相となるこのリー=クアンユーでした。彼もまた、植民地支配からの解放とシンガポールの独立を志すエリート青年の一人だったのです。

リー=クアンユーは勤務先の上司であるジョン=レイコックが親英政党の進歩党候補者として立法審議会選挙に立候補しました。リー=クアンユーはその運動員として活動したことを契機に政治活動に足を踏み入れることとなりました。そして、1954年には中産階級とともに人民行動党を創設し、これまでみてきたように、その党首としてシンガポールの初代首相となりました。

その後は政府・人民行動党の支配のもと、彼の強力なリーダーシップによって経済発展のためにあらゆる面で政府が先頭に立つ強権政治を展開してゆくことなります。その過程で治安法の発動による反対勢力に対する弾圧も、たびたび行なわれました。

そのような強権政治を実現していく上で障害になりそうな勢力が、もともと人民行動党にいた左派勢力のバリサンでした。これまでマレーシアとの結合を主張してきたリー=クアンユー首相にとって、シンガポールが連邦から分離されて独立を余儀なくされたことは反対勢力にとって格好の攻撃材料でした。とりわけ、連邦への帰属に強烈に反対してきたバリサンにとってリー首相を批判するのによい機会だったはずでした。

ところがバリサンは、まったく別の行動を起こします。こんどはシンガポール独立を「イギリス帝国主義が仕組んだニセの独立」だと言い出し独立に異を唱えたのです。そして、「偽国家の偽国会にいても意味がない」という理由で1966年から翌67年にかけてすべてのバリサンに所属する国会議員が辞職してしまいました。

バリサンの議員が辞職したのちの補欠選挙では、すべて人民行動党の候補者が無投票当選しました。これ以降、シンガポールの国会では1981年の総選挙で初めて野党議員が1議席を獲得するまで、与党の人民行動党がすべての議席を独占することとなりました。

皮肉なことですが、反対勢力であったバリサンの議員が抗議の辞職をしたことで、リー=クアンユー率いる人民行動党による事実上の「一党独裁」状態が完成し、人民行動党はシンガポールのヘゲモニー政党となり、シンガポールの政治体制はヘゲモニー政党制となったのです。

このヘゲモニー政党制とは、一つの大政党のほかに、小さな政党または衛星政党が存在を許されるが、公式上にせよ事実上にせよ、権力をめぐる競争が許されない政党制のことをいいます。このような大政党をヘゲモニー政党と呼び、人民行動党がこれにあてはまります。ヘゲモニー(Hegemonie)と言うのは、ドイツ語で「主導権」「指導的立場」を意味する言葉で、イタリアの政治学者であるジョヴァンニ=サルトーリが提唱する政党制類型の一つです。

このようなヘゲモニー政党制は、人民民主主義を建前とする共産主義国(共産主義政党のほかに衛生政党が存在するかつての東欧や現在の中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国)にみられると同時に、開発主義国家にも多くみられます。スハルト政権時代のインドネシアや朴正煕・全斗煥政権時代の韓国、蒋介石・蒋経国政権での戒厳令下の台湾、プーチン政権のロシアなどにおいては、野党は存在するものの、選挙制度などが政権政党に有利にできていました。このため、ヘゲモニー政党制であるといえるのです。シンガポールもこのような開発主義国家のパターンに該当します。

こうして「一党独裁」体制を手にしたリー=クアンユー政権は不満分子を根絶するための方策をすすめていきます。

まず最初に手をつけたのは左派の基盤となってきた労働組合でした。労働組合に対する管理の強化は、すでに独立前からすすめられていました。すなわち、共産系の労働組合を強制解散させて、これにかわって政府が主導する全国労働組合評議会(NTUC)を結成しました。そして、そこに残った労働組合をすべて加盟させたのでした。全国労働組合評議会の書記長には人民行動党の有力者が任命されます。

労働組合による政治ストライキは、左派勢力が強かった1960年代前半に頻発していました。このような状況を心良く思わない人民行動党はこういったストライキを政府の管理下におくことを考えます。そして、その結果として1968年に労働組合法が改正されて、労働仲裁裁判所を新たに設置して、そこでストライキの妥当性を判断させ、それが認められるまではストライキに入ることができないようにしました。これによって、事実上、政府公認のストライキ以外は実行できなくなりました。

つぎに、不満分子たちの基盤となっているとされる華語派を根絶することを考えました。とくに、華語学校の学生運動がそのターゲットとなり、マレーシア連邦時代に導入された「適正証明書制度」が独立後も活用されました。これは、社会の安全を損なう者(共産主義者など)でないということを、大学入学にあたって政府から証明してもらうことを義務付けるものでした。これには華語派学生の政治的拠点であった南洋大学だけでなく、政治的には比較的穏健なシンガポール大学からも抗議の声があがりました。ところが、政府・人民行動党はこれを積極的に活用して、共産主義者およびその支持者たちを大学から排除することに成功し、大学やその学生たちの非政治化を実現しました。

また、政府・人民行動党は華語派華人が受けていた華語教育そのものもターゲットにしました。そのために、中国語で講義を行なっていた南洋大学の講義も1965年には政府の圧力で半分が英語で行なわれていました。1975年になると中国語科をのぞいてすべて英語化し、さらには1980年には南洋大学自体が閉鎖され、シンガポール大学と統合されてしまいました。中国語で教育を行う小中学校も1987年に入学停止としました。

一方で、リー=クアンユーは、ビジネスや行政、異なる人種間における共通語として、英語の使用をうながします。一方で華語(標準中国語)・マレー語・タミル語も公用語として公認しました。こうして、シンガポールの公立学校における授業においては、英語が使用されています。同時に生徒自身の民族語を習得するための授業も行われてもいます。

他方、1979年からは、リー=クアンユー政権によって、華人を対象とした華語普及運動(講華語運動、Speak Mandarin Campaign)が開始されました。これにより放送では基本的に全ての番組で華語が使われるようになりました。これは華語派華人の伝統を保護するような政策に見えますが、じつはその逆なのです。これによって、彼らが日常的に使ってきた、華語以外の中国語方言の伝承が妨げられる結果となったのです。現在では若い世代の大部分は方言を流暢に話すことができなくなりました。すなわち、これには中国での出身地域別に形成されていたシンガポールの華語派華人コミュニティを弱体化させる効果があったのです。

教育の分野だけでなく、メディアにもこのような強権の発動はおよびます。1971年に華語教育の衰退を懸念して政府の英語化をすすめる施策を批判した華字新聞『南洋商報』の編集者3人を国内治安法違反の容疑で逮捕しました。その理由は、共産主義思想を宣伝し、華人ショービニズムを煽った、というものでした。1975年には中国語で発行されている新聞各社の経営権を政府が掌握しました。さらに、1977年に「新聞・印刷紙法」が改正され、個人が新聞社の株式を3%以上所有することを禁止しました。これによって華字新聞を華人企業家たちの手から奪います。そして、シンガポールで刊行されるすべての新聞を一つの持株会社のもとに統合しました。そのうえで1983年には各社を強制的に合併させました。そして、翌年の1984年にいたって、政府が主導して設立したシンガポール・プレス・ホールディング社がすべての新聞社をその傘下とし、シンガポール・プレス・ホールディング社の経営責任者として人民行動党の政治家が任命されました。こうして、華語新聞の実質的な国有化が実施されたのでした。

さらに、華人企業家に対しても管理を強化しました。すでに独立前の1963年の選挙の際に、バリサンに資金援助したという理由で、有力な華人企業家であったタン=ラークサイから国籍を剥奪していました。そして、これを見せしめにして華人企業家たちの政治行動に圧迫をくわえていたのです。

以上のようなさまざまな管理・抑圧によって、人民行動党に対する批判・対抗勢力が駆逐されたり、非政治家されたりすることによって、シンガポール社会で人民行動党による一党支配体制が出来上がっていったのでした。

その後、国会議員選挙では1981年の総選挙で初めて野党が1議席を獲得したのですが、人民行動党は選挙制度や選挙区割りを自党に有利なように次々と変更し、野党候補者を当選させないことに力を尽くしました。さらに政府批判をした野党議員や候補者を名誉毀損で訴えて破産させるなどして、事実上、政治的自由は制限された状態でした。

2011年の選挙で野党が「歴史的勝利」を果たしたされていますが、それでも全 87議席のうち野党が獲得した議席はわずか6議席にすぎませんでした。

25年で幕を閉じた南洋大学

弾圧の対象となった大学・南洋大学について、その歴史を少しみてみたいと思います。

南洋大学は現在の南洋理工大学がある場所にかつてあった大学です。南洋大学は南大と略称されますが、台湾・香港を含む中国以外で初めての華語大学でした。その設立は1956年で、中国系移民たちが自分たちのルーツを伝承しようと、自分たちの力で資金集めを行なって開学しました。中国系移民は、前述のように会館などの活動の一環として華語教育を実施する小学校や中学校をいくつも建設しました。ところが、中国系移民が設立した大学はこの南洋大学のみでした。

このような大学が設立されるにいたった背景には、イギリス植民地当局の学校政策と中華人民共和国成立に対する植民地当局の対応がありました。すなわち、戦後のイギリス植民地当局はすべての言語別の小学校をみずからの管理下におき、補助金を出すことにしましたが、その額が英語校華語校で大きな差をつけるなどして冷遇し、英語校へと生徒を誘導する政策をとりました。また、中国で共産党政権が誕生すると、華語を用いる学校にその影響が及ばないようにイギリスは中国からの教員の招請を禁じました。また、さらには中国の大学に進学した華語校の卒業生が帰国できないようにしてしまったのです。こうして、華語校では教員不足とこれまで中国に留学していた卒業生の大学進学先の問題が深刻となっていきました。

このような状況に危機感をいだいた華語系華人の有力者たちは、1953年から福建省出身者のコミュニティを中心として華語大学設立のための募金活動をはじめました。こうして、1956年、文学部・商学部・理学部の3学部を備えた南洋大学が開学されることとなり、573人の新入生を迎えました。

しかしながら、イギリスや独立を目前にしていたマラヤ連邦はこの大学設置に強く反発します。そして、大学としての承認をしなかったのです。これにより、南洋大学は私立の専門学校扱いとなってしまいます。しかし、このような抑圧がかえって、「華語教育の牙城」として、南洋大学が権力に対抗しようとする華語系華人たちの象徴的存在としてゆくこととなりました。そして、この大学が左派学生や野党の支持基盤になっていく結果にもなりました。

1959年に成立した人民行動党政権もまた、南洋大学に対する弾圧を続けました。この政権はマレーシア連邦の一員となることを目指していましたので、連邦の言葉であるマレー語と国際言語としての英語に重きを置く傾向がありました。このため、華語を重視する南洋大学の学生たちはこれに反発していました。

1963年のマレーシア連邦結成後、南洋大学の学生や職員が「共産分子取締」として、多数逮捕されました。さらに理事長の市民権を剥奪し、大学の存続を危機に陥れました。

シンガポールの分離・独立後、人民行動党はさらに露骨に南洋大学への抑圧を行なうようになります。そして、華語のできない学生受け入れや、学生への英語の奨励などを大学に声明させたのです。これは華語大学としての南洋大学の意義を損ねるものであり、反対した理事もいましたが、皆辞任することとなりました。また、これに講義して授業をボイコットした学生たちには停学や退学の処分を下しました。

そして、ついに南洋大学が息の根を止められます。1970年に英語大学であるシンガポール大学との合併を政府に強要され、設立25年にして南洋大学は吸収合併されてしまいました。

こうして、南洋大学を吸収合併したシンガポール大学はシンガポール国立大学と改名して、現在にいたります。

シンガポールの政治システムと政治的自由の抑圧

1965年に独立して1つの国家となったシンガポールですが、その政治制度はどのようなものなのでしょうか。

すでにみたように、シンガポールは1963年にイギリスから独立し、その後1965年にマレーシアから分離独立しました。しかし、その国家制度の基本的な枠組みは1959年にイギリス連邦内の自治州となった時のものが継承されています。

行政統治機構は、議院内閣制となっていて、議会で選出された首相がシンガポールの最高指導者となります。そして、その補佐として副首相がおかれています。リー=クアンユーの時代には1人でした(ゴー政権以降は2人となります)。自治州時代から大統領制が導入されていて、その任期は6年で、国会で選出されることとなっていました。しかし、政治的実権のほとんどない、対外的な国の象徴としての存在です。

議会制度については、一院制が採用されています。議員の任期は5年です。定数は当初51人でした。これは人口の増加とともに増えていて、2012年の時点では87人となっています。選挙制度は当初は完全小選挙区制でしたが、1988年に制度改革がありました。これについてはのちほどお話しします。普通選挙による投票が行なわれ、被選挙権は21歳以上の国民に付与されていて、この要件を満たせば、立候補は法的に可能です。選挙権は同じく21歳以上の国民に付与されていますが、同時に投票義務制となっていて、投票しなければペナルティを課されるしくみになっています。そのため、毎回98%前後の高い投票率となっています。

政党は人民行動党の事実上の一党支配体制ですが、形式的には複数政党制となっています。政党は「団体法」によって登録制となっていて、20ほどの団体が政党として登録されていますが、ほとんどは名称だけのいわゆる「幽霊政党」だと言われています。

1968年4月の選挙以降、1981年の補欠選挙で野党が1議席を獲得するまで、全議席が人民行動党によって独占されていました。このような事態は、自由選挙による選挙を実施している国ではきわめて異例なことです。これは、人民行動党がさまざまな手段で対抗勢力を駆逐した結果であるといえるでしょう。

しかしながら、リー=クアンユー政権期にも野党は存在していました。ただ、激しい抑圧にあっていたのです。

1981年の補欠選挙で当選したインド系の弁護士で労働者党書記長のジェヤレトナムは、政府批判勢力の象徴的存在となって、1984年の選挙でも再選を果たしました。そして、ジェヤレトナムは国会でリー政権や人民行動党のあり方に対する批判を繰り広げました。これに対して危機感をおぼえた人民行動党は彼を排除しようと考えました。

1984年に総選挙で当選したジャヤレトナムは、労働者党資金を不正利用したとして、起訴されました。一審では無罪の判決が出されましたが、二審で逆転有罪となり、罰金刑をうけました。この裁判に関連して、ジャヤレトナムは1986年に国会で、一審で無罪判決を下した裁判官がその判決の直後に人事異動になっていることを取り上げ、行政が司法に対して不当な介入をしたとして批判しました。人民行動党はこれに対して、事実無根の非難であるとして、国会議員として不適切な発言だと攻撃しました。しかし、このような発言を処罰する法がなかったため、人民行動党は国会法を改正して、国会で不適切な発言をおこなった議員は、議員資格喪失とするという条項を新設しました。そして、ジャヤレトナムにこれを遡って適用したのです。これにより、ジャヤレトナムは国会の議席を失ってしまいました。

ジャヤレトナムはその後、ゴー政権の時代になってようやく復権しましたが、罰金や賠償金の負担が大きく、結局2001年に破産宣告を受け、被選挙権を喪失してしまいました。

このように、リー=クアンユー政権期においては、政府批判をする野党政治家に対して、訴訟を起こし、有罪判決によって排除する方法によって、野党勢力を排除するという手法が用いられました。法廷を利用する、というのは弁護士でもあるリー=クアンユーらしい手法であるともいえますね。

一方で、1984年の選挙結果をうけて、選挙制度改革が行なわれました。この選挙ではジャヤレトナムを含め野党議員が2人当選しました。政府と人民行動党はこれに危機感をもちました。彼らの理想は‘野党のいない国会’でした。したがって、野党議員の存在そのものが問題になったのです。

このときの選挙改革の中心的なものが従来の小選挙区と併用されることとなった「集団選挙区制」でした。これは3つの小選挙区をあわせて集団選挙区(GRC)とし、この集団選挙区に立候補する政党が3人の候補者を立てて争い、得票の多かった政党の候補者3人が当選となる選挙システムです。

また、候補者の3人のうち、1人はマレー人もしくはインド人でなければなりませんでした。ここが実は、この制度のポイントなのです。表向きには政府は少数民族の政治参加の機会拡大を理由としていましたが、野党が民族別に分かれていたことに目をつけた、巧妙な野党潰しであることは明白でした。たとえば、華人の政党が、当選可能なインド人やマレー人を探すことは非常に困難なことであり、おのずと集団選挙区での立候補を断念せざるを得なくなるのです。

他方で、長年にわたって国会の議席を独占してきた人民行動党にとっては無名の新人を立候補させるにあたって、すでに知名度の高いベテランの現職とともにセットで立候補させることで、多くの新人議員を当選させることが可能になりました。

その結果、1988年の選挙では人民行動党の得票率は1984年の62.9%から61.8%へと減少したにもかかわらず、むしろ野党議員が2人から1人に減少しました。選挙制度改革が人民行動党に有利にはたらいたのです。

また、野党議員のみならず1980年代にさかんになった市民運動が反政府的な主張をした場合も「共産主義」というレッテルでこれを取り締まる、ということが度々ありました。これに対しては欧米諸国などからも人権侵害であるとして批判の声があがりました。

このように、経済発展を最重要課題とするリー政権・人民行動党は複数政党制や自由選挙の形態をとるシンガポールの政治システムのなかで、さまざまなかたちで政治的自由を制限しながら強力なリーダーシップを実現しようとしたのです。

治安維持法による弾圧

「治安維持法」というと1920年代に制定・改定された日本の戦前・戦中に思想弾圧の道具として使われた法律を連想する方も多いかと思います。この日本人にとって、暗い時代を想起させる法律と同名の法律がシンガポールに存在しています。そして、この法律の存在こそが、シンガポールにおいて強権的な政権運営を可能にする決め手として機能してきました。

シンガポールの治安維持法は、容疑者を逮捕令状なく無期限に拘束することができる権限を治安を担当する内務省に付与する法で、イギリス植民地統治期の1919年に、「反英分子」への取締を目的として植民地当局が特別警察に与えた特別な権限がその起源です。

1959年、シンガポール自治州政府の首相に就任したリー=クアンユーは、次のように述べています。

「治安維持法の効力は、民主国家を破壊しようとする人びとの企みを一時的にせよ砕くことにある」

この発言は、なぜイギリスに独立運動を弾圧するために運用されてきた治安維持法の廃止を求めないのかについて、説明したものです。これをみると、リー=クアンユーが自らが統治する「民主国家」を「破壊しようとする」「企み」を「砕く」ために、治安維持法を首相として活用していく、というリー=クアンユーの考えがみてとれます。

事実、彼がライバルや対抗勢力を排除して独裁的な権力を掌握していく独立直後の1960年代後半から1970年代初めにかけて、「共産主義者への取締」のためとして、この治安維持法が活用されました。

例をあげると、1966年10月に野党・バリサンの党員・支持者が北ベトナム支援の展示場に集った際、治安維持法が適用されました。この時に逮捕された元国会議員はみずからが共産主義者である、という自白をしなかったことで、24時間拘束されました。あるいは、1971年に政府を批判した華字新聞の編集者らが治安維持法にもとづいて拘束されました。そして、数名が国外追放となったのです。

以上のように、政治的にリー=クアンユー政権とその与党である人民行動党に対して対抗したり、批判したりする団体や個人を「共産主義者」と規定することでその取締を正当化する、という形で安維持法は運用されていったのです。

反対勢力の排除が功を奏した1970年代後半以降には治安維持法の発動は激減しましたが、アジア各国で民主化運動が高揚した1980年代後半になって、再び発動されることとなりました。これは1987年に「マルクス主義的国家転覆計画」に関与した、という容疑で22人が逮捕された、というものです。このような逮捕劇に打って出た政府の主張はつぎのようなものでした。1976年に不法出国してイギリスに滞在していた元学生活動家が「マルクス主義的国家転覆計画」を実行しようと、シンガポール国内のカトリック教会関係者や弁護士、学生らを組織しようとし、そしてカトリック教会関係者が解放の神学の影響で複数の社会運動体を利用してシンガポールの政治・経済問題に関与しようとした、というものです。政府のこのような主張は多くの国民には受け入れられませんでした。むしろ、1960年代の反対勢力への弾圧を思い出させるものであり、信ずるに値しない、と考えられたのです。逮捕された人々が行なっていた活動は、外国人労働者の人権救済センターでしたので、直接的に政権を批判することを目的としたものではありませんでした。しかし、同じ時期のフィリピンや韓国での民主化運動において、教会が大きな役割を果たしたことに対する不安が政権の側にあったのではないかと言われています。結局、逮捕された22人のうち、首謀者とされた人物以外は年内に釈放されましたが、取り調べの過程で自白を強要する拷問が行なわれていた証拠が、国際人権団体から出され、国外の人権団体から、シンガポール政府を非難する声明が多数出されました。

今日、シンガポールが人権弾圧国家であると批判される際にその批判の根拠となっているのがこの治安維持法の存在です。この法によって、政権は「安定」を手にしてきましたが、この法を国際的な非難にもかかわらず、これからも存続させる意義がどこにあり、またそれにどのような正当性があるのか、21世紀のシンガポールに課された問題のひとつです。

かつて連邦としてシンガポールと結合していたマレーシアでは、2011年に治安維持法が廃止されました。これを契機にシンガポールでも廃止の議論が活発になってきています。

シンガポールの軍事制度構築

建国当初のシンガポールには、共産主義勢力やインドネシア、シンガポールをマレーシアの支配下に置くことをめざすUMNO過激派といった複数の脅威が存在していました。

このように立場が脆弱だった国防面について、リー=クアンユー首相はスイスをモデルとして、非同盟と武装中立を国是とすることを宣言しました。それとともに、ゴー=ケンスイに国軍創設の準備を命ました。そして、他国に指導や訓練、軍事施設の設立などについての援助を要請し、国軍の充実につとめます。

1967年になると、イギリスはシンガポールならびにマレーシアに駐留する軍隊を撤退もしくは削減するとの宣言を行ないます。これにともなって、シンガポール政府は必要兵力を満たすために、 国民役務 (National Service) の実施を発表し2年間の兵役を国民に義務づけることにしました。

軍事装備の増強も図られました。1968年1月にはフランス製の戦車AMX-13、1972年には最新式戦車を購入します。さらに1969年、イギリスからBAC 167 ストライクマスターを購入して、テンガ空軍基地でパイロット養成のための基礎訓練を実施するようになりました。

イギリス軍は1969年~1972年にかけてシンガポールから撤退します。しかし、シンガポールの安全保障には今後も関与することとなりました。1971年、イギリスは旧植民地であるシンガポール・マレーシア・オーストラリア・ニュージーランドと「五ヵ国防衛協定」を締結して、シンガポールおよびマレーシアの安全が脅かされた場合、締結国が協議することにしたのです。

しかし、アジアから軍を撤退したイギリスにのみ安全保障を依存するのは心許ないので、小国であるシンガポールは軍事的な後ろ盾となる大国が必要でした。アジアの大国である中国や日本では体制の違いや歴史的経緯から、その実現は困難であると考えられました。そこでシンガポール政府はアメリカに接近したのです。しかし、安全保障条約のような具体的に成文化された同盟関係ではありません。しかし、アメリカもまた、企業が多くの資金をシンガポールに投資しており、シンガポールの安全保障は関心事のひとつでしたので、シンガポールへの軍事的プレゼンスに積極的でした。こうして、シンガポールにはアメリカを後ろ盾とする安全保障体制が出来上がっていったのです。

のちにシンガポールは、ASEAN諸国や他の非共産主義諸国などとも強固な軍事関係を築くこととなっていきました。

また、シンガポール政府は軍だけでなく、国民全員で国を守るという「トータル・ディフェンス」のスローガンを掲げて、全国民的な国防意識の高揚を呼びかけました。

台湾との軍事協力関係

華人人口の占める割合が多いシンガポールでは、台湾との関係は対中国関係と同様に非常に複雑なものでした。

マレーシアから分離・独立したシンガポールは、当初、マレーシアをはじめとした周辺国から無用な疑念を招かないように、中国・台湾いずれとも外交関係を結びませんでした。そして、経済・貿易を中心として政経分離政策にもとづいて関係を構築してきました。

しかしながら、「中華」という価値を共有し、自由主義経済体制をとる台湾はシンガポールにとって特別な存在であったことは間違いありません。シンガポールのリー=クアンユー首相と台湾の蒋経国総統にはこういった価値の共有を背景として硬い絆が結ばれていたのです。

そして、この絆を象徴するものとして、国交のない国どうしとしては異例の、軍事協力を行ないました。

1967年以降、台湾はシンガポール空軍でパイロットの訓練を行ない、補修技術者の教官を提供したりしています。さらに、1975年から、砲撃・野戦などの訓練場が、国土が狭小なため設置できないシンガポールに対して、台湾は、台湾の内部にある軍事訓練施設をシンガポール軍に提供しています。これを「星光計画」といいます。現在も、台湾のいくつかの基地に「星光部隊」と呼ばれる訓練のため台湾に駐留するシンガポール軍がいます。

このように、シンガポール軍最大の訓練施設が台湾にあることから、成人男子の80%が台湾で軍事訓練に参加した経験があるとされています。

東西冷戦が終結した1990年10月にシンガポールは中華人民共和国と国交を樹立します。しかし、この際、シンガポールは中国に上記の軍事基地利用を含む従来の関係を維持することを認めさせました。

このようなシンガポールの立ち位置により、シンガポールは中台間の仲介者としての役割を果たすこととなっていきました。

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開発主義国家シンガポールの経済発展

水源などの天然資源をマレーシア連邦に握られたままでは、政治的・経済的に支配下にある状況と同じです。

そこで国力強化のため、リー=クアンユー首相は経済政策を強固に打ち出します。あらゆる分野で政府が先頭に立つ、いわゆる「開発主義国家」として国家主導型の経済発展をめざしたのです。こうして、1961年にシンガポール自治州に設置され、マレーシアからの分離・独立後もシンガポール政府機関として機能していた経済開発庁が中心となって、精力的に企業への支援、起業支援、投資家支援を行っていくこととなりました。

企業への支援としては、既にある多国籍企業やシンガポールを拠点とする企業に、法的支援、労働力の支援を与え、それらの企業の利益の増加を促すことで、シンガポールの発展に寄与するようにしました。また、起業支援として、新たに起業を行う企業家への資金、設備の提供を行ないました。さらに、投資家には、投資家の永住やビジネスにおけるネットワークの提供等の支援をしました。

その際、海外からの投資を呼び込むのに重要なのは政治的安定性が重要だと、リー=クアンユー政権は考えました。政治を管理することで投資を呼び込もうとしたのです。人民行動党が野党や市民運動に対して抑圧・管理しようとしたのは、政治運営そのものを経済発展の手段としてみなしていたためでもあったのでした。

そして、進出する外国企業に有利な労使関係を可能にするための法律も準備しました。1967年に制定された「雇用法」と「労働関係修正法」です。

「雇用法」は労働者の労働時間を週39時間から44時間に増やし、公休日は年15日から11日に、そして休暇や病欠日の上限も減少させられました。有給休暇も勤続10年以下で7日、10年以上は14日とされました。

一方の「労働関係修正法」では経営側の特権が大幅に拡大され、昇進・配転・人員削減・解雇・復職・仕事の割り当ては労働組合が交渉する内容ではない、とされたのです。これにより、労働組合の活動は抑制され、その役割を事実上否定することで労働組合を弱体化させました。

さらに、1972年には労働集約型外国企業のニーズに対応できる低賃金を可能にするため、事実上、政府が労働者の賃金を決定する権限を有する全国賃金評議会(NWC)が設立されました。政府・雇用者・労働者によって構成されましたが、労働者の代表は政府に管理されている全国労働組合評議会から選出されるため、現場の労働者の声を反映するものではありませんでした。これは伝統的に労働組合が担ってきた賃金交渉権をも奪うものでした。

以上のような労使関係に関する施策は伝統的な労働組合の役割を否定し、労使関係について個別の企業と労働組合が交渉するのではなく、一律的に政府がこれを管理することで外国資本を誘致し輸出競争力を維持する、という経済発展重視の発想にもとづくものでした。

こうして、天然資源が皆無のシンガポールはリー=クアンユー首相を指導者とする政府のもとで、外国資本の導入によって世界市場に工業製品を輸出する、輸出志向型の発展の道を選び、海外からの投資環境を整えるために人々の自由や権利を規制しながら社会の安定化に注力していったのです。

シンガポール初の工業団地、ジュロン工業団地の誕生とともに、シンガポールは一気に成長期に突入しました。1億ドルの予算を投じてシンガポール経済開発庁(EDB)を強化し、シンガポールを海外投資家にアピールする取り組みをはじめました。こうして、シンガポールの工業化計画が開始されて、衣類、繊維、玩具、木製品、カツラの工場生産がはじまります。 これらの労働集約型産業に、シェル・イースタン・ペトロリウム社、ナショナル・アイアン & スチール・ミル社といった企業の資本・技術集約型プロジェクトが加わりました。

この工業化計画は成功成功しましたが、これにともなってシンガポールは新たな課題に直面します。それまでマレーシアに依存していた原材料の不足、国内需要の急激な拡大といった問題です。 その解決のためにシンガポールが行ったのは、輸出中心の産業の開発でした。経済開発庁は、海外投資家をさらにシンガポールへと呼び込むために香港とニューヨークに最初の海外事務所を開設しました。

1970年代に入ると、シンガポールは安定した製造基盤構築を積み重ねてきたため、あらたにビジネス・リソースの強化に重点を置くようになります。工場の建設、有能な人材の育成、産業の多様化により、シンガポールはその後に起きたオイルショックの影響を最小限におさえることができました。

この時期になると、製造業では、コンピューター関連機器などより高度な製品の製造が行なわれるようになります。そのことによって、特にエレクトロニクス部門および製品多様化に対する新たな投資が行なわれるようになりました。こうして、世界的な不況にもかかわらず、シンガポールの輸出は飛躍的に伸びを示しました。多国籍企業はすでに好調な製造事業の延長に、シンガポールでの研究開発(R&D)事業も開始します。

シンガポールをビジネスの拠点とする政策を推進するために、ヨーロッパ、米国、アジアの各地に経済開発庁は事務所を増設します。 同じ時期、テキサス・インスツルメンツ社は、600万ドルを投資して、世界市場向けの半導体と集積回路の製造ラインをたったの50日で立ち上げました。これが今後のシンガポールのエレクトロニクス産業の先駆けとなるのです。

1971年から1976年にかけて、さらなる海外からの投資を促すために経済開発庁はチューリッヒ、パリ、大阪、ヒューストンに海外事務所をあらたに設置しました。並行して、国内では人材育成機関を創設し、職業訓練に重点が置かれました。海外研修プログラムや、インドのタタ社、オランダのフィリップス社、ドイツのローライ社との共同研修センターも創設されます。シンガポールの若年労働者が知識と技能の交換を目的としたこれらの研修プログラムに参加しました。このような人材育成のためのパートナーシップが、シンガポールの投資促進計画を前進させる重要な踏み台となっていきました。

1980年代になると、第二次産業革命によって研究開発(R&D)、工学設計、コンピューター・ソフトウェア・サービスなどの知識集約型事業への対応がせまられます。

はじめ、シンガポール政府は労働集約型産業から撤退し、ハイテク産業の誘致をすすめるため、高賃金政策を採用しました。ところが、世界経済の減速と共に人件費が膨らんでしまい、結局はシンガポールの景気が傾き始めてしまったのです。

この事態を受けて、当時のリー=シェンロン貿易産業大臣(のち首相)を中心とする経済委員会は、シンガポールの競争力回復には何が必要かを協議し、企業の収益性に応じた賃金引上げを行う柔軟な賃金制度の導入を奨励しました。 同時に経済委員会は、経済開発庁が経済活動を全面的にリードすることも提言しました。

そして、経済開発庁は、シンガポールをトータル・ビジネス・センターにするという新しい目標を掲げます。そのうえで、金融、教育、ライフスタイル、医療、IT、ソフトウェアなどの分野の国際的なサービス企業の誘致を推進します。

これらの分野を投資家に売り込んだ結果として、1980年代前半に、東南アジア初のシリコン・ウエハー製造工場が設立されたのでした。さらに1981年にはアップル・コンピューターがこれに続き、1982年には同社のディスク・ドライブ製造工場も開設されました。

また、国内企業の振興も次第に重要になってきました。そのため、経済開発庁は1986年に中小企業局を開設して、中小企業発展のためのあらゆる支援プログラムを整備しました。

以上のように、それぞれの時代状況に対応した柔軟な政策が実を結び、GDPは独立後4年間で60.9%増加し、1960年代にはまだ商人による中継貿易が主流を占めていた産業構造が、90年代には製造業中心に転換します。すなわち、中継貿易は相対的に衰微しましたが、これに代わって製造業がGDPに占める割合が年々増加していきました。シンガポールは多国籍企業の林立する国際加工基地へと脱皮したのです。

このような発展に決定的に貢献したのは、政府の思惑通り、外国資本でした。1965年の外国投資累計額が1億5,700万シンガポール・ドルだったのが、1974年には30億5,400万シンガポール・ドルに急増しています。投資国はアメリカ・イギリス・オランダが多く、70年代後半からは日本からの投資が急激に増加しました。これらの資本によってシンガポールの製造業は成長し、強化されていきました。

同時に、これによってイギリス軍撤退にともなう失業問題にもプラスの影響を与えることとなりました。1969年末にはかつて10数%を超えていた失業率が6.7%にまで改善したのでした。そして、1971年ごろにはほぼ完全雇用状態となり、それ以降はむしろ労働力不足が問題になっていきました。こうして労働力不足を外国人労働者によって補う時代がやってきました。また、労働力不足は潜在的労働力としての女性の社会進出を促すこととなりました。これにともなって、家事労働を担う外国人労働者も流入するようになっていきました。

こうして、もともと移民によって発展したシンガポールは、その発展をさらに移民を受け入れることによって支えられる、ということになっていきました。

以上のような努力に加えてシンガポールはアジア各国へのアクセスの良さや、無関税の自由港であった背景から、国際的に貿易・金融市場を大幅に発展させることに成功します。さきほど述べた製造業の発展やインフラ整備のための資金供給のために1968年にシンガポール開発銀行が設立されます。そして、1969年にはライバルである香港との誘致競争の末に、バンク・オブ・アメリカのシンガポール支店にオフショア勘定を開設します。これにより、シンガポールの中核市場であるアジアダラー市場が誕生しました。

くわえて、イギリス統治時代から銀行業や保険業が発達していたところに、さらに1970年代以降欧米や日本の金融資本が、東南アジア進出の拠点としてシンガポールに支店を置きました。あるいはイギリス式の法制度が続いていたことや、ロンドンとニューヨークの間にあって24時間市場取引が可能なことも幸いしました。1984年にはシンガポール国際金融取引所が設立されて、多彩な金融商品が提供されるようになりました。

こうして、1970年代から、シンガポールは目覚ましい経済の高度成長を示し、国際金融センターとしても発展しました。その経済発展のスピードは著しく、独立した1965年からの30年の間、平均で10%の年間の経済成長率を達成していました。

シンガポールは1979年から「日本に学べ」運動を推進しました。これはアジアで高度な経済発展を成し遂げた日本の企業経営、労使一体型経営、勤勉な態度、インセンティブ、QC活動、技術習得などを学ぼうとしたものです。

政府介入で一気にインフラが整備された後は、現在のような経済先進国の一つへと変貌を遂げました。政府による過剰な規制が人権侵害だと欧米からの非難を受けながらも、リー=クアンユーの強力なリーダーシップが、シンガポールに繁栄をもたらしたのです。

ASEANの結成とシンガポール

ベトナム戦争中の1967年8月、ドミノ理論による東南アジア諸国の共産主義化を恐れるアメリカが支援して、タイのバンコクでASAを発展的に解消する形で現在の東南アジア諸国連合(Association of South‐East Asian Nations、ASEAN)が設立されました。

1961年にタイ、フィリピン、マラヤ連邦の3か国が結成した東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)を前身とし、EAN(東アジア協会)設立が土台となっています。各国外相共同の設立宣言は、東南アジア諸国連合設立宣言や「バンコク宣言」などと呼ばれています。

原加盟国はASAの3ヶ国(タイ、フィリピン、マレーシア)とインドネシア、シンガポールの計5か国でした。いずれも親米的で反共主義を国是としており、当初は冷戦下で東南アジアの共産化を防ぐ国家連合としての性格がありました。

しかし、その後、1980年代以降にシンガポールやタイなどの高度経済成長が進展すると、次第に反共国家連合という性格から、総合地域開発など経済共同体としての性格を徐々に強めていきました。

英語中心でエリート主義的な教育システム

シンガポールの経済開発は、それを支える人材の育成と不可分のものでした。リー=クアンユーは、不平等を解決するためには、より有能な人をパブリックサービスに就かせるべきだ、という思想に基づいて国家建設をすすめました。とくに経済官僚を中心とする優秀な官僚の育成は、シンガポールの発展と密接な関係のある問題であると考えられていました。

シンガポールの教育制度は小学校が6年、中学が4年、高校が2年、大学が4年となっていて、小中が義務教育となっています。このほかに専門学校などがあります。

これらの教育機関では、小学校1年生から始まる英語+母語の2言語教育とエリート主義的な選別による教育が実施されているという2つの特徴があります。つまり、母語のほかに英語を教育することで英語による国民統合をはかりつつ、成績のよい・わるいで小学校段階から生徒を選別し、成績に応じた進路を決めることで経済発展の人的基盤づくりをする教育です。そして、そこから一度脱落すると、二度とエリートになることはできないのです。 

1978年に行なわれた教育制度改革では英語教育の強化をさらに加速しました。これは、小学3年終了時から中等教育終了時までに4回の統一学力試験を実施して、そのたびに成績別に進路を決定させる、というものでした。優秀な生徒は「スーパースクール」へ進学でき、12年間(小学6年、中学4年、大学進学課程2年)で国立大学へ入学できます。一方の「学力」がない、とされた生徒は8年かけて小学校を卒業し、中学へは進学できません。この繰り返し行なわれる進級試験で試される「学力」の基礎は英語でした。このため、華語系華人にとって不利となるのは明白です。

こうして、華語校に学ぶ児童・生徒は年々減少していきました。そしてついに、1988年にはすべての小学校が英語校となったのです。第二次世界大戦前は華人の80%が華語で教育されていました。そこから考えると、劇的な変化であるといえるでしょう。実社会でも、英語を修得することが社会的・経済的上昇に直結し、1980年に英語のみを解する者の平均年収は、華語のみの者の2.3倍であったといわれています。

さらに、高校卒業試験で優秀な成績をあげたものに対しては、官僚への道を歩ませるため、「国家奨学金」を給付します。これは家庭の経済事情にかかわりなく成績に応じて与えられるものです。この奨学金は国防省、内務省、教育省がみずからの人材確保のために提供しているものと、公務員委員会(日本の人事院に相当)がすべての官僚機構における官僚育成のための国家奨学金があります。

公務員委員会の奨学金は高校卒業試験において上位約250人に与えられるものです。これには2つの種類があります。海外優秀生奨学金と国内優秀生奨学金で、それぞれ約半数づつが割り振られます。なかでも特に優秀な者に対しては大統領奨学金あるいは国軍奨学金などが給付されます。

とりわけ、エリート育成で重要なのは海外優秀生奨学金です。これにより、海外の大学に留学させるのです。留学先は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ。オーストラリア、日本、中国の8つの国から本人が自由に選択します。しかしながら、学生はアメリカもしくはイギリスの大学を選択します。

そして、この制度によって海外に留学した者は卒業後に官僚になることを義務付けられていました。これをボンド制度といいます。違約金を支払うことで民間への就職も可能ですが、そういった人はごくわずかです。

このような国家奨学金制度は人民行動党政権の登場からはじまって、1970年代はじめまでに現在のような形態となりました。

都市計画

1965年の独立後、シンガポールでは社会資本の整備が国家の急務となりました。

「住宅開発庁」が都心再開発事業の中心となって、都市中心部に形成されていたスラムを撤去しました。また、土地の有効活用のために都心部にあった低層・密集住宅をつぎつぎと取り壊し、新しいビルを建設します。こうして、都心部の生活環境は改善されていきました。

しかし、ここで問題になったのが急速な環境変化に住民が対応できなかったことです。 市街地のスラムが撤去され、国民のほぼ9割が公共住宅に住むようになりました。その結果、高齢者が高層アパートの生活に馴染めなかったり、華人やマレー人がそれぞれの伝統的な住居での生活を懐かしむという声があがったのです。

シンガポール政府は同じ民族・同じ言語の集団形成を排除しようとそれを住宅政策に反映させていました。イギリス植民地期には、民族や出身地ごとに居住地をわける方針がとられてきましたが、それと逆に、地域ごとの民族別構成にかたよりがないように住民を住まわせる方針にしたのです。

その結果、かつての同郷者の地域集中や、民族別の居住区は解体されてゆき、新しい地域社会が出現していきました。

四大華人企業グループ

シンガポールの経済発展は政府と外国資本が両翼となってすすめられたことは、これまで見てきたとおりです。1980年代になると、このような経済発展に牽引されるようにして華人企業も成長していきました。

その象徴的存在が「四大華人企業グループ」と呼ばれる4つの企業グループです。

まず、そのうち最大のものが戦前からゴム事業で成功したリー=コンチェン一族の華僑銀行(OCBC)グループでした。華僑銀行グループは、第2次世界大戦が終わった後、シンガポールから撤退しようとしていた保険、清涼飲料水、食品などのイギリス資本有力企業を買収して巨大な企業グループを形成するようになりました。この他にも、リー=コンチェン一族が所有するゴム関連巨大企業グループがあり、この2つを合わせると、東南アジアでも有数の規模の企業グループとなります。

ウィー=チョウヤオ一族所有の大華銀行(UOB)グループと、オー一族所有の華連銀行(OUB)グループは植民地時代に設立された銀行を核として工業化時代にホテルや不動産業へと事業分野を拡大して大きくなりました。

最後にホンリョン・グループは中国人移民の四兄弟が戦後になって創ったもので、セメントや建設など軽工業を中心に戦後の工業化に乗って発展した企業グループです。マレーシアでも同様に、工業化にしたがって巨大な企業グループを創りました。

シンガポールの有力な華人企業は多くがイギリス植民地期にはじまったものですが、他の東南アジア地域の華人企業とは次の2つの点が特徴的です。まず、政治との関係があまり深くない、ということです。他の東南アジアでは開発主義的な国家リーダーをはじめとした政治家との癒着によって成功した事例が多いのに対して、シンガポールの場合は、企業家たちが当初、人民行動党と政治的に対立関係にあったために、政治とは距離を置きながら、自力で発展の道を歩んだものと考えられます。

もう一点は工業化時代に製造業に参入することで発展した他の東南アジア諸国の企業グループとは異なり、ホンリョン・グループをのぞいて、シンガポールにはこのような例がほとんどありません。

政治や政策と、一定の距離をおきながら、自分たちの力で成長してきた、これがシンガポールの華人企業グループの特徴であったのです。

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リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール

ゴー=チョクトン政権の登場

1990年11月26日、リー=クアンユーは首相を辞任します。彼は31年間、シンガポールの首相として君臨していました。そして、リーの首相辞任の翌日、11月27日に49歳のゴー=チョクトンが後継の首相として就任しました。

その背景には世界的な冷戦構造の崩壊がありました。すなわち、ソ連・東欧の共産主義国家が崩壊し、自由と民主主義、そして市場経済が「グローバル・スタンダード」とされるようになり、リー=クアンユー政権のような開発主義国家は、その非民主的性格から国内外からの批判を浴びるようになったのです。このような流れをうけて、フィリピンや韓国といった世界各地の開発主義国家は、激しい民主化運動をへて民主的体制へと転換していきました。そして、この政権交代もまた、こうした流れを反映したものでした。

ゴー=チョクトンは1941年生まれで、もと経済官僚で、政府系の海運会社であるネプチューン・オリエント・ラインズ社で社長をつとめました。そして、社長在任中にその経営手腕を発揮して同社を赤字から黒字経営に立て直しました。そのことを見込まれて政治家に転身した人物です(1976年、国会議員に初当選)。

その後、1979年には新しく設置された貿易産業相に就任して、シンガポールの貿易と産業の発展に尽力しました。さらに1984年になると、副首相・国防相に就任して、リー=クアンユーの後継者として内外の注目を集めるようになります。

このような経歴のうえで首相に就任したゴー=チョクトンですが、彼の政権ではリー=クアンユーのような独裁的なリーダーシップではなく、集団指導制による協調型の政治運営が行なわれます。

主要閣僚には、ゴー=チョクトンと同じ第2世代が就任して世代交代が印象づけられるとともに、次世代である第3世代にも積極的に政権に参加させました。

まず、第2世代の主要閣僚として、副首相には華語教育出身のオン=テンチョンが就任し、教育相には銀行家出身のトニー=タン、外相にはインド系のS・ダナバランが就任しました。

さらに第3世代では、副首相にリー=シェンロン(リー=クアンユーの長男)、情報・芸術相代行として当時36歳だったジョージ=ヨーが就任します。

そして、政権党として首相にならぶ権力を有する党書記長のポストも1992年にリー=クアンユーからゴー=チョクトン首相に移り、これをもってシンガポール政権中枢部における世代交代は完了します。

しかし、これによってリー=クアンユーが政界から引退したというわけではありませんでした。この時、リー=クアンユーの年齢はまだ67歳でした。また、とくに失政が理由で首相を辞任したというわけでもありませんでした。

リー=クアンユーはゴー政権でリーのために新設されたポスト「上級相」に就任していわば院政をしいたのでした。上級相の表向きの役割は政治経験の豊富な者として閣僚たちに助言することでした。しかし、その実態は若い世代の閣僚たちの政治を政権内部から監視するというものでした。こうして、新政権でもリー=クアンユーは影響力を行使しつづけます。

その一方で、新世代による政権として長期政策ビジョンが提示されました。『ネクスト・ラップ―2000年のシンガポール』というものです。そこで示された国家建設のプランは、経済発展を成し遂げたシンガポールが、これからは教育への積極的投資や芸術・スポーツの振興にも取り組んでいく、という内容でした。その冊子の目次には「国民―最も貴重なわが国の資源」、「教育―国民への投資」といった次世代を担う若い国民への積極的投資を提唱するものや、「芸術とスポーツ―シンガポールのもう一つの顔」というようなリー=クアンユーの時代には見られなかった独自の国家課題がしめされています。

リー=クアンユーの時代、1989年まではシンガポールは香港ととにに「文化の砂漠」とよばれていました。シンガポールにおいて芸術文化は一部の愛好家によって支えられており、国家はこれについてほとんど関心がありませんでした。

このような状況は、1989年に「文化と芸術に関する諮問委員会レポート」で国家的な芸術文化制度を確立することが提言されてから、変化がはじまります。ゴー=チョクトン政権になって、それが徐々に実行に移されます。1991年に芸術評議会(NAC)が設立され、文化芸術のインフラ整備や芸術家および芸術団体支援の中心となりました。

そして、1995年には芸術評議会からシンガポールにおける芸術文化戦略の中期的目標を示す報告書「Global City for the Art」が出され、これにもとづいて芸術文化政策が本格的に展開されるようになったのです。

このような芸術文化政策は、次のリー=シェンロン政権に引き継がれ、さらに強化されていきます。

自由化路線とその後退

また、ゴー=チョクトン首相のもとで、これまでの権威主義的な政治体制よりもソフトな政治が志向されるようになります。ゴー首相の、たとえ野党が選挙で10議席獲得するようなことがあっても、それは民主主義国家であれば不自然なことでない、という趣旨の自由主義的な発言は国民の支持を得ました。

このようなゴー=チョクトンの自由化路線の結果は1991年8月31日に行なわれた総選挙の結果にあらわれました。これまで1議席だった野党の議席が4議席に増えたのです。もちろん、それでも圧倒的多数は与党・人民行動党が占めていたので、政権運営にただちに支障がでるものではありませんが、リー=クアンユー体制ではありえない「敗北」でした。これをうけて、上級相であったリー=クアンユーは自由化路線を模索していたゴー=チョクトン首相に対し、政治の厳格さを求めてきびしく批判しました。

こうして、ゴー=チョクトンが模索していた自由化路線は後退し、政府はリー=クアンユー政権に回帰したかのような野党への抑圧をはじめました。そのターゲットとなったのが、野党最大の3議席を獲得した民主党でした。人民行動党にとって、今は少数議席であっても将来的に人民行動党のライバルになりうる政党と目されたのです。

とくに民主党のなかでカリスマ的存在であったシンガポール国立大学講師のチー=スンジュアンが攻撃の的とされました。大学教員であるチーが、大学の研究費を私的に流用したとして大学を解雇されたのです。この解雇に抗議するため、チーはハンスト闘争を行ないました。これに対し、チー=スンジュアンの元上司で人民行動党の現職国会議員をつとめる大学教員や、メディアを動員しつつ、チー=スンジュアンに対する執拗とも言える人格攻撃を繰り広げました。

のちにチー=スンジュアンはライバルとの党内闘争に勝利して、シンガポール民主党書記長に就任しますが、1997年の総選挙で同党は惨敗してしまいました。さらに2001年の総選挙前には法廷侮辱罪によって投獄されたうえ、破産宣言を受け、この選挙に立候補すらできませんでした。リー=クアンユー政権期のような野党勢力を葬り去る政治手法がふたたびゴー=チョクトン政権下で再現されたのでした。

その結果、97年の選挙では、野党の議席は4議席から2議席に半減し、人民行動党は全83議席中81議席を獲得し、うち47議席が無投票当選でした。さらに2001年の選挙では野党が2議席にとどまったのに対して、定数を増やした1議席についても人民行動党が獲得し、82議席に増加させました。うち、無投票当選は55議席にのぼったのです。

こうして、いったんは自由化路線を示したゴー=チョクトン政権ではありましたが、権威主義的政治を志向するリー=クアンユー前首相の指導もあり、人民行動党の権力を現状維持する方向へと舵が切られ、シンガポールの政治的自由化はのちの課題として先送りされてしまいました。

アジア経済の発展とシンガポールの新成長戦略

ゴー=チョクトン政権期の1990年代には周辺のアジア諸国において急激な経済発展がみられました。また、冷戦終焉にともなうアジア諸国のイデオロギーよりも経済を強調する機運の高まりは、その発展を加速させました。シンガポールはこのような新たな経済機会を活用した新たな成長戦略を打ち出す必要がありました。

従来のシンガポールの成長戦略は先進国の企業をシンガポール国内に誘致して、その企業が国内で製品を生産し、これを輸出することで収益を上げる、というものでした。この時期になると、このような外国資本を国内に呼び込む成長戦略を堅持しつつも、逆にシンガポールから海外、とりわけ急成長するアジア諸地域への投資による成長が指向されるようになりました。こうして、経済的理由から、シンガポールはアジアに急接近してゆくこととなります。

とりわけ、中国の改革開放の加速は、東南アジア経済にも少なからぬ影響を与えました。改革開放の方針は、文化大革命の失敗をうけて、1970年代末からはじめられていましたが、1989年の天安門事件による一時的停滞を経て、「社会主義市場経済への移行」を本格化した1992年以降に急激に加速していくことになりました。

また、冷戦期にはアメリカと戦火を交える全面戦争で勝利したベトナムも、1986年のベトナム共産党第6回党大会でドイモイ(「刷新」の意)政策が提起され、主に経済と社会思想における新方向への転換が目指されるようになりました。経済では、価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上がその方向性として示されました。これによって、市場メカニズムや対外開放政策が導入され、政治面ではベトナム共産党の一党独裁体制を堅持しつつも、経済面では1990年代に入って大きな成果をあげつつありました。

冷戦体制崩壊後には、以上のように改革開放政策を強力にすすめて急速に発展する中国や同じくドイモイ政策で市場経済を導入するベトナムを含む、社会主義・資本主義の違いをこえた広大な経済圏が東南アジアとその周辺に出現したのです。金融資本主義の発展したシンガポールからの資金はこれらの国々の成長にとって欠くべからざるものでした。同時に、着実な成長を遂げているこの地域への投資は、シンガポールにとってもその効果が十分に期待できるものでした。この時期、このような周辺諸国の情勢変化に応じた成長戦略を提示することが、シンガポールの経済政策を成功させるカギとなっていたのです。

ゴー=チョクトンは副首相時代の1989年に「成長の三角地帯」という大規模投資構想を打ち出しました。これは、シンガポール・マレーシアのジョホール州・インドネシアのリアウ州が1つの経済単位となる、という構想です。

1990年6月、シンガポールとマレーシア、インドネシア3国はこの「成長の三角地帯」と名づけられた地域経済協力計画に合意しました。ここでは、シンガポールの技術・資本と、マレーシア・インドネシアの豊富な労働力を有機的に結合させ、工業団地や大規模リゾート開発などを進めることが計画され、シンガポールの後背地の形成も目標とされていました。

合意にいたった背景として、三国の利害が一致したことがあります。外国企業が進出したことによりシンガポールでは労働力や工場用地が不足するようになっていました。一方のマレーシアとインドネシアでは労働力や工業用地が豊富にある反面、これを活用するための資金と技術が必要だったのです。これにより、当該地域全体の経済発展が期待されました。

さらにそれだけではなく、この「成長の三角地帯」には政治・外交的効果も期待できました。すなわち、シンガポールの存立は隣接する大国であるマレーシア・インドネシア両国の関係にかかっていました。マレーシアとインドネシアが軍事的緊張状態に陥ることなく、良好な関係を継続して維持することは、これら東南アジアの大国に挟まれた小国・シンガポールの平和と発展には欠くことのできない外的条件でした。「成長の三角地帯」によって両国の経済的な関係が緊密になることは、そのまま政治的関係の緊密さにもつながるため、シンガポールにとっては経済だけにとどまらない意味をもつものでもあったのでした。

このプロジェクトにおいて、シンガポールが力を注いだのはインドネシアのバタム島に建設されたバタム工業地帯でした。ここにはシンガポールに進出していた日本やアメリカの企業、あるいはシンガポール企業が続々と進出しました。そして、そこに若いインドネシア人女性が出稼ぎとして労働力を提供し、工場が操業されたのです。これにより、70年代には6,000人ほどの住む漁業の島が2000年にはなんと70万人もの人々が居住する島へと大発展を遂げました。

この「成長の三角地帯」は、その主要な対象がバタム工業地帯に限定されたこと、この計画に積極的だったインドネシアのスハルト大統領が90年代末に辞任したことなどもあって、結果として大成功とはいきませんでしたが、その後、シンガポールが展開していく対アジア投資の先駆けとなりました。

その後、ゴー=チョクトン政権以降、アジアの巨大市場として成長目まぐるしい中国とインドなどアジア諸国への投資が積極的にすすめられ、利益をあげています。

中国との国交樹立

この時代のシンガポールの対外関係で外すことができないのが、中華人民共和国との国交樹立です。

シンガポールにとって、中国は非常に「厄介な」存在でした。華人人口の割合が高く、中国は一定の影響力をもっていました。したがって、人民行動党政権にとって「中国」という存在は、単に対外関係というのみならず、国内問題、すなわちシンガポール国内に存在する中国の影響力といかに対峙するのか、ということと結びついていました。

英語派華人を中心とする政権に対して、華語派華人たちには独立前から中国への帰属意識をもつものが多くいました。また、それはリー=クアンユーらと対立する左派勢力の基盤でもありました。彼らのなかには、バリサンの勢力が、かつて文化大革命を賛美するスローガンを掲げていたことなどに代表されるように(その後、かれらは文革賛美について自己批判しました)、中国の政治状況に影響を受けた行動をする者もいました。

他方で、外交面において、シンガポールは中台いずれとも国交を結ばず、中国とは基本的には経済を中心とした非政治分野での関係を重視する政経分離の姿勢を貫いてきました。

そして、中国とは1970年代に3度(75、76、78年)、首脳が相互訪問していましたが、それ以上の関係に発展することはありませんでした。

そのような状況が変化するのが、中国で改革開放政策が不可逆的に定着し、世界的な冷戦終結の流れや、それにともなうマラヤ共産党など東南アジアの共産主義勢力の衰退、そして対立してきた中国とインドネシアとの急速な関係改善の動きなどのあった、1980年代末から90年ごろのことでした。

このような流れをうけて、ASEAN諸国で唯一、中国と国交がなかったシンガポールがついに中国との国交樹立に踏み切ったのです。

こうして、1990年10月3日、シンガポール共和国と中華人民共和国は国連総会出席のためニューヨークを訪問していた双方の外相が条約に調印して、国交が樹立されました。

国交樹立ののち、シンガポールは華語の復権、第1回世界華商大会開催、中台関係修復のための両岸代表者会談開催といった積極的な中国との接近をはかります。

とくに、1994年にはじまる蘇州工業団地の開発はその象徴的存在でした。これはシンガポール政府と中国の国務院が共同で建設した地域開発プロジェクトで、シンガポールの国家建設や経済発展の経験=「シンガポール経験」を中国の「近代化」に利用しようとするもので、注目されました。しかし、蘇州工業団地は中国の中央と地方との認識の相違などから、計画変更を余儀なくされ、2001年に開発の主導権が中国に譲渡されました。こののち、シンガポールでは投資先を蘇州開発から中国政府の保護が期待できる他のプロジェクトに分散投資するようになりました。

このほか、欧米型の民主主義とは異なる体制で経済成長を遂げた「シンガポールモデル」を中国の政治体制のモデルとすべきであるとの議論もあります。

リー=シェンロンの首相就任

2004年8月12日、第2代シンガポール首相のゴー=チョクトンが退任し、リー=クアンユーの長男であるリー=シェンロンが第3代首相に就任しました。リー=シェンロンは父であるリー=クアンユーら「第1世代」、ゴー=チョクトンら「第2世代」につづく「第3世代」の政治家でした。

まず、簡単に彼の半生をみてみましょう。

リー=シェンロンは1952年にシンガポールで誕生し、父・リー=クアンユーの教育方針によって華語教育学校に通いました。その一方で同時に家庭教師からマレー語も学んでいました。彼はもともと英語派華人だったので、英語・華語(中国語)・マレー語という3つの言語に堪能になりました。

高校を卒業した後、シンガポールで名誉ある国家奨学金である大統領奨学金と国軍海外奨学金を受給してイギリスのケンブリッジ大学に入学して、数学を専攻しました。1974年に帰国して国軍に入隊し、さらに1979年にアメリカのハーバード大学で行政学を専攻しました。その後、1982年に国軍統合幕僚長に就任、1984年6月には国軍のナンバー3である准将に昇進しました。

1984年12月の国会議員選挙で当選し、政界入りすると、すぐに国防担当国務相に就任、1987年には通産相をつとめました。その後、ゴー=チョクトン首相のもとで1990年から2004年まで副首相をつとめました。その間に人民行動党でも第一書記次長に就任するなど、スピード出世を果たします。そして、首相に52歳で就任したのです。

リー=シェンロン内閣は20人で構成されていました。ゴー内閣が17人でしたので、リー新内閣ではより多くの人数で諸課題に対処しようとしていたことがわかります。閣僚のうちジョージ=ヨー外相、リム=フンキア通産相、テオ=チーヒエン国防相はリー=シェンロン新首相と同世代であるだけでなく、大統領奨学金・国軍海外奨学金を受給してケンブリッジ大学でともに学んだ学友でした。このほか、彼らを含め、11人が第3世代で占められています。さらに、リー=クアンユーはこのとき新設された上級相に就任して、上級相に就任したゴー前首相とともに監督役として閣内にとどまりました。

ゴー前首相をはさんで、リー=クアンユーとリー=シェンロンが父子で首相の座についたことについては批判が少なからずあるのも事実です。また、リー新内閣発足時にはリー=クアンユーの息子でリー=シャンロンの弟であるリー=シェンヤンがシンガポール・テレコム総裁、リー=シェンロン夫人が 政府系投資会社テマセク・ホールディングス(Temasek Holdings)の経営責任者であったりと、リー=クアンユー・リー=シェンロン父子とその一族がシンガポールの政治・経済を牛耳っている、という批判もあり、「リー王朝」と揶揄されることがあります。

リー=シェンロン首相は、就任の記者会見で新政権の目標を3つ示しました。1つは若い世代の要望・情熱に応えること、2つ目は3・40代の国民のなかから次期の国家指導者を育成すること、そして経済活力と競争力を維持して国民生活を豊かにすること、でした。

また、これまでの成長一辺倒から「ゆとり」を重視するという路線転換についても語りました。「ミニ・リー=クアンユー」と呼ばれるように、リー=シェンロンは父親譲りの権威主義的な政治姿勢は維持しつつも、父親の時代のような強烈なリーダーシップで有無を言わさず国民を引っ張っていく、というスタイルとは異なる政治を目指していくという姿勢がうかがえます。これは社会が変化し、新世代に対応した政治がシンガポール社会が求めていたことを反映してのものだといえるでしょう。

2001年と2006年の選挙でも人民行動党が圧勝し、野党の議席はわずかにとどまりました。しかし、経済発展の結果、多くの大卒ホワイトカラー・中間層が誕生したことで、社会構造は変化しています。さらに、インターネットの普及によって、政府の監視をかいくぐって自由に意見を交換している人々も少なくありません。政権の側にもこのような状況に対応した変化が求められているのも事実でした。

野党の躍進とリー=クアンユーの政界引退

そのような動きがわずかながら現実のものとなるのが2011年の選挙でした。この選挙を前にして、人民行動党は批判のあった野党候補への個人攻撃や野党議員を選出した地域に不利益を与えることなど、高圧的なやり方を停止すると発表しました。一方の野党は人民行動党の政治をチェックすることを優先課題として共同戦線を組んだのです。すなわち、野党候補同士がぶつかり合うことのないように、各党が協議して選挙区を分担し、有力候補を特定選挙区に立候補させることで一人でも多くの野党議員を当選させることを目指したのでした。そのため、これまで多かった人民行動党の無選挙当選は5議席にとどまり、全87議席のうち、82議席をめぐって選挙戦が繰り広げられることとなりました。

その結果、人民行動党の議席は81議席で、野党は労働者党が過去最高の6議席を獲得するにいたりました。例のごとく、「勝利」の記者会見を開いたリー=シェンロン首相は人民行動党が苦戦した理由として国民の失望、不満、満たされない要望、をあげました。

その背景として2つの要素が考えられます。1つは雇用や住宅をめぐる経済的要素です。政府が外国人移民奨励を進めたことによる、中間層の雇用機会の減少や、富裕層による不動産投資の影響が中間層などが住む公共住宅の価格に波及したことなどが考えられます。もう一点は若い世代を中心にして管理政治への不満が高まっている、という政治的な要素です。それが具体的にあらわれたのが選挙期間中のリー=クアンユーが野党候補を選んだ選挙区はその後の5年間後悔することになる、という発言をしたことに対するインターネット上の反応でした。こういった発言はかつてであれば選挙民に対する威嚇として通用した手法でした。しかし、この時の選挙民の反応は違いました。この発言はネットをつうじて拡散するとともに、これに対する批判が数多く寄せられたのです。リー=クアンユーの息子でもあるリー=シェンロンが直接、父親に自制を求めたほどでした。

選挙後の2011年5月14日、首相を辞任して20年のあいだ上級相・顧問相として政治の中枢にいたリー=クアンユーが選挙結果をうけて「若いシンガポール国民の気持ちを理解する若い世代の閣僚に委ねる」との声明を出して第2代首相であったゴー=チョクトンとともに引退を表明しました。

選挙結果をうけて、リー=シェンロン政権と人民行動党は「国民目線の政治」を目指すことになりますが、その実現はいまだ未知数です。いずれにせよ、野党の躍進とリー=クアンユーの政界引退はシンガポールの現代史があらたな段階に突入したことを告げるものであることは間違いないでしょう。

人民行動党の大統領選での辛勝と補選での敗退

総選挙の3ヶ月後にはシンガポールの大統領選挙が行なわれました。この選挙でも人民行動党は苦しい選挙戦を強いられました。

シンガポールの大統領は政治的な権限を有しない象徴的な存在で、大統領が公選制は1990年前後のアジア各国ですすんだ民主化の流れをうけて1993年からはじまりました。しかし、人民行動党から2人が立候補した第1回をのぞいて1999年と2005年は人民行動党の候補が無選挙で当選するという結果でした。

国会での野党の躍進をうけて、人民行動党はソフト路線とのイメージで国民の支持が得やすいと考えられたトニー・タン前副首相を候補として擁立しました。表面上は国会議員選挙での厳しい批判をうけていたことから、推薦はしませんでしたが、政権はみずからについて国民の信を問うこの選挙に背水の陣で臨みました。この選挙には立候補者が4人出馬することとなりました。

このときの得票率はシンガポール社会が変化していることを示すものでした。なんと人民行動党の人気政治家であったトニー・タンの得票は35.19%にしかすぎなかったのです。2位のタン・チェンボクが34.85%、3位のタン・ジーサイが25.04%でしたので、与党に反対する勢力が候補を一本化していた場合には落選の可能性もありました。辛うじて選挙には当選しましたが、これまでの選挙での人民行動党の得票率とは比べものにはならないものでした。

続いて2012年5月28日には不倫を理由に辞職した議員の後任を選出するための小選挙区補欠選挙が行なわれました。辞職した議員は野党の所属でしたが、人民行動党からすれば、総選挙後の「国民の目線」が国民にどう写っているのかを初めて審判する場であったので、負けられない選挙でした。選挙は人民行動党候補と労働者党候補との一騎打ちとなりました。その結果、労働者党の候補が約62%の票を獲得して当選したのです。

この2つの選挙を通して、人民行動党に対する不満が一時的なものでなく、広範な国民にひろがっていることが示されました。

外国人移民、奨励から抑制へ

これまで、シンガポールは労働力不足、そして少子高齢化対策として積極的に外国人移民を受け入れてきました。しかし、現在、外国人の移民の抑制へと方針転換しつつあるのです。

2012年6月の統計では、永住権のある者も含めて外国人居住者の割合はシンガポール住民の3分の1に達していました。とりわけ、少子化によって国民の増加が鈍化しているなかで、シンガポールの人口増加は外国人の流入によるところが大きくなっています。

移民受け入れを積極化したのは1990年代からでした。当初は高学歴・高収入の高度人材とされる人々、もしくは国民が従事したがらない仕事を担う低熟練労働者でした。2000年代にはいると、これまでのような分野を限った移民でなく、あらゆるレベルの移民を受け入れるようになっていきました。こうして、2007年から2008年にかけて外国人移民の増加は最大となり、この時、高度人材とされる人々を中心にシンガポール政府は永住権取得を促す書面を送るなど、移民の受け入れを積極化していました。

くわえて、2007年1月からは「個人エンプロメント・パス」という新たな特別渡航就労許可証が導入されました。これは外国人の高度人材が転職してもシンガポール国内に留まることが容易になるように設けられたもので、このころ熾烈になっていた国際的な高度人材の獲得競争への対応としての方策でした。

以上のように積極的な移民受け入れを行なってきたシンガポールが方針を転換するきっかけとなったのが、世界経済危機でした。この危機に対応すべく、2009年に設置された経済戦略委員会(ESC)が外国人労働者の労働総人口に対する割合を現状の3分の1に抑えつつ、既存の労働者の生産効率性向上を図ることで国民所得を上昇させることを提言しました。これは、外国人移民を受け入れることによる経済成長のモデルを生産性向上による経済成長モデルへとシフトすることを意味していました。

このような政策は、移民の増加による住宅価格や物価の上昇、鉄道の混雑などによって外国人移民への反発が高まっていた国民感情もあって、比較的スムーズに受け入れられました。急増する外国人への反発は、2010年の選挙で人民行動党の過去最低の得票率(60%)としてあらわれました。こうして、外国人移民の受け入れは抑制へと方針転換されたのです。

しかしながら、少子高齢化の進行による将来の労働人口縮小が懸念されるなかで、外国人労働者の受け入れを抑制することで企業がタイトな雇用市場に直面する可能性が大いにありえます。そうなった場合に、現在の移民を抑制しながら、生産性を向上させるという方策がどこまで有効なのか、今後のシンガポールの移民問題・雇用問題の課題となるでしょう。

拡大する格差

シンガポール社会は、これまで能力さえあれば階層上昇が可能な「実力主義社会」であるとされてきました。しかし、近年、格差が拡大していることが指摘されています。

所得格差の程度をあらわすジニ係数をみると、2000年にはすでに0.442となって上昇傾向が続いています。ジニ係数が0.4になると社会不安を引き起こすとされているので、これは危機的な数字であるといえるでしょう。

また、格差が世襲される傾向も指摘されています。2012年11月12日にヘン=スウィーキート教育相は国会答弁で、富裕層ほど有名校に進学しやすく、有利な教育環境にあることを認めました。シンガポールのようなエリート優先で敗者復活が難しい社会では、このような教育環境の不均衡は、社会階層の固定化をより深刻なものとしてしまいます。

このような格差の拡大はシンガポール固有のものでないことは言うまでもありません。シンガポールがグローバル化する世界で生き残ってきたその副作用であるとも言えます。格差拡大というグローバルな課題は、今後シンガポールがさらなる発展を遂げるためにも解決すべき、重要な課題のひとつです。

もう一つ、シンガポール社会における格差の問題を考える上で忘れてはならないことがあります。民族間の格差です。

マレー人はシンガポールの先住民でしたが、人口比では14%となっています。しかし、この人口比からみても、マレー人の経済的・社会的地位が高いとは言えません。

2005年の統計ではマレー人の46.4%が販売・サービス、工員など未熟練・半熟練労働によって生計を立てています。これに対して、専門職についているマレー人(2.4%)は華人(14.6%)やインド人(11.4%)と比較して、非常にその比率が低くなっています。また、大卒者の比率も華人が30%、インド人が11%であるのに対し、マレー人は5.4%となっています。

独立から間もない1968年、当時のリー=クアンユー首相は次のように語っていました。

「華人とマレー人は異なる文化的価値を持つ。一般的に華人は根気強い労働者、熱心なビジネスマンになる。一方でマレー人は安易で楽しい生活に重要な価値を置く」

このような見方は非常にステレオタイプだといえるものです。しかしながら、シンガポールにおける華人とマレー人の格差が語られる際、独立以降継続して、このようなマレー人の性質がその理由とされてしまう傾向がありました。これにより、当事者であるマレー人に声を上げにくくし、民族間の格差をなくす動きが抑制されてきたのです。

今後、民族的偏見を克服し、マレー人と他の民族との格差を縮小してゆくことは、21世紀のシンガポールが成熟した多民族社会へと成長するために避けて通ることができない問題だと言えるでしょう。

迫られる少子化対策

シンガポールは世界で出生率が最も低い国のひとつです。シンガポールが現在の人口を維持するためには2.15以上の出生率が必要であるのにもかかわらず、2010年のシンガポールの出生率は1.15となっています。また、未婚化・晩婚化も進んでいて、同じ年の2010年、35-39歳女性の未婚者は12.7%に達しています。

このように、シンガポール社会で少子化と未婚化・晩婚化が進んでいる背景として考えられるのが、女性の社会進出とそれに対する家庭生活へのフォロー体制とのアンバランスの問題です。

かつて、植民地期のシンガポール社会では、それぞれ移民としての出身国・出身地の家族文化を維持していたため、女性は男性に従属的な地位におかれていました。そして、女性の主たる役割は子どもを産み、育てることでした。そのため、女性の教育はおろそかにされる傾向があり、識字率も男性と比較するとかなり低かったのです。

シンガポールがマレーシアから分離独立すると、シンガポール政府は輸出志向型工業化を経済政策の重点課題としました。そして、そのために女性の労働力を動員しようとしました。その前提として女子教育を推進し、人口の過剰を予防するため「子どもは2人まで」という家族計画も提唱されました。さらに、1980年代後半になると、サービス産業が発達します。

以上のような状況により、女性の労働力化率を急速に高めることになりました。1966年には25.3%であった女性の労働力化率は1987年には47%と過半数にせまり、2011年の統計では60%となりました。また、政府および公的機関の女性管理職は35.1%で、10年で8%も上昇しています。

このような急激な女性の社会進出は仕事と家庭の両立が可能な施策がともなわなければ女性に過重な負担を強いることになります。しかしながら、シンガポール政府の社会福祉にたいする基本的な考え方は、社会福祉は家庭で、というものでした。そして、その担い手は女性である、という考えがありました。このような意識のため、女性の負担が増えているのです。このような状況にあって、外国人家事労働者に家事を委ねる、あるいはそれができない家庭では産まない、という選択をすることにもなるのです。

また、出生率の低下には、シンガポールの教育制度にあるとも考えられます。子どもの将来が小学校時点の成績でほぼ決まってしまう、という制度のため、子どもの教育のために母親が勉強の世話をしたり、塾などにかかる私教育費の負担が女性にためらわせてしまっているのです。女性の労働力化率の伸びが鈍化しているのは、子育ての過程で退職する女性が多い、ということもあります。

以上のような社会構造や意識の変化なしに、少子化の流れはとどめることはできないでしょう。今、その具体的対策が求められています。

急激にすすむ高齢化

少子化とならんで社会問題となりつつあるのが、急激に進行しているシンガポール社会の高齢化の問題です。シンガポールが分離独立した1965年の全人口に占める65歳以上の高齢者人口の割合はわずか2.5%に過ぎませんでした。それが2009年には8.7%にまで増えています。また85歳以上の老齢高齢者に限ってみると、1980年には0.2%だったものが2000年代半ばにいたって約0.7%にまで増加しています。

このような増え続ける高齢者に対するシンガポール政府の政策には2つあります。1つは「Ageing in Place」というもので、簡単に言えば、高齢者が高齢者介護施設のような施設に移動するのではなく、自分が居住していたコミュニティにとどまって生活する、というものです。もう1つは「Active ageing」で、高齢になっても労働市場に参加して、可能な限り経済的自立を維持していこうとする政策で、こちらは「親孝行」というイデオロギーと並行して奨励されています。シンガポールでは、成人した子が両親の世話をすることを法によって義務づけています。要するに、高齢者の福祉は政府ではなく、家庭や職場で担われるべきであるというものです。これは、高齢者福祉のための国費の支出を最小限にとどめ、経済成長へのマイナスの影響を回避しようとする発想にもとづくものです。

このように高齢化が進行すると、労働人口も同時に高齢化するものですが、シンガポールの場合はこれを若年層の外国人移民を積極的に受け入れることで労働人口の高齢化を緩和しています。このような移民政策によって労働人口の高齢化を克服する方策はシンガポールの移民政策の特徴であるといえるでしょう。

1965年以来、急速な経済発展を遂げ、学歴と経済効率が重視されるシンガポール社会にあって、高齢者たちは社会的にマージナルな位置におかれています。イギリスの植民地下から日本の占領下、さらには戦後の独立までの混乱期に幼少期・青年期を送った高齢者たちは約半数が移民であるうえに、時代状況から十分な教育をうけることができませんでした。英語を解さず、中国人であっても標準語である華語が話せず、非識字者も多いので、家庭内でも孫世代とのコミュニケーションができない場合もあります。

このような高齢者たちが「Active ageing」政策のもとで就労する場合、その就労先は低収入かつ重労働である場合がほとんどで、このような高齢者たちがシンガポールの低賃金労働の担い手となっていると考えられます。これをこの政策の「成果」と考える人がいる一方で、高齢者に対する福利厚生政策が不在なため、高齢者に負担を強いている、という議論もあります。子世代が親に財政的援助をしている場合も多く、子世代への負担も今後、高齢化が進行するにつれて重くなっていくことが予想されます。また、介護が必要な場合も、子世代がこれを担うという「自助努力」を重視する政策を継続しています。

ますます進行していく高齢化社会の負担を、どのような形で、だれが担うのか、シンガポール社会に突きつけられた真摯な課題です。

水資源問題解決への努力

シンガポールではマレーシアからの分離独立ののちも、マレーシアからの輸入した原水によって国内の水の需要に対応してきました。現在もマレーシアからジョホール海峡を渡るパイプラインで原水を購入しています。パイプラインは3本あり、そのうちの2本がマレーシアからの原水で、1本が浄水後マレーシアへ供給される水道水となっています。これは1961年と1942年に当時のマラヤ連邦とイギリスの自治州であったシンガポールとのあいだで結ばれた契約にもとづいて行なわれているものです。

これまで、必ずしも良好な関係とは言い難かったマレーシアが、1998年には「シンガポールへの水の供給を停止する」という圧力をかけてきたことや、2000年に入ってからはマレーシアのマハティール首相が「水の価格を100倍へ上げる」と求めるなど、水資源を「外交カード」として利用してきました。マレーシアからの水輸入の契約期限である2061年に向け、水問題はシンガポールにとってアキレス腱となってきました。

シンガポール政府はこのような水資源問題への根本的な解決策として、2003年から日本の逆浸透膜を使った高度濾過技術を導入し、国内の下水を再生処理して飲用水にも利用可能とする「ニューウォーター」(NEWater)計画を開始しています。これにより2011年には国内の水需要の30%をこの再生水で賄うとの計画をうちだしました。

またシンガポール水処理大手であるハイフラックス社の技術を使い、マリーナ湾の湾口をせき止めて淡水化し、飲用水とするための可動堰式ダムである「マリーナ・バレッジ」も将来の実用化にむけて完成しました。

これからも隣国マレーシアとの良好な関係維持への努力を継続しつつ、水資源の完全自給に向けた努力が続けられることでしょう。

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世界的水準の大学教育

シンガポールは大学の教育水準が非常に高いことで定評があります。

シンガポール国立大学(NUS)、南洋理工大(NTU)、シンガポール経営学院大学(SMU)などは世界的な高水準の研究・教育が行なわれているとして国際的な評価を受けています。

シンガポール国立大学(NUS)には東南アジア諸国、中国をはじめ欧米やアフリカなど100ヶ国以上からの留学生がいる、国際色豊かな大学です。Faculty of Arts and Social Sciences (人文社会科学部)、Business School (経営学部)、School of Computing (コンピューター学部)、Faculty of Dentistry (歯学部)、School of Design and Environment (設計・環境学部)、Faculty of Engineering (工学部)、Faculty of Law (法学部)、Yong Loo Lin School of Medicine (医学部)、Yong Siew Toh Conservatory of Music (音楽学部)、Saw Swee Hock School of Public Health(公衆衛生学部)、Faculty of Science (理学部)という11の学部とLee Kuan Yew School of Public Policy (公共政策大学院)、NUS Graduate School for Integrative Sciences and Engineering(総合理工学大学院)、Duke-NUS Graduate Medical School Singapore(医学大学院/デューク大学と共同)の4つの大学院を擁する総合大学で、研究所、図書館、学生寮、食堂、病院、あるいはプールなどのレクリエーション施設といった数々の建物が、緑に囲まれた広大な敷地内に集まっています。

一般に卒業生は、シンガポール政府など官僚、金融セクター、その他グローバル企業に就職する場合が多く、社会的指導層を養成するシンガポールのトップ校です。

南洋理工大学(NTU)は、1991年に設置されたシンガポールの国立大学の一つで、シンガポール国立大学とともにシンガポールで双璧をなす名門大学です。シンガポールの西部に、200ヘクタールの広大な敷地を有し、23,500人以上の学部生と10,000人の院生が在学しています。大学はエンジニアリング、サイエンス、ヒューマニティ、アート&ソーシャルサイエンス、メディカルの4つの「カレッジ」から構成されています。ビジネススクールも設置されていて、学士課程では、商学(Bachelor of Business)と会計学(Bachelor of Accountancy)をはじめ、様々なダブルディグリー(Business and Computingなど)が提供されています。修士課程では、経営学(MBA)、金融工学(MSc Financial Engineering)、マーケティング(MSc Marketing)に加えダブルディグリーも提供されています。さらに、それぞれのコースに対し、博士課程も設置されている。

2016年4月、イギリスの教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)が発表した創立50年未満の大学の世界番付では、南洋理工大(NTU)は2位にランクインしました。

また大学評価機関「クアクアレリ・シモンズ(Quacquarelli Symonds)」が2015年9月に発表したランキングにおいては、シンガポール国立大学(NUS)が12位、南洋理工大(NTU)が13位にランク入りして、アジアではトップとなった。なおこの調査では京都大学は38位、東京大学39位とされていますので、シンガポールのこれらの大学がいかに国際的な評価を受けているのかがわかりますね。

これらの高水準の大学教育・研究環境に育てられた人材がシンガポール社会の成長と発展をこれからも支え続けるのです。

文化芸術政策の強化

1989年まではシンガポールにおいて芸術文化は一部の愛好家によって支えられており、国家はこれについてほとんど関心がありませんでしたが、1989年に「文化と芸術に関する諮問委員会レポート」で国家的な芸術文化制度を確立することが提言されてから、変化がはじまりした。1991年にはこれをうけて、芸術評議会(NAC)が設立され、文化芸術のインフラ整備や芸術家および芸術団体支援の中心となりました。そして、1995年に芸術評議会からシンガポールにおける芸術文化戦略の中期的目標を示す「Global City for the Art」という報告書が出され、これにもとづいて芸術文化政策が本格的に展開されるようになったことはすでに述べたとおりです。

このような芸術文化政策は、リー=シェンロン政権に引き継がれ、さらに強化されていきます。

すでにリー=シェンロン政権発足以前の2000年に新しい中期計画として「ルネッサンス・シティ・レポート」が出されていました。この計画では芸術文化の基礎体力強化・社会的顕彰制度の充実・施設インフラ整備・国際化推進が課題とされ、それぞれの課題についてジャンル別の目標が定められていました。

これにそってリー=シェンロン政権は芸術文化政策を強力に推進し、さらに次の段階に突入していきます。

すなわち、2012年になって、新しい芸術文化的リタラシーの発展に関する政策がしめされたのです。これは2012年1月末、今後15年の基本的かつ具体的な芸術文化政策である通称ACSR(長期的文化戦略 Arts & Culture Strategic Review)で、かつて1989年に提出されたレポートに匹敵するような今後のシンガポールの芸術文化政策を決定づける基本計画です。

ここで重点がおかれているのが、各国民が芸術文化リタラシーを大幅に向上するようにすることで、「アートの日常化」をめざすものでした。具体的には今後15年のあいだに国民のアート鑑賞を現在の40%から倍の80%に、また、アート活動を20%から50%に向上させることが目標とされています。

さらに、これまで後進的であると考えられていたアート環境にも変化があらわれます。これによりアートがシンガポール社会に定着する傾向がはっきりしてきました。

たとえば、ビジュアルアートにおいては、2011年に第1回アートステージシンガポールが行なわれ、3万人が入場しました。翌年の第2回においては132のギャラリーが世界各国から参加していますが、シンガポール政府はこれにより、東南アジアにおけるアート・ハブをアートマーケットをつうじて形成しようとしています。

このほかにも、2010年代前半にイギリス軍駐屯基地のあった場所につくられたアートセンター「ギルマン・バラック計画」や新国立美術館の完工など、注目すべき動きが顕著になっています。

このようなあらたに創造されつつある文化制度には、2つの方向性があります。まず、エンターテインメント産業化による経済政策としての方向です。とくに近年になって目まぐるしく変化しているのが巨大なエンターテインメント産業の登場です。これ自体が総合的経済政策となっていて、ビエンナーレ・アートステージといったファインアート系であったり、カジノなどのエンターテインメント系、F1レースなど巨大イベント系、ユースオリンピックなどスポーツ系などが連携することで相乗的な経済効果をあげています。これらは観光産業にも直結していて、伸び悩んでいた観光産業のあらたな振興策としての意味も大きいのです。

もう一つの方向が、そういった制度を支えるための文化的アイデンティティ再構築です。2012年10月まで、シンガポールでは情報・コミュニケーション・芸術省(MICA)が体系的に管理してきました。その主要な政策として、文化遺産政策、図書館政策、創造産業・クラスターズ育成政策の3つをあげることができます。

まず、文化遺産政策は、国家遺産局があらゆる種類の博物館をシンガポール市内に集中配置し、シンガポールの社会および文化の歴史をして観光産業に利益をもたらすのみならず、これを通じてナショナル・アイデンティティ確立のために利用しています。歴史的な国家ブランディングを構成して、ある種のノスタルジアが演出されています。

次に図書館政策ですが、国民の図書館利用を推進し、国民のリタラシー向上を目指しています。そのために、あらたにポストモダンな国立図書館(NLB)を建設し、さらに公立図書館をオンラインでつなぐシステムを確立しました。

そして、創造産業・クラスターズ育成制作は他の部署と協力しながらすすめられました。たとえば、貿易産業省経済発展局のほか、メディア発展局です。また、シンガポール政府は2006年から創造産業に従事する若年層支援策として奨学金制度を創設して、その育成をはかってきました。

ところが、2012年11月に行なわれた情報・コミュニケーション・芸術省の再編によって、創造産業・メディア産業、エンターテインメント産業を中心とした新文化政策と図書館政策は情報・コミュニケーション・芸術省をあらためたコミュニケーション・情報省(MCI)が担当することになり、これまでの芸術文化政策は文化・コミュニティ発展・ユース省の所管のもとで、文化的アイデンティティのインフラの役割をすることとなりました。

このような戦略的分業によって、従来の芸術文化政策を維持・発展しつつ、新しい分野へのさらなる挑戦を継続していく、というシンガポール政府の意思をあらわした改編であるといえるでしょう。

今もなお存在する検閲制度と芸術文化発展との関係など、課題もありますが、今後、政府の積極的な政策によってシンガポールにおける芸術文化環境のさらなる発展が見込まれます。

カジノ解禁による観光立国の試み

近年、シンガポールは新たに観光立国としての計画を進めています。その目玉となったのが国内にセントーサリゾートカジノ、マリーナベイサンズのカジノなど、外資系の巨大資本を入れ、マリーナベイサンズホテルなどの観光客に魅力的なトレードマークを作ったことです。

2010年にこれら「総合リゾート(IR)」と呼ばれるカジノを備えた総合レジャー施設が完成したことにより、シンガポールを観光目的で訪れる外国人は1,317万人に達しています。シンガポールは観光都市として次第に大きな成功を収めつつあるのです。

しかし、それまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。まず、2004年3月12日に当時のジョージ=ヨー貿易産業相がカジノ開設を検討すると国会で表明しました。低下していく観光地としてのシンガポールの競争力回復を狙ってのものでした。シンガポールの観光収入は1995年から伸び悩んでいましたが、1997年のアジア経済危機と2003年の新型肺炎の拡散によって、追い打ちをかけられ、観光客は激減し、それにともなって観光収入も大幅に減少してしまったのです。これにより、失業率も1986年以来最高水準になり、政府はあらたな雇用先を創出する必要がありました。

しかし、当初、イギリス植民地期の1829年に禁止されていたカジノの解禁をめぐっては国論を二分する議論となりました。まず、閣内でも意見が分かれ、保守層からも反対の声があがりました。

これに対し、リー=シェンロン首相が「首相として最終責任を取る」と宣言して、カジノの導入を押し切りました。首相が政治生命をかけて決断した、リー=シェンロン首相からすれば決して負けられない賭けでした。このとき、国民にむけた説明で「総合リゾート」というコンセプトが説明されます。これは、カジノの面積を1万5,000平方メートルに制限して、ホテル・レストラン・会議場・テーマパークを含む総合リゾートの一部にカジノを設置する、というものでした。

こうして完成した2つのリゾートにはオープンした年である2010年に2,600万人が入場しました。周辺国の経済発展加速による富裕層の拡大やサブプライム危機からの回復とオープンの時期が重なったこともプラスに作用しました。

今日では、この成功に触発された日本を含む各国がカジノの導入の是非について議論するための視察団をシンガポールに派遣しています。

工業地区に大規模モール?-生産中心から消費中心へ

1970年代、シンガポール経済を支えたジュロン工業地区はシンガポールの中心部から車で30分ほどの郊外にあります。1961年から、これまでマングローブが生い茂る沼地であったジュロンで、外国資本を導入して工業団地の建設がはじまりました。1970年代後半にはシンガポール国内最大の製造拠点に成長して、労働者とその家族のための公共団地も造成されました。

ところが、長期国土計画において都市機能の分散が決定され、ジュロンの名がそこであがりました。1991年に工業中心の街・ジュロンを商業地として再開発する方針がしめされたのです。

そして再開発はすすめられ、ジュロン・イースト駅周辺を中心として、つぎつぎと大型モールがオープンしました。日本の紀伊国屋やユニクロ、伊勢丹なども進出し、シンガポール市内に出かけずとも、ジュロンであらゆるものが購入できるようになったのです。また大型家具・家電モールも2014年のクリスマスにオープンし、ジュロンは賑わいを増しています。

これと並行して、高層マンション、病院、事務所、ホテルの建設もすすめられ、一部の公的機関もジュロンに移転をする。こうして、ジュロンは職場、住居、商店がそろった利便性の高い街に生まれかわったのです。

これまで、シンガポールを支えた象徴的存在が、あらたな時代のニーズにあわせて生まれ変わるこのような例は、シンガポールが次の発展の段階に入ったことを示唆するものであると言えます。そのような観点から言うならば、この再開発は、工業地域=生産施設であったものが、大型モール=消費施設へと変貌を遂げたことは、シンガポールが生産を中心とする社会から、消費を中心とする社会へと移行したことを顕著に物語るものなのです。

「科学技術の国際ハブ」へ

また、「シンガポールは科学技術の国際ハブ」と宣言し、シンガポール政府が主導して世界的な科学技術の拠点化を推進しています。

1990年代からすでに近隣諸国を中心に外国からの医療患者を受けれてきたシンガポールですが、2003年以降、医療ツーリズムを政策的に振興するようになりました。これは経済開発庁、シンガポール観光庁、シンガポール国際事業団が共同で“Singapore Medicine”と銘打つキャンペーンを打ち出したもので、政府の資金を投入して医療ツーリズム市場の大幅な拡大を狙うものでした。

政府内における各組織の分業・協業は次のとおりです。まず、シンガポール経済開発庁(EDB)は医療投資家を誘致して投資活動を促すとともに医療産業における能力開発を行ないます。そして、シンガポール国際事業団(IE Singapore)は優秀な医師を確保したり、医療従事者を拡充するなど医療産業の育成と海外進出を促進します。さらに、シンガポール政府観光局(STB)がシンガポール国内の旅行会社や医療事業者と協調しながら、観光と医療を抱き合わせたツ アー商品のブランディングのため、シンガポール保健省と協力してシンガポールの医療サ ービスの国際的マーケティングを行なう、というものです。

シンガポールは東南アジアにおける医療ツーリズムの人気訪問先のひとつとし て、その地位を固めています。その理由は、アジア随一の高水準かつ先進的な医療 サービスを適切な価格で受けられることです。隣国のマレーシアやインドネシアから、自国では受けることができない先進医療を受けるために数多くのこれらの国の富裕層が治療目的でシン ガポールを訪問しています。シンガポールを訪れる医療ツーリストのうち、最上位 4 位は インドネシア、マレーシア、アメリカ、イギリスとなっています。また、中国や中東か らの先進医療を受けに来る人々も増加していく傾向にあります。

シンガポールで受けられる医療サービスの費用は、同様なサービスを提供できる周辺国よりも高額であるのですが、シンガポールの競争優位性は癌(かん)治療分野をはじめとしたいくつかの分野で良質な医療サービス提供が可能であるとともに、治安のよさや経済発展しているということから、社会秩序及び交通インフラ等がよく整備されており、さらに英語が広く通用することなどによって、医療ツーリストが安心して医療をうけることができることが人気の背景にはあります。

2010 年、医療目的でシンガポールを訪問する旅行者の数は 70万 人にのぼっています。そして、かれらは滞在期間中に9 億 4,000 万シンガポールドル(約 752 億円)を消費しました。私立大手医療グループのパークウェイパンタイ グループ傘下の病院や私立大手病院であるラッフルズ病院の患者のうち約30%、公 的医療機関が 2012 年に治療した患者のうち約20%が外国人であった、という統計があります。シンガポールでは市場規模が限られていますので、先進的で良質な医療技術を発展させていくためにも外国人患者の受け入れによる外貨獲得が必須とされています。その利潤により、さらに医師が専門分野の研究を行なうことで、医療技術の向上が図られるという好循環が期待されているのです。

しかしながら、医療ツーリストの大量流入に対しシンガポール国民から、待ち時間の増加など、不安の声があるのも事実です。コー=ブンワン保健相はこれらの国民の声に対して「シンガポールでは公立病院も海外からの医療ツーリストを受け入れてはいるが、公立病院が国外で自らの病院の医療ツーリス ト獲得のための宣伝活動を行うことは禁じられている。医療サービスの提供に関しては 当然シンガポール国民の利益が最優先であり、医療ツーリスト誘致のために国民の利益 が犠牲になることはない」と語って国民優先の医療体制には揺るぎがないことを明言しています。 シンガポール政府は自国民のニーズにそった医療と 産業としての医療とのバランスを慎重に判断し、いかに国民の理解を得ていくのか、ということが課題になっています。

また、税制優遇や補助金などシンガポール政府の積極的な誘致策によって、世界の製薬・バイオ企業がシンガポールに集積してきています。日本の早稲田大学バイオサイエンス研究所もシンガポールに海外拠点を置き、最先端技術の開発を進めています。

このように、シンガポールの医療ツーリズム政策は、海外からの受け入れ患者数の増加を目標とするのみならず、バイオ医療関連の企業や研究機関を誘致するバイオポリス構想と連携して、アジアにおける医療ツーリズムをリードすることを目指していることが特徴であるのです。

教育でも、アジアの高等教育ハブを目指して、グローバル・スクールハウス戦略を推進しているところです。アメリカのシカゴ・ビジネススクールやINSEADなど欧米のビジネススクールの分校を誘致し、ペンシルベニア大学ウォートン校とシンガポールの大学との共同センターの設立、さらにはMITやスタンフォード、早稲田大学との提携による共同カリキュラムの導入などといったさまざまな取り組みが行なわれています。中国、インドからの留学生年間15万人、企業研修では10万人を受け入れ、成長する新興国との人材ネットワークづくりにも積極的です。

また、映像やゲームなどの開発拠点を集めたコンテンツのハブも目指しています。この分野については日本にとっても学ぶところが多く、同時に日本がサポート可能なことも多いので、今後、相互の交流によって日本とシンガポール双方にとって利益となる「ウィン・ウィン」のビジネスが期待されます。

ラッフルズ以来、経済発展が社会の原動力になってきたシンガポールもフタ桁成長をするような高度成長の時代はすでに過去のものであり、いわゆる「成熟成長」の時代にはいりました。低成長時代にあって、今後も安定的に経済発展を続けていくことは、シンガポールにとって変わらぬ課題でありつづけるでしょう。

2015年総選挙での人民行動党圧勝

2015年9月11日にシンガポールの総選挙が89の議席をめぐって行なわれました。その開票結果が12日未明に発表され、1965年の独立から政権の座にある与党・人民行動党が全89議席中83議席を獲得して圧勝しました。与党の得票率は69.9%で過去最低の60.1%を記録した前回の総選挙から大幅に上昇して、退潮傾向に歯止めがかかりました。

リー=シェンロン首相は選挙の翌12日早朝にさっそく記者会見を開きました。そして人民行動党への高い支持率について「予想以上の結果だった」と語り、勝利宣言を行ないました。さらに、2015年3月に死去した父・リー=クアンユー初代首相についても触れて「彼を失った後も、国民は国を発展に導く道を選べると分かった」と語りました。リー=シェンロンが父であるリー=クアンユーの路線を継承することこそが「国を発展に導く道」であると考えていたことが分かる言葉です。

この選挙における与党の得票率は、得票率75.3%を獲得した2001年の総選挙以来の高い水準となったのです。「圧勝」といえる結果です。前回の選挙での善戦をうけて野党は2015年の選挙では今回初めて全選挙区で候補を立てました。しかしながら、与党が、ほとんどの選挙区で前回よりも得票率を伸ばしたのです。

一方で、野党の得票率は労働者党が12.5%、シンガポール民主党が3.8%、国民団結党が3.5%などで、野党で議席を獲得したのは労働者党のみでした。これら野党は、外国人移民の制限・年金制度改革などを主張して、2つ選挙区で計6議席を獲得しました。しかし、改選前の7議席からは減らしました。この結果は、明らかに野党の敗北だと言えるでしょう。

人民行動党の勝利は、野党への批判票が積み重なった結果であるとみることもできます。野党で唯一、議席を保有していた労働者党は、アルジュニード集団選挙区で議席を維持しましたが、今回は50.95%でギリギリの辛勝でした。また、ホウガン1人選挙区でも議席を維持しましたが、前回補選で獲得した62.1%と比べると57.69%に減っています。

全体的にみると、リー=クアンユー元首相の死亡をつうじた、これまでの人民行動党政権に対する再評価という要因にくわえて、周辺国の景気が減速するなかで、リー=クアンユー元首相以来の経済成長優先路線を踏襲するリー=シェンロン政権の継続を国民が望んだ結果であるとも言えるでしょう。

この選挙の結果により勢いを得たリー=シェンロン政権は、今後も外資系企業の地域統括拠点やR&D(研究・開発)部門などの誘致を経済発展の軸とし、国際競争力の高い地場産業の創出をめざして、起業家・ベンチャー企業のほか、バイオ医療などの高付加価値産業の育成も続けると思われます。

最後に

これまでシンガポールの歴史をみてきましたが、いかがでしたでしょうか?

シンガポールは古く3世紀の文献に登場し、7世紀ごろには古代インドネシアで栄えたシュリーヴィジャヤ王国の勢力下にありました。14世紀にはすでに、シュリーヴィジャヤ王国が没落してのち登場したマジャパヒト王国の支配下でシンガポールは貿易の場として利用されるようになっていました。そして、マジャパヒト王国につづくマラッカ王国のもとでも貿易の場として栄えました。

その後、大航海時代を迎えてヨーロッパ人が続々とアジアに進出をはじめました。そして、16世紀にはヨーロッパからインドへの航路をいち早く切り開いたポルトガル人に攻撃を受けて破壊され、つづいて17世紀にはポルトガルの勢力をマレー半島・マラッカ海域から駆逐したオランダ人に支配されました。

このようなシンガポールが世界から注目されるようになるのは、イギリス東インド会社のラッフルズがシンガポールに上陸し、イギリスによる植民地支配がはじまる19世紀以降でした。今日のような「国際都市シンガポール」のスタート地点となっているのがこの時期です。イギリスの植民地支配のもと中継貿易港として栄えたシンガポールには、さまざまな民族の移民が集まり、シンガポールは都市として大いに発展しました。

シンガポールの歴史はイギリスによる植民地支配政策や日本軍による過酷な占領など、紆余曲折がありました。そして、イギリスからの独立を勝ち取ったのちもマレーシア連邦からの脱退を余儀なくされ、独自の発展の道を探し続けねばなりませんでした。

シンガポールの独立は、それまで国内外でマレーシアとの合併の素晴らしさを宣伝し、マレーシアとの結合こそがシンガポール救済の道だと主張してきたリー=クアンユー首相にとって、苦渋の決断であり、多くのシンガポール国民にとっても寝耳に水、まったく予期していなかった出来事でした。進むべき道さえわからない、前途多難の船出だったのです。

そんなシンガポールは、今やスイスにつぐ世界最大級の金融センターとして成長し、また、東南アジアにあって、一人当たりの国民所得は自他ともに認める経済大国である日本よりもさらに高水準です。政治安定と高い経済水準でも知られている国です。シンガポールはいまや、アジアを越え、世界的な経済の中心のひとつとなっているのです。

あきらめることなく社会を発展させることによってシンガポールの人々は機会をつかみ、そしてそれぞれの人生を幸せなものとするために個人が努力することでさらなる発展を遂げてきました。

このように独立後、自立の道さえままならない状況で世界の荒波のなかに放り出されてから、わずか50年のあいだに世界的な近代都市国家、そして富裕国へと一気に駆け上がったシンガポールは今日、政治・経済・社会などのあらゆる面において、方向転換を迫られています。成熟期に達しつつあるこの国にとり、次の50年はこれまでと比べてもより厳しい挑戦となるかもしれません。

これまでみたように、そのようななかで芸術文化政策の強化、カジノ解禁、科学技術の国際ハブ化といったさまざまな試行錯誤を重ねつつ、新しい発展の道を模索しています。

現在、繁栄を謳歌するシンガポールにも、民主化や経済発展の方向性などの課題があり、また、女性の社会進出にともなう少子化や、高齢化の問題もかかえています。そのため、今後の発展の可能性は未知数ですが、成功を求めて日々格闘する人々がいる限り、シンガポールは私たちにとって永遠に魅力的な場所でありつづけることでしょう。

なお、リー=クアンユー初代シンガポール首相は2015年3月23日未明に91歳で死去しました。シンガポールではこの建国の父の死に際し、1週間にわたり喪に服しました。遺体は国会議事堂に安置されますが、シンガポール国民が弔意をあらわし、別れを告げるために、国葬の前夜まで長蛇の列を作りました。とくに昼間は連日の猛暑であったにもかかわらず、たくさんのシンガポール人が8時間近く待ちました。

国葬は3月29日、シンガポール国立大学の講堂で営まれました。国葬には日本の安倍晋三首相や韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領をはじめインド、オーストラリアなど23カ国の首脳らを含む2200人が参列し、シンガポールの「建国の父」の死を悼みました。

国葬の冒頭でリー=クアンユーの長男・リー=シェンロン首相が挨拶しました。リー=シェンロン首相はこのなかで、「亡くなったリー氏のおかげでシンガポールは国際的な舞台で影響力を示すことができた」と功績をたたえました。このあと、1965年のシンガポール独立当時のリー氏を支えた指導者らも続いて弔辞を読み上げました。

旧世代として政界を引退したリー=クアンユーでしたが、引退の後も建国の父、そしてシンガポールを今日のような発展に導いた指導者としてのリー=クアンユーに対する多くの国民の敬意の念が生き続けていたことを示す国葬でした。

振り返ると、1959年に首相に就任したとき、シンガポールの人口は200万人以下でした。ところが現在では600万人に達しつつあります。そのなかには多くの外国人が含まれていて、彼らのような移民たちがシンガポールを東南アジアを代表する大国として成長させる原動力となりました。また、シンガポールのGDPは1960年には10億ドル(約1192億円)未満でした。しかしながら、2014年にいたって、3000億ドル(約35兆7000億円)にもなりました。さらに、1960年時点では、一人あたりのGDPは427ドル(約5万円)だったのが、2013年、一人あたり5万5000ドル(655万円)を超過しています。これほどの短期間での成長は、世界に類を見ないものであると言えるでしょう。

リー=シェンロン首相は、国葬での挨拶のなかで、「シンガポールを育てたリー氏の仕事を引き継ぐのが我々の役目だ」と国民に語りかけました。国葬をつうじて、リー=シェンロン首相はみずからがリー=クアンユー首相の成し遂げた仕事、そしてその結果として反映するシンガポールの後継者であることを示したのです。

半年後の2015年9月11日に行なわれた選挙において、これまで低下しつつあった人民行動党への支持が再び上向いた理由として、次の2つが考えられます。まず1つは、リー=クアンユーの死亡にともなって、あらためてリー=クアンユーが率いてきた時代の発展を再評価しようという国民の意識の反映である、ということです。これとともに、もう1つは、ふたたびあの時代のような目を見張るような発展を成し遂げたいという国民の願望のあらわれでないかと思われます。

選挙での人民行動党の勝利をうけてリー=シェンロン首相は「強力な委任を与えてくれたシンガポール国民に感謝する」と述べました。これから問われるのは、まさに、その国民からの「強力な委任」にどれだけ応答することができるか、です。そして、シンガポールの国民が、自分たちの「代表」として委任した人びとを、いかに真に代表たらしめるか、国民自身の歩みもまた、世界から注目されています。

リー=クアンユーという、さまざまな問題を指摘されながらもカリスマ性あふれる「ヒーロー」に別れを告げたシンガポール国民自身が、つぎはみずからがシンガポール発展のヒーローとして、世界の荒波のなかでシンガポールの未来を切り開いてくことでしょう。その先には、独立後、継続してシンガポールの政治において課題になってきた「民主化」が、シンガポール独自のあり方で開花する日が来るのかも知れません。

古代から現代までのシンガポールの激動の歴史を綴ったこの一文を、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この一文を通じてシンガポールの歴史のさまざまな局面について知っていただくことにより、さらに深く、あるいはこれまでとは違った角度から、シンガポールに触れていただくことができるのではないかと思います。

ここで書いてきたシンガポールの歴史に関する内容が、単にシンガポール史についての知識を提供するにとどまらず、日本とシンガポールの平和と発展、そして読んでくださったあなたの人生のために何か一つでもプラスにつながることがあれば、筆者として最高の喜びです。

(主要参考文献)

秋田茂『イギリス帝国の歴史:アジアから考える』中公新書、2012年

岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史:エリート開発主義国家の200年』中公新書、2013年

小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、1993年

田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語:「消滅」した南洋大学の25年』明石書店、2013年

田村慶子 編著『シンガポールを知るための65章[第3版]』明石書店、2014年

田村慶子『「頭脳国家」シンガポール:超管理の彼方に』講談社現代新書、1993年

田村慶子・本田智津絵『シンガポール謎解き散歩』KADOKAWA、2014年

林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年

Edited by Gillian Koh, Ooi Giok Ling,“State-Society Relations in Singapore”,Oxford University Press, 2000.

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