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シンガポール建国の父、リークアンユー:その生涯と政治・思想

リークアンユー   4,627 Views

リークアンユー氏について多くの方たちが興味関心を持っています。

シンガポールを建国し、東南アジアにとどまらず世界的にも発展した国へと成長させたリークアンユー氏の全てを、この記事でお伝えします。

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Contents

はじめに

偉大な「建国の父」の死

東南アジアにわずか日本の淡路島ほどの国土をもつ国・シンガポール。この国を建国し、今日のような成長を成し遂げた人物が2015年3月23日未明にこの世を去りました。

シンガポール政府はこの偉大な「建国の父」が死亡したことをうけて、1週間にわたる服喪期間をもうけました。

死後、その遺体は国会議事堂に安置されました。

数多くのシンガポール国民が弔意をあらわすために国会議事堂を訪れ、偉大な指導者との別れを告げるため、国葬前日の夜まで長蛇の列を作りました。

ほぼ赤道直下のシンガポールですので、3月でも昼間は非常に気温があがります。

この時も連日の猛暑でした。にもかかわらず、多くのシンガポール国民が国会議事堂に殺到し、なんと汗をぬぐいながら8時間待ちの行列にならんで「建国の父」との最後の面会をし、哀悼の誠をささげたのです。

このエピソードから、彼がいかにシンガポールの国民から敬愛される指導者であったのかをうかがい知ることができるでしょう。

彼の名はリークアンユー、享年91歳。

国葬は3月29日、リークアンユー政権のもとで世界的な名門大学に成長したシンガポール国立大学の講堂において行なわれました。

リークアンユーの国葬には世界各国の要人が弔問に訪れました。日本の安倍晋三首相や韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領をはじめインド、オーストラリアなど23カ国の首脳らを含む各国の代表ら2200人が参列し、シンガポール国民とともに「建国の父」の死を悼みました。

「リークアンユーのおかげ」

国葬の冒頭、リークアンユーの長男でシンガポールの首相であるリーシェンロンが次のように挨拶してその功績を顕彰しました。

 

亡くなったリー=クアンユー氏のおかげで、シンガポールは国際的な舞台で影響力を示すことができた。

 

リークアンユーは1959年、シンガポールが英連邦内の自治州として完全自治を獲得したその年、シンガポール州政府の首相に就任しました。

このとき、シンガポールの人口は200万人以下でした。しかし今やその人口は600万人に達しつつあります。

そこには数多くの外国人が含まれています。

リー=クアンユーが積極的に受け入れたこういった移民たちの存在が、シンガポールを今日のような東南アジアを代表する大国として成長させるエネルギーとなり、多様性をもつ豊かなシンガポールの文化が花開きました。

また、シンガポールのGDPは1960年には10億ドル未満でしたが、半世紀あまり経過した2014年には、3000億ドルに達しています。

さらに、1960年には、シンガポール国民一人あたりのGDPは427ドルにすぎませんでした。ところが2013年、一人あたり5万5000ドル以上と驚くべき成長を遂げています。

これはアジア諸国で唯一、先進国入りしてG7のメンバーでもある日本をしのぐものです。

独立当時はお世辞にも「豊かな国」とは言い難かったシンガポールは世界的にみても強固な経済力をもつ、小さい国土ながら「大国」としての地位を築きあげたのです。

これほどわずかな期間でこの規模の成長を成し遂げたのは、世界に類を見ない驚異的なものであると言えるでしょう。

これを「リークアンユーのおかげ」と国葬で言わしめるほど、リークアンユーがその経済成長に果たした役割は大きいといえるのです。

だれもが認めるシンガポールの父

このような彼の功績を評して、ニューズ・コーポレーション会長兼CEOのルパート=マードックはかつて、リークアンユーの自叙伝『回顧録』への推薦文のなかで次のように述べていました。

 

40年以上前、リー=クアンユーは貧しく衰退した植民地を、輝ける豊かな現代都市国家へと変えた。その間ずっと、非友好的な国々に囲まれていたにもかかわらずである。優秀かつ鋭い知性の持ち主である彼は、世界で最も辛口の、尊敬される政治家の一人だ。

 

また、『タイム』誌編集顧問のファリード=ザカリアは、2008年9月21日に独立以降のシンガポールについて、

 

資源は皆無で、国民は中国系やマレー系やインド系など多民族だった。それが今や世界有数の経済の中心地となっている。そこにいたるには、リー(=クアンユー)は優れた経済政策だけでなく、抜け目のない外交政策を打ち出さなければならなかった。彼は今でもだれもが認めるシンガポールの父だ。

 

と語り、当時85歳となっていたリークアンユーがシンガポールの独立以降、政治的指導者としてその発展に果たした役割を「だれもが認めるシンガポールの父」として大きく評価しました。

リークアンユーを知らずして、シンガポールを知ることはできない

シンガポールを今日のような発展へと導いたリークアンユーのあゆみとはシンガポール現代史そのものであると言っても過言ではなく、イギリス首相であったトニー=ブレアの言葉を借りるならば、「リークアンユーが『現代シンガポールの父』と呼ばれるのももっとも」(トニー=ブレア『ブレア回顧録』)であるのです。

まさしく、「リークアンユーを知らずして、シンガポールを知ることはできない」と言えるでしょう。

そこで、今回はシンガポールを建国し、小さく貧しい島国を成功に導いた指導者・リークアンユーの生涯をはじめ、彼のおこなった政治、そしてその根底にある思想や国際認識にせまってみたいと思います。

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リークアンユー登場までのシンガポールの歴史と社会

「現代シンガポールの父」登場以前のシンガポール

古代のシンガポール

シンガポールは古く3世紀の文献に登場する、歴史のある場所です。

7世紀ごろには古代インドネシアに繁栄したシュリーヴィジャヤ王国の勢力下にあり、14世紀には、シュリーヴィジャヤ王国が没落してのち登場したマジャパヒト王国の支配下にあって、すでにシンガポールは貿易の場として利用されるようになっていました。

そして、マジャパヒト王国につづくマラッカ王国のもとでも貿易の場として栄えました。

大航海時代とシンガポール

その後、いわゆる大航海時代になると、ヨーロッパ人はアジアをめざして海に乗り出し、次々とアジア諸国に進出をはじめました。

そのようななか、16世紀にはヨーロッパからインドへの航路をいち早く切り開いたポルトガル人による攻撃を受けて破壊され、貿易港として栄えていたシンガポールは荒廃してしまいました。

つづいて17世紀にはポルトガルの勢力をマレー半島・マラッカ海域から駆逐したオランダ人によって支配されましたが、オランダはシンガポールを復興させることなく、ほとんど放置したままでした。

ラッフルズの上陸とイギリスによる植民地化

このようなシンガポールが欧米をふくむ全世界から注目されるようになるのは、イギリス東インド会社のラッフルズがシンガポールに上陸し、イギリスによる植民地支配がはじまる19世紀以降でした。

ポルトガルによる攻撃によって荒廃していた当時のシンガポールには、かつて港湾都市として繁栄していた面影はありませんでした。

ラッフルズはこの地が貿易の拠点としてもつ地理的優位性に着目し、在地の王(スルタン)と交渉してイギリスの植民地としました。

以降、ラッフルズは自由貿易港としてシンガポールの発展を促しました。

今日のような「国際都市シンガポール」のスタート地点となっているのがこの時期です。

イギリス植民地支配下のシンガポールとその後

その後、イギリスの植民地支配のもとで中継貿易港として栄えたシンガポールには、さまざまな民族の移民が集まり、シンガポールは都市として大いに発展しました。

その後のシンガポールの歴史はイギリスによる強圧的な植民地支配や第2次世界大戦における日本軍による過酷な占領など、紆余曲折がありました。そして、イギリスからの独立を勝ち取ったのちもマレーシア連邦からの脱退を余儀なくされ、独自の発展の道を探し続けねばなりませんでした。

そのような時代の中で、リー=クアンユーは歴史の舞台に登場しました。

イギリス統治下における多民族社会の形成

急増する移民

リー=クアンユーの出生および成長の過程を理解するためには、その背景にあるシンガポールの多民族社会における彼の立ち位置のついて知っておく必要があります。

ここではまず、シンガポールに多民族社会が形成されていくプロセスについてお話しします。

シンガポールに今日のような「モザイク社会」と呼ばれる複数の民族・言語・宗教が併存する多民族社会が形成されていったのは19世紀以降のイギリス統治時代のことでした。

イギリスによってシンガポールが植民地統治されていた19世紀、マレー半島ではすず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションの開発がすすみ、ラッフルズ以来の自由貿易政策が功を奏して港湾が急激に発展し、これらではたらく多くの労働者たちがシンガポールに居住するようになりました。

あるいは貿易商や植民地統治機構の行政官吏としてシンガポールに移民する人たちも急増しました。

こうして、マレー半島から移って来たマレー人をはじめとして、主として中国南部の福建省や広東省、潮州、海南島といった地域から移住して来た中国人、主に南インドのタミル語圏から移ってきたインド人、そして現在のインドネシアなどからの人びとなど多くの民族が移民としてシンガポールへやって来たのです。

また、植民地官吏や貿易商としてイギリス人をはじめとするヨーロッパ人もやって来ました。

記録によると、ラッフルズがやって来た頃のシンガポールには一部の地域にわずかな漁民や海賊がいただけで、ほとんど人は住んでいませんでした。

したがって、これらの19世紀以降に移民としてシンガポールにやって来て定着したマレー人・中国人・インド人そしてヨーロッパ系のユーラシア人といったさまざまなルーツをもつ人びとの子孫が現在のシンガポール社会を構成しているのです。

ラッフルズ以来の発展が今日のような多民族国家としてのシンガポールの成長基盤となった、といえるでしょう。

民族別の棲み分け

シンガポール獲得以来、イギリスによるシンガポール統治に深く関与することとなったラッフルズはマレー人・中国人・インド人といったアジア系移民に対して、民族によって居住地を割り当てるという民族別の棲み分け政策を行ないました。

これによって、相互に関わりあうことで発生するかも知れない民族間の対立を未然に防止したのです。

さらには民族を超えて交流することによってアジア系住民たちのイギリスによる植民地支配への不満が1つになることを防ごうという狙いもありました。

こうして、植民地期のシンガポールでは民族や言語、宗教によって分かれた社会が形成されていったのです。

マレー人は母語であるマレー語で、イスラム教徒として生活していました。

あるいは、中国系の住民たちは中国におけるそれぞれの出身地方の中国語方言を話しながら仏教あるいは道教を信仰していました。

また、インド人はタミル語を話しつつ、ヒンドゥー教を信仰しながら暮らしていました。

このように、植民地期のシンガポール社会には大きく3つの民族・信仰社会が併存し、それぞれがあまり関わることなく民族別に分かれて、それぞれ特色あるコミュニティを形成していったのです。

中国系移民の増加

シンガポールにおいてはじめて人口統計が実施されたのは1824年のことでした。その統計の結果によると、マレー人が60.2%で最も多く、ついで中国人が31.0%、インド人が7.1%という構成になっていました。

この時のシンガポールはマレー人が多数を占める社会だったのです。

ところが、19世紀半ばになるとこのようなマレー人がマジョリティの状況に大きな変化が訪れます。

このころ、中国南部において人口が過剰な状態となっており、その人口が近隣の東南アジアをはじめとした海外へと移動していました。

その影響はシンガポールにもおよび、福建省および広東省など中国南部地域から、大量の中国人移民がシンガポールに移住してきたのでした。

このような事情から、1840年にいたって中国人がシンガポールの人口が過半数を超えるようになりました。

その後も中国人移民の流入は継続し、1910年に突入すると中国人がシンガポール人口に占める割合が72.1%と圧倒的な比率を占めるようになりました。

ついでマレー人が16.0%、インド人が8.0%などとなり、ほぼこのような割合で中国系住民が多数を占める人口構成が今日まで続いています。

統計にみるシンガポール移民の実態

ここで少し視点を変えて、統計にあらわれたシンガポール住民の民族別男女比率から人口構成をみてみると、この時代のシンガポール移民の実態がみえてきます。

当時、移民のほとんどが男性による出稼ぎであり、彼らは港湾における荷役などの肉体労働に従事することがほとんどでした。

このために、とくに初期は各民族とも男性比率が非常に高い人口構成となっていました。

とりわけ中国人やインド人は男性比率が高い傾向が強くみられます。

具体的には、1860年の時点における中国人の男女比率は14:1で民族別の統計ではもっとも男性比率が高くなっていました。

また同時期、インド人は8:1とやはり男性の比率が極端に高くなっていました。

時がたつにつれ、このような極端な傾向は徐々に解消してゆきましたが、とは言うものの1901年になっても中国人住民の男女比は4:1となっており、やはり男性が多数を占める社会でした。

中国やインドからの移民は男性による肉体労働者が中心であったことがうかがえると同時に、妻をはじめとした家族の女性構成員をともなって本格的に定住するというよりは、男性だけが出稼ぎをして、その後、故郷に戻る、という志向がつよかったということが、これらの統計から読み解くことができます。

中国系移民による出身地別コミュニティの形成

これまでみたように、シンガポールにやって来た移民は中国人の比率が高かったのですが、ラッフルズは単に中国人を集住させるのではなく、さらに彼らの中国における出身地ごとに居住地を分けました。

そして、同郷人によるコミニュティを形成して暮らすようにさせたのです。

この時代の中国系住民にあっては学校教育が普及しておらず、そのほとんどが中国語の標準語としての北京語=華語を話せませんでした。

さらに彼らの多くは学校教育を受けておらず、読み書きが満足にできない非識字者も多くいたために筆談さえもできませんでした。

このため、同じ中国系住民同士といっても出身地が違えば方言が大きく異なっており、お互いが何を言っているのかもわからないことが多くありました。

すなわち、日常の簡単な意思の疎通さえもがままならず、出身地による言語の違いによって、分離された状況だったのです。

しかし、このようなイギリス植民地当局の中国系住民に対する出身地別の棲み分け・分離政策は決して当事者たちを苦しめる方向に作用したわけではありませんでした。

むしろ、このような彼ら中国系住民にとっても、同郷出身者がまとまって住むメリットは十分にあったのでした。

コミュニティの内部では故郷の方言のみでの生活が可能でした。

そのため、母語以外の言語を習得することなく体ひとつで移民しても、すぐに現地のコミュニティに入り込んで職探しをすることができました。

また、中国系住民は出身地ごとに「幇(バン)」と呼ばれる人的結合を形成しました。

そして、その法人組織としての「会館」を設立していきました。

現在でも福建省出身者の福建会館、潮州人たちの義安公司、李氏公会などの華人団体が活動を継続しています。

こうして、同郷人による相互扶助のための組織を作って団結していたのです。

これらの組織は同じ地方の出身者があらたに移民してきた際に世話をしたり、学校や病院を作るなどの事業を行なうことによって、中国人移民の職業・教育・福利厚生における支えとなって大きな役割を果たしました。

また、こうした組織があることで、中国からさらに多くの移民がやってくることを促すようにもなったのです。

ここで、中国人の出身地域について、統計資料をみてみましょう。

1935年の統計によると、最も多いのが福建語を話す福建人で彼らが中国系住民の43.0%を占めていました。

ついで広東語を話す広東人が22.5%、潮州語を話す潮州人が19.7%、海南語を話す海南人が4.7%、客家語を話す客家人が4.6%となっていました。

分裂した社会

このように、同じ民族内部でさらに出身地に分かれて社会を形成していたのは中国人だけではありませんでした。

マレー人たちもまた、出身地によって分かれて社会を形成していたのです。

すなわち、マレー人の中にもインドネシア出身のジャワ民族が存在していました。

彼らはマレー系民族ではあるものの、使用言語が違っていたため、独立した民族社会を形成したのです。

また、インドは非常に広大な国ですので、そこには多くの言語が存在しています。

そのため、インド人たちもまた、タミール語を話すタミール人、ヒンディー語やベンガル語を使用する地域出身者などに分かれて、それぞれの社会を形成していました。

以上のように、イギリス植民地統治下のシンガポールにおいては、民族・宗教による分断の上に、さらに出身地によって分裂して多くの別個の社会が形成されました。

そして、それぞれの社会間にはあまり交流はなく、「シンガポール人」という共通のアイデンティティよりもそれぞれの分裂した社会の一員という意識が育ちました。

そして、各地域にはそれぞれの出身地がそのままシンガポールに再現したような空間が形作られていました。

英語派と華語派:中国系移民の2つのアイデンティティ

「錦衣環郷」「落葉帰根」

これまでみてきたように、中国からシンガポールに来た移民たちは出身地別に社会を形成していましたが、20世紀にはいると、彼らのなかに出身地の違いをこえて大きく2つの政治的志向をもつ集団が生まれてきました。

もともと、彼らには「錦衣環郷」「落葉帰根」といった言葉がありました。

他所で活躍しても最後にはもともといた故郷に帰る、ということです。

このような志向のもと、中国系住民たちの多くはシンガポールを一時的な出稼ぎの場所であると考えていたことは、すでに言及したとおりです。

ですので、そのような考えからは、そもそもシンガポールに対する政治的関心は生まれるはずがないのも当然と言えるでしょう。

こういった傾向はイギリス植民地当局によってシンガポール住民たちによる政治活動が禁じられていたこともあって、さらに拍車がかかりました。

以上のような背景から、中国系住民が政治的関心を抱いたのはシンガポールではなく、別の場所だったのです。その1つは中国で、もう1つはイギリスでした。

中国への政治的志向

中国への政治的志向が強まる契機となった歴史的事件として、中国で1911年に起こった辛亥革命の勃発がありました。

満州民族の王朝である清の支配に反抗して孫文らを中心とした革命派の漢民族が蜂起して清朝皇帝・溥儀を退位させ漢民族を中心とする共和制国家の建設をはじめたこの革命は、シンガポールに住む中国人たちにも大きな衝撃を与え、彼らに漢民族としての民族主義的な意識を覚醒・高揚させました。

そして、孫文をはじめとした辛亥革命の指導者たちの思想に共鳴した人々は、シンガポールにも国民党を結成し活動をはじめたのです。

抗日運動と愛国華僑

こうして中国系住民のあいだに民族主義が高揚するなか1915年に日本が中華民国政府に対して中国における日本の権益拡大を求める「二一ヶ条要求」をつきつけたことは、さらにシンガポールの中国系住民たちの民族意識に火をつけることとなりました。

この日本の要求に抗議して、彼らは中国での抗議運動の動向に呼応しつつシンガポールで日本製品のボイコットを行ないました。

また、1919年に中国で「五四運動」が発生すると、シンガポールに住む彼らも、これまでも行なっていた日本製品に対するボイコット運動をさらに強化したり、日本商品の置かれた商店を襲撃するなどして、中国での動きにリンクした運動を展開しました。

さらに1930年代になると、日本は1932年に「満洲国」を建国し、1937年には中国との全面戦争に突入しました。

これに対し中国では反発が起こり、中国国内ではこれに対抗するために抗日運動や抗日武装闘争が繰り広げられました。

シンガポールでも、このような中国での動きに連帯しながら、日本商品に対するボイコット運動が頂点に達していきました。

これによって、日本人が経営する商店・病院・理髪店の利用拒否や、日本商品を扱う商店に立ち入ること自体を止める運動などが展開されたのです。

以上のような運動を行なった華人たちは「愛国華僑」と呼ばれました。その代表的存在である富豪・タン=カーキーはこのようなシンガポールの中国系住民を組織化するとともに、中国に対して巨額の資金援助を行ないました。

このようなシンガポールの中国系住民による運動は、大陸で戦争をすすめる日本軍にとっては非常に悩ましいものであり、のちにシンガポールを日本軍が占領した際に、中国系住民(華人)がまず弾圧された背景にもなりました。

イギリスを志向する「海峡集団」

一方で、イギリスを志向する中国系住民もいました。

20世紀にはいるとシンガポールで生まれた移民の2世・3世が次第に増加していました。

1世たちがやがては故郷に帰ることを思いながら民族別・出身地別のコミュニティで生活していたのとは異なり、これらの新しい世代は、民族や宗教をこえて「シンガポール生まれ」あるいは「海峡生まれ」というアイデンティティを共有するようになっていったのでした。

従来の移民としてやってきた「移民集団」に対して、彼らを「海峡集団」といいます。

これまでの民族や出身地・宗教などによる分化に加え、それぞれの分化した社会においてさらに「移民集団」と「海峡集団」という分化がもたらされたことで、シンガポールはより複雑なアイデンティティをもつ人びとで構成される「モザイク社会」となっていきました。

これらの中国系住民は、母国・中国への帰属意識よりもシンガポールでの成功を考えるようになっていきました。

そして、そのために重要なものは、シンガポールの宗主国であるイギリスの言語である英語による教育を受けることだと考えました。

こうして彼らはみずからのアイデンティティを祖先がいたみずからのルーツ・中国ではなく、宗主国であるイギリスに求めるようになります。

クィーンズ・チャイニーズ

このような中国人たちは「クィーンズ・チャイニーズ」と呼ばれるようになっていきました。

このような人々はシンガポール国内における英語による教育や、イギリスへの留学などをつうじて、イギリス式の教育を受けました。

そして、シンガポールにあってイギリス植民地政府の下級官吏や医師、弁護士、技術者、外資系事務職員など、比較的高収入で社会的地位の高い職業に従事するようになりました。

後述しますが、リークアンユーもまた、このようなイギリスを志向する中国系住民に属する家系に生まれました。

彼らのイギリスへの帰属意識をイギリスもまた積極的に活用していきます。

「クィーンズ・チャイニーズ」であるリム=ブーンケンを指導者として、1900年に海峡華英協会が設立されました。

この協会では住民の福祉問題とともに、シンガポール社会におけるイギリスへの関心を高め、シンガポールに親英的な勢力を育成するることなどが議論されました。

加えて第1次世界大戦の際には海峡華英協会が戦闘機53機をイギリスに献納し、ヨーロッパ戦線を助けるため、シンガポールの防衛をイギリス人に代わって志願する志願兵部隊も組織するなど、シンガポールにおいてイギリスの世界支配を助ける勢力、いうなれば「大英帝国の応援団」として活動しました。

「華語派華人」と「英語派華人」

20世紀になって登場した、これら2つの志向をもった中国系住民=華人の集団は、それぞれの教育言語に対応させて、前者を「華語派華人」、後者を「英語派華人」と呼ぶようになりました。

これら2つの集団が、のちにシンガポールの独立運動の担い手となっていくことになります。

しかしながら、両者は使用する言語や教育、政治性が相当に異なっていました。同じ出身集団に属する兄弟と、教育言語が異なる人物の回顧録には次のような記述があります。

中国志向の私は、主として英語(による)教育を受けた兄弟との議論に熱をあげた。兄弟たちは、「ぼくたちの国は英国だ」とよくいった。すると私は「ぼくの国は中国だ」と言い返した。(『南洋華人』1987年)

彼は中国語による教育を受けたが、ほかの兄弟は英語で教育を受けていた、というケースですが、ここにみられるように、兄弟のあいだでさえ、教育言語によってアイデンティティや政治的・社会的意識に大きな差異が生じていたのです。

また、この兄弟においてもそうであるように、彼らはシンガポールそのものではなく、一方は血統的なルーツである中国に、もう一方は宗主国であったイギリスにアイデンティティを感じていたので、独立運動の基盤となるナショナリズムはこの時期には育っていませんでした。

ナショナリズムの未成熟

リークアンユーは当時の自分たちの考えについて、のちに以下のように回顧しています。

我々には白人に対する恨みなどの問題はまったくなかった。政府や社会における英国人の優越的な地位は単なる世の中の事実だったにすぎない。

英国人は結局のところ世界で最も偉大な人たちだったのである。彼らは史上最大の帝国を築き上げ、領土は四つの海と五つの大陸にまたがっていた。我々はこれを学校で歴史の授業で学んだ。

英国人はシンガポールを統治するために定期的に交代する数百人の兵士を配備するだけで十分だった。(以上、すべて『回顧録』)

このように、リークアンユーによれば当時のシンガポールに人々は「白人に対する恨みなど」はなく、シンガポールにおいてイギリス人が優位にあったことも「世の中の事実だったにすぎな」かったというのです。

リークアンユーは学校で学んだ内容からもイギリス人は「世界で最も偉大な人たち」であると考えるようになったのでした。

このような状況だったので、イギリスはとくに強大な軍事力をシンガポール統治のために配備する必要がなかった、と言っています。

さらに、リークアンユーは次のようにも言っています。

私は両親や祖父から英国の優越性を前提にした社会を自然のこととして受け入れるような教育を受けて育った。

私の記憶では、言葉であろうと行勤であろうと、白人の優越性に疑問を差しはさんだ現地人はいない。英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、敢然と闘う人はいなかった。(『回顧録』)

つまり、当時のリークアンユーにとってイギリスによる植民地支配とその社会システムは「自然のこと」であり、「英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、敢然と闘う人はいなかった」のです。

これは英語教育を受けた人たちの話ですが、のちにこの集団から独立を目指す勢力が育ったことを考えると、この当時の意識がその後のそれとはまったく異なるものであったことが分かります。

2つのアイデンティティをもつ中国系住民が「シンガポール」という国家をを形成するために協力するには、日本軍による過酷な占領をへてリークアンユーの巧妙な政治的戦略の登場をまたねばならなかったのです。

では次に、シンガポールの歴史を大きく変えた人物・リークアンユーの生涯についてその誕生からみてみましょう。

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リークアンユーの歩み:誕生から首相就任まで

リークアンユーの誕生と生育環境

リークアンユーの誕生

リークアンユーは1923年9月16日、シンガポール市内の中心から少し北部のカンポンジャワ・ロード92番地で生まれました。

現在は閑静な住宅地となっているエリアです。

父親はリーチンクーンで当時20歳、母親はチユアジンニオで当時16歳で、この2人の長男として誕生しました。

民族的には中国系移民で、リークアンユーはその4世にあたります。

そしてそのなかでも高い教育を受けた「海峡華人」と呼ばれるひと握りのエリート層に属します。

リークアンユーの家系と家族

彼の生育環境を知っておくために、まずリークアンユーの家系と家族について具体的にみておきましょう。

曽祖父であるリーボクブーンは19世紀の中葉に中国客家地方からシンガポールに移民しました。

彼は多くの1世たちが望んだように晩年には中国に戻ったと言われています。

祖父のリーフンロン(1873~1942?)は英語教育を受けた英語派華人で、インドネシア華僑であるコーリェムニオと結婚して、インドネシアの有力華僑であるゴーチュイコク所有の海運会社でシンガポール社役員として勤務しました。

父親のチンクーンは1903年生まれで、英語中学を卒業してからシェル石油で30年のあいだ勤務し、退職してから宝石店店員として働きました。

母親であるチユアジンニオは1907年生まれで、「ニョニャ料理」(中国料理とマレー料理を融合させたシンガポールの料理)の専門家として有名な人物でした。

さらに、父親の姉、つまりリークアンユーの伯母であるリーチューニオは国内で英語教育を受けたのち、エドワード7世医科大学を卒業し、シンガポール初の女性開業医となった人物です。

長男であるリークアンユーには4人の弟と1人の妹がいます。

次男のリーキムユーは第二次大戦後に弁護士として兄のリークアンユーとともに活動しました。

そののち、外資系企業や華人系の企業、政府系の企業といった複数の大企業で会長や取締役に就任し、経営手腕を発揮しました。

三男はリーティアムユーで、警察官として勤務したのち、証券会社役員となりました。

四男のリーシィエンユーは医師でした。妹のリーキムモンは華人実業家と結婚しています。

以上のように、リークアンユーの一族は英語教育を受け、専門的職業につく、シンガポールのエリート一家だったのです。

子供時代のリークアンユーの言語環境

リークアンユーの回想によると、「アマー」と呼ばれる家政婦が広東語を話すほかは家族みな英語とマレー語で話していたといいます。

つまり、民族的ルーツは中国ではあるものの、英語教育を受けるとともに、中国ではなくマレー半島に現地化した生活をする裕福でエリートに囲まれた家庭環境で育った、というわけです。

しかしながら、リークアンユーが通った幼稚園では中国語による教育が行なわれていました。

そのような幼稚園に通うこととなったのは、母方の祖母の要望によるものでした。

すなわち、中国人であるからには、中国の歴史・文化を身につけるべきだと祖母が主張したからなのです。

ここでリークアンユーは中国古典の有名な文句の暗唱や書道を学ぶなどしました。

さらに小学校入学後も午後に自宅で中国語を勉強しました。ところが、徐々に面倒になってやめてしまったといいます。

こうして、英語を話す華人(英語派華人)の家系に生まれたリークアンユーは、英語教育を継続して受けることとなりました。祖父・リーフンロンからは、クアンユーという中国式の名前(華名)とともに、Harry(ハリー)という英語名もつけられ、家族や友人からは「クアンユー」ではなく、“ハリー”と呼ばれていたといいます。

リークアンユーは結局、幼少期の学習の甲斐無く中国語を習得することができませんでした。

このため、少年時代のリークアンユーには中国人の友人はほとんどいませんでした。彼が一緒に遊んでいたのはマレー人の子どもたちで、中国語の方言である福建語が混じったマレー語で話していたといいます。

政治家になってリークアンユーは中国語を話すようになりますが、これは彼が中国系であるから自然と習得できた、というものではなく、英語を理解できないシンガポールの華語系華人たちに自己の政治的立場を語りかけ、支持を訴えるために政治活動のかたわらで苦労して学習し習得した成果だったのです。

英語によるエリート教育

7歳になるとリークアンユーは英語教育を行なう初等教育機関のテロク・クラウ小学校に入学しました。

ここから英語派華人、そしてその中でもエリート層である「海峡華人」としてのリークアンユーの歩みがスタートします。

つづいて12歳の時にリークアンユーはシンガポールを代表するエリート校であるラッフルズ学院に入学して経済学、数学、英文学を専攻しました。

ラッフルズ学院ではのちに政治行動をともにすることになるゴーケンスイやホンスイセンといった海峡植民地出身の「海峡華人」青年たちと出会いました。

リークアンユーはここで突出して優秀な学生として評価を受けます。

すなわち、1939年にケンブリッジ上級試験を受け、その成績が受験者のなかでトップとなったのです。

その結果、シンガポールの名門・ラッフルズ大学の奨学金資格を獲得しました。この資格はシンガポールとマレーの学生に対して3年に一度、1人の学生にのみ授与されるものでした。

このことから、リークアンユーがいかに優れた成績を修めていたのかお分かりいただけるでしょう。

英語による教育の意義

リークアンユーがこの時までに受けてきた教育について、のちに次のように振り返っています。

 

自分はイギリスが統治するシンガポールで、中国人家庭の男系子孫として生まれた。一家の慣習や価値意識は中国的なものであったが、読んだ本に登場する英雄や敵役の人物像、学校で習ったのは英語とイギリス的なものだった(“Governing Singapore”, 1969年)

 

さらに、リークアンユーはこのような英語による教育について、

 

「英語教育を受けた人」というのは、たんに英語を話し、読み、書くことができる人という意味だけではなく……ある種のはっきりした特徴を身につけているのです。長所の第一は、同質である、ということです。第二は、基本的に自分たちのことを中国人、マレー人、あるいはインド人とは考えなくなっていることです。……英語教育を受けた人たちは、母語を話す自分の種族の大衆から分離しています(『政治哲学』上、1959年)

 

と、ほかの集団とは異なるアイデンティティをもった、独自の特徴をもつ集団を生み出すものであったと述べています。

そして、その特徴とは、民族を超えた「同質」な存在であるとともに、民族に分化した世界に生きる「大衆」とは異なる、「分離し」た存在ということでした。

リークアンユーはシンガポールでの英語による教育をつうじて、「中国人」というアイデンティティを離れて同じように英語教育を受ける他の民族と同質性を帯びた存在となり、同時に「大衆から分離」した、つまり従来の民族別に分化した社会のどこにも属することのできない存在となったのです。

そして、このような集団こそが、のちに従来の枠組みとしての民族別社会を超えて、シンガポールという国家を形成するグループを生み出していったのです。

戦争による大学の閉鎖

その後、ラッフルズ大学に入学したリークアンユーですが、その在学中であった1941年12月にアジア太平洋戦争が勃発しました。

シンガポールはほどなくして日本軍によって占領され、その混乱のなかで大学は閉鎖に追い込まれました。

イギリスの敗退と日本軍占領下での体験は、リー=クアンユーをはじめとするイギリス志向のシンガポール人の意識を徐々に宗主国イギリスではなく自らが生まれ育ったシンガポールへと転換させる契機となりました。

つぎに、そのような動きとリー=クアンユーの動静について、太平洋戦争期におけるシンガポール情勢とともにみてみましょう。

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日本軍によるシンガポール攻撃

シンガポールの軍事拠点化

イギリスは19世紀以来、シンガポールの経済発展を進めてきました。

加えて、第1次世界大戦ののち、シンガポールをアジア太平洋地域におけるイギリス海軍の軍事拠点として重要視するようになりました。

1920年代になるとシンガポール島北岸に戦艦や駆逐艦を常備できるほどの大規模な海軍基地の建設がはじまりました。

こうして、1938年に造船ドックを擁する最新式の巨大なイギリス海軍基地ができたのです。

加えてシンガポール北部には飛行場を3ヶ所建設していました。

イギリスは、シンガポールをイギリスが領有する東南アジアの植民地の軍事的拠点と位置づけるようになり、15万人以上のイギリス海軍や陸軍部隊を駐留させ、要塞としていたのです。

シンガポールはイギリスの東南アジア・極東地域における自由貿易港であると同時に軍事拠点となったのでした。

仮想敵国・日本

このようなシンガポールの軍事要塞化において仮想敵国とされたのは日本でした。

かつて日英同盟によって日本とイギリスは同盟関係を結び、日本は1904年に勃発した日露戦争を有利に戦うことができました。

また、第1次大戦ではイギリスとの同盟関係を根拠として日本も参戦し、ヨーロッパ戦線に注力していたため手薄になっていた遼東半島にあったドイツの領土を戦うことなく占領しました。

その結果、日本は第1次世界大戦の戦勝国としての地位を獲得し、戦後成立した国際連盟では常任理事国となるなど、アジアにあって国際的な影響力を増してきていました。

第1次世界大戦後の国際秩序構築の過程で日英同盟は無効となりましたが、日英同盟を背景に台頭した日本の勢力、とりわけその軍事力は欧米帝国主義諸国にとって無視できない存在となっていました。

同盟関係を解消したイギリスにとってもそれは同じことで、次第に日本はイギリスの軍事的脅威となっていったのでした。

日本による大陸進出と戦争の拡大

1930年代になると満洲事変をおこし、武力による中国大陸進出をはかっていた日本は、イギリスを中心にして「満洲国」建国を非難する動きが国際連盟でおこると、国際連盟を脱退しました。

このような日本の中国での行動はやがて、第二次上海事変などによって中華民国との全面戦争である日中戦争に発展しました。

そして、おなじくイギリスと対立していたドイツやイタリアと接近して三国同盟を結びます。

こうして次第にイギリスやアメリカとの対立を激化させていた日本は、1941年12月8日についにイギリス・アメリカと交戦する太平洋戦争(日本側はこれを「大東亜戦争」=アジアを解放するための戦争、としました)を起こしました。

マレー作戦によるアジア太平洋戦争開戦

その戦争が始まったのはマレー半島でした(後述するとおり、真珠湾攻撃はこの直後に行なわれました)。ご承知のように、マレー半島の先端にあるのがシンガポールです。

日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端にあるコタ・バルに接近したのち、午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸して海岸線で英印軍と交戦しました。

これが「マレー作戦」です。

イギリス政府に対する宣戦布告を行なう前の奇襲によって太平洋戦争の戦端がマレー半島で開かれたのです。

これに続いて日本海軍航空隊はハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃を行ないました。

有名な「真珠湾攻撃」です。日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ現地時間では7日午前7時)に発進、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始され、これにより日本はアメリカとも交戦状態に突入しました。

日本軍にとってのシンガポール

シンガポールはイギリスの東アジア地域における軍事的拠点、すなわち日本にとってはもっとも自国に隣接したイギリスの最前線基地でした。

そして、これはすでに述べたように、日本を仮想敵国として建設・整備されたものでした。

マレーシアやインドネシアを日本軍が攻略するためには、シンガポールのイギリス軍基地は非常に邪魔な障害物だったのです。

さらに広い視野からみると、シンガポールの海軍基地はその南にあるイギリス連邦諸国のオーストラリアとニュージーランドを日本軍の侵攻から守るための役割を担うものでもありました。

このため、シンガポールを攻略・確保することは、アジア太平洋地域を制圧することをめざす日本軍にとっては避けることのできない重要課題となりました。

日本軍のマレー半島進撃

開戦当日の1941年12月8日、日本海軍はまず、イギリス軍航空機の拠点であったシンガポールの空港を爆撃して、シンガポール周辺の制空権を奪いました。

また、同年12月10日にはマレー半島東岸にあったイギリス海軍の軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈しました。

これにより、マレー半島周辺の制海権も日本軍が掌握することとなりました。

マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら凄まじい速さでマレー半島各地を占領しながら南下しました。

そして55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端でシンガポールの対岸に位置するジョホール・バル市に突入しました。

太平洋戦争においてシンガポールが本格的に戦闘に巻き込まれるのはこれからでした。

シンガポール攻撃

1942年1月末までに、日本軍はシンガポールを除くマレー半島全域を占領していて、シンガポールとはジョホール水道で面しているジョホール・バルーの王宮に日本軍の陣が設置された状態で、日本軍によるシンガポール攻撃がいつ起こってもおかしくないことは、誰が見ても明白なことでした。

日本軍は、1週間かけて対岸にあるシンガポールを攻撃する準備を整えていました。

こうして1942年2月7日、 シンガポールに駐留していた9万人のイギリス極東軍に対し、山下奉文中将が率いる12万人の日本軍による激しい攻撃がはじまりました。

この攻撃で、イギリス極東軍は苦しい戦いを余儀なくされました。

こうして日本軍がシンガポールに攻撃を開始して一週間ほどが経った1942年2月14日には日本軍がシンガポール島南端にある市街地を包囲します。

翌15日午前6時には、シンガポール駐留イギリス極東軍司令官であるのパーシバルのもとに、前線から戦況が芳しくないとの報告がはいりました。

貯水池はすでに日本軍に制圧されているため、24時間後にはイギリス軍の水はなくなり、さらに食糧保管庫も日本軍に押さえられているために48時間後には食糧も尽きてしまうこと、ガソリンも残り僅かで、対空砲の弾薬はほぼ使い果たしてしまった状態で、大砲が少し残るだけだったことなど、イギリス軍がこれ以上戦闘を継続するのは困難であることを示唆する報告をうけたのでした。

イギリス極東軍の無条件降伏

早朝からもたらされる不利な戦況についての情報に頭をかかえながら、窮地を打開する策を考えていたパーシバル司令官は午後9時半になって前線指揮官を召集して、今後の作戦会議を開きました。

会議に参加したヒース中佐は、すでに補給が絶たれているためイギリス軍の持久力が極端に低下していることから、司令官に降伏を進言しました。

同席したベネット中将らもヒースに賛成しました。

これ以上戦闘を継続すると、一般市民におびただしい死傷者が発生することにつながると考えたのです。

こうして、降伏はやむを得ないする意見が大勢を占めました。

パーシバル司令官は大いに悩みましたが打つ手はなく、結局は日本軍に降伏することにしました。

こうして、シンガポールに駐留していたイギリス極東軍は、日本軍に無条件降伏することとなりました。

約1週間続いた「シンガポールの戦い」は日本の勝利で幕を閉じ、日本によるシンガポール軍事占領がはじまりました。

日本軍による支配とシンガポール華僑虐殺事件

「昭南島」への改名と軍事占領のはじまり

シンガポールを軍事占領した日本は、名称をこれまでのイギリス式名称である「シンガポール」から日本風の「昭南島(しょうなんとう)」と改名しました。

これにともなって、シンガポール市は「昭南特別市」と改められ、日本による行政統治機関として昭南特別市政庁が設置されました。

こののち日本占領下においては、市政庁がシンガポール住民の日常生活を管理することになりました。

そして、昭南特別市の初代市長として、日本人内務官僚の大達茂雄が任命されました。

大達はのちに内務大臣をつとめた人物です。

その後、日本占領下のシンガポールには多くの日本人が官民問わず移り住むようになり、日本占領軍のもと日本人を支配民族とする過酷な軍政が敷かれることとなりました。

この厳しい占領期をシンガポールでは、その占領期間である「3年8ヶ月」という名称で呼んでいます。

華人のアイデンティティ

この「3年8ヶ月」の時代、日本占領軍によってもっとも過酷な支配を受けたのがリークアンユーもそのひとりである中国系住民(華人)たちでした。

この時代、シンガポールに住む華人の多くは、中国から移り住んだ移民一世やその子息である二世でした。

多くの中国系住民の家庭では福建語や潮州語、広東語といった出身地の中国語方言が話されていました。

また、彼らは中国語(華語)による学校教育を受けていて、中国系住民たちには自分たちは中国人であるというアイデンティティがありました。

中国系住民たちのなかでも、とりわけ中国語を生活・教育言語とする華語派華人たちは、イギリスによる植民地統治のもとでみずからの地位向上を実現するためには、祖国の後ろ盾が大切であると考えていました。

しかし現実の中国は内戦や列強の侵略で弱体化していたため、このような中国が強大な統一国家となるように支援することが重要であると考えていました。

すなわち、強大となった中国がイギリスに外交圧力を加えるようになれば、自分たち中国系住民の社会的地位も上昇することになるので、中国に対する侵略行為に対して抵抗することがみずからの生きる道であると考えていたのです。

このような信念のもと、さきほどお話ししたタン=カーキーのように、孫文らが指導する辛亥革命や蒋介石が指揮していた抗日戦争に積極的に資金を援助する華人もいたのでした。

華人を警戒する日本軍

このような事情から、シンガポールを軍事占領した日本軍は占領当初から華人を極度に警戒していました。

日本軍は、彼ら華語系華人たちを敵対する中国の蒋介石政権とつながった存在として考えていたのです。

そのため、蒋介石政権と中国系住民との関係を断たせることが占領軍の課題とされていました。実際、日本軍の占領政策のアウトラインをえがいた「実施要項」には

 

華僑に対しては、蒋政権より離反し、我が政策に協力同調せしむものとす

 

という占領下におけるシンガポールの華人に対する方針が明記されています。

一方の、イギリス式の英語教育を受けてきた英語派華人もまた、敵国であるイギリスに対して好意的であることから、英語を話してイギリスに協力する可能性のある、親英的な敵性勢力であるとみなしていきます。これはリークアンユーが属するグループです。

さらに、抗日マラヤ人民軍を組織し、マレー半島でゲリラ戦を展開して日本軍に抵抗していた共産主義団体・マラヤ共産党の構成員には多くの中国系住民が参加していました。

ロシア革命以降、世界的に共産主義思想が拡大していましたが、シンガポールやマレー半島にも祖国中国や宗主国イギリスではなく、共産主義にみずからの社会の行く末を託そうとする中国系住民の勢力が存在し、彼らもまた日本軍に抵抗していたのです。

抗日マラヤ人民軍は結成時には165人の小さな武装集団でしたが、徐々にその数を増やし、戦争終結時には1万人ものメンバーがいました。これもまた、日本軍が華人を敵視する理由となりました。

民族的序列の改変

以上のような理由から、日本軍は中国系住民をシンガポールにおける民族ヒエラルキーの最下位におき、厳しい弾圧をくわえました。

イギリス支配下において、アジア系民族のなかでは比較的優位にあった華人をそのように位置づけることは、これまでのシンガポール社会における民族的序列を改変するものでした。

華人に代わって占領下で優遇されたのはマレー人、ついてインド人でした。

華人に対する日本軍の敵対的方針の極限ともいえる事件が「シンガポール華僑虐殺事件」です。この事件についてみておきましょう。

掃蕩作戦命令の発令

シンガポールの軍政を統括する山下軍司令官は、河村少将をシンガポール警備司令官に任命しました。

そして、河村に2月18日の朝に、「抗日分子を一掃すべし」という「掃蕩作戦命令」をだしました。

これにより、シンガポール市内にいた中国系住民の成年男子を対象に数日分の食糧をもって集まるように、との命令が出されました。

そこで抗日分子を探し出し、即刻処刑することがその目的でした。

この命令は第二五軍参謀の辻政信中佐によって企画立案されるとともに、辻中佐自身が現場でその執行を指導しました。

「抗日分子」の分別

こうして、日本軍によって2月21日から23日までのあいだに、中国系住民の男子が市内5か所に集められました。

それは60万人を超える膨大な人数でした。

そして、義勇軍に入っていた者、銀行員、イギリス植民地政府の仕事をしていた者、シンガポールに来て五年未満の者などは手を挙げるように日本軍の兵士が迫ったのです。

そこで、手を挙げた者は掃蕩作戦命令だとされました。

また、警察機構を利用して、抗日的とみなされる者の摘発も行なわれました。

このような方法によって「抗日分子」とそうでない者が分別されました。

そうでない者は帰宅することを許されましたが、「抗日分子」として分別された中国系住民には恐ろしい末路が待っていました。

虐殺

トラックに載せられ、海岸や郊外のジャングルなどに連行され、そしてそこに大きな穴を掘らせたのちに機関銃で処刑されていったのです。

その被害者の数をめぐって、日本では5~6,000人とするのが一般的になっています。

一方で、4~5万人という説もあります。

このような大きな数字のへだたりは占領時の混乱した状況での出来事であったため、文献史料をもって実証することが難しくなっています。

そのため、なかなか真相を判断することができていません。ですが、少なくとも多くのシンガポールに住む中国系住民の命がこの虐殺で奪われたことは間違いありません。

日本軍占領下のリークアンユー

あらゆる職業に従事するリークアンユー

リークアンユーは著書『シンガポールの政治哲学』のなかで、「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と当時の様子を振り返っています。

この時期のリークアンユーについて具体的にみてみましょう。

大学が閉鎖されたことによって学業を中断せざるを得なくなったリークアンユーは、日本軍占領期、あらゆる職業に従事しています。

まず、祖父の友人の日本人が経営していた繊維会社でタイピストとして、1年半従事します。

また、日本軍の報道部でも働きます。

このとき、仕事に関連して日本語を独学で学びましたが、幼稚園時代に学んだ漢字の知識が役に立ったといいます。

ここでの仕事は、連合国側の国々のラジオを傍受して、受信状態が良くないために聞き取れない部分を推測しながら文書としてまとめる、というものでした。

リークアンユーは、この仕事で連合国側の情報に接していたので、日本軍が次第に不利な形勢になっていることを知っていました。

そのため、1年ほどして退職し、家族全員を連れてマレーシアにあるカメロン高原に避難しようとしていました。

しかし、この避難計画は報道部の同僚が密告したことによって憲兵隊に嫌疑をかけられたため実行できず、結局マレーシアにとどまりました。

タピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤を闇市で売ったり、住宅修理などの建設請負業で生計を立てたこともありました。

日本軍占領期の記憶

シンガポールにおける日本軍占領時代を振り返り、リークアンユーは次のように言います。

 

日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。(『回顧録』)

 

リークアンユーもまた、ほかのシンガポール人と同様に、日本軍占領時代を苦渋に満ちた時代であったと考え、日本の行動を「残忍で常軌を逸し、悪意に満ち」たものであったと感じていたことがわかります。

戦闘に参加した兵士たちが他の戦地に向かったのち、シンガポールの治安を担うことになった憲兵隊の過酷な取り締まりの様子についても、次のように『回顧録』に記しています。

 

新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間も座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。

 

日本軍はシンガポールに全面的な服従を求め、大半の市民はそれに従った。人々は日本軍を嫌っていたものの、日本軍が自分たちを押さえ込む力を持っていることを心得ており、迎合していたのである。こうした事態に素早く対応できなかったり不快感を持った人や、新しい支配者を受け入れなかった人はひどい目にあった。

 

日本軍政は恐怖心を広めることでシンガポールの人々を統制した。日本軍は、気高く振舞おうとの姿勢はまったく見せなかった。

 

リークアンユーが感じたシンガポール占領の実態は「気高く振舞おうとの姿勢はまったく」ない、過酷な懲罰を課して「恐怖心」で人びとを支配するものであったのでした。

リークアンユーのみた日本軍の「治安回復」と略奪

日本による占領が開始された当初には治安が混乱状態となり、強盗団が市内を跋扈する事態となりました。

強奪団を捕らえた憲兵隊は彼らの首をはね、シンガポール市内の随所にさらし首にすることで見せしめにし、その恐怖心によって治安を回復しようとしました。

これを目撃したことをリークアンユーは次のように振り返っています。

 

日本軍は略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点にみせしめにしたので終結した。日本軍は人々の心に恐怖心を植えつけたのである。

 

また、日本軍による略奪についても次のように記しています。

 

日本軍も略奪行為を働いた。日本の支配が始まった最初の数日間は、通りで万年筆や腕時計を持っていた人は日本兵にすぐに取り上げられた。兵士たちは公式の捜査で、あるいはそう装って家に押し入り、個人的に着服できるものを奪っていった。

 

自宅が日本軍宿舎に

そして、日本軍はリークアンユーの住んでいた家を一時、宿舎にしたことがありました。彼はそのことについて以下のように述べています。

 

日本軍下士官が数人の兵士とともに我が家にやってきた。・・・彼らは我が家を一時、宿舎にすることを決めたようだ。 これが私の悪夢の始まりだった。

 

私は衣類を洗濯せず、風呂にも入っていない日本兵が放つ吐き気がするにおいには我慢できなかった。彼らは室内や敷地を歩き回った。 彼らは食料を探しており、私の母が蓄えた予備食料を見つけ、食べたいものは食べてしまった。

 

私が日本兵の要求をすぐに理解できずにいると、怒鳴られ何度も平手打ちを食らった。

 

このように、リークアンユーは日本兵と同居することを余儀なくされ、彼の言葉を借りれば「悪夢」のような生活を送ったのです。

しかし、リークアンユーの「悪夢」はそれだけにとどまりませんでした。

虐殺現場からの脱出

検査所への集合と脱出

それはすでにお話しした「シンガポール華僑虐殺事件」でした。『回顧録』には集合させられた時の様子が次のように記されています。

 

日本軍は十八歳から五十歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため五ヵ所の検査所に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。

 

そして、リークアンユーもこの通達により検査所に集合させられました。

 

日本兵が我が家から立ち去ってまもなく、華人はすべて尋問を受けるためブサール通りの華人登録センターに集合するよう日本軍からの命令が来た。 近所の人が家族と一緒に出向くのを見て、私も行ったほうが賢明だと思った。家にいて憲兵隊に捕まると必ず罰があるからだ。

 

私はテオンクーと集合場所に向かった。人力車の運転手寮にあるテオンクーの部屋は鉄条網で囲まれた境界線の中にあった。数万人の華人家族が小さな一区画に押し込められていた。 すべてのチェック・ポイントでは憲兵隊が見張っていた。憲兵隊の周りには何人かの現地の人々や台湾人がいた。私は記憶していないが、彼らの多くが顔が分からないよう頭巾をかぶっていたとの話を聞いている。 テオンクーの部屋に一泊した後、私は思いきってチェック・ポイントから出ようとしたが、憲兵隊は外出を許可しなかったばかりか、中に集められていた華人青年グループに加わるよう指示したのである。 本能的に危険を感じた私は番兵に荷物を取りに部屋に戻る許可を求めるとそれは許可され、私はテオンクーの部屋で一日半を過ごした。 それからもう一度同じチェック・ポイントから出ようとすると、理由ははっきりしないけれども許可が出たのである。私は左の上腕とシャツの前部に消えないインクを使ったゴムのスタンプが押された。 漢字で「審査済み」のマークがあれば、私が当局のお墨付きをもらった証明だった。私はテオンクーと家まで歩いて帰った。私は本当に胸をなでおろした。 人間の命や生死に関わる決定がこんなに気まぐれに安易になされるとは、私にはとても理解できることではない。私はマレー半島作戦を計画した辻政信大佐による反逆者一掃作戦からかろうじて逃れたのである。(『回想録』)

 

リークアンユーは以上のようにして危機一髪の状況で虐殺のプロセスから脱出したのです。

もし、このとき彼の身に何かあったとすれば・・・その後のシンガポールの発展を導き、そして、のちにシンガポールがこの問題を克服して日本との親善を推進した、シンガポールにとっても日本にとってもかけがえのない人物を失ってしまうところでした。

「身の毛のよだつ話」

もし脱出できなければ、どうなっていたのか。これについてリークアンユーは続けて次のように述べています。

 

私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され二十二日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、四十、五十台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。 バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。

 

彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛もよだつ話を伝えた。

 

日本も二月十八日から二十二日までに六千人の華人青年を殺害したことを認めている。戦後、華人商工会議所がシグラプ、プンゴル、チャンギで大量の墓地を発見した。商工会議所の推定によれば大量殺害の被害者は五万人から十万人に達した。

 

リークアンユーと同じように、なんとか難を逃れた人びとにとってこの衝撃の事実は「身の毛のよだつ話」でした。

商工会議所の推定として記されている被害者数は実際よりは多く見積もられているものかも知れませんが、それは虐殺される側の恐怖心を反映したものかもしれません。

暴力と恐怖

リークアンユーは日本の占領時代全体を振り返ってこう言います。

 

私は日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。私は毛沢東の「政権は銃口より生まれる」との言葉を知らなかった。しかし、日本軍の冷酷さ、銃、剣付き鉄砲、それにテロと拷問を目の当たりにして、だれが権限を持ち、何が忠誠心を含め人々の行動を変えることができるかという議論はすでに私は結論を出していた。日本軍はシンガポール人に対し単に従順になるだけでなく、長期的観点から日本の支配に順応するよう求めていらのである。シンガポール人が自分たちの子供を言葉、習慣や価値などの日本の新体制に適応できる人間に教育するように仕向けたのである。(『回顧録』)

 

すなわち、シンガポール人を「日本の新体制に適応」するように、暴力と恐怖によって人びとの行動をつくり替えようとしたものであると理解していたのです。

そして、当時の日本人について手厳しく批判しています。

 

同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と自分たちは違うと考えていたのである。

 

このような日本に対する感情は、戦後において日本とシンガポールが交流していく上で大きな障害となりました。

後述しますが、それを克服する努力が日本そしてシンガポール双方でなされたことで、今日のような関係が構築可能となったのです。

戦争と占領の過程で亡くなったすべての人びとを悼むとともに、シンガポールの人びとが「日本人に幻滅した」状態から、信頼を取り戻すために先人たちが積み重ねてきた数々の努力に敬意を払わずにはおれません。

「最も大きなかつ唯一の政治教育」

しかし、その一方でリークアンユーはこのようなことも言っています。

 

私は、刑罰では犯罪は減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じない。これは戦前のシンガポールではなく、日本の占領下とその後の経験で得た信念である。(『回顧録』)

 

リークアンユーは晩年に、「人間は残念ながら、本質的に悪である。だから悪を抑える必要がある」という言葉を遺していますが、まさにこの言葉のとおり強圧的とも言える厳罰主義によって独立後のシンガポールを統治しました。

ここでは、そのような思想は日本軍の占領政策から学んだと語っているのです。

その是非はともかく、「日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ」とみずから語っているように、この時期にリークアンユーが政治家として多くのことを学んだことは間違いないようです。

リークアンユーが、「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と言う彼にとっての日本軍占領時代とは、以上のようなものだったのでした。

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占領の終結とナショナリズムの覚醒

「白人神話」の破壊

日本軍によるシンガポール占領によって、シンガポールの人びとにはこれまでとは違った感情が芽生えていました。

それは「シンガポールの独立」を目指す、ナショナリズムの感情でした。

これは日本が予期しなかった結果ですが、これまで絶対的だと考えていたイギリスが日本に降伏し、イギリス人が日本兵に服従している姿はイギリスによる支配の絶対性という、シンガポール住民の心の中にあった一種の「神話」をことごとく破壊することになりました。

リークアンユーの『回想録』には次のように述べられています。

 

英国兵、インド兵、オーストラリア兵を向こうに回し、日本が十一万の兵力を動員して攻撃し獲得したマラヤとシンガポールの実情だった。…人々が驚き、動転し、それに愚かさが入り交じった七十日間で、シンガポールの英国植民地社会は、英国人は優秀だという虚構とともに吹き飛んだのである。… 白人は生まれながらに優秀であるという優越神話をうち立てることに成功したので、多くのアジア人は英国人に刃向かうことなど現実的でないと思い込んでいた。 しかし、アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話をうち砕いてしまったのである。

 

この「吹き飛んだ」あるいは「打ち砕いた」という表現が物語っているように、「アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し」てイギリスを無条件降伏させたという出来事は、リークアンユーをはじめシンガポールの人びとの価値観を一変させてしまったのです。

と同時に、イギリスに代わって支配者となった日本による過酷な占領によって、日本による統治もまた受け入れがたいものであると感じていました。

自分の国は自分たちで

こうして、シンガポールを統治するのはいかなる外部勢力でもなく、シンガポールで生活を営む自分たち自身しかいない、という感情を生み出したのです。

そのことを物語るリークアンユーの言葉があります。

 

私と同世代の仲間は、第二次世界大戦と日本占領を経験した若い世代である。この過程で、われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した。われわれは、自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心したのである。(“History of Modern Singapore”)

 

こうして、「イギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した」シンガポールの人びとが、「自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心 」するという、ナショナリズムの意識が確実にシンガポールの人々に育っていきました。

そして、その先に目指されることとなるのは「独立」でした。

独立への意志

1945年の敗戦により、日本はシンガポールから撤退することになりました。

ところが、それに入れ替わってふたたび戻ってきたイギリスによって、植民地支配が継続することになりました。

しかしながら、イギリスの降伏とそれに続く日本の過酷な支配をつうじて新たに、そして確実にシンガポールの人々のなかに最も大きなかつ唯一の政治教育は決して消えることはありませんでした。

のちにシンガポール建国の父となったリークアンユーは、当時のみずからの決意について、次のように述べています。

 

われわれはイギリス人を追い出したかった。イギリスの武力崩壊を見た後、そして3年半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否した。第2次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、痛めつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った。われわれは自ら治め、自ら尊厳ある国民として誇りを持てる国で、子どもたちを育てていこうと決心した(リー=クアンユー『シンガポールの政治哲学』)

 

ヨーロッパが戦後の混乱状態にあって各地で植民地からの独立の気運が高揚し、イギリスの植民地に対する支配力が低下してゆくなかで、とりわけ遠く離れたマレー半島の支配はイギリスにとって非常に困難な状態に陥っていきました。

このことは、シンガポール独立を求める勢力にとって追い風となっていきました。

大衆的基盤の不在

他方、インドをはじめとするイギリス植民地をはじめ、オランダが戻ってきたインドネシアや、フランスがふたたび支配を継続しようとしたインドシナでは、武力を含む独立闘争が展開されていました。

植民地支配を継続しようとふたたびやって来たかつての支配者を待ち構えていたのは、歓迎する人びとではなく、武装した人びとだったのです。

しかしながら、シンガポールは事情が違っていました。

確かにリークアンユーのような知識人を中心にナショナリズムに覚醒した人びとは存在していましたが、他の地域のようにナショナリズムがさらに広範な大衆にも共有され、指導者を中心としてそれを担う人びとが組織を形成するにはいたっていなかったのです。

それどころか、1945年9月にイギリス軍がシンガポールにふたたび上陸すると、家々にはその歓迎のためにイギリス国旗であるユニオンジャックが掲げられたと言われています。

シンガポールでは他の東南アジア地域に一歩遅れて、戦後にいたってナショナリズムを基盤とした大衆運動組織を形成することが課題となりました。

イギリスによる締めつけが次第に緩んでいくシンガポールで、独立を目指す運動組織の担い手としてリークアンユーが政治の舞台に登場しました。

以下、戦後のリークアンユーのあゆみについてみてみたいと思います。

リークアンユーイギリスへの留学

イギリスへの旅立ち

リークアンユーは第2次世界大戦後の1946年9月、シンガポールを出発します。

イギリスに留学するためでした。

日本軍の占領によって中断していた学業にふたたび取り組むために、イギリスへの留学という道を選んだのです。

当時は戦後間もない時期で、ヨーロッパへ向かう船のチケットを入手するのは非常に困難でした。

しかし、すぐれた交渉能力を発揮して、戦後すぐにイギリス軍の請負仕事をしていたコネクションによって、イギリス軍の兵員輸送用であった軍艦ブリタニック号に乗船することに成功し、イギリス行きを果たしたのでした。

イギリスでの修学

当初、リークアンユーはロンドン大学で学んだのですが、ロンドン大学は大都会ロンドンにあるため、その環境に馴染むことができなかったために、1学期で去ってしまいました。

そしてケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジに移ったリークアンユーはここで法律学を専攻しました。

都会の喧騒に囲まれたロンドン大学とは異なり、ケンブリッジ大学の閑静なキャンパスは彼を満足させました。

ここを首席で卒業した彼は、短期間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通いました。

留学先でのロマンス

ケンブリッジ時代には真面目に学業に励むかたわら、ロマンスも生まれました。

その相手はクワ=ギョクチューというマレーシア出身の華人女性でした。

彼女は1920年にマレーシアで誕生し、ラッフルズ学院を卒業したのち、海峡植民地では女性初の女王奨学金を受けた非常に優秀な女性でした。

1947年秋にイギリスに留学したクワギョクチューはリークアンユーと同じようにケンブリッジ大学で法律を学んでいました。

じつはすでにシンガポールで知り合いではあったのですが、ケンブリッジ大学在学中に急接近したのでした。

超高学歴エリートカップルの誕生です。

そして二人はシンガポールに帰国するとすぐに結婚しました。

同志との出会い

また、リークアンユーはのちに政治の世界で行動を共にすることになる多くの仲間とイギリス留学時代に出会いました。

のちにリークアンユーの片腕としてリークアンユー政権のもとでの経済成長を政権内部でささえ、数々の大臣職を務めることとなるゴーケンスイはロンドン大学で経済学を学んでいました。

また、リークアンユー政権の外相として、長期にわたって対外的なスポークスマン役を務めることとなるラジャラトナムはロンドン大学でジャーナリズムを専攻していました。

また、リークアンユー政権の与党・人民行動党で委員長を務めることになるトー=チンチャイもロンドン大学の留学生でした。

さらにリークアンユー政権で労働大臣や法務大臣を歴任したケニー=バーンは、同じ時期にオックスフォード大学に留学していました。

イギリスでの出会いは、これらのちに「同志」として政権を担うことになる人びとだけではありませんでした。

マレーシアの第2代首相・ラザクなど隣接するマレーシアで将来指導者となる人びとをはじめ、イギリスの支配下にあったアジア・アフリカの国々から自国の未来を憂いつつイギリスに留学していた人びととの交流は、リークアンユーのナショナリズム意識をより確かなものとし、植民地支配からの解放への願いを強くしていきました。

労働運動へのコミットと留学生団体での講演

一方で、リークアンユーはイギリスで労働運動にもコミットするようになっていきました。

すなわち、ケンブリッジ大学労働クラブの一員となって、選挙の際には応援演説に立つなどして労働党を支援するなどの運動を行なっていたのです。

しかしながら、イギリス共産党とは一定の距離をとっており、リークアンユーが政権樹立後にとった反共的態度は、この頃からの思想的傾向であったことがわかります。

また、1950年1月、シンガポールとマレーシア出身の留学生による団体「マラヤ・フォーラム」主催の講演会でリークアンユーは「帰国留学生の任務」という講演を行ないました。

そのなかで、リークアンユーは①シンガポールやマラヤ(マレーシア)には共産主義は適さないこと、②戦後独立した旧植民地の国々の指導者は海外帰国留学生であり、自分たちもまたそうする使命があり、イギリスもまた自分たちのようなイギリス留学生が指導する運動のほうが他の運動より受け入れやすいこと、などを訴えました。

イギリス留学時代にリークアンユーは明確な独立への志向と、自分たちこそがその指導者なるにふさわしいという意識を確立していたことをうかがい知ることができます。

以上のように、リークアンユーのイギリス留学時代は、彼が帰国後に歩むべき道(=「使命」)、そしてその道を夫婦として、政治家としてともにする人びとと出会う重要な時期であったのです。

シンガポール独立への胎動とリークアンユーの帰国

マラヤ民主同盟の結成

リークアンユーがイギリス留学をしていた頃、シンガポール国内では少しづつ、独立をめざす動きが広がりつつありました。

1945年12月にはすでに、リークアンユーらイギリス留学していた青年たちより一世代上の英語教育を受けた自由主義者と共産主義に共鳴する人びとが連携して、「マラヤ民主同盟」(Malayan Democratic Union)が結成されていました。

この団体が第一の目標として掲げたのが、マレーシアのすべての民族によって独立を勝ち取ることでした。

しかし、この団体は3年もしないうちに解散してしまいました。

その背景には、1948年6月にイギリスによる植民地政府に対してマラヤ共産党が武装蜂起したことがありました。

これにより、マラヤ民主同盟のメンバーたちはイギリスによって自分たちも弾圧されるのではないか、ということを恐れたため、自ら解散したのです。

マラヤ民主同盟には、団体としては短期間のあいだに知識人階層による理念的な運動に終わった、という限界はありました。

しかし、一方ではその後の独立運動の担い手となる英語教育を受けた人びとと共産主義者とが連携して運動をしたこと、そしてすべての民族による独立を主張したことなどは、のちの独立運動やリークアンユーが党首となる人民行動党のモデルとなるもので、その先駆的意義は非常に大きいと言えるでしょう。

マラヤ共産党と華語派華人

一方、中国系住民のうち、人口に占める割合の大きい華語派華人たちの独立運動は、この時期の動向を語る上で避けて通れない存在です。

彼らの中心的政治組織だったのが、マラヤ共産党でした。

戦争中には日本軍に対するゲリラ戦を組織的に行ない、日本軍撃退に貢献したことで、戦後は合法化されていました。

日本が敗北したことにより、マラヤ共産党は次に独立を目指すようになりました。

つまり、打倒の対象が日本軍からイギリス植民地政府へと移行したわけです。

そして、前述のように1948年6月、マラヤ共産党はイギリスをマレーシア・シンガポールから駆逐して政権を掌握するべく、武力蜂起を実行しました。

イギリス植民地政府は、シンガポールとマレーシアに非常事態宣言を発令して、共産党を非合法化しました。

そして、武力による鎮圧を行ないます。その結果、この企図は失敗に終わりました。

その後、マラヤ共産党は非合法化されていたので、地下に潜って活動を継続し、労働団体や中国語による教育機関などで影響力を拡大していきました。

リークアンユーの帰国と弁護士活動

このようにシンガポールで独立への胎動が芽生え始めた1950年8月1日に、リークアンユーはイギリスから帰国しました。

帰国の際に乗船したオランダ船には、先に述べたクワギョクチュー、ゴーケンスイ、ケニーバーンも乗っていました。

そして、同年9月30日にリークアンユーとクワギョクチューは結婚式を挙げました。

帰国したのちに弁護士資格を取得したリークアンユーは、シンガポールのマラッカ・ストリートにあるレイコック&オン法律事務所(Laycock and Ong)という法律事務所で妻のクワギョクチューとともに弁護士として勤務しました。

そして、イギリス植民地当局の弾圧によって逮捕・提訴された労働組合や学生指導者たちが続出するなか、その弁護を積極的に引き受けた人物が、のちに初代シンガポール首相となるこのリークアンユーでした。

彼もまた、植民地支配からの解放とシンガポールの独立を志すエリート青年の一人だったのです。

政界への進出

リークアンユーは次々と裁判で勝利し、共産系労働組合や左翼人士との信頼関係を築いていきました。

そのネットワークが政界進出において、重要な意味をもちました。

1951年には、リークアンユーの勤務していた法律事務所の上司であるジョンレイコックが、保守派の親英政党である進歩党から候補者として立法審議会選挙に立候補しました。

リークアンユーはその運動員として活動したことを契機に、政治活動に足を踏み入れることとなりました。

その間、1952年には、のちにシンガポール第3代首相となる、長男のリーシェンロンが誕生しました。

そして、1954年には英語教育グループと共産主義系グループが連携して人民行動党が創設され、リークアンユーはその書記長に選出されることとなります。

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シンガポールにおける自治の拡大

植民地統治単位の改編とシンガポールの分離

次に、シンガポールを統治するイギリス植民地政府のシンガポールをめぐる動向についてみておきましょう。

日本の敗戦とともにシンガポールの統治者として復帰したイギリスは、1946年4月1日、これまでのマレー半島地域の植民地の統治単位を再編しました。

シンガポールはこれまで、「海峡植民地」の一部としてマラッカやペナンと一つの単位をなしていました。

そして、マレー半島はこれとは別の「マレー連合州」という単位で統治されていました。

第2次世界大戦終結後、イギリスはその改編に乗り出し、マラッカとペナンをマレー半島本土と合わせて「マラヤ連合」(マレーシア)とし、シンガポールのみをイギリスの直轄植民地として分離しました。

現在の独立国家としてのマレーシアとシンガポールに該当する地理的・政治的単位が、これにより誕生したのです。

シンガポール分離の背景

このような形で植民地の統治単位再編とシンガポールの分離が行なわれた背景には、イギリスとマレーシアそれぞれの事情が絡み合い、結果的にシンガポールの分離が両者にとって都合がよかったことによります。

まず、イギリスの事情としては、戦後世界においてアジアにおける権益を維持・確保するにあたって、シンガポールのもつ軍事的・経済的な重要性によるものでした。マレーシアが独立を目指した場合でも、シンガポールを分離しておくことで、シンガポールでの影響力を確保できる、と考えたのです。

他方のマレーシアの事情としては、マレーシアのマレー人がシンガポールの華人たちのもつ政治力と経済力がマレーシア全体に及ぶことを警戒していたことがあげられます。

マレーシアはあくまで、マレー人を中心とした社会を志向していましたので、華人が多数を占めるシンガポールとは距離を置いておきたかったのです。

この問題はのちほど、より現実的な問題となって再燃します。

イギリスの影響力低下

第2次世界大戦後のイギリスは、ヨーロッパの混乱と大戦前からアジアの各植民地で次第に高まっていた独立への機運が大戦の終結後になって一気に高まったことを背景として、戦後、アジアでの影響力が急速に低下していたため、少しでも各植民地での影響力を維持しようと自治権を付与・拡大するなどして植民地住民たちに譲歩をはじめました。

とくに、アジア太平洋地域におけるイギリスの影響力低下の兆しは、戦争中からはじまっていました。

それは、戦時下のイギリス政府を率いていたチャーチル首相が、人種的な理由から日本を過小評価しており、また植民地防衛についてはエジプトを重視していたために、シンガポールやオーストラリアなど極東地域への軍事力展開を相対的に軽視していたことによります。

このようなイギリス政府の政策は、日本軍の進撃を容易にしたばかりでなく、日本軍を迎え撃つ立場にあったオーストラリアがイギリスではなく、太平洋地域に大規模な兵力を展開していたアメリカを頼らざるをえなくしてしまいました。

もちろん、イギリスも手をこまねいて見ていたわけではなく、1943年に東南アジア連合軍総司令部最高司令官にイギリス軍のマウントバッテンを就任させて、戦後の秩序も視野に入れつつアジア太平洋戦線における主導権回復を目指しました。

しかしながら、アジア太平洋地域におけるイギリスの影響力低下とこれに代わるアメリカの台頭は、変えることのできない歴史の流れとなって戦争終結後も続いていきました。

自治権拡大や独立を求める植民地への譲歩は、こうしたイギリスの影響力低下への対処としてなされたものでした。

自治の拡大とはじめての選挙

このような流れの中で、シンガポールでも1947年7月にはイギリス植民地当局によって立法会議選挙法令が公布されます。

そしてこれに基づき、1948年3月20日に議席の一部を民選とするシンガポールで初めての選挙が実施されました。

この選挙は住民の一部に選挙権を制限した制限選挙でしたが、20万人のシンガポール市民が参加しました。

1948年にはマラヤ連邦(マレーシア)に自治を認め、その後1955年にはリンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、シンガポールは部分自治を認められることとなります。

すなわち、シンガポールの立法評議会を財政・外交・軍事など以外の自治権を持つものに改め、民選議員の割合を増やした上で自治政府が設立されることになったのです。これに伴い、シンガポールでは政党結成の動きが活発化しました。

このような流れの中で登場したのが、リークアンユー率いる人民行動党だったのです。

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リークアンユーの政権獲得と政治闘争

人民行動党の結成と政権獲得

人民行動党結成

シンガポール自治政府が設立されるのを前に、リークアンユーたちは自分たちの政治的基盤となる政党を結成する動きを加速させました。

そして、1954年11月21日、1500人超の人びとがビクトリア・メモリアル・ホールに集結して、人民行動党結成大会が開かれました。

リークアンユーは14人の発起人の一人として名をつらね、大会参加者によって書記長として選出されました。

また、委員長にはトーチンチャイが選出され、シンガポールにおいてイギリスからの独立をめざす政党として人民行動党が正式に発足しました。

英語派華人と華語派華人の共同運営

結党当時、人民行動党は英語教育を受けたエリートたちと華語派華人の共産系グループが共同して運営する政党でした。

英語教育グループの中心は海峡華人のリークアンユー、ゴーケンスイ、トーチンチャイと海峡インド人のラジャラトナムの4人でした。

彼らは当時、30代の青年で、ともにラッフルズ学院で学んでイギリスに留学したという経歴をもっています。

つまりイギリス留学時代の仲間が集まって、政治活動をはじめ、その4人のうち、最年少(当時31歳)であったリークアンユーがそのリーダーとなったのです。

一方の共産系グループを率いたのは、英語教育グループよりさらに若い21歳のリムチンションと23歳のフォンスィースアンでした。

彼らはシンガポール出身の華語派華人で、中華中学を卒業し、労働運動を組織するなかで台頭してきた若きリーダーたちです。

この両者は、植民地支配を集結させて独立へと向かうという点で一致したものの、シンガポール社会で分化した社会においては明らかに異なる集団に属していました。

共同運営のメリット

では、なぜこのような背景もイデオロギーも異なる集団との共同を、リークアンユーは考えたのでしょうか。

リークアンユーは著書『政治哲学』のなかで、自分たちのグループの限界について、

 

英語教育を受けた民族主義者、イギリスの大学の卒業生で、政治の駆け引きにも革命陰謀にも無経験なグループ、大衆の話す数多くの言語はしゃべれず、大衆のかかえる問題や困難は頭の中でしか共有していなかったグループ

 

であったと述べているように、自分たちの勢力の大衆的基盤の脆弱さをよく自覚していたがゆえに、労働組合・学生組織といった大衆的基盤をもつ共産系グループと連携することによって、支持を拡大することを企図したのでした。

他方の共産系グループにも、リークアンユーらとの連携にはメリットがありました。

前述のように、共産党が非合法化されていた当時の状況で自分たちが政治活動に関与するには、共産主義政党ではない政治組織が必要でした。

そこで、共産主義とは無縁ともいえる海峡集団のリーダーたちを前面に出すことで、共産主義色を表に出すことなく、合法的な政治活動が可能になる、と考えたのです。

このような同床異夢の両者によって結党された人民行動党は、これら2つのグループが相互補完しあうことで、シンガポール社会での影響力を次第に増してゆくこととなりました。

リークアンユーの初当選

結党翌年の1955年には、リンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、シンガポールは部分自治が認められることとなりました。

そして、シンガポールの立法評議会を財政・外交・軍事などを除いた自治権を持つものとし、民選議員の割合を増やして定員32名中25人が選挙で選出されることになったのです。

人民行動党は、この時の選挙を視野に入れて結成されたものでした。

のちにシンガポールの政治を事実上、一党独裁のもとにおく人民行動党はこの時、わずか3議席を獲得するにとどまっていましたが、これは結党間もない政党として、まず政治参加することを課題として立候補者を絞り込み、全員当選を果たしたもので、目標を達成できたといえるものです。

そのうちの1人がリークアンユーでした。彼はタンジョンパガー選挙区で78%の得票率で対する保守党の候補に勝利し、正式に政界入りすることとなりました。

混乱する政局

この選挙では、英語教育労働者を支持基盤とする労働戦線が最多議席を獲得して、その党首であるイラン系のデビッド=マーシャルが自治政府の初代首相となりました。

ちなみにマーシャルは、戦争中に連合国軍の兵士として参戦しましたが、日本軍の捕虜となって北海道の炭鉱で労働に従事させられた、という過去がある人物です。

この当時の自治政府首相の権限は非常に制限的なものであったため、マーシャルは何度も、イギリス植民地当局と衝突しました。

このため、1956年6月に1年あまりで首相を辞任してしまいました。

つづいて、同じく与党・労働戦線のリムユーホックが首相に就任します。

しかし、華人の労働組合や学生運動が活発になっていて、不安定な政治情勢のなかでほとんど成果をあげることなく、次の選挙を迎えることとなりました。

マラヤ連邦の独立とシンガポール市議会選挙

1957年になると、イギリスの支配が弱まってゆくなかで、自治領としてではありましたがマレー半島内の一部がペナン・マラッカを中心に「マラヤ連邦」として独立しました。

そして、初代首相にトゥンク=アブドゥル=ラーマンが就任します。

ラーマンはその後、リークアンユーと深い因縁を結ぶこととなります。

1957年に行なわれたシンガポール市議会の選挙は、人民行動党によってその実力を社会に示す機会となりました。

この選挙の結果、第一党となり、オン=エングェンをシンガポール市長に就任させたのです。

オンエングェン市長は民衆申訴局や密告局を設置して、住民の声を集約しつつ政府内部で横行していた汚職を一掃しました。

また、市庁舎前に設置されていたエリザベス女王の銅像を撤去し、シンガポール独立への意思表示を明確にしました。

さらに、華人が要求していた屋台営業の自由化および郊外のマレー人集落に水道を敷くなどしてシンガポール市民の人気を集めました。

完全自治への移行と普通選挙の実施

そして、1959年にはシンガポールがこれまでの制限の多い部分自治からイギリス連邦内の自治州として外交と国防以外の権限を行使することが可能な、完全自治へと移行してゆくのです。

立法評議会の定員も51議席に増員されて、全員が選挙によって選出されることになりました。

また、選挙権も拡大し、これまでの制限選挙から20歳以上の男子による普通選挙へと移行しました。

このときの選挙には、複数の政党が参加はしましたが、実質的な闘いは当時、政権の座にあった与党・労働戦線と4年のあいだ立法評議会における野党として活動し、1957年の市議会議員選挙で示されたように、その勢力を着実に拡大していたリークアンユー書記長が率いる人民行動党との対決となりました。

人民行動党の勝利とリークアンユーの首相就任

その結果は、全51議席のうち人民行動党が53.4%の得票率で43議席を獲得し、シンガポール立法評議会において圧倒的多数を占める第一党になりました。

対する労働戦線はわずか4議席の獲得となり、人民行動党の圧勝でした。

リークアンユーもまた、前回立候補したタンジョンパカー選挙区で72%の得票によりふたたび勝利しました。

このときの勝因としてもっとも大きかったのは、制限選挙から普通選挙への移行により、多くの華人が投票にするようになったことでした。

すなわち、シンガポールの人口の多数を占める彼らを支持基盤とする人民行動党にとって、選挙権の拡大は大いに有利な要素として働いたのです。

リークアンユーら人民行動党指導部の海峡集団からしてみれば、大衆的基盤を持つ共産系グループとの連携が結党5年にして功を奏した、ということになりました。

こうして1959年6月3日、当時35歳という若さのリークアンユーが完全自治を獲得してはじめてのシンガポール首相に就任しました。

リークアンユーは、閣僚として当結成時からの「第一世代」と呼ばれる人々のうち、英語教育を受けたトーチンチャイが教育相、ゴーケンスィーが財務相、ラジャラトナムが文化相に就任し、英語を話す層が中心となった層が中心の新政権が発足したのです。

しかし、これでリークアンユーの政治家人生はハッピーエンド、というわけにはいきませんでした。

これまで政権獲得を目指して2つのグループが共闘してきた人民行動党内の矛盾が、政権党となったことで一気に露呈してきたのでした。

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共産系グループとの対立とリークアンユー自治政府の政策

首相指名における党内対立

リークアンユーの首相就任前後から、議会の第一党となり政権を獲得することとなった人民行動党内部において、党の路線などをめぐって左右の勢力争いがくりひろげられるようになりました。

それが最初に表面化したのが、選挙での勝利をうけて人民行動党中央執行委員会が開かれた時のことでした。

その重要議題は「首相を誰にするか」ということでしたが、そのとき、リークアンユー書記長の対抗馬として華語派華人から絶大な支持を集めているシンガポール市長のオンエングェンを推す動きがありました。

オンエングェンはオーストラリアへ留学した会計士でしたが、福建語の演説が巧みでした。

実は、福建省など中国南部地方出身の華人を基盤とする人民行動党内の左派勢力を抑制するため、リークアンユーがオンエングェンを人民行動党にスカウトしたという経緯がありました。

そのオンエングェンが、リークアンユーのライバルとして彼に立ちはだかったわけです。

委員会では委員の意見が2分され、双方が同数の支持を得ました。

最終的に議長の判断で、リークアンユーが首相として推されることになりましたが、これによりリークアンユーは党内の華語派華人の勢力を見せつけられたのでした。

オンエングェンの猛攻

以降、政治運営の主導権をめぐり人民行動党内部で、両者の対立が激しくなっていきました。

すなわち、英語教育を受けた層を中心とするリークアンユーなどイギリス的国家建設をめざす右派と、華語教育を受けた層に広範な支持基盤をもち共産主義を志向する左派・共産系グループとの対立が、次第に深まっていったのです。

首相指名争いに敗れたオンエングェンは、一度はリークアンユー政権の下で国家発展相に就任しました。

しかしながら、予算の配分をめぐってリークアンユーと摩擦が生じることとなり、人民行動党から離党してしまいました。

離党後、オンエングェンは人民統一党を結成して、1961年の補欠選挙では人民行動党を圧倒しました。

そのため、中国語が苦手なリークアンユーは、オンエングェンに対抗するために北京語に加え、慌てて福建語の勉強を始めた、というエピソードがあるほど、一時はオンエングェンの猛攻に頭を悩ませました。

汚職根絶・風紀取締り強化

一方、首相となったリークアンユーは、次々と特色ある独自の政策を実行していきます。

今、シンガポールの人民行動党は、汚職のないクリーンな党として世界的に知られていますが、その原型ができたのが、リークアンユーが首相に就任した直後です。

まず、リークアンユー首相のもとで、大臣級の給与削減が実施されました。

そして、閣僚たちもボランテイアで清掃に参加する「シンガポール・クリーン・キャンペーン」が行なわれました。

その上で、公職者の汚職を取り締まり、監視させる専門部署として汚職調査局を政府内に設置しました。

この汚職調査局は、公務員や政治家の私生活まで監視するもので、不審なことがあった場合は徹底した取り調べが行なわれました。

また、社会の風紀の乱れを糺すとして、ストリップ・ショーやキャバレーといった遊興施設が禁止されるなど、市民生活への締めつけも行なわれました。

経済構造の根本的改革という課題

他方、リークアンユー自治政府の目の前には、経済開発という政策課題が横たわっていました。

その第一の課題は、これまで中継貿易に依存していた経済構造をどのようにして根本的に改革していくのか、ということでした。

その背景には、周辺の東南アジア諸国が独立し、これらの国々が経済発展のために工業化をすすめたことがありました。

これにより、東南アジアから原材料を輸出し、ヨーロッパから工業製品を輸入する、という長期にわたって続いてきた物流の流れに次第に変化があらわれ、東南アジア諸国の貿易が減少していったのです。

そのため、ラッフルズがシンガポールに港湾を建設して以来、ヨーロッパとアジアの中継貿易を軸として発展してきたシンガポールの経済は大きなダメージを受けていたのです。

外国資本導入による工業化へ

これに対し、リークアンユーを中心とする自治政府が提示した打開策は、ゴーケンスイ財務相を中心として工業化を推進するということでした。

当時はシンガポールの失業率が10%を超えていたこともあり、工業化の推進は大規模な雇用創出が見込まれることもあって、経済構造の改革という問題のみならず、目の前の雇用問題を解決するうえでも切り札となるものでした。

リークアンユー率いる人民行動党政権は成立してすぐに、経済開発庁など政府行政機関の調整を行ない、経済発展の基盤となる行政システムを確立しました。

しかしながら、すでに先行して工業化をすすめていた周辺国といたずらに競争関係になるような工業化を推進するのは得策ではないといえます。

したがって、軽工業中心の周辺国の工業化政策とは異なり、シンガポールの工業化においては造船や石油化学といった重化学工業に重点が置かれることになりました。

そして、重化学工業を担いうるような力のある国内資本がシンガポールには皆無であったために、外国からの資本を誘致するという戦略が提示されました。

さらに、そのために必要な工業用地として、政府によってシンガポール島西部にある沼地が整備されて、工業地区が建設されました。それがジュロン工業地区です。

このような工業化への努力は、やがてマレーシアから分離独立して以降も継続されます。

狭小な国内市場という問題への処方箋

このとき、問題となったのが、シンガポールの国内市場が狭小であるということでした。

シンガポールで生産した工業製品を国内で販売するためには、一定規模の購買力のある市場が必要です。

しかしながら、シンガポールのような小規模な市場では当然のこととして、そこで見込まれる需要はきわめて限定的なものとならざるを得ませんでした。

そこで想定されたのが、隣国マレーシア(当時はマラヤ連邦)との将来の合併を想定し、マレーシアの市場を国内市場化することでした。

こういった経済的事情もあり、その後、リークアンユーはマレーシアとの合併交渉を積極的に試みるようになりました。

マレーシアとの合併へ

こうして、シンガポールのイギリスからの独立とマレーシア(当時、マラヤ連邦)との合併を目指して積極的に交渉をすすめたリークアンユーは、「シンガポールの生き残りのためにはマレー半島との一体化が不可欠」だとシンガポールの住民に強く訴えかけました。

一方のマラヤ連邦のラーマン首相は1961年、シンガポールをはじめサバ、サラワク、ブルネイといった当時のマライ連邦に隣接するイギリス植民地と合併して「マレーシア連邦」を結成する構想を打ち出します。

このようにして思惑が一致したリークワンユーとラーマンは、シンガポールとマレーシアの合併に向けた具体的な協議へとはいっていきました。

こうして両者による協議が行なわれた結果、合併案がまとめられ、本格的な合併へと舵がきられてゆくこととなりました。

双方の事情を反映した合併案

このとき合意された合併案の内容は、次のようなものでした。

まず、合併後もシンガポールが引き続き自治州として、教育や労働政策も含めた強い自治権を保持することが明示されていました。

合併を主張しながら、それと矛盾するとも思えるような合併案が両者で合意された背景には、シンガポールとマレーシア双方の民族政策のちがいがありました。

すなわち、マレーシアでは学校教育をマレー語で行なう学校教育のマレー語化政策を進めていました。

しかしながら、シンガポールにおいては引き続き英語や中国語による教育を認めていました。

また、公務員採用や企業設立の際に、マレーシアにおいてはプミプトラ政策というマレー人を優遇する政策が行なわれていましたが、華人が人口の多数を占めるシンガポールではこれを採用しなくてもよい、ということになりました。

それぞれの人口における民族構成のちがいが配慮され、マレーシアが華人勢力の強いシンガポールに配慮する形となったのです。

その一方で、シンガポールでは自由貿易港を継続することとされましたが、同時に開発が遅れているサバとサラワクに融資するとされました。

この地域で経済的に発展の可能性のあるシンガポールの富を、開発の遅れた地域にも分配することで、ラーマンが構想する「マレーシア連邦」全体の発展を、シンガポールに牽引してもらおうとしたのです。

合併をめぐる党内対立の激化

こうしてリークアンユーは、イギリスからの独立とマラヤ連邦との合併をさらに主張するようになりますが、これに強く抵抗した勢力がありました。

それは、リークアンユーら大衆的基盤が脆弱な英語教育グループが勢力を拡大するために、結党以来、その大衆運動組織を利用し共闘してきた与党・人民行動党内の左派である共産系グループでした。

前述したように、彼らは当時、マラヤ共産党の影響下にある共産主義者のグループでした。

マラヤ共産党は戦争中に日本軍に対するゲリラ戦をつうじて、勢力を拡大させました。

しかし、戦後は武装蜂起を企てたためにイギリスやマラヤ連邦によって徹底的に弾圧されて非合法組織とされてしまいます。

しばらくはジャングルに解放区を設置して勢力をなんとか確保していましたが、これらも制圧されてしまった結果、シンガポールの労働運動が彼らの活動の場としてその後も勢力を保ち続けていたのです。

このような彼らの基盤を利用することで勢力を拡大し、政権を獲得するにいたったリークアンユーは、合併問題を通じて党の組織形態の矛盾が爆発する事態に対処しなければならなくなりました。

そもそもが政権獲得のために同床異夢の状態で発足した人民行動党が、いつかは直面しなければならない問題でしたが、それがこの時期に来て先鋭化していくのです。

両首相の思惑

これほどまでに与党内共産系グループが合併に反対した理由は、マレーシアのラーマン首相の思惑にありました。

マレーシアにおける共産化を警戒するラーマンは、まずシンガポールの共産化を防止する必要があると考え、反共を国是とするマレーシア政府のもとにシンガポールを取り込むことで、シンガポール国内に根強い支持基盤をもっていた共産系グループを抑え込もうとしたのでした。

そして、そのような思惑は、党内の実権を完全に掌握したいと考えていたリークアンユーにとっても魅力的なものだったのです。

つまり、合併そのものに共産系グループの排除、という両首相の意図があったわけです。

共産系グループの離脱とバリサンの結成

このような意図を理解していた共産系グループが反発しないわけがありません。

マレーシアとの合併を推進しようと国内世論に訴えるリークアンユーに徹底抗戦しようとしました。

1961年に行なわれた補欠選挙では共産系グループが野党候補を応援し、その結果、人民行動党の候補は落選してしまいました。

これにより、リークアンユーは苦しい立場に陥ってしまいました。

そこで国会に「政府信任案」を提出してこの危機を乗り切ろうとしました。

この信任案は深夜の激論をへて未明に採決されることになりましたが、結果は26:25というわずか一票差で可決され、なんとか国会の信任という政権継続のための大義名分をえました。

この「政府信任案」をめぐる攻防は、31年続いたリークアンユー政権において最大のピンチでした。

こうした人民行動党における左右の路線対立の末に、1961年7月にいたって「政府信任案」をめぐる攻防に敗れてしまった左派は、党から脱退することとなりました。

人民行動党を脱退した共産系グループは、新たにバリサン・ソシエリス(社会主義陣線=社陣)を結成して、医師出身のリーシューチョウを委員長に選出して活動を開始しました。

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バリサンとの闘争とマレーシア連邦への編入

左右分裂の打撃

人民行動党の左右分裂によって、バリサンへと移った国会議員は13人でした。

しかし、その打撃はそれよりも末端組織において深刻でした。

労働組合を基盤とする人民行動党の支部や専従職員らの多くが、バリサンへ移ってしまったのです。

全体で51あった支部のうち、人民行動党に残留したのが16支部というありさまでした。

これにより、リークアンユー政権はふたたび危機に瀕することになりました。

バリサンが指摘する合併の問題点

バリサンは労働組合など傘下の大衆団体の勢力を背景として、リークアンユー首相が主導するマレーシア連邦への編入をはげしく非難し、合併阻止を試みました。

そして、合併案の問題点を具体的に指摘していきました。

まず、シンガポールはマレーシアの総人口の2割を占めるのにもかかわらず、マレーシア下院におけるシンガポールに割り当てられた議席は159議席中15議席のみでした。

さらに上院では55議席中シンガポールへの割り当て議席はわずかに2議席、そしてシンガポール住民が他地域へ移ると選挙権が行使できない、といった問題点を批判したのです。

それとともに、バリサンは「シンガポール人はマレーシアの 『二等国民』にされるのだ」というキャンペーンによって、マレーシアとの合併阻止をシンガポールの人びとに訴えました。

バリサンが指摘したこのマレーシア連邦議会におけるシンガポール選出議員数の制限は、シンガポールと合併することで人口がマレー人を上回ることになる華人に、マレーシアにおける政治の主導権を奪われないために、ラーマンが絶対に譲ることができないものでした。

マレー人が統治するマレーシア、という原則はマレーシアという国家の根本にかかわるもので、絶対に変更されるようなことがあってはならないと考えたのです。

住民投票の実施とバリサンへの弾圧

マレーシアとの合併に対して共産系グループの反発が日々高まるなか、リークアンユーは1962年9月に住民投票を実施して、この合併案にシンガポールの人々のお墨付きを与えさせることによって共産系グループの主張を封じさせようとしました。

この住民投票における選択肢は、「シンガポールは特別な自治州として合併するか、サバ・サラワク並みの自治で合併するか、マレーシアの普通の州として合併するか」という三択でした。

つまり、「合併しない」という選択肢はなかったのです。

そのため、バリサンはボイコットを呼びかけました。

しかし、その結果は政府案支持が73.8%に達し、シンガポールがマレーシア連邦にその一州として編入されることが決定しました。

このような状況にあって、1962 年12月にブルネイでマレーシアへの加盟反対を主張する北ボルネオ国民軍が反乱を起こしました。

バリサンは北ボルネオ国民軍の反乱を「反植民地の民衆蜂起」と定義し、これを支持する声明を出します。

この事態を口実に、リークアンユーはラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。

そして、1963年2月にマレーシア政府ととともに、「オペレーション・コールド・ストア」と名づけられた治安作戦を実行します。

これにより、バリサンの主要メンバーたち百数十名を一斉に逮捕しました。

とくにその指導者として手腕を発揮していたリムとフォンが逮捕されたことは、共産系グループにとって決定的な打撃となりました。

こうして反対派を弾圧したうえで、マレーシア連邦の結成が1963年8月31日に実施されることが決まりました。

インドネシアによる妨害

このような連邦結成への動きに対して、隣国のインドネシアから妨害が入りました。

インドネシアは主張する内容は次のようなものでした。

そもそもマラヤやボルネオ島などマレー系民族の住む地域が分断されてしまったのは、イギリスとオランダによる植民地分割によるものであるので、独立するなら全てインドネシアとして統一国家になるべきだ、というものでした。

インドネシアのこのような主張の背景には、当時のスカルノ・インドネシア大統領が唱えていた「大インドネシア主義」がありました。

マレーシアに対して対決政策(コンフロンタシ)を宣言したスカルノ大統領は、「マレーシア粉砕」をスローガンに周辺海域およびボルネオ島で軍事行動にまで行ないました。

また、国際社会に向けてインドネシア政府は「マレーシア連邦の結成はイギリスによる新植民地主義の陰謀」であるとして、これを阻止すべきであると訴えたのでした。

国際社会へのはたらきかけと連邦結成の延期

これに対抗するために、万難を排して合併をすすめてきたリークアンユー首相は当時、国際社会で発言力を強めていたアフリカ諸国を訪問し、35日間でなんと17ヵ国もの国々を歴訪して各国の首脳と会談しました。

会談では、自分たちがマレーシアへの統合を心底望んでいることを積極的にアピールするなどの外交戦略を繰り広げました。

こうして、この問題が国際紛争に発展しつつあることから、国際連合でもマレーシア連邦へのサバやサラワクの編入が妥当なものなのか、ということが関心事となり、議論されました。

その結果、マレーシア連邦に加わることについての住民たちの意思を確認する国連調査団の派遣が決定されました。

これにともなって、連邦結成の日程も9月16日に延期されることとなりました。

このような事態に、シンガポールのリークアンユー首相は大いに危機感をつのらせました。

合併延期によって国内でバリサンが支持を伸ばすことや、合併自体が実現不可能になった場合の政治的危機状況を恐れたのです。

イギリスからの独立とマレーシア連邦誕生

そこでリークアンユー首相が考えついたのが、もともとの連邦結成の日であった8月31日に、シンガポールだけがイギリスからの独立を宣言してしまう、という方法でした。

この方法によって、シンガポールは大きな障害もなく、すぐさまイギリスからの独立を成し遂げてしまいます。

これまでの道のりからするとあまりにあっ気ない植民地支配の終焉ですが、イギリスからすれば、いずれはマレーシア連邦に合併されるシンガポールが、国連でのやりとりに巻き込まれることなく合併を成就させるための方便的な独立であることは十分にわかっていました。

また、その隙にふたたびシンガポールで共産主義者が勢力を盛り返すことは、イギリスも望まないことでした。

このため、植民地支配の終焉はすでに織り込み済みであったイギリスは、あえて抗議や反発をすることをせずに黙認した、というわけです。

そして、リークアンユーの戦略に沿って一旦イギリスから独立したシンガポールは、即日マレーシア連邦への合併を宣言し、1963年9月16日、シンガポールも含めた「マレーシア連邦」が誕生して、シンガポールはマレーシア連邦を構成するひとつの州となりました。

英語エリート層による一党独裁の確立

この経緯を国内政治とりわけ人民行動党内部での権力闘争という観点からみると、リークアンユーはマレーシア連邦への合併問題によって、最大の敵対勢力を追い出すことに成功した、ということがいえるでしょう。

そして、選挙をつうじてバリサンの残存勢力についにとどめをさします。

合併後間もない1963年9月21日に実施されたシンガポール州議会選挙の際に、バリサンの支持基盤である労働組合の銀行口座を凍結するよう、政府が命令を出すなどして選挙のための資金を不足させて選挙活動を妨害するとともに、マレーシア連邦政府が人民行動党を支持したのです。

選挙の結果、全51議席のうち人民行動党が37議席、バリサンが13議席、無所属1議席となり、人民行動党の勝利に終わりました。

その後、指導者を失ったバリサンは内部対立を繰り返して、急速に勢力を縮小していきました。

こうして、マレーシアとの合併問題を通じて政治的対抗勢力であった共産系グループを弱体化させ、選挙で圧勝した人民行動党はこの選挙以降、これに対抗できるほどの勢力が姿を消し、事実上の人民行動党による一党独裁が確立されていきました。

それまでの共産系グループとの闘争をふりかえってリークアンユーは「やるか、やられるか」の日々の連続であったと言っています。

そのような熾烈な政治闘争によって、華語系華人らで構成される共産系グループを党内から駆逐し、無力化させたことで同党のキャスティングボードを握ったリークアンユーら英語教育グループが、シンガポール社会をリードする集団として固定化していきます。

これはその後のシンガポール社会が、「管理」「成長」「安定」といった彼ら英語エリート層の価値規範によって構築・運営されていくことを意味していました。

他方、1954年の人民行動党結成からバリサンとの闘争に勝利した1963年までのあいだにプライベート面では長女のウェイリンと次男のシェンヤンが誕生し、5人家族となりました。

妻のクワギョクチューは夫が政治闘争に奔走するなかで、弁護士事務所の経営を担いつつ、子育てをしながらリークアンユーの政治活動を支えました。

マレーシア時代のリークアンユー

マレーシア連邦の一員として

国内の政治闘争に勝利したリークアンユーのもう一つの懸案が、「独立」でした。

イギリス連邦内の自治州として完全自治を獲得したとはいえ、イギリス支配を完全に脱し得ない状況を変えたい、というのがリークアンユーの思いでした。

しかしながら、シンガポールが単独で独立するのは非現実的であるとリークアンユーは考えていました。

つまり、マレーシア連邦の一員として、イギリスの支配から脱却することを目指したのです。

そもそもシンガポールとマレー半島は、ひと続きの地域として同じ社会に属しつつ、歴史的、社会的、経済的、政治的に有機的な繋がりをもっていました。

それが分断されたのは、イギリスによる植民地としての線引きがなされたことに起因するものでした。

シンガポールに住むいずれの民族にも、家族など血縁のある者がマレーシアに住んでいるということが多く、食料や水といった生存に必要なものもマレーシアに依存していました。

このようなことを考慮すれば、マレー半島の一部としてマレーシアと合併しようという構想はむしろ自然なことでした。

リークアンユーは、次のように合併の必要性を説いています。

 

我々は単独では生存できません。合併が遅れれば、我々すべてが、労働者も、行商人も、事務員も、技術者も、ビジネスマンも区別なく、苦しむことになります。ビジネスが減り、利益が減り、賃金が減り、仕事が減ります。(『政治哲学』)

 

そして、一部にあるシンガポール単独独立論については「愚の骨頂」として退けました。

シンガポールの人びとの多くも、マレーシアとの合併を違和感なく受け入れました。

そしてすでに述べたように、シンガポール住民による投票をへて、マレーシア連邦の12番目の州としてシンガポールは植民地からの独立を達成しました。

それは1963年9月16日、リークアンユーの40歳の誕生日の出来事でした。

連邦との関係冷え込み

しかし、シンガポールと連邦との良好な関係はすぐに冷え込んで行きました。

140年のあいだイギリスの植民地政策によって分離させられていたことの重みは、関係者が当初考えていたよりもずっと重かったのです。

シンガポールは連邦を構成する他の州とは大きく異なる独自性があり、政治力・経済力という点からも他を完全に圧倒する力を有していました。

シンガポールはさらなる発展を熱望していましたが、連邦政府は他州とのバランスを重視してシンガポールの独走を心良く思いませんでした。

それに加えて、民族問題がさらに関係を悪化させます。

マレー人優遇を図りたいマレーシア連邦政府に対して、イギリス統治時代に流入した中華系住民である華人が大半を占めているシンガポールは、マレー系・中華系住民の平等を主張しましたが、連邦は連邦政府への華人の戦力拡大を危惧してマレー人優遇政策を固持しようとしました。

こうして、徐々に連邦とシンガポールとのあいだに軋轢が生じていきました。

連邦の主導権をめぐる政治対立へ

そしてこのような対立は、連邦の主導権をめぐる政治対立へと発展していきました。

当時のマレーシアでは、マレー人による統一マレー人国民組織が政治を主導していて、華人によるマレーシア華人公会とインド人によるマレーシア=インド人会議の2つの政党がこれを支える、という三党連合を軸に運営されていました。

連邦内の地域政党であった人民行動党はその切り崩しをはかり、連邦内での発言力強化を図ろうとしました。

マレーシア華人公会に代わって、マレーシアの華人を代表する政党として統一マレー人国民組織の連携政党になろうと画策したのです。

1964年3月に実施された連邦総選挙では、マレー半島各州において候補者を擁立し、その実現を目指しました。

それ以前から、シンガポールはマレー系住民の優先政策を進める連邦政府と対立しており、リークアンユー首相が率いる人民行動党はマラヤでも中国系住民を基盤に支持を伸ばしてはいました。

そして、マレーシア連邦政府与党である統一マレー国民組織とシンガポールの人民行動党とのあいだで、互いの地盤を奪い合う激しい選挙戦が繰り広げられました。

人民行動党は選挙にあたってサバ、サラワクとともに野党連合を結成し、マレーシア連邦政府との対決姿勢を明確にしめしていきました。

マレー人優遇のマレーシア政府与党 VS シンガポール政党という構図が明白になり、その葛藤は頂点に達したのです。

しかしながら、10人の候補を擁立したのに対し、当選者はわずか1名にとどまりました。結局、この目論見は失敗に終わったのでした。

これををきっかけに、シンガポールと連邦政府の関係がさらに悪化します。

マレーシアとの合併の際に、当分のあいだはマレー半島の政治に人民行動党は進出しない、という合意事項があったからでした。

連邦政府とその与党は以降、シンガポール、そしてその首相であるリークアンユーに対する敵対の態度を露骨に示すようになっていきました。

シンガポール人種暴動

これはやがて、マレー人と華人による民族対立となって激化していきます。

1964年7月21日にはマレーシア連邦の憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策をシンガポールでも実施するように求めるマレー系住民によるデモ隊と、一部の中国系住民が衝突する事態が発生して死傷者が出ました。

「シンガポール人種暴動」と呼ばれる事件です。この事件に象徴されるように、民族間の対立がシンガポールで先鋭化していたのでした。

一方のマレーシアにとっては、シンガポールを除けば華人の人口がなんとか過半数にはならなかったにもかかわらず、シンガポールが連邦内のひとつの州として存在していることにより、中国系がマレー系よりも上回ってしまっていました。

マレー人たちにとっては、シンガポールが連邦にとどまっていることで、多数派となった華人たちにマレーシアを乗っ取られるという危機感があったのです。

シンガポールにおいても、マレーシアにおいても、こうした民族対立は日々激化していきました。

リークアンユーへの圧迫とシンガポールの「追放」

マレーシアのマレー人政治家たちは、この対立の責任がシンガポールのリークアンユーにあると主張しました。

リークアンユーがマレー人を中心とする国家として建国されたマレーシアの国家原理に異議を唱えていることが、このような対立と混乱を招く原因になっている、という主張です。

こうして、彼らマレー人政治家たちのあいだで、リークアンユーの処遇が議論されるようになりました。

リークアンユーに対して強硬な態度をとるグループは、リークアンユーを逮捕するように要求しました。

他方、穏健なグループは、リークアンユーを国連大使に任命して、マレーシアから国外に出して、マレーシアの政局から離れさせるようにすればいいと主張しました。

そして、シンガポール州首相の後任にはリークアンユーの片腕として活躍し、穏健な主張をするゴーケンスイがベターなのではないか、との提案を行ないました。

いずれにせよ、連邦のマレー人政治家たちのあいだにはリークアンユーをシンガポール首相の座から引きずり下ろしてしまおう、という空気が流れていたのでした。

1977年に刊行された回顧録でマレーシアのラーマン首相は当時を振り返って、

 

リーは、シンガポールとマレーシアが一緒になるために懸命に頑張った。しかし、それ以上に、マレーシアを壊すためにもっと頑張った。

 

とリークアンユーを非難しています。

この皮肉めいた言い方からは、ラーマンがリークアンユーのことをいかに疎ましく思っていたかが伝わってきます。

ラーマンにとっては、リークアンユーという人物そのものが、自分たちが独立運動の末に建国した「マレーシアを壊す」存在であったのでした。

もう、両者とも妥協の余地がないほどに極限に達していました。

以上のような激しい対立を経て、結局、マレーシア連邦首相・ラーマンと、シンガポール人民行動党・リークワンユーは、両者の融和が不可能と判断するにいたりました。

これ以上の民族対立による国内情勢の混乱を懸念したマレーシアのラーマン首相は、シンガポールを分離してマレーシア連邦の外に放り出すこと、いわばシンガポールを連邦から「追放」するという選択をしたのです。

ラーマンは1965年8月9日にこのことを国民に告げる議会演説を行ない、シンガポールを連邦から分離したのでした。

シンガポール州の首相であったシンガポール人民行動党のリークアンユーもまた、紆余曲折の末、ついにマレーシア連邦政府との融和が不可能と判断してシンガポールの独立を決意しました。

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リークアンユーの国づくり:独立国家・シンガポールの国家運営

マレーシアからの独立

望まざる独立

シンガポールの独立は市民には事前に何の予告もなく、1965年8月9日当日の朝になって、突然、政府から発表がありました。

このことは、シンガポール政府やリークアンユーの意思というよりも、実際にはラーマン首相がリークアンユー首相にシンガポールの独立を迫って追い出したというのが真相に近いと考えられている根拠にもなっています。

シンガポール側からすれば、対立こそすれ、マレーシア連邦からの離脱ということは想像もしていなかったことでした。

そのため、これはシンガポール市民ばかりか当のシンガポール政府、さらには連邦離脱の文書に署名したリークアンユー自身にとっても想定外の出来事であったのです。

リークアンユーの自伝によれば、マレーシア連邦側に独立を要求され、「独立しなければ戒厳令を敷いて逮捕する」と言ってマレーシアから脅迫されたと書かれています。

シンガポールの独立は、それまで国内ばかりか外遊先でもマレーシアとの合併の必然性とメリットを宣伝して合併への支持を訴え、マレーシアとの合併こそがシンガポールが生きていく道だと主張してきたリークアンユー首相にとって、苦渋の決断であったと思われます。

そのことを物語るように、分離独立を発表するテレビ記者会見の席の途中、人前で泣くことなどなかったリークアンユー首相がなんと涙を流して泣き出してしまったのです。

まず、この会見でリークアンユーは次のように語りました。

 

私には、これは苦悶の瞬間である。これまでの私の人生、とりわけ政治家になって以降、私はマレーシアとシンガポールの合併と統一を固く確信し、そのために行動してきた。両国は、地理的にも経済的にも社会的にも一つになるのが自然だからである。それなのに、私があれほど信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまったのだ……。

 

こう言った直後に、泣き出したのです。

「信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまった」という、このリークアンユーの言葉から、シンガポールにとってこの独立がそれほど彼らの意思に背いたものであり、望まざる独立であったのか、ということが分かります。

シンガポール共和国の誕生

こうして1965年8月9日、マレーシア連邦から分離した人口200万人の都市国家として、現在のシンガポールが生まれることとなりましました。

これにともない、国名は「シンガポール共和国」となり、イギリス連邦の加盟国となりました。

国家体制としては政治的権能を有しない象徴的存在としての大統領を国家元首とする共和制国家で、これまでの州議会は国会となりました。

基本的な行政組織・制度は植民地統治機構が継承されました。

こうして、初代大統領にはこれまでシンガポール州元首であったマレー人でジャーナリストのユソフ=ビン=イシャクが就任し、リークアンユーは政治的実権をもった指導者としてシンガポール初代首相に就任しました。

マレーシアから分離独立してまもなく、世界の多くの国から国家として承認され、国連加盟国となりました。

独立国家シンガポールの課題

しかし、その船出は決して容易なものではありませんでした。その行方には多くの障害が横たわっていたのです。

まず第一に民族問題です。

シンガポールは人口の4分の3が華人(中国系)になります。

しかしながら、一言で「華人」と言ってもそこにはいくつかのグループがあります。

リークアンユー首相は人民行動党内の左派勢力であった華語派華人との党内闘争を経て、すでに述べたように彼らを排除することに成功して人民行動党のキャスティングボードを握り、政権を維持してきましたが、英語派華人である自分たちが社会の多数を占める華語派華人を無視して政権運営をすることはできません。

華語派華人をいかに押さえつけ、あるいは、いかに彼らと折り合いをつけてみずからの優位性を維持するのかが、シンガポール独立後のリークアンユー政権期全体の課題となっていきます。

また、マレーシアとの対立の過程で激化した華人とマレー人の民族対立をどのように収拾するのか、という課題も残されていました。

次に、非友好的な近隣諸国との対外関係があります。

北に隣接するマレーシアとは対立の末に連邦を離脱したという経緯がありますし、南のインドネシアもスカルノ大統領のもとでシンガポールとマレーシアに対する敵対政策が実施されており、連邦からの独立以前の1963年からシンガポールとの貿易を禁止していました。

インドネシアとの貿易は当時、シンガポールの総貿易額の3分の1を占めていましたので、貿易立国をめざすシンガポールにとっては前途多難な船出でした。

また、マレーシアもインドネシアもマレー人の国家であり、国内におけるマレー人問題の対応をあやまれば、マレーシアを支持するマレー系住民もいることから、これらの国々の武力による干渉を招きかねない状況でした。

もう一つ、深刻な問題が経済でした。とくに食糧を依存してきたマレーシアとは対立の末に分離したため、国土が狭小で農地もほとんどないシンガポールとしては200万人分の食糧を外国から輸入せざるをえなくなったことは、政権のみならず社会そのものの存立にかかわる問題でした。

これに加えて1968年にイギリス駐留軍が撤退することはシンガポールによって大きな経済的ダメージとなります。

イギリス軍はシンガポールの人びとにさまざまな就業の機会を提供してきました。

すなわち、当時シンガポールのGDPのなんとおよそ18%、間接的なものも含めるとおよそ20%が駐留軍関連のものだったのです。

そのイギリス駐留軍が撤退するのですから、大量の失業者が生まれることは間違いありません。

「生存のための政治」

以上のような危機的状況のなかでリークアンユー率いる人民行動党政権は「生存のための政治」というスローガンを掲げて危機の打開を図ろうとしました。

この「生存のための政治」においては4つの政策が実施されます。

1つは国内政治における国家凝縮性の向上です。簡単にいえば、政府批判や政権への敵対行為は認めず、政府が独占的に国家運営をしていく、というものです。

2つ目は国防体制の創出です。

3つ目は貿易立国、世界各国との経済関係強化です。

4つ目はマレー人国家に囲まれているという現実を直視して、華人国家ではなく、多民族国家をめざすことです。

そしてこのような生き残り戦略をもってリークアンユーはアジアやアフリカの国々を訪問し、新生シンガポールへの支援を訴えました。

周辺諸国の情勢変化

そのようななか、これまで敵だらけであった周辺諸国との関係に変化が訪れました。

まず、これまでシンガポールに敵対的な政策をとっていたインドネシアのスカルノがシンガポールが独立した直後の1965年10月に失脚し、クーデタによって政権を掌握したスハルトが敵対政策を捨てて、強調と開発重視の政策をうちだしました。

さらに、ベトナム戦争に対するアメリカ軍による軍事介入が本格化していた情勢に危機感をもった東南アジアの反共国家が政治協調の方向へと舵をきり、1967年8月にインドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、シンガポールの五ヵ国によって「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が結成されました。

くわえて、1960年代は先進国における経済成長の時代で、その影響で発展途上国の経済機会も増加しました。

60年代の末になると、生産工程の分業化が進んだことから、多国籍企業による安い労働力を目当てとした発展途上国への投資・進出が活発化していきました。

チャンスの到来

こうして、これまでの敵対国の友好的な国家への変貌、そして貿易の拡大と多国籍企業による発展途上国への投資・進出はシンガポール経済にとってはプラスにはたらくものでした。

このような国際情勢の変化によるチャンスの到来を活かすべく、リークアンユーは経済と国防の体制を充実させていきました。

彼は、小国の生き残りのため、経済発展を最高かつ唯一の国家目標とする開発至上主義を掲げたのです。

その後は政府・人民行動党の支配のもと、リークアンユーの強力なリーダーシップによって経済発展のためにあらゆる面で政府が先頭に立つ強権政治を展開してゆくことなります。その過程で治安法の発動による反対勢力に対する弾圧も、たびたび行なわれました。

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国防体制の創出

イギリス軍撤退

シンガポールには独立当初、独自の軍隊がありませんでした。

これまではイギリス軍とマレーシア軍がシンガポール防衛を担っていました。

このため、独立したことによって独自の国防体制を構築することが急務となりました。

とくに独立した時期には、北に隣接するマレーシアとは対立の末に連邦を離脱したという経緯があった上、南のインドネシアもスカルノ大統領のもとでシンガポールに対する敵対政策が実施されていました。

そしていずれの国も小国シンガポールとは比べ物にならないくらいの東南アジアの大国でした。まさに「見わたすところ、敵ばかり」といった状況だったのです。

その一方でシンガポールが分離独立したのちも、イギリス軍はマレーシア・シンガポール防衛のためにシンガポールに駐留していました。

しかし、1967年にイギリスが世界的に展開していたイギリス軍による軍事体制の見直しを進めました。

そして、1970年代のはじめまでにスエズ以東に駐留しているイギリス軍を撤退させることにしたのです。

国防体制整備への模索

分離独立後の国防をイギリス軍に依存していたシンガポールは早急に国防体制を整備する必要にせまられました。

まず、国防に対する基本的な考え方を策定しなければなりませんでした。

シンガポールはみずからの国防をめぐる環境を敵対的マレー国家に囲まれた華人の国家であると把握して、このような環境に類似した外国の事例を研究しました。

そして、そのモデルとしてスイス、フィンランド、イスラエルの三国に絞ってさらに研究をすすめた結果、数の上では圧倒的なアラブ世界に包囲されながらも、それに十分に対抗しうる国防体制を構築しているイスラエルがシンガポールの状況に近似していると判断されました。

また、イスラエルには世界各地からさまざまな背景を持つユダヤ人が集まっていましたが、彼らに国民的アイデンティティを育てる手段として徴兵制を活用していることは、「モザイク社会」シンガポールに国民としてのアイデンティティを育成するにあたっても参考になると考えられました。

こうして、イスラエルをモデルとして国防体制の整備につとめることになりました。

イスラエルをモデルにするからには、イスラエルから軍事顧問を迎えるのがベストですが、それが外国、とりわけ近隣諸国の耳に入れば不要な緊張を高めることになり、かえってシンガポールが軍事的な危機状態となってしまう可能性がありました。

そこで考え出されたのが、イスラエルからの軍事顧問を「農業顧問」という名目で受け入れる、という方式でした。

国防省の設立と軍備増強

分離独立当時のシンガポールが所有していた兵力は国内治安のための歩兵二大隊のみでした。

半島の先端にあり、海に囲まれているにもかかわらず、海軍や空軍は事実上不保持といったありさまでした。

そこで1965年11月に国防省を設立し、国防体制の確立を財務相であったゴーケンスイに委ねるため、首相のリー=クアンユーはゴーを国防相に転任させました。

ゴーケンスイは国防相就任後、積極的に軍事施設を整備していきました。

また、軍備を増強するため、積極的に国家予算が軍事費に投入されました。

イギリス軍が撤退したのちの1969年には国家予算のおよそ28%が軍事費として使われ、その後も国家予算の20~25%が軍事費として使われ軍備が年々増強されていきました。

空軍の戦闘機はアメリカから購入することにより、パイロットをアメリカの空軍基地で育成することができるようにしました。

そして1990年代にはシンガポールの軍備はマレーシアの軍備に匹敵するほどまでになりました。

一方、兵力の増強も順次行なわれ、1979年になると陸軍3万、さらに陸軍予備役が4万5,000で、海軍・空軍が各4,500の兵力を擁するようになりました。

ナショナル・サービス

シンガポールでは徴兵制が採用されました。

その導入にあたっては、前述のようにイスラエルにおけるアイデンティティ育成の要素が参考とされたほか、スイスのシステムがモデルにされました。

スイスにおいては少数の常備軍を中心としながら多数を占める徴兵された兵士によって国軍が構成されていますが、このシステムをシンガポールはモデルにしたのです。

これにより、国軍が創設されたのちの1967年にシンガポール国籍を持つ18歳以上の男子を対象として兵役を義務化し、徴兵制がしかれました。

この兵役を「ナショナル・サービス」と呼びます。シンガポール国民の男性は18歳で高校を卒業すると進学・就職先が決まりますが、それを保留にしたままで2年ないしは2年半の軍事訓練を受け、その後にあらかじめ決まっていた大学に入学、あるいは企業に就職する、というライフコースをたどります。

しかしながら、このナショナル・サービスというのはこれだけにとどまりません。

除隊してからも50歳にいたるまで予備役とならねばならないのです。予備役としての義務は毎年、訓練をこなさねばならず、その期間は最長で40日間にわたります。

それはその人の社会的立場にかかわりなく課されるもので、召集されれば仕事を休んで訓練に参加しなければならない、というものです。

その訓練地はシンガポール島の北西部にある訓練場のほか、国土が狭小であるため、大規模な訓練となる場合には台湾・タイ・オーストラリアといった国々のが訓練場を提供して行ないます。

トータル・ディフェンス

さらには、徴兵制だけでなく「トータル・ディフェンス」というスローガンのもと、全国民的な国防意識の向上につとめます。

シンガポールは国土が非常に狭いことから、攻撃をうけた場合には国の全域がなんらかの形で戦闘に巻き込まれることは不可避であり、そのことを全国民が平素から意識しておく必要があると考えたからでした。

以上のように、国防体制を充実させていったリークアンユー・人民行動党政権ですが、シンガポールという国の規模を考えた場合、侵略をうけても完全に敵対勢力に勝利すると考えるのは非現実的でした。

リークアンユーはそのことを十分理解したうえで、国防体制を整備していました。

そして、一撃に侵略勢力を撃退するような「勝利」を国防の目標とはしませんでした。

リークアンユーが国防体制の目標としたのは、侵略勢力が「シンガポールを飲み込んだら、簡単に消化できない」(『中国・香港を語る』)ようにすることだったのです。

そしてこのような防衛体制をリークアンユーは「毒エビ」と表現しました。

つまり、一旦飲み込まれたとしても、敵対勢力がたやすくシンガポールをみずからのものにできないような、全国民的な持久戦が可能な体制を構築しようとしたのでした。

信頼関係の構築

そのような防衛戦略で重要となってくるのが国際世論とそれを背景とした他国の支援です。

すなわち、シンガポールが侵略されたことに対して、国際世論がその不義に対して抗議の意志を示し、それによって各国の政府がさまざまな形で侵略勢力と戦うシンガポールの国と国民を支援することで、それがシンガポール国内の抵抗と相まってやがては侵略勢力が撃退できる、ということです。

そのためには、世界各国との平素からの「お付き合い」が重要になってきます。

リークアンユーはそのようなことを意識しながら、先進国・発展途上国問わず訪問して、世界のあらゆる国の最高指導者たちと個人的な信頼関係を構築するように努力しました。

「生き残りのテクニック」

以上見たように、分離独立後のシンガポールは軍備を増強しつつ、徴兵制さらには「トータル・ディフェンス」といった国民を総動員する体制の構築、さらには信頼関係を築く外交外交戦略によって国防体制を整えていったのでした。

リークアンユーは「小さな生き物には、それぞれ独自の防衛メカニズムが備わって」おり、「我々も自分自身の生き残りのテクニックを見つけなくて」はならないと言います(『政治哲学』)。

つまり、以上のようなシンガポールの国防体制確立とその前提にある発想はすべて「小さな生き物」であるシンガポールの「生き残りのテクニック」としてのものであり、そのための「独自の防衛システムを備」えるために努力してきたものなのです。

リークアンユー政権の経済成長戦略

残存する古い経済構造

国防体制の確立とならんで、1965年の分離独立後のシンガポールにとって最重要課題となっていたのが経済成長でした。

経済成長のための施策はすでにそれ以前のマレーシア時代から、当時のシンガポール州政府が首相のリークアンユーや財務相のゴーケンスイのもとですすめられつつありました。

しかしながら、この時期の政局においてはリークアンユーらの勢力と共産系グループとの政治闘争に大きなエネルギーが割かれていたた、いうなれば「政治の季節」であったため、本腰を入れて経済政策を実行することができませんでした。

このため、分離独立当時にはイギリス統治時代からの経済構造がかなり残存していました。

すなわち、当時のシンガポールでは、植民地期以来の中継貿易を基軸として、貿易・海運といった産業や、輸出品としてのすずやゴム、さらにはこれらの産業にかかわる金融や保険、小売り、サービスといった産業が中心となっていました。

これらの産業がかつて、タンカーキーなど華人の富豪を生み出していたことは事実です。

ですが、たとえばゴム加工や食料品関連などの一部の軽工業以外には製造業が未発達な状態であり、全体的にみてシンガポールは工業化の遅れた社会でした。

輸出志向型の工業化戦略へ

このような問題意識は、マレーシアとの合併がすすめられた1960年代前半から意識されていました。

そこで、マレーシア時代に採用された経済成長のための工業化戦略は輸入代替型、すなわちこれまでヨーロッパやアメリカから輸入していた工業製品をシンガポールで生産し、それをマレーシアの市場で販売する、というものでした。

しかし、これはマレーシアとの合併が前提となっていた戦略だったので、マレーシアからの分離独立とともに破綻してしまうことになりました。

きわめて規模の小さいシンガポール国内市場のみでの販売を前提としてそのまま輸入代替型の工業化戦略をすすめることはあまりに無謀なことでした。

これに代わる工業化戦略として登場したのが輸出志向型、すなわち特定の国や地域を対象とするのではなく、世界市場に向けて工業製品を生産し、これを輸出する、というものでした。

外国資本導入のための「開発体制」

ここで問題となったのが、シンガポール国内にはそのような産業を育成しうるほどの資本力やノウハウのある企業が皆無である、ということでした。

そこで活用されたのが外資系企業でした。

外国資本からの投資と、外国企業の進出によってシンガポールの工業化を推進しようとしたわけです。

そのためにシンガポール政府はリークアンユーの指導のもとで外国資本の投資・進出を促進するための制度的・行政的・経済的な環境整備を最優先しました。

これによって成立した体制を「開発体制」といいます。

この外国資本導入のための「開発体制」を数年で完成させたリークアンユー政権は、その後積極的に外資導入をすすめます。

外国資本との利害一致

当時の世界経済の趨勢は、このようなリークアンユーとゴーケンスイによる工業化政策にとってプラスにはたらく方向ですすんでいました。

世界の貿易が急速に拡大し、先進国の多国籍企業が安価な労働力のある発展途上国への進出をすすめつつあったのです。

これらの企業にとって、発展途上国でもインフラが整備されており、労働者の質がよいシンガポールは魅力的な場所でした。さらに、リークアンユー政権が急ピッチですすめた「開発体制」がさらに外国資本にとっての価値を高めていました。

外国資本とリークアンユー政権の利害が一致したことで、この工業化政策は成功に向かって加速してすすめられていきました。

経済成長の成功

外国資本によって労働力の集約がすすんでいた電器・電子部品などの工場が数多くシンガポール国内に建てられ、1970年代にはいると、シンガポールの工業化は一気に進み経済は急成長を遂げました。

1973年の第1次オイルショックによる経済危機を乗り切って1970年代の終わりには、NIES(ニーズ、新興工業経済地域)として数えられるまでになり、分離独立からわずか10数年で成し遂げたシンガポールの経済成長は世界の注目の的となりました。

分離独立の翌年である1966年から1978年までのシンガポールの経済成長率はオイルショックによる停滞の時期を除いて二ケタ台で、その成長のすさまじさがこの数字からもわかります。

外国資本導入による経済成長の成功について、リークアンユーは

 

経済発展は、シンガポールが世界経済の発電所である欧米と日本の配電網に繋がることができたからこそ可能になった。(『政治哲学』)

 

と、これといって資源がなかったシンガポールを分離独立当時の存亡の危機から成長へと導くことができたのは、資本力とノウハウのある外国資本を導入したことにある、と振り返っています。

このような経済成長によって、深刻な失業問題が解消に向かったばかりでなく、かえって労働力不足が問題となりました。

産業構造高度化政策による産業構造の転換

一方で、1970年代後半、シンガポールと同じように周辺の東南アジア諸国においても豊富で安価な労働力によって外資を誘致し、工業化をすすめはじめました。

そして、シンガポールに追いつきだしたのです。

そこで、リークアンユー政権は他の東南アジア諸国の成長戦略とは差別化された新たな成長戦略への転換を模索します。

そして、「産業構造高度化政策」が打ち出されました。

これまでの労働集約型ではない、資本集約型・技術集約型産業へと産業構造を転換していくというもので、経済政策の方向性を大幅に変更することにしたのです。

この「産業構造高度化政策」にもとづき、リークアンユー政権はハイテク産業や研究・開発関連産業といったこれまでとは異なる産業分野の誘致に尽力しました。

同時にこれまでの低賃金のみを目的とするような労働集約型の企業を淘汰するべく、賃金値上げを大幅に行ないます。

この新たな戦略ははじめは順調に成果を上げるものと思われました。

しかしながら、1980年代中盤にシンガポールにおいて不動産やホテルに対する投資が過剰となり、他方で経営コストが上昇したため、これがシンガポール経済にとって打撃となりました。

さらにアメリカ経済が停滞した影響を受けて、1985年には経済成長率がマイナス1.6%という、独立以来初のマイナス成長となってしまいました。

しかし、そこで指を咥えて見ているリークアンユー政権ではありません。

企業が国際競争力を回復できるように応急措置的な経済政策をすぐに実行に移し、わずか一年のうちにこの不況から脱出することに成功したのでした。

継続する経済成長

そののち、シンガポール経済はふたたび安定的な成長をつづけ、リークアンユーが首相を辞任したのちも1990年代にいたるまで6~10%の成長率を継続して記録します。

リークアンユーが首相を辞任する1990年ごろになると、シンガポールの光景はマレーシアから分離独立した頃とは一変して、まったく別の場所のようになっていました。

かつてマレーシアとの合併を見越して開発され、その計画が頓挫してしまったジェロン工業地帯は電子部品生産の拠点として発展し、その南に位置する島々には石油精製施設が立ち並びます。

そして、シンガポール市内のシェントンウェイには世界各国の銀行が競うように支店を構えています。

さらに、シンガポール島のあちこちに労働者のための住宅団地を備えた工業団地が造成され、シンガポールの内外から集まった労働者がシンガポールの経済発展を現場で支えています。

かつて資源が皆無でありながら、頼みの綱であったマレーシアからの分離を余儀なくされ、国家存亡の危機にあったシンガポールは、リークアンユーとゴーケンスイによる時機にかなった経済成長戦略によって20年あまりで国全体が産業基地となったのでした。

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外国資本か華僑資本か

外国資本に依存した成長戦略

これまで見てきたように、リークアンユーのもとですすめられた工業化政策、経済成長戦略は外国資本に依存するものでした。

それは植民地期からの軽工業、あるいは従来の貿易や商業など地場産業をさらに発展させる、という戦略をとらず、重化学工業や技術集約産業といったこれまでシンガポールになかった分野の産業を新たにおこすことによって経済成長を実現させようとするものであったためでした。

新興の、それも非常に小さいシンガポールのような国が、それを自身の力で推進するのは資金面でもノウハウの面でも無理な話です。

そこで、どうしても外国の資本に依存するしかなかったのです。

そして、きわめて単純化して言うならば、分離独立後のシンガポールはリークアンユー政権のもとで工場用の土地や建物などインフラを整備し、外国資本がそこに資金と技術、さらには製品の輸出先までも持ってくる、という方法で驚異的な成長を遂げた、ということです。

そのなかで、最大の投資国となったのはアメリカと日本でした。

1970年代以降、日米両国がシンガポールの外国投資総額の半分以上を占め続けました。とりわけ日本の投資はさまざまな分野におよんでいます。

シンガポールの工業化に関与しない華僑資本

このように外国資本が積極的に投資を行なっているなかで、シンガポールの国内資本はなぜ、シンガポールの工業化に影響力を発揮できなかったのでしょうか?

シンガポールには在地の華僑資本が存在していました。

彼らが政府が主導する工業化に関わらなかった理由は2つあります。

1つは経済的な問題です。

華僑資本は貿易や金融分野への投資が長けていましたが、一方で政府がすすめた重化学工業に関しては経験に乏しく、容易に投資することができなかったのでした。

他方、もうひとつの理由があります。

それは政治的な要因に起因するものでした。

華語派華人の有力な企業家が参加する中華総商会は、バリサンの活動を支えていました。

このような経緯から、リークアンユー政権は彼らをシンガポール工業化の担い手にすることは避けたかったのでしょう。

そこで、彼らの頭越しに海外の資本を導入することにしたのでした。

国内華僑資本の育成へ

しかしながら、リークアンユー政権も華僑資本の存在をまったく無視してきたわけではなく、シンガポールは安定成長期にはいった1980年代になると、ようやくではありますが国内資本の育成にも力を入れはじめます。

そして1989年には「中小企業振興マスターズプラン」が作成されました。

しかし、華僑資本はこれまでの経緯もあって、国家に頼らずに発展する道を選ぶ傾向があり、一方のシンガポール政府も外国資本に依存した開発を継続していくことになりました。

職場として外資を選ぶ労働者

一方、この問題をシンガポールの労働者の視点からみるとどうなるのでしょうか。

アジアにある旧植民地の場合、経済ナショナリズムによって、外国の資本が流入することを非常に警戒し、場合によっては徹底した保護主義をとる国も少なくありません。

しかしながら、シンガポールの場合はそのような動きは政府内部からも国民からもほとんどありませんでした。

シンガポールという街自体が外国との交易で栄えたところであり、国家規模が小さいため単独でシンガポールがやっていくのは困難であることは大半の国民が理解していました。

したがって、市民のあいだには外資に対する反発よりも、職場としては給料や待遇がよく、環境が整った外資系のほうが国内企業よりもいいと考えるシンガポール人が非常におおくいます。

国家主導の経済発展と賃金・中央積立基金システムの活用

政府が主導する経済発展

シンガポールの経済発展は政府が主導しながら実現させてきたものでした。

すなわち、政府が港湾や工業用地、電力などといったインフラの整備を行ないつつ、同時に国内にあるさまざまな矛盾に対する不満を強力な政治権力を背景にして押さえつけ、社会的安定を創り出して、開発をすすめるための枠組みおよび外国資本の進出がスムーズにすすむような環境を創出しました。

このような環境のもとに外資が進出し、そこで国民が労働力を提供することによって経済を発展していきました。

リークアンユー政権のもとで経済政策を担当したゴ=ケンスイは「発展途上国において、経済進歩の速度を決定づけるもっとも重要な要因は、その国の政府だ」と言っています。

さらに、そのような役割を担う政府のあり方について、ゴーケンスイはシンガポールが分離独立した1965年に刊行された書籍のなかで次のようにいいます。

 

政府は効率的でなければならず、腐敗行為はダメだ。絶えず経済成長の達成に努力し、国家の栄光、軍事大国、権力者の私的蓄財、宗教の神聖さ、といった経済成長以外の国家目標に気をとられてはいけない。企業が育成され、経営合理性を奨励する必要がある。……法と秩序が維持され、契約は遵守されねばならない。(“The Economics of Modernization”)

 

ここでゴーケンスイが強調するように、「経済成長」こそが何にもまして重要な政府の役割であり、それ以外のことには「気をとられてはいけない」、というのがシンガポール政府の方針だったわけです。

そして、経済開発は政府が責任をもってすすめるべきである、という考えのもと、国家自身が経済活動に参加して経済成長を促進する、という方針によって経済政策が策定されていったのでした。

ここからシンガポールの国家をリークアンユーが経営する会社であるという比喩的な表現として「リーカンパニー」という言葉が生まれました。

政府主導の賃金決定プロセス

その象徴が政府主導の賃金決定プロセスの導入です。

すでに述べましたが、70年代になると外資系企業が大量にシンガポールに進出してきたため、失業者が多かった独立当初の状況とは打って変わって労働力が不足する事態となりました。

シンガポール政府は賃金の高騰とそれによる競争力の低下を恐れました。

そこで、シンガポール政府は賃金を政府の管理下に置くことを目的として「全国賃金評議会」を1972年に設置しました。

この評議会は政府・使用者そして労働者の代表によって構成された協議機関です。その主要な役割は毎年、賃上げ額を決定して勧告することでした。

しかしながら、バリサンとの激しい闘争を経た結果として労働界は政府に従属した状況にあり、一方の経済界は政治的な発言力はほとんどありませんでした。

ですので、実際は政府が提示した賃上げ額を評議会が追認するというものでしかありませんでした。

つまり、実質的に政府が賃上げ額を決定していた、ということです。

実はこの「全国賃金評議会」は日本の人事院制度と似たもので、その勧告対象は直接的には公務員のみでした。

民間企業の賃金は公務員の賃金を参照する形式で決められることになっていたので、事実上、政府がシンガポールにおけるすべての労働者の賃金を決めることになったのです。

成長のための賃金決定プロセス運用

この仕組みはリークアンユー政権のもとで政府の経済成長方針に沿ったかたちで活用されました。

1970年代においては、いまだ労働集約型企業の誘致を主眼においていたので、経済成長率に対して賃金の上昇率は抑制され、安い賃金が維持されていました。

ところが、70年代の末になると、政府の経済政策が技術と資本集約度の高い企業を誘致する産業構造高度化政策へと転換されたため、シンガポール国内の労働集約型企業を淘汰・撤退させるために積極的に賃上げを行なうようになります。

1979年から1981年にかけて、経済成長率が10%前後だったのに対して、3年連続で成長率の2倍近い20%にせまる水準の賃金引上げを行なったのです。

その後も、この政府主導による賃金決定システムは経済政策達成のために利用され、独立後はじめてマイナス成長となった1985年から2年連続で賃上げを凍結してしまいました。

これは、政府がこれまでの高賃金政策が経営コストの上昇をまねき、それによって国際競争力が低下したことがシンガポール経済の停滞の理由であると考えたからでした。

このように、シンガポールにおいて賃金は他国のように労使間の交渉によって決定されるのではなく、シンガポールの開発と成長を目標として政府がこれを管理化に置くことで、政府がその経済政策を実行する手段として利用されたのでした。

中央積立基金

さらに、リークアンユー政権のもとで、労働者のための社会保障制度も国家主導の経済発展のために活用されました。

その制度とは「中央積立基金(Central Provident Fund)」です。

この中央積立基金というのは、労働者が定年退職後に受け取る年金のシステムで、1955年に当時のイギリス植民地政府が導入したものでした。

労働者と雇用主である企業が毎月、一定割合の金額を出しあって労働者の年金用口座に積み立てられる、という制度なのですが、国民の年齢構成が若いシンガポールの場合、年金の引き出し額よりも積立額のほうが多いために、積立金が年々、基金にプールされていきました。

この巨額のプール金もまた、政府の経済政策に活用されたのでした。

基金の開発資金への転用

まず、この資金は開発資金として転用されます。

すなわち、基金を管理・運営する中央積立基金庁がシンガポール政府国債を買うことで、基金の余剰資金が国庫に入ったのです。

政府はこれを開発予算として政府傘下の開発関連機関に融資されることとなりました。

その最大の融資先が公共住宅建設を手がける住宅開発庁でした。

この資金により、シンガポール国内に多くの公共住宅が供給されることとなりました。

また、この資金は国民が公団住宅の購入資金としても活用されました。

こうして、数多くのシンガポール国民は新たに建設された住宅に居住することができるようになりました。

さらに、このような施策の成果として国内での一定の住宅需要が満たされた1980年代に入ると、健康保険の支払いや政府系企業の株式購入の資金としても使用が可能となりました。

このように、リークアンユー首相のもとでシンガポール政府は中央積立基金を社会開発におけるいわば「自己資金」として活用したのです。

経済発展の途上において他の東南アジアの国々のように、国内の開発のための資金調達にあたって外国政府からの借款に依存する必要がなかったのは、このような施策の賜物であるといえるでしょう。

基金拠出金比率変動による経済のコントロール

さらに、中央積立基金の労働者と企業の拠出金比率を変動させることで、シンガポールの経済を政策的にコントロールしようとしました。

すなわち、労働者の賃金が高騰した場合には拠出金の比率を引き上げることで、通常より多くの労働者および企業の収入を基金をつうじて国庫に回収します。

こうすることで国内の可処分所得を減少させてインフレを防ごうとしたのです。高賃金政策がとられていた1979年に決定された拠出金比率はその最たるもので、労働者と企業がそれぞれ賃金の25%ずつ、つまり労働者が受け取る賃金の半額に該当する金額を基金を通じて政府が回収しました。

一方で、1985年のマイナス成長の際には、労働者側の比率を据え置いたままで企業側の拠出金を大幅に引き下げをするという決定をしました。

これは、企業の基金への拠出金を減らすことで経営コストを削減し、これによってシンガポール国内にある企業の競争力を回復させようとしたのでした。

以上のような賃金のコントロールと中央積立基金の活用という2つの施策はシンガポールだけにみられるものではないですが、シンガポールが特別なのはその運用の適切さと巧妙さ、そしてそれによる実際の経済開発の成功、という点でした。

国家主導のもとで賃金と社会保障制度の資金を活用したすぐれた経済政策が「リー=カンパニー」を成功へと導いたのでした。

「リー=カンパニー」の経営

経済開発庁の役割

以上のような政策を企画立案し、実行した経済行政組織のうち、その中心的役割を果たしていたのが経済開発庁でした。

経済開発庁にとって、最大かつ最重要の任務は外国資本の誘致でした。

これは「リー=カンパニー」によるシンガポールの経済開発にとって最重要課題であり、それを担う経済開発庁は「リー=カンパニー」のけん引役であり、中心であった、といえるでしょう。

経済開発庁は世界の主要国に事務所を設置しています。その役割は、いうまでもなく各国の資本をシンガポールに誘致することでした。

つまり、経済開発庁の海外事務所は「リー=カンパニー」の営業部であり、資金調達という「リー=カンパニー」の命運を握る任務を遂行する「リー=カンパニー」経営の最前線なのです。

産業インフラストラクチャー整備

海外事務所の努力によって外国の企業が投資を決定した場合、つぎに課題となるのが実際に工場を設置し操業するための産業インフラストラクチャー整備です。

他の発展途上国とシンガポールが大いに異なっているのが、植民地時代にすでにある程度のインフラが整備されていた、ということでした。

しかし、シンガポール政府はさらにその整備に力を入れ、工場そのものの建設はもちろん、それを操業するのに必要な電力・水道・道路・港湾などを重点的に整備していきました。

このようなハード面のインフラにとどまらず、原料や製品の輸出入にあたっての行政手続きを簡略かつスピーディーに行なうことができるよう、ソフト面のインフラ整備にも力を注ぎました。

このような政府の努力が外国資本の大量誘致につながっていきました。

政府による資本参加

さらに、外国からの投資のみならず、政府自身が資本参加して生産事業を行ないました。

資本主義国家においては民間資本が投入されにくい分野に政府が企業を設立し、国の経済をリードしていくことが一般的です。

シンガポールにおいても、重化学工業化政策を進める初期段階にあって政府が造船・製鉄関連の企業を設立し、工業化を誘導する基幹産業をみずから興隆させることで国民経済をけん引する役割を果たそうとしたことはありました。

しかしながら、シンガポールが独自性をもっているのは、こういった初期段階の基幹産業のみならず民間企業が活動しているあらゆる分野に政府の資本が参入して、企業間の競争に参加しているという点です。

これらシンガポールの政府系企業は多くの国の政府系企業が赤字経営であるのに対して、ほとんどが黒字経営で、その分野で国内トップ企業となるほどの競争力も有しています。

では、赤字経営の政府系企業はどうなっているのでしょうか。

実は採算が取れない企業は撤退、廃止されてしまうのです。

このように、民間企業と競争し、民間企業と変わらない徹底した採算重視の経営が行なわれているのがシンガポールの政府系企業の特徴です。

海外市場における余剰資金の運用

以上のような外国資本の誘致と政府系企業の経営によって豊富な資金を得たシンガポール政府は、その余剰資金を海外市場で積極的に運用するようになります。

すなわち、政府が全株式を保有するシンガポール政府投資公社(GSIC)を1981年に設立して、ここをつうじて海外での資金運用を行なうようになったのです。

それまではシンガポールの中央銀行である金融庁によって行なっていた海外での資金運用を、専門の政府系企業によってより戦略的に行なうようになったのです。

「リー=カンパニー」の経営のスタイル

これまで述べてきたような経済政策を実施する機関を運営するのは欧米の有名大学で学位を取得したのち公務員となったエリート官僚たちです。

彼らは政府の中央省庁で事務次官あるいは局長クラスの職にありながら、これら政府系機関・企業の経営者としても活躍しているのです。

いくつもの役職を兼任している多忙な人物もいました。

実は、このような兼職こそが「リー=カンパニー」の経営のスタイルであり、強みであるのです。

つまり、政府の中央省庁と政府系機関、そして政府系企業が彼ら優秀なエリート官僚の人的ネットワークを基盤として連結され、一体となって「リー=カンパニー」が経営されている、ということなのです。

これにより、リークアンユーを経営トップとする国家カンパニーである「リー=カンパニー」はシンガポールの開発および成長を旗印に優秀な官僚によって効率と収益を重視した経営を行ない、高いパフォーマンスを実現することでシンガポール経済の発展を現実のものとしたのでした。

シンガポール経済の発展のための労働政策

国家・外国資本・労働者の有機的結合

リークアンユーのもとで確立した開発体制をささえたのは、国家と外国資本、そして労働者が結合したものでした。

この三者が有機的に結合することで、リー=クアンユー政権が描いた経済発展が可能となったのです。

これまで、外国資本そして国家について述べてきましたが、次に労働者がこの結合にどのよう編入され、どのような役割を担わされていったのかについてみてみたいと思います。

外国資本に有利な労使関係

国家が主導して外国資本を誘致するために、リークアンユーが懸念したことがありました。

このことについて、リー=クアンユーの側近が彼の言葉として次のように記しています。

 

リー=クアンユーは、終始シンガポールの生存に心を砕いた。労組との交渉に精力を集中 した。非共産系幹部全員をシティーホール内の閣議室に呼び集め、外資吸収のためには安定した政治情勢を作ることが大切だと説明した。「率直に言いたい。いかなるストライキも私は容赦しないつもりだ。無分別なストを煽る者は刑務所にぶちこまれることになる。本気だよ。外資を呼ぶには、それにふさわしい国内状況を生み出す必要がある。産業なしには、われわれは朽ち果ててしまう。……これは生存のための試練である。じっくり考えてほしい。この2年間、ボーナスや、あれこれのことは忘れてほしい」。(『南洋華人』)

 

リークアンユーがどれほどの決意と厳しい態度で労働組合の幹部たちに物申したのかが伝わってくる言葉です。

こうして、進出する外国資本に有利な労使関係を可能にするための法律を準備しました。

1967年に制定された「雇用法」と「労働関係修正法」です。

「雇用法」は労働者の労働時間を週39時間から44時間に増やし、公休日は年15日から11日に、そして休暇や病欠日の上限も減少させられました。

有給休暇も勤続10年以下で7日、10年以上は14日とされました。

一方の「労働関係修正法」では経営側の特権が大幅に拡大され、昇進・配転・人員削減・解雇・復職・仕事の割り当ては労働組合が交渉する内容ではない、とされたのです。

これにより、労働組合の活動は抑制され、その役割を事実上否定することで労働組合を弱体化させました。

さらに、1972年には労働集約型外国企業のニーズに対応できる低賃金を可能にするため、事実上、政府が労働者の賃金を決定する権限を有する全国賃金評議会(NWC)が設立されました。

政府・雇用者・労働者によって構成されましたが、労働者の代表は政府に管理されている全国労働組合評議会から選出されるため、現場の労働者の声を反映するものではありませんでした。

これは伝統的に労働組合が担ってきた賃金交渉権をも奪うものでした。

経済発展重視の労働政策

以上のような労使関係に関する施策は伝統的な労働組合の役割を否定し、労使関係について個別の企業と労働組合が交渉するのではなく、一律的に政府がこれを管理することで外国資本を誘致し輸出競争力を維持する、という経済発展重視の発想にもとづくものでした。

その結果として、1960年代前半のシンガポールでは毎年50件前後のストライキがありましたが、70年代中盤には一ケタ台に激減して、1978~85年にはストライキはゼロとなりました。

このような強圧的とも言えるリークアンユーの労働政策には、シンガポールの開発と成長のためには労働者に犠牲と忍耐を強いるのはやむを得ない、国家の危機を乗り切るため、リーダーである自分を信じてついてきてほしい、という強い信念がにじみ出ています。

こうすることで、のちには労働者たにちも豊かな社会生活を与えることができる、と考えていたわけです。

こういった、リークアンユーの労働政策もまた、その後のシンガポール発展の基盤となったことは言うまでもありません。

熟練労働者の育成

以上のような、管理された安い未熟練労働力の存在は外国資本誘致に大きな力になりましたが、外国資本はそのような労働力だけを必要としたわけではありませんでした。

一定の段階まで発展した産業においては、訓練を受けた熟練労働力も必要とされます。

こういった、熟練された労働力の存在は、周辺諸国との外国資本誘致競争においてシンガポールの労働市場の差別化をはかるためには欠くべからざるものでした。

したがって、リークアンユー率いるシンガポール政府は、労働者の技術訓練をすすめていきました。

その初期においては、職業訓練所のようなものでした。

しかし、1970年代末には、先進諸国の政府や大企業のバックアップのもと、多くの技能センターがシンガポールに設立されました。

日本政府も、この時期に「日本シンガポール職業技能センター」を設立しました。

ここでは、毎年数百人の若者が2年間の技能訓練を経て、シンガポール国内のあらゆる企業に中級技術者として就業するようになりました。

さらに、1980年代になると、シンガポール政府がハイテク産業振興政策を採用するようになり、それにしたがって、シンガポールの観光名所であるセントーサ島に渡るターミナルの「ワールド・トレード・センター」ビルに日本シンガポール・ソフトウェア研修センターがつくられました。

のちに、同センターは国家生産性庁のなかに移転しました。

ここでは日本企業が寄贈した端末を使って、約100名の生徒たちが研修を受けます。

修了後には、その大部分が政府省庁や政府系企業のプログラマーとして採用されています。

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全国労働組合評議会と人民行動党

これまでみたような労働組合や労働者の国家による管理を可能にしたのが、1950年代に人民行動党の共産系グループを排除したのちに、共産系労働組合を強制的に解散させ、政府主導による「全国労働組合評議会」(National Trades Union Congress)を創設し、労働組合をこれに一本化したことでした。

これによって、共産系労働組合は一気に弱体化し、労働組合に参加している労働者は全国労働組合評議会に組織されることになりました。

この労働団体はいわゆる御用組合的な性格をもつもので、そのトップである書記長には人民行動党の有力指導者が任命されています。

すなわち、全国労働組合評議会によって、労働者と労働組合は人民行動党による政府の開発体制を支える重要な組織とされているのです。

その政府との密接な関係を象徴するように、毎年8月9日に行なわれる独立記念日のパレードには、数多くの経済・社会団体のうち、全国労働組合評議会がその先頭に登場しています。

以上のように、シンガポールの開発体制の担い手として、シンガポールの労働者たちは人民行動党政府のもとで、管理され、組織されることで、強圧的とも言えるリー=クアンユーの労働政策が実行可能になっているわけです。

外国人労働者の活用  

外国人労働者の受け入れ

シンガポールの経済発展を語る上において、欠かせないのが外国人労働者の存在です。

当初、200万人の人口であったシンガポールは大規模な労働集約型産業を振興させれば、必然的に労働力不足に陥ります。

実際、早くも1970年代はじめには労働力不足となっていました。

このような場合、多くの国では農村などの余剰人口が都市に流入することで、その労働力不足がまかなわれます。

しかしながら、シンガポールは小さな都市国家であり、そのような農村人口は存在しませんでした。

そこで、シンガポール政府が選んだ道は、外国人労働者を受け入れ、これを活用することでした。

まず、導入がはかられたのは、隣接するマレーシアのジョホール州の労働力でした。

こうして、日常的にマレーシアからシンガポールに通勤する労働者が増え、マレーシアに接する入国管理事務所は朝になると、彼らが押し寄せ、長い列ができるようになりました。

しかし、シンガポールの労働力不足は彼らをもってして解決できませんでした。

また、マレーシア自体が経済発展したために、シンガポールまで働きに来る労働力をマレーシアにこれ以上期待することも難しくなっていきました。

このため、シンガポールは、スリランカ、インドネシア、インド、タイ、フィリピン、台湾、中国といったアジア各国から労働力を調達するようになりました。

2つに分けられた外国人労働者のカテゴリー

シンガポール政府は彼ら外国人労働者を2つのカテゴリーに分けました。ひとつは組立工場や建設現場の労働者、メイドなど「未熟練労働者」、もうひとつは、大学教授や弁護士など「専門労働者」です。前者の「未熟練労働者」の場合は、滞在期間も制限され、シンガポール国民と結婚する際には労働省の許可を必要とし、メイドには定期的な妊娠チェックが要求されています。

もう一方の「専門労働者」は比較的高給の職につく外国人が属していて、「エンプロイメント・パス」発行されます。

これらの人々は有能な知的労働者として優遇されていて、「未熟練労働者」のような細かい管理体制はとられていません。

「専門労働者」については、弁護士や会計士などを中心に、シンガポール政府が積極的に招聘するということも行なわれました。

経済と社会を維持する範囲内で

彼ら外国人労働者はシンガポール経済のなかに組み込まれていて、シンガポール経済を支える存在としてシンガポール社会には不可欠な存在となっています。

しかし、それは外国人労働者を無制限に受け入れることを意味しているわけではありません。

シンガポール政府は、あくまでシンガポールの経済と社会を維持する範囲内で外国人労働者を受け入れ、産業によっては外国人労働者の就業比率が詳細に規定されました。

また、外国人労働者はシンガポールの経済・産業の調整弁としても活用されています。

1985年にシンガポール建国後はじめてマイナス成長となった際には、電子部品工場、電機関連工場をはじめとして製造業全体で約2万人が解雇されましたが、そのさい、まずターゲットとなったのは外国人労働者でした。

以上のように、外国人労働者、とりわけ「未熟練労働者」にとっては楽なことばかりではありませんが、それでもほとんど不平をもらすことなくシンガポールで働く、とういう選択をするのは、自国では得ることが難しい収入をシンガポールで我慢して働けば得ることができるからであるということができます。

かつて、イギリス統治下にあったシンガポールに働きにやってきた華僑や周辺国の人々と似たような構造が、時代状況は違ってもリークアンユー時代のシンガポールにも存在した、と言うことができるのではないでしょうか。

彼らにとって、20世紀後半になっても、シンガポールは生活の糧を得る道がある、夢の町なのかもしれません。

エリートたちの党・人民行動党

イデオロギー政党からプラグマティズム政党へ

これまで、リークアンユー政権のもとでの経済政策についてみてきましたが、つぎに、リークアンユー政権のもとでの統治体制についてみていきたいと思います。

リークアンユー政権を語る上で絶対にはずすことのできないのが、リークアンユーを領袖として事実上の一党支配を行なう政権与党・人民行動党です。

人民行動党はもともと社会主義的なイデオロギーを前面に押し出していました。

しかし、共産系グループとの抗争を経て、次第にイデオロギー的には穏健な路線へと転換していきます。

かつて、社会主義政党の国際的連帯組織である社会主義インターに加入していましたが、1976年になると、その路線から除名される動きがおこりました。

これに対し、人民行動党は除名されるまえに自ら脱退するという道を選びました。

こうして、名実ともに、人民行動党はイデオロギー政党から現実路線のプラグマティズム政党へと変化していったのでした。

人民行動党の組織

党組織は、書記長であるリークアンユーを頂点として、中央執行委員会が党を運営し、下部組織として全国の各選挙区に支部委員会が置かれています。

そして、中央執行委員会と選挙区支部委員会の中間組織として、地区委員会が置かれています。

さらに、青年部、女性部、マレー人担当局といった専門部署、機関紙発行などを担う出版・情宣委員会などの専門委員会が置かれています。

各地区の党支部には大きく2つの活動があります。

ひとつは、地元選出議員による有権者のための相談会である「選挙民対話集会」です。

この集会は1960年代からはじまり、公団住宅の購入、屋台やタクシーの免許取得、求職、進学などといった有権者の生活に関するあらゆる相談に丁寧に応じる、というものです。

もうひとつは、支部に併設された「人民行動党幼稚園」の運営です。

就学前の児童を対象とした幼稚園ですが、とくに党による政治教育が行なわれるというものではなく、日本の一般的な幼稚園と同じようなものです。

しかし、これ以外に党員でない一般のシンガポール市民が日常生活で党にふれあったり、党を意識したり、ということはほとんどなく、機関紙も一般国民はほとんど読んでいません。

また、一般の国民が党員になっても、日常生活で利益を感じることはほとんどないようです。

エリート政党

一般国民と人民行動党とのこのような距離感は、その指導層の構成にも起因するものと思われます。

党の指導者たちの多くは高級官僚出身が圧倒的に多く、そのほか大学教員や弁護士などの専門職、企業経営者などといったエリート層出身で、そのような傾向はリークワンユー政権以降においてさらに顕著になっていきます。

人民行動党では国会議員候補者選定の際にも、社会階層が重視され、官僚をはじめとしたエリート層のなかから候補者を絞る、という形式がとられています。

このように、人民行動党は大衆政党ではなく、あきらかにエリート政党なのです。

このような党の運営は、つぎのようなリークアンユーの方針によるところが大きいと考えられます。

 

我々は、不必要な内部抗争や大っぴらな分派行動で支持者たちを混乱させるのは絶対にい けないということを学んだ。だから我々は、人目につかないところでけんかをして意見の相違を調整し、公衆の面前では相互に矛盾するようなことは絶対に言わなかった。(『政治哲学』下)

 

1950年代の人民行動党は党内抗争を繰り返し、1965年の共産系グループの分離まで混乱状態にありました。

その後、リークアンユーが党を掌握して、一枚岩の党となりました。

人民行動党の指導者たちは国民の前ではみんな同じ内容を主張します。

リークアンユー政権のもとで、彼らがオリジナルの考えや政策を説くというようなことはありませんでした。

このことが物語っているのは、人民行動党という政党はシンガポールの多様な社会階層や意見を持つ人々を擁する大衆政党ではなく、エリートたちを選別して集結させ、彼らをひとつの考え・政策・行動で結束させている党である、ということです。

このようにして、シンガポールのエリート層を糾合した人民行動党が独立後の政治を独占していきました。

なぜ一党独裁が可能なのか

人民行動党はマレーシアからの独立後初の国会議員選挙が行なわれた1968年から1981年の補欠選挙で野党に一議席を明け渡すまで、継続して国会の全議席を独占したことはその象徴的な出来事といえるでしょう。

複数政党制・自由選挙であるはずのシンガポールでこのようなことが可能になった背景には、人民行動党に敵対・対抗勢力に対する国内治安維持法の適用や行政指導の濫用など、さまざまな手段をつうじた容赦ない攻撃によって、それらの無力化に次々と成功したことがあります。

これによって、共産主義勢力や労働組合、学生団体、政権に批判的だった華語新聞や南洋大学、野党といったさまざまな批判勢力が解散・無力化させられました。

こうして、1970年代までには、シンガポールの政治からおける対抗勢力・圧力団体・利益団体などのアクターが消失し、唯一の政治アクターとして人民行動党が残った、というわけです。

その後も野党は存在してはいましたが、人民行動党に対抗できるような勢力はなく、いわゆる「ミニ政党」か有名無実の「幽霊政党」でした。

法廷を利用した野党への攻撃

そのように人民行動党が国会の議席を独占していたなか、1981年の補欠選挙で野党候補として当選したインド系の弁護士のジェヤレトナム労働者党書記長は、リークアンユー政権のもとで弱体化させられていた政府批判勢力の象徴的存在となって、1984年の選挙でも再選を果たしました。

そして、ジェヤレトナムは国会でリークアンユー政権や人民行動党のあり方に対する批判を繰り広げました。これに対して危機感をおぼえた人民行動党は彼を排除しようと考えるようになりました。

1984年に総選挙で当選したジャヤレトナムは、労働者党資金を不正利用したとして、起訴されました。

一審では無罪の判決が出されましたが、二審で逆転有罪となり、罰金刑をうけました。

この裁判に関連して、ジャヤレトナムは1986年に国会で、一審で無罪判決を下した裁判官がその判決の直後に人事異動になっていることを取り上げ、行政が司法に対して不当な介入をしたとして批判しました。

人民行動党はこれに対して、事実無根の非難であるとして、国会議員として不適切な発言だと攻撃しました。

しかし、このような発言を処罰する法がなかったため、人民行動党は国会法を改正して、国会で不適切な発言をおこなった議員は、議員資格喪失とするという条項を新設しました。

そして、ジャヤレトナムにこれを遡って適用したのです。これにより、ジャヤレトナムは国会の議席を失ってしまいました。

このように、リークアンユー政権期においては、政府批判をする野党政治家に対して、訴訟を起こし、有罪判決によって排除する方法によって、野党勢力を排除するという手法が用いられました。

法廷を利用する方法は弁護士でもあるリークアンユーらしい手法であるともいえます。

選挙制度改革

一方で、1984年の選挙結果をうけて、選挙制度改革が行なわれました。

この選挙ではジャヤレトナムを含め野党議員が2人当選しました。

政府と人民行動党はこれに危機感をもちました。彼らの理想は‘野党のいない国会’でした。

したがって、野党議員の存在そのものが問題になったのです。

このときの選挙改革の中心的なものが従来の小選挙区と併用されることとなった「集団選挙区制」でした。

これは3つの小選挙区をあわせて集団選挙区(GRC)とし、この集団選挙区に立候補する政党が3人の候補者を立てて争い、得票の多かった政党の候補者3人が当選となる選挙システムです。

また、候補者の3人のうち、1人はマレー人もしくはインド人でなければなりませんでした。

ここが実は、この制度のポイントなのです。

表向きには政府は少数民族の政治参加の機会拡大を理由としていましたが、野党が民族別に分かれていたことに目をつけた、巧妙な野党潰しであることは明白でした。

たとえば、華人の政党が、当選可能なインド人やマレー人を探すことは非常に困難なことであり、おのずと集団選挙区での立候補を断念せざるを得なくなるのです。

他方で、長年にわたって国会の議席を独占してきた人民行動党にとっては無名の新人を立候補させるにあたって、すでに知名度の高いベテランの現職とともにセットで立候補させることで、多くの新人議員を当選させることが可能になりました。

その結果、1988年の選挙では人民行動党の得票率は1984年の62.9%から61.8%へと減少したにもかかわらず、むしろ野党議員が2人から1人に減少しました。

選挙制度改革が人民行動党に有利にはたらいたのです。

市民運動への弾圧

また、野党議員のみならず1980年代にさかんになった市民運動が反政府的な主張をした場合も「共産主義」というレッテルでこれを取り締まる、ということが度々ありました。

これに対しては欧米諸国などからも人権侵害であるとして批判の声があがりました。

このように、リークアンユー政権と人民行動党は複数政党制や自由選挙の形態をとるシンガポールの政治システムのなかで、さまざまなかたちで政治的自由を制限しながら、一枚岩のエリート層による強力なリーダーシップを実現しようとしたのでした。

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「行政国家」シンガポールの官僚たち

「行政国家」シンガポール

シンガポールの政治学者であるチャン=ヘンチーは、1975年に発表した論文「行政国家における政治―政治はどこにいってしまったのか」において、現代シンガポールを「行政国家」であると表現しました。

野党が有名無実となっていて政党政治が機能せず、圧力団体や利益団体が事実上不在の状況にあっては、社会諸集団の利害調整をはかるための「政治」が、政府の決定をいかに迅速かつ合理的に実行するのかという「行政」に代替されるとし、シンガポールはまさにそのような「行政国家」であるというのです。

エリート政党である人民行動党による政治統治を補佐し、支えるのがエリート官僚たちです。

そして、その人民行動党の中枢の中心もまたエリート官僚出身者によって占められています。

このことが象徴的であるように、シンガポールの政治と行政は、人民行動党と官僚が一体化して行なわれているのです。

いうまでもなく、当初からそのような体制が出来上がっていたわけではありませんでした。

党と官僚の一体化は、1960年代に熾烈に繰り広げれられた、共産系グループとの対立の過程で、彼らに対抗するために、人民行動党が官僚や政府組織を積極的に活用したことにはじまります。

その後、官僚および政府組織は、人民行動党による支配体制に組み込まれていったのでした。

官僚の再生産システム

ところで、人民行動党はどのようにしてこれらエリート官僚を育成・確保しているのでしょうか?

官僚機構を維持していくうえで、官僚の再生産システムは重要です。

シンガポールの場合は、その教育課程において、小学校4年生を終えた段階で選抜試験を行ない、そこで優秀な成績を収めた生徒を特別コースに集めてエリート育成をはじめます。

そして、高校卒業生のなかから毎年、250名ほどの優秀な生徒を選抜して、国費留学生として国内外の大学で学ばせます。

そのうち、特に優秀だとされた5~6名の生徒は「大統領特別奨学金」が給付され、ケンブリッジ大学やハーバード大学といった英米を中心とした海外の超一流大学に留学させます。

彼らは帰国後、政府機関で8年間勤務することが義務付けられていて、中央省庁などで官僚として勤務することになります。

このようにして、シンガポールでは優秀な若者が段階的に選抜され、そのような人材を官僚として確保する仕組みがあるわけです。

リークアンユーは次のように言います。

 

二流、三流の人々が残り、一流の人たちが出て行って政府に対抗するというのはいけない。これは国家を運営する方法として愚かなやり方だから(『政治哲学』上)

 

このようなリークアンユーの考えが、以上のような「一流」の人材を官僚として幼少期から育成し、確保するというシンガポール独自の官僚育成システムを形づくっているのです。

エリート主義

こうして、選抜されたエリートたちが人民行動党政府を運営することになりますが、これらのエリートたちは一般の国民が政治・経済について口出しすることを好みません。

あくまで、自分たちエリートこそが未来を見極めており、国民はそれにしたがって進んでこそ、シンガポール社会全体の利益がもたらされる、といった考えをもち、彼らは実際にこのような発言を公にします。

このようなことから分かるように、シンガポールの行政を掌るエリート官僚たちにとっては、専門能力が優れた少数の人びとによる指導・命令こそが「政治」であるのです。

このようなあり方に対して、シンガポール国民の一部からは常に過剰なエリート主義として批判されますが、一方でシンガポールの人びとがこのような統治を(たとえ少々不満があったとしても)受容してきたのは、彼らの統治によってもたらされた成長の成果が国民にも配分されてきたからなのでした。

シンガポールのエリート官僚制の特色

スピーディーな行政対応

このような人民行動党とエリート官僚による統治の「長所」として、スピーディーな行政対応をあげることができます。

では、効率的で、合理的な政策決定過程によって問題を処理し、目標を達成する行政対応がなぜ可能なのでしょうか?

それには、もちろん能力の高い優秀な人材が集められている、ということも考えられますが、もうひとつ、重要な理由があります。

それは、ほかの国のように、野党や圧力団体、あるいは住民など当事者の当面の利益や反対などを考慮する必要がない、ということです。

その結果、たとえば都市再開発においては、政府がいったん計画を立てると、すぐさま実現します。

ほかの国であれば、住民の反対や、住民の反対に呼応する野党や利益団体などへの説得や訴訟などへの対応を迫られ、多くの時間とエネルギーが費やされます。

しかしながら、シンガポールの場合には、住民が反対運動を組織することは困難であり、それに呼応することのできるひどの力のある野党や利益団体は皆無です。

したがって、政府は土地収用規定など行政命令を発するだけで住民を立ち退かせることができるのです。

住民たちに残された道は、地元選出の人民行動党議員に相談して、立ち退きにあたっての費用負担を少しばかり増額するように交渉してもらったり、移転先を有利にしてもらうようにお願いする程度のことだけです。

政策の柔軟性

このような人民行動党政府が官僚組織と一体となって効率的・合理的に統治するプラグマティックな体系は、一度政府が決めたプロジェクトであっても、状況をみて、変更や撤回がスムーズに行なうことができるというメリットもあります。

その例としては、シンガポールの人口政策の柔軟性をあげることができます。

1970年代までは、子供は2人まで、という政策を実施し、人口抑制策をとっていました。

このために、避妊手術を受けた女性に対して、中央積立金の口座に1万シンガポール・ドルを振り込むというインセンティブ政策まで行なわれていました。

これにより、多くの女性がこれによって避妊手術を受けました。

ところが、シンガポールにおいて労働力不足が深刻になると、政策を一転します。

1980年代のシンガポールにおける人口政策のスローガンは「子供は3人、可能ならもっと」とされ、人口増加策へと急旋回したのでした。

このような急な政策転換は、人口・労働問題への対処としては非常に合理的なものでしょう。

しかし、それによって国民生活は右往左往させられるため多くの国であれば国民の反発は必至ですが、徹底した「行政国家」シンガポールであればこそ可能であったと言えるでしょう。

クリーンな政府

徹底した効率性・合理性のほかに、もうひとつ、シンガポールの官僚制の特色として注目すべきなのが、汚職が皆無であることです。

汚職による政治・経済の停滞に悩んでいた発展途上国はもちろん、先進国でさえ根絶が難しい汚職を一掃した「クリーンな政府」をシンガポールが実現できたのはなぜでしょうか?

その大きな理由として、リークアンユー自身が、そのような汚職政治を極端に嫌っていたことがあります。

リークアンユーが首相に就任した際に、兄弟を集め、「家族から首相がでれば、何か特権やもうけを期待するかもしれない。しかし絶対にそんなことはない。これからは兄弟だと思うな」と話したというエピソードは非常に有名です。

このような、リークアンユーの政治家としての個性もさることながら、シンガポール経済発展のために導入しようとしていた外国資本がシンガポールへの進出を考えたとき、公務員による汚職はマイナス要因となります。

また、国民に対して忍耐を要求し、抑圧的ともいえる強硬な政策を実行する人民行動党政府にとって、実直な政府、公正な公務員による「クリーンな政府」を実現することは、政府が国民の信頼を得て、その指導にしたがってもらうためには必要不可欠なことでした。

こういった点からも、リークアンユーは効率的で合理的であるとともに、クリーンな行政を追求したわけです。

汚職撲滅のためのアメとムチ

リークアンユーは、つぎのように公務員たちに要求しました。

 

よく聞いてほしい。相手が日給制公務員組合であろうと公務員連合であろうと、私が譲れないことが2つある。公正な賃金と公正な仕事だ。公正な賃金は保障するが、諸君が怠ければ、ぶちのめす。私はシンガポールを代表しているんだから、シンガポール国民を欺いた人間をぶちのめすことに文句のある者は、政治の戦場で私に喧嘩を売ればいいのだ。それが誰であろうと……相手になる。(『政治哲学』上)

 

このようにして、リークアンユーは官僚に公正な賃金の保障を約束するとともに、業務遂行にあたっての公正さを厳しく要求しました。

シンガポール政府はその実現のために官僚を優遇する給与体系と汚職を取り締まるという「アメとムチ」の仕組みをつくりました。

「クリーンな政府」実現にあたって、官僚を金銭的に優遇するというのは、発展途上国で多くあるような、官僚の給与が極端に安いため、生活していくために業務に関連して不当な収入を得ようとする行為を防ぐためです。

つまり、汚職への誘惑が生じさせにくくするために、官僚の賃金を保障することにした、ということです。リークアンユーは晩年に、中国における官僚の汚職根絶に関連して、つぎのように発言しています。

 

政府役人が非現実的なほどに低い報酬しか与えられない状況下では、それらの奨励や措置は効果を生まないであろう。たとえ、どれだけ死刑や無期懲役といった処罰を強化しても、である。(《From Third World To First :The Singapore Story 1965-2000》)

 

中国においては、死刑を含む厳罰をもって汚職を根絶する取り組みがすすめられていますが、一方で低い賃金がそのままになっていることの限界をリークアンユーは指摘しているのです。

リークアンユーが、収入の保障による官僚の生活安定をはかることが、汚職根絶のためには必要不可欠であると考えていたことがわかります。

このような「アメ」と並行して、汚職に対する厳しい取り締まりの仕組みがつくられました。

すなわち、総理府直属の汚職行為調査局が設置され、強力な権限が与えられました。

その対応は非常に迅速で、調査局の捜査による汚職発覚から裁判所による判決まで、数日ほどとなっています。

このようなスピーディーな処理からも、リークアンユーの汚職根絶への意志が制度的に徹底していることが伺われます。

有罪となった場合は、「その人の社会生活は、もはやない」といわれるほどの厳しい社会的制裁が加えられます。

人民行動党に有利な選挙制度

義務投票制

リークアンユーもとで政権与党・人民行動党と官僚が一体となって、効率性・合理性を追求した統治・行政をおこなう体制が形成されたことは、これまで述べてきたとおりですが、そのような体制のもとで国民に対する統治・管理はどうやって行なわれてきたのでしょうか?

そのことを顕著に物語っているのが、徹底的に人民行動党に有利につくられたシンガポールの選挙制度です。

シンガポールで普通選挙が実施された1959年、同時に義務投票制が導入されることになりました。

すなわち、選挙権のあるすべての有権者に投票を義務づけ、投票しなかった者には罰則を科す、ということになったのです。

では、具体的にどのような罰則が課されるのでしょうか?

それは「選挙人名簿から名前が抹消される」ということです。

これだけを聞くと、たんに「今後、投票ができなくなるだけなので、そもそも投票する意思がなければ問題ないのでは?」と考えてしまいます。

しかし、選挙人名簿から名前が抹消されるというのは、シンガポール国民にとって、社会的に抹消されるに等しいペナルティなのです。

シンガポールでは国民としての行政上の権利行使が、選挙人名簿をもとに行なわれるため、選挙人名簿から名前が抹消されることで、公団住宅の購入権など、シンガポール国民であれば行使可能なさまざまな公民権が喪失してしまうのです。

ただし、海外居住者の場合など、物理的に投票が不可能な場合には、選挙登録局にその事由を申告することで名前を復活させることが可能です。

また、特別な理由なしに棄権した場合には、罰金を支払うことで選挙人名簿に再び名前を登録させることができます。

しかしながら、このような「救済」があったとしてもこれを申告したり罰金を支払ったりすることは面倒だと思うのは自然でしょう。

こうして、義務投票の制度自体が国民に投票を促すことになります。

秘密投票への疑念

シンガポールの選挙制度で、普通選挙・義務投票とならんで原則とされているのが、「秘密投票」です。シンガポールの国会議員選挙法には秘密投票制が明記されています。

しかし、その実態が野党や一部の政府に批判的な国民から不評をかってきました。それは投票用紙に記された通し番号に対する疑念です。

投票用紙には、有権者が候補者の名前を記入して投票する正用紙とあわせて、選挙管理委員会が半年間、保管する控え用紙があって、同じ通し番号がふられています。

そして、投票の際には、控え用紙に投票する有権者の個人番号が記入されます。

つまり、控え用紙に記された個人番号と投票用紙の通し番号を照合すれば、誰が、どの候補者に投票したのかを追跡することができる、というわけです。

これに対して、シンガポール政府は、不正投票防止のためのものであり、誰が、どの候補に投票したかについて、調べたことはない、と反論してきました。

しかしながら、こういったシステムが、有権者に対する心理的圧迫になることは否めないでしょう。

選挙制度改変

さらに、リークアンユー政権の終盤期である1988年の選挙で行なわれた選挙制度改変もまた、注目しなければなりません。

1984年の選挙結果をうけて、選挙制度改革が行なわれました。

この選挙ではジャヤレトナムを含め野党議員が2人当選しました。

これに対して、政府と人民行動党はこれに危機感をもちました。

このときの選挙改革の中心的なものが従来の小選挙区と併用されることとなった「集団選挙区制」でした。

これは前述の、3つの小選挙区をあわせて集団選挙区(GRC)とし、この集団選挙区に立候補する政党が3人の候補者を立てて争い、得票の多かった政党の候補者3人が当選となる選挙システムです。

このように、人民行動党はリークアンユー体制のもとで、選挙制度をつうじて政治管理をすすめ、自由選挙を名目としながらも、シンガポールにおいて長期間にわたる政治的独占を実現してきたのでした。

人民行動党の支持調達システム

地域機関と地域住民

これまで述べたように、人民行動党はみずからに有利な選挙制度をつくりあげ、これを運用することにより事実上の一党独裁状態を築きましたが、それは決して国民の支持がまったく反映されたものでない、とはいえません。

人民行動党は、このような制度によって選挙を有利にすすめるとともに、一方で積極的に国民のなかにはいって、支持を調達するシステムもつくりあげました。

行政制度として、シンガポールには地方制度はありません。

つまり、中央省庁が全国を一元管理するしくみになっています。

しかし、政治統治の観点からみると、地域社会振興省のもと、選挙区を単位として目的や機能ごとにそれぞれ地域機関が設置されていて、これによって政府と地域住民がつながっているのです。

地域機関と人民行動党支部委員会の一体化

各地域機関の委員会は、地域の有力者が運営をおこなうことになっていて、その選挙区から選出された国会議員が顧問に就任します。

形式としては、その国会議員の推薦によって政府が任命するということになっていますが、実態としては国会議員が選んでいる状態です。

そして、各選挙区に設置された人民行動党支部委員会の有力メンバーが、地域機関委員会の委員ポストを兼任することが多くなっているのです。

このようなしくみによって、各選挙区において、人民行動党所属国会議員を頂点として、地域機関と人民行動党支部委員会が一体となって、各地域において住民の統治・管理の担い手となっているのです。

そして、地域機関をつうじて、住民生活のさまざまな場面で、人民行動党が地域住民の面倒を見る、という構造ができあがっています。

こうして、地域機関は政治的に中立の組織としてでなく、人民行動党による一党支配を草の根レベルで支え、その支持を調達する組織としての性格をもつようになりました。

国民統合への模索-種族融和政策

国民統合の重要性

リー=クアンユー政権のもと、これまでみたような強権的な統治システムが構築されてきましたが、こういった上からの強権的な統治は短期的にみた場合、じゅうぶんに可能ではあります。

これは多くの独裁的な政権がとってきた統治手段でした。

しかしながら、このような強権のみに依拠した統治は非常に不安定になりやすく、長期的かつ安定的な統治を実現するためには、その国家を構成する国民が、自発的に国家との一体感をもつことが重要です。

すなわち、国民統合に依拠した、統治の安定化をはかってこそ、長期的かつ安定的な政権運営が可能になるのです。

単に国家暴力によって国民を支配する独裁政権とリークアンユー政権を分かつのは、長期的なシンガポールの政治社会安定のために、国民統合に尽力した、という点です。

「モザイク社会」統合の困難

シンガポールは規模としては非常に小さな独立国家ですが、そこに暮らす人びとには宗教、生活習慣、言語を異にする華人、マレー人、インド人などがいて、さらにそれぞれの集団に英語、華語などといった教育言語の違いがあり、もともと各集団に分化して生活していました。

このようなシンガポール社会の分化は、植民地時代から引き継がれたものでした。

したがって、この「モザイク社会」であるシンガポール社会をいかに政治社会的に統合していくこと、つまり、シンガポールに暮らす多様な集団を、ひとつの「シンガポール国民」としていかに国民統合を実現していくのか、ということが、独立国家シンガポールを担うこととなったリークアンユーにとって、建国以来の大きな歴史的課題でした。

国民統合の2つの方法

異なるアイデンティティをもつ集団によって構成される社会において国民統合をすすめる場合、2つの方法があります。

ひとつは、ある特定の集団の分化価値をその「国民」のアイデンティティとし、その文化価値に他の集団をさまざまな手段で同化させることで国民統合を図る、という方法です。

もうひとつは、特定の文化価値を強制するのではなく、主要な諸集団の文化価値を平等に扱い、それぞれの集団に他の文化価値を相互に尊重させることで国民統合を図る、という方法です。

種族融和政策

リークアンユー率いる人民行動党政府は、長期にわたって国民統合をさまざまな政策によって試みます。その試みを、大きく2つの段階に分けることができます。

まず、第一の段階が「種族融和政策」です。

これは、上の国民統合をすすめる方法としては後者に該当します。

すなわち、あらゆる集団の文化価値を平等にあつかい、共存させる、というものです。

リークアンユーは、この「種族融和政策」について、

 

われわれは国民を統合しようと努力しています。ヒンズー教徒を仏教徒に改宗させたりするのではなく、お互いを受け入れるのです。(『政治哲学』下)

 

と述べています。

このリー=クアンユーの言葉からもうかがえるように、シンガポール社会に存在する多様な規範や価値を否定して、ひとつのものに同化させるのではなく、それらを国家社会のなかに包摂し、その調和と安定を図ることによって国民統合を実現しよう、というのが第一段階の「種族融和政策」なのです。

種族融和政策の背景

では、どうしてこのような政策がまず、採用されたのでしょうか。

それにはシンガポールがおかれた当時の状況から、このような多様性を認める政策を採用せざるをえないという事情がありました。

そもそも、独立当時のシンガポールは人口の75%以上が中国系の華人が占めていました。

したがって、マジョリティである華人の文化価値・言語によって、国民を統合することが自然のように思われます。

しかしながら、それは政治的にも社会的にも、そして地政学的にもリークアンユー政権にとって不可能なことでした。

その理由として、まずあげられるのが、華人とマレー人との種族間対立が存在していたことでした。

マレーシア時代には激しい直接衝突があったことに象徴されるように、シンガポール社会における両者の対立は、シンガポールにおいて国民統合を図っていくうえで、障害になるものでした。

そのため、どちらか一方の文化価値を強制する政策を実施した場合には、種族間対立を激化させることになり、国民統合とは逆の効果を生む可能性が非常に高かったのです。

もうひとつの理由は、シンガポールの政権を運営していたのが海峡生まれの英語教育エリートの集団であったことです。

彼らにとっての政治的ライバルはまさに、シンガポール社会のマジョリティ集団である華語派華人でした。

華語派華人との激しい政治闘争の末に、彼らが政権を掌握したことは、すでに述べたとおりで、いわば政敵ともいえる華語派華人の文化価値をそのまま国民統合のスタンダードとして受容することは、政治的な判断としてはあり得ないことだったのです。

さらに、国際情勢という観点からみた場合、当時の冷戦体制にあって、共産主義中国と同じ文化価値を有する華人国家が東南アジアの真ん中に存在するということは、東南アジアの周辺諸国、ひいてはアメリカをはじめとした資本主義陣営の国々に不要な警戒感をいだかせることにもなりかねませんでした。

そのような「警戒」はシンガポール政府にとっては、意図しない、まったくの誤解にほかならず、あえてそのような誤解を生む選択をすることは、当時のシンガポールが地政学的におかれた位置を考えれば決して得策ではありませんでした。

以上のような理由から、シンガポールにとって国民統合をすすめる方策としては、この「種族融和政策」以外には考えられなかったのです。

その一環として、マレーシア時代に「国語」とされたマレー語のほか、英語、華語、タミル語という4つの言語がシンガポールの公用語とされました。

国民統合の完成をめざして~英語社会化

国民統合策の第二段階

以上のような、種族融和政策は、種族間の対立と近隣諸国との緊張を回避する、といった消極的な理由で採用されたものでした。

したがって、国内外に不要なトラブルを発生させない、というメリットはありましたが、国民を積極的に統合する、という観点からみれば不十分なものでした。

シンガポールをひとつに統合された社会として再構成するためには、やはり何らかの価値規範によって構成員を統合していくことが求められます。

そこで、国民統合策の第二段階として登場したのが、英語による学校教育によって「英語社会化」を図る、という政策でした。リー=クアンユーは、

 

英語教育はこの多種族社会に共通語と共通の環境、そして共通の価値観を与えている(『政治哲学』上)

 

と、言っています。

つまり、リークアンユーは、シンガポールにおける英語教育には、共通の言語、共通の環境、共通の価値、という三つの機能があり、これがモザイク社会シンガポールの国民統合の軸となる、と考えていたのです。

シンガポール社会と英語

シンガポール社会において英語は、宗主国イギリスの言語として、植民地時代からの共通語でした。

したがって、英語をシンガポールの共通語としていくことに対する国民の反発は少なく、シンガポール社会を構成する特定の民族の言語でもないため、モザイク社会における共通語としては非常にニュートラルなものとして、英語は受容されやすい、というメリットがありました。

また、英語は支配集団である人民行動党幹部たちの共通言語であり、彼らは英語をつうじてその価値文化も共有していました。

いわば、英語はシンガポールの支配層の文化、そしてアイデンティティそのものだったのです。

さらに、実利面からみた場合、シンガポールが外国資本を誘致し、国際ビジネスセンターとして発展していくうえで、シンガポール国民が国際言語である英語を共通語としていることが、きわめてプラスに作用することは言うまでもありません。

このような社会の英語化によって、シンガポール社会の安定と統合、そして発展を図ろうとしたわけです。

英語普及のための努力

そのために、シンガポール政府は英語を学ぶよう、国民に強く促しました。

そのため、国営放送であるシンガポール放送局(SBC)では、公用語である4つの言語を平等に扱って華語、マレー語、タミル語のニュース番組もありますが、そのメインとなっているのは英語のニュースです。

また、アナウンサーはイギリスで訓練を受けさせ、シンガポール国民の「正しい」英語のモデルとなるように努めています。

しかし、その一方で、「シングリッシュ」と呼ばれる、シンガポール独特の英語が一般国民のあいだで使われ、シンガポール政府は、国民に「正しい」英語を普及させるため試行錯誤し、リークアンユーが亡くなった今日にいたっても、その対策に頭を悩ませています。

そのようなことを考えると、社会の英語化をつうじたシンガポールの国民統合への試みは今もなお継続中であり、長い時間をかけて徐々に完成していくものではないかと思われます。

このほか、前述のナショナル・ディフェンスという、国防意識による国民統合、あるいは住宅政策において、特定種族が特定地域に偏ることがないように、あらゆる種族が隣人となるように意図的に公団住宅入居者を振り分けるなど、さまざまな国民統合のための試みがリークアンユーのもとですすめられました。

個人に権力が集中する「リー王朝」

党と政府の一体化とリークアンユー

1965年にマレーシアから独立して以降、シンガポールは経済的自立もままならず、将来への不安をかかえた船出でしたが、近隣諸国との緊張関係や国内の種族間対立をなんとか克服して、外国資本の導入による経済発展をリークアンユーのもとで成し遂げました。リークアンユーは建国の父であるとともに、シンガポール発展の功労者なのです。

そのリークアンユーはみずからの政策が一定の成果をあげた80年代のはじめにこれまでのシンガポールでのあゆみを振り返り、次のように述べました。

 

シンガポールの国民的結集は、初めはうまくいかないように思えました。たくさんの異なった人種の異なった言語を話す移民がいたのですから。……宗教で国民を団結させることはできません。……シンガポールには王室もなく、スルタン(国王)もいません。交互に政権につく二大政党の歴史も伝統もありません。シンガポールにあるのは、人民行動党だけです。(『政治哲学』下)

 

このように、リークアンユーはシンガポール国民を統合し、団結させるのは人民行動党以外にない、と明言しました。つづけて、つぎのように語っています。

 

わが党に代わってシンガポールをちゃんと指導していける政党はありません。1959年から23年間、人民行動党は政府と同義語でした。そして政府はすなわちシンガポールなのです。(『政治哲学』下)

 

人民行動党が政府と一体(「同義語」)となって、そして、それがシンガポールという国家そのものとして、シンガポール国民を指導してこそ、シンガポールは「うまくい」く、ということでしょう。

人民行動党と政府を独立からこの当時まで、一貫して指導してきたのは、言うまでもなくリークアンユー自身でした。

リークアンユーすなわち国家

上のような論理は、リークアンユーがすなわち、党であり、政府であり、そして国家である、という結論をおのずと導き出すものでした。

そして実際、学業成績による人材の徹底した振り分けにより官僚を調達するシステムや、汚職に対する徹底的な厳格さなどに象徴されるように、シンガポールという国家には、リークアンユーという人物の価値観がそのまま現れている部分もすくなくありません。

政治闘争の末に政権運営を担い、そこで積み上げた実績もあって、リークアンユーはマジョリィティの支持を得て、党・政府そして国家に圧倒的な支配力を発揮するようになりました。

シンガポールの国家元首は大統領となっていますが、これは象徴的な存在で、政治的権能を有していません。

政治的権限をもつ最高指導者は政府のトップである首相です。

そして、その政府の運営権を与党として掌握してくたのが人民行動党でした。

リークアンユーは分離独立以前の1959年6月から1990年11月の辞任まで、シンガポールの首相をつとめました。

実に31年5ヶ月にわたる長期政権でした。

そして、人民行動党の書記長として、1954年11月の結成当初から1992年11月までの38年間、党を指導しました。

この2つのポストによって、リークアンユーは権力を行使してシンガポール国家の最高権力者として君臨したのでした。

「リー王朝」

しかし、このような権力を行使していたのはリークアンユーだけではありませんでした。

リークアンユーの家族たちもまた、政府や政府傘下機関の要職についていたのです。

たとえば、リークアンユーの長男で、のちに父のあとを継いでみずからも首相となるリーシェンロンは、リークアンユーのもとで副首相のポストについていました。

また、次男のリーシェンヤンは政府傘下の巨大企業であるシンガポール・テレコムの副会長となりました。

このように、政治・経済の主要ポストにリークアンユーの一族が就任したことから、リークアンユーの絶対的ともいえる権力とあいまって、「リー王朝」と揶揄されることがあります。

経済発展の享受-住宅供給の推進

先にある豊かな生活

経済発展を最重要課題とし、労働者などの権利拡大要求を二の次とする強圧的な政策をとってきたリークアンユー政権は、一方でその発展の先にある豊かな生活を国民に訴えることで、国民に忍耐を求めてきました。

リークアンユーの側近が、経済発展に本格的に取り組もうとしていたリークアンユーの言葉を次のように記しています。

 

リー=クアンユーは、終始シンガポールの生存に心を砕いた。労組との交渉に精力を集中した。非共産系幹部全員をシティーホール内の閣議室に呼び集め、外資吸収のためには安定した政治情勢を作ることが大切だと説明した。「率直に言いたい。いかなるストライキも私は容赦しないつもりだ。無分別なストを煽る者は刑務所にぶちこまれることになる。本気だよ。外資を呼ぶには、それにふさわしい国内状況を生み出す必要がある。産業なしには、われわれは朽ち果ててしまう。……これは生存のための試練である。じっくり考えてほしい。この2年間、ボーナスや、あれこれのことは忘れてほしい」。(『南洋華人』)

 

この言葉のように、リークアンユーは「生存のための試練」として、労働者たちに「刑務所にぶちこまれることになる」などという言葉を発しつつ、厳しい態度で自制を求めたのです。

そして、それは労働者自身の利益にもつながる、というものでした。

このような開発体制のもとで、シンガポールは発展途上国は言うにおよばず、世界的にみても有数の豊かな国として成長しました。

経済成長の成果配分としての住宅供給

では、そのような経済発展の成果は、リークアンユー政権のもとでいかに国民に配分されたのでしょうか?

一般国民が享受した経済成長の成果配分のうち、もっとも目に見えるものは生活環境の改善、とりわけ住宅供給でした。

シンガポールのいたるところに高層の公団住宅を大量に建設し、ここに国民を入居させました。

そのような住宅政策をすすめたのが住宅開発庁でした。

日本で言えば、住宅公団に該当する政府機関で、もとは植民地時代にイギリスが創設したものでしたが、1960年に改組しました。

その後、改組から間もない1961年には、住宅建設5カ年計画を作成して、毎年の建設目標戸数を決めました。

計画が実行に移されると、すさまじいスピードで住宅建設がすすめられ、毎年の目標よりはるかに多い新住宅が建設されていきました。

はじめは、クィーンズタウン、トアパヨーなどの中心部で住宅団地が建設されましたが、やがて中心部の土地がなくなるや、郊外にあった沼地や荒地を開発するなどして土地を確保し、目新しい住宅団地がシンガポールのあらゆる場所に立ち並ぶようになりました。

このような、精力的な住宅団地建設によって、リー=クアンユー率いる人民行動党政権が誕生した1959年におけるシンガポール国民の公団住宅入居率は約9%程度でしたが、シンガポールがマレーシア連邦から分離独立した1965年には入居率が24%となり、1970年に36%、1975年には55%と国民の過半数が公団住宅に入居することとなり、1980年にいたって73%、1990年には87%と、国民の大半が、政府が供給した公団住宅に暮らすようになったのでした。

こういった急速な住宅供給による住宅事情の改善は、経済発展の成功と、シンガポールならではの迅速な行政処理が可能にしたもので、まさしく、発展の成果配分、といえるものでしょう。

「持ち家政策」の推進

さらに、政府はこれとあわせて「持ち家政策」も強力に推進しました。

もともと、公団住宅は賃貸のみでした。

ところが、分離独立直前の1964年になってこの持ち家政策がはじめられました。その背景には、マレーシアとの対立過程で、リー=クアンユー政権への忠誠やシンガポールへの帰属意識を高める必要性を感じたシンガポール政府が、持ち家を政府が積極的に供給することで、それが可能になるではないか、と考えたことがありました。

しかし、はじめシンガポールの人びとには購入資金を準備するのは困難なことでした。

そこで、前述のような中央積立基金の一部を住宅購入資金として充当することでできる仕組みを作ったのでした。

これにより、シンガポール国民は、住宅購入を人生の目標のひとつとするようになっていきました。

そして、住宅購入の需要が供給を上回る状態がつづき、人気のある地域では購入申請してから何年も待つ、というようなことがあったほどでした。

こうして、公団住宅における持ち家率は急速に伸び、1980年には42%となり、1985年に64%、1990年にいたっては80%と、公団住宅の5軒に1軒が持ち家、という状況になりました。

このように、1980年代終わりには多くのシンガポール国民が持ち家を手に入れたということもあり、住宅政策において単純に量を提供する時代から、住宅の質を向上させる時代へと変化していきました。

このような先進国並みの住宅にたいする要望がでてくるところまで、住宅事情が改善されたのは、「生存のための試練」を耐え抜いた国民に対する、シンガポール政府による経済発展の成果配分の代表的な事例であるといえるでしょう。

こうして、リー=クアンユー政権のもと、多くの国民が持ち家を手に入れ、シンガポールは途上国のなかで住宅政策にもっとも成功した国のひとつとなったのでした。

能力主義的な教育制度

シンガポールの教育制度

以上のような「豊かさ」を享受する国民に対し、リークアンユー政権は、さらなるシンガポール発展のための努力や規律も要求しました。

とくに国民に社会に貢献しうる「能力」を要求し、その能力が優れたものを早くから厳しく選別して、育成する教育システムはその象徴です。

それでは、シンガポールの教育制度とは、具体的にどのようなものなのでしょうか? 

シンガポールの学校制度では、通常、6歳になると6年制の小学校に入学します。

この小学校の段階から、シンガポールの教育システムにおける選別がはじまります。

すなわち、小学校4年生の最後に全員が能力クラス分けの試験を受けさせられます。

そして、その成績によって、4年制の中学校へ進学する生徒と、職業訓練校もしくは卒業後に就職する生徒に分けられるのです。

前者は、さらに上級学校への進学も可能ですが、後者になった場合には、その後、進学することはできなくなってしまいます。

さらに、小学校のおわりに、前者に選ばれた生徒が「小学校卒業試験」を受験します。

そのうち、上位80%は合格とされて、中学校に進学することができますが、のこりの20%は職業訓練校に進むか、就職することになります。

中学に進んだ生徒たちは、中学卒業前に「普通水準教育修了証」の試験が課せられ、これに合格した者のうち、その成績によって進学先が決定されます。

まず上位10%の優秀な生徒たちは「ジュニア・カレッジ」というエリート教育を行なう2年制の高校に進学します。

その次のランクの生徒たちは、「プリユニバーシティ」(プリユニ)という3年制の高校に進みます。

そして、のこりの生徒たちは「ポリテクニック」(ポリテク)という、高等技術学校に進学することになります。

ここまでの過程で高校を修了できた者には、「上級水準教育修了証」という卒業試験が課されます。

その成績が優秀な者は、シンガポール国立大学や南洋工科大学に進学します。

そこから漏れた次のレベルの者はポリテクに進みなおすことになります。

シンガポールの大学は3年制となっていますが、上位10%の優秀な学生は、さらに「オーナーズ・コース」という1年の課程に進みます。

また、さきに官僚育成システムの説明のなかで紹介した国家奨学金受給生は、ジュニア・カレッジの1年生学年末の成績をもとに候補者がリストアップされ、2年生の成績によって100名あまりが最終決定されます。

そして、彼らはエリート官僚の卵として、卒業後に欧米の名門大学に国費で留学することになります。

以上のようなシンガポールの教育システムでは、能力による選別によって早期に進路が決定され、その選別過程においては「敗者復活」が許されない仕組みになっています。

厳しい能力主義的な選別教育システム

このような厳しい能力主義的な選別教育システムについて、リークアンユーは次のように語っています。

 

残酷なことを言いましょう。人間は才能のある者とない者に分かれます。我々の仕事は……才能を持っているか否かを、すばやく見極めることです。才能のない人間を訓練するのは、私の時間の無駄であり、その人の時間の無駄でもある。(『政治哲学』下)

 

上のようなシンガポールの教育システムは、リークアンユーのこのような思想を反映したものなのです。

つまり、人間の能力には歴然とした差があるのは当然で、能力の有無を早期に見極めて、能力があると考えられる者には教育をほどこし、ないと考えられるものには教育よりも早期に労働市場に出すことが、本人のためになる、という考えです。

このような能力主義による教育システムによって、シンガポール国民は選別され、その将来が決定されていくのです。

英語による教育の拡大と「二言語政策」

英語による教育の拡大

このようなエリート主義・能力主義に立脚したシンガポールの教育システムで重要なのが、英語による教育です。

もともと、シンガポールには各種族集団の言語による学校が存在していましたが、徐々に英語教育による学校に通う生徒が増加していきました。

1955年の時点では、英語学校が8万人、華語学校が8万3000人と拮抗状態でしたが、シンガポールが分離独立するころには、この割合が逆転し、1987年には華語学校は廃止されてしまいました。

そもそも中国系の華人が多数を占めるシンガポール社会でしたが、それでも中国語ではなく英語による教育が拡大していったのです。

その背景には、華語による教育を受けた者には将来がないに等しいのに対し、英語による教育は社会的エリートへの道を開くものであった、ということがありました。

つまり、社会的な成功を収めるうえで、英語による教育は必要不可欠なものとして認識されていたため、親が子供に英語による教育を受けさせたがった、というわけです。

二言語政策の推進

このように、シンガポール社会は英語による教育を受けた層が支配する社会ですが、その一方で1970年代初めに、リークアンユー政権は国民に複数言語を習得することを求めました。

これを「二言語政策」といいます。このような政策は、複数の言語空間が入り乱れたモザイク社会であるシンガポールにおいては、現実的に複数言語が欠かせなかった、という事情もありました。しかし、リークアンユーはもうひとつ、目的があるといいます。

 

二言語政策は、たんにふたつの言語を話す能力をつけるというだけの意味ではないのです。より基本的には、まず自分自身を理解することなのです。自分が何者で、どこから来たのか。(『政治哲学』下)

 

すなわち、リークアンユーによれば、二言語政策には、国民がそれぞれをルーツを知ることで、アイデンティティを持たせるという目的もあったのです。

種族アイデンティティを政府が尊重することで、国民統合をすすめるねらいもあったと思われます。つづけて、リークアンユーは言います。

 

二言語の習得に失敗し、一言語だけしかできない者は、わが国の状況のもとでは、危険な人物です。(『政治哲学』下)

 

このように、二言語を習得しない者は、シンガポールというモザイク社会にあっては「危険な人物」だとさえ言っています。

しかし、その政策の結果は芳しいものではありませんでした。

大卒のエリートたちは、二言語の習得に成功しましたが、それ以外の一般国民には必ずしもリークアンユー政権の試みは浸透しませんでした。

ただでさえ、複数の言語に苦闘しているシンガポールの一般の人びとに、「複数言語をきちんとマスターしろ」という二言語政策は、非常に難しいことであったのは、たやすく想像できます。

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華語普及運動とその目的

華語普及運動のはじまり

人民行動党は、とりわけ外国と接する部分における英語化を推進し、国家運営に必要な英語エリートの養成に力を入れました。

しかし、これによってシンガポール社会全体が英語化されたわけではなく、大部分のシンガポール国民は学校での教育言語は英語であったとしても、日常言語としては、それぞれの種族言語である華語、マレー語、タミル語の世界に生きていました。

このような状況に対して、リークアンユー政権は、言語政策において介入することを試みます。各言語を尊重しながらも、各言語のあり方を政府が管理しようとしたのです。

その代表が、これからお話しする「華語普及運動」です。

すなわち、1979年から、リークアンユー政権によって、華人を対象とした華語普及運動(講華語運動、Speak Mandarin Campaign)が開始されたのです。

これにより放送では、基本的に全ての番組で華語が使われるようになりました。

標準中国語の使用奨励とその意図

これは、華語派華人の伝統を保護するような政策に見えますが、じつはその逆なのです。

華語派華人の社会は1つの言語で統一されていたのではなく、植民地時代から継続して福建、潮州、広東、海南、客家といった中国語の方言が使われ、方言の違いによって出身地別のコミュニティが形成されていました。

とくに移民第一世代の人びとは、英語はいうまでもなく、標準中国語(マンダリン)さえ話せず、方言だけで生活していました。

リークアンユーは、このことが、華人社会から一体性を失わせている原因であると考えました。

さらに、後続世代の華人が従来どおり中国語の方言を使い続けることは、社会統合の観点から、国家社会の発展のためにマイナスになると考えました。

こうして、華人の使用する言語を、標準中国語に統一することにし、みずからがキャンペーンの先頭に立ったのです。

「スピーク・マンダリン」キャンペーン

華語普及運動では、華人が日常の生活において方言を使用せず、華人同士では標準中国語を使用するよう奨励されました。

とくに毎年10月を「スピーク・マンダリン」キャンペーン月間と定めて、ターゲットとなる集団や場所を毎回絞ることで、重点的に運動が推進されました。

年によって、職場・市場などの場所、あるいはタクシー運転手といった特定の集団を対象としてキャンペーンが展開されたのでした。

このキャンペーンに比較的たやすく順応できたのは、1970年代初頭の二言語政策のもとで、英語と標準中国語を学んだ若い世代でした。

一方で、方言世界で長年のあいだ生活してきた年配の華人や、二言語政策以前に英語による教育を受けてきた華人は、標準中国語は新たに外国語を習得するようなもので、非常に苦労したといいます。

とくにキャンペーンを実施する側にいる役人には、英語教育を受けた層がほとんどであることから、標準中国語をマスターするために、終業後に語学学校に通った、という話まであります。

このため、地域などでキャンペーン推進のため動員されたのは、華語による教育を受けた地域社会指導者などでした。

華人社会の反応とキャンペーンの結果

では、このキャンペーンに対して華人社会はどのような反応をしめしたのでしょうか?

華語教育知識人たちは平素からの人民行動党による英語重視政策への不満から、冷ややかな反応でしたが、一般の華人たちには、自分たちの言語を強調する政策を歓迎する声が多く聞かれました。

これまで英語重視とそれと表裏一体となって華語軽視で進められてきた政府の言語政策において、突然に華語の使用を推進するという政策がはじまったことに対する、華人社会の戸惑いと誇りが複雑に交錯していたのが実態ではないかと考えられます。

キャンペーンの成果は、徐々にあらわれました。シンガポール政府の発表によると、キャンペーンが開始された1979年には、標準中国語を自在に使うことのできる華人は全体の76%だったのが、1987年には87%に上昇しました。

これによって、華語派華人たちが日常的に使ってきた、華語以外の中国語方言の伝承が妨げられる結果となりました。

現在では若い世代の大部分は方言を流暢に話すことができなくなりました。

すなわち、これには中国での出身地域別に形成されていたシンガポールの華語派華人コミュニティを弱体化させ、華人社会を一元的な言語のもと、再構築する効果があったのです。

一方で、問題もありました。

たとえば職場で標準中国語を話そう、というキャンペーンを実施した際に、モザイク社会のシンガポールでは、その職場には華人ばかりではなく、マレー人やインド人が働いていることも多くあります。

これらの人びとをさしおいて、共通語として英語があるにもかかわらず、華語を特別視して「標準中国語を話そう」というキャンペーンを進めることには、少なからず反発もありました。

このような反発は、多言語空間が入り混じるシンガポールにおいて、言語政策を推進していく難しさを物語っているといえるでしょう。

日常に張りめぐらされた管理

「清潔さ」のための規制と管理

シンガポールで有名なもののひとつに、その「清潔さ」があります。

このような環境を実現したのは、もちろん国民ひとりひとりの努力もありますが、政府による徹底した規制や管理によるところが大きいといえます。

路上でのポイ捨て、トイレの水の流し忘れ、などといった生活のさまざまなシーンにおいて罰金をともなう規制が張りめぐらされ、これを取り締まるためのテレビモニターによる監視も行なわれています。

また、街の清潔さを維持するために、リークアンユーの首相辞任後の1992年にはガムの製造・販売が禁止されたりもしました。

このような管理への反発、あるいは反動からか、国境を接するマレーシアで、シンガポール国民のゴミのマナーが問題になったことがありました。

これは、マレーシアの新聞に、マレーシアに行楽にやってきたシンガポール人が、シンガポール国内でのマナーのよさとは打って変わって、自動車の窓から空き缶や食べかすなどをポイ捨てしていることが報道されたのです。

ほとんどのシンガポール人は、残念ながらそのような行為があることを素直に認めました。

日常的に監視・管理されていることへの不満を、無意識にこのような形で発散しているのではないか、とも言われています。

性への介入と反発

シンガポール政府による国民管理は、性にもおよびました。

大卒女性に対する結婚と多産を奨励する政策がそれです。

1984年、リークアンユーは、種族別・学歴別の過去数年間の統計をあげながら、大卒女性が、仕事を優先して結婚しない人が増えており、結婚したとしても子供が少ないのに対して、学歴の低い女性の場合は、結婚して多くの子供を出産する傾向があると指摘しました。

そして、このような状況をそのままにしていたならば、シンガポールの知的水準はやがて低下し、次世代には能力の低い者ばかりになるので、このような事態を防ぐために、大卒女性は結婚して、より多くの子供を産むべきである、と述べました。

このようなリークアンユーの考えを受けて、シンガポール政府はすぐに大卒女性の結婚相手をマッチングする、いわば政府設立の結婚相談所を創ったり、多くの子供を出産した大卒女性に対する所得税免除、子弟が通う小学校の優先選択権授与などの政策を実施しました。

こうした政府の動きに対して、「リークアンユーの国民管理はついに夜のベッドにまでおよんだ」という皮肉が語られましたが、やがて当事者である大卒女性を巻き込んだ国民的議論に拡大していきました。

これを「結婚大論争」といいます。

この政策に対しては、普段はリークアンユーの政策を批判する声がほとんどない閣議でさえ異論が出るなど、リークアンユーの周辺でさえ批判的な意見がみられました。

とくに、当事者である大卒女性には不評で、結局、この政策は数年で撤回されることとなりました。

これらさまざまな管理を徹底しようとするリークアンユー政権に対し、不満の声がなくはありません。

しかし、このような声に対して、リークアンユーは、「私は、国民の私生活に介入している、と絶えず批判される。しかし、もし私が介入しなかったならば、今日のシンガポールの発展はなかっただろう」と反論しています。

たしかに、その管理には私生活への介入という側面があったのは否定できませんが、一方で、リークアンユーによる管理体制のもとで、シンガポールは清潔で、治安もよく、豊かで発展した社会を実現してきたことは、リークアンユーの言うとおりでしょう。

リークアンユーの外交戦略

マレー世界における生存戦略

シンガポールが生き延びる道

つぎに、リークアンユーの外交政策についてみていきましょう。

シンガポールが小国で、かつ複雑な多種族社会であるにもかかわらず、リークアンユーの巧みな国内政治によって今日のような発展を実現した、ということはこれまでみてきた通りです。

しかし、それはリークアンユーの内政の手腕のみによるものではなく、小国として生存し、発展していくための、安定した国際関係構築の手腕によるところも大きいのです。

シンガポールは、かつて連邦の一員であったマレーシアと、東南アジアの大国であるインドネシアに囲まれた、食糧や水資源の自給もままならない小国です。

この両国にシンガポールの生存を認めさせ、共存を図るほかに、シンガポールが生き延びる道はありませんでした。

このマレーシアとシンガポール両国は、おなじマレー国家として歴史的・社会的な共通性をもっていて、宗教的にはイスラム教という共通項があり、言語的にもインドネシア語とマレー語は、そのままでもお互いが会話できるほど、きわめて近い存在です。

これに対し、シンガポールは華人国家であり、そのような種族的異質性は関係構築を困難にする要素になり得ます。

このような状況でマレーシアからの分離独立をはたしたシンガポールを、マレーシア、インドネシア両国は、すぐさま国家承認をおこないました。

しかし、国家として承認されることは、そのまま両国と良好な関係を構築することとイコールではありません。問題は、両国といかにパートナーとしての関係を築くことができるか、です。

両国は、シンガポールにとって軍事的ありは政治的脅威にもなりえますが、小国であるシンガポールがこれらの国に軍事的に対等に対抗するのは現実的ではありません。

あくまで、両者を尊重しつつ、共存共栄の道をさぐっていくことのみが現実にのこされた、唯一の選択肢でした。

マレー世界の情勢変化と三国協調

シンガポールが分離独立した1965年に、クーデターによってインドネシアで政権の座についたスハルト大統領は、第三世界ナショナリズムを主張してマレーシア連邦結成を「イギリス帝国主義の陰謀」とまで言っていたスカルノ前大統領とは異なり、政治対立よりも、開発と地域の発展を唱えました。

これにより、東南アジア諸国のあいだにあった対立関係が解消していきました。

このようなスハルトの登場による、インドネシアの外交政策の変化は、この地域におけるシンガポールの生存を可能にしました。

もう一方のマレーシアでも、リークアンユーにとっては連邦から追放したという因縁のあるラーマン首相が1970年代のはじめに引退し、1980年代には近代化と経済発展を重視するマハティールが首相に就任しました。

このような両国の変化により、シンガポールとインドネシア、マレーシア両国は、開発による発展という共通の目標をもって、隣国としてより深い協調関係を構築していくこととなりました。

三国の指導者間の信頼関係による協調を目指していたリークアンユーにとって、これは両国との関係構築を理想的なかたちで成功に導いた、といえる結果でした。

協力関係の進展と「成長の三角地帯」

1989年には、シンガポールとマレーシアのジョホール州、インドネシアのリアウ州が、地理的な近接性を生かして労働や産業の分業を通じて共同で地域の開発と発展を推進していく「成長の三角地帯」がスタートしましたが、これはシンガポールの提案によるものでした。

これによって、シンガポールは両国の労働力や土地を利用して労働力の不足緩和や経済圏拡大を図ろうとしたのでした。

一方で、マレーシアやインドネシアにとっても、シンガポールの資本と技術を導入することで、シンガポールの発展の成果が自国に伝播することを期待しました。

また、これら三国は共同軍事訓練を実施するなど、安全保障面でも関係を深めていくことになりました。

以上のようにして、分離独立当初には困難な状況にあったインドネシアとマレーシアとの関係構築について、リークアンユーは、その巧みな外交戦略と、両国における政治的環境の変化により、これを成功に導いてきたのでした。

シンガポールとアメリカとの関係

「非同盟中立」と反米的姿勢

今日、シンガポールとアメリカは比較的良好な関係にありますが、当初からそうであったわけではありません。

シンガポールが1965年に、マレーシアから分離独立した直後には、「非同盟中立」を外交方針としてかかげ、極端ともいえる反米の姿勢を示していました。

1965年8月、シンガポール政府は、アメリカ政府の中央情報局(CIA)が、1960年にシンガポール政府の役人を買収して、秘密情報を入手していたことを暴露しました。

これに対し、アメリカ政府は公には否定しましたが、裏でアメリカが、シンガポール政府に対して、国務長官の署名のはいった謝罪文を送り、経済援助を申し出ると、リークアンユー政権は、そのことも暴露してしまいます。

このとき、リークアンユーは、このようなアメリカの姿勢を批判して、「アメリカはアジアの指導者を理解するのに必要な経験と英知に欠けている」と述べました。

以上のような、非同盟中立外交の方針や、アメリカに対する厳しい態度には、マレーシアから分離独立してから間もないシンガポールにとっては、その生存のために、当時、つぎつぎと独立を達成して、国際的な発言力を高めていた新興のアジア・アフリカ諸国からの支持が必要であった、という事情もありました。

イギリス軍の撤退と対米政策の変化

しかし、1966年2月にシンガポールに駐屯していたイギリス極東軍の全面撤退が発表されると、このような外交方針は変更されることになりました。

小国であるシンガポールにとって、シンガポールに駐屯していたイギリス極東軍は、シンガポールの安全保障の要であり、これが撤退するとなると、代替する安全保障体制を構築することが緊急の課題となりました。

そこで、シンガポールが考えたのがアメリカの軍事力に依存した安全保障体制の構築でした。

リークアンユー政権は、これまでの対米姿勢を180度転換し、アメリカの東南アジアにおける軍事行動を全面的に支持し、経済関係も強化していくようになりました。

リークアンユーはのちに、アメリカのパワーのもつ意味を次のように語っています。

 

大まかに言って、現在我々が住んでいる統合された世界を創り出したのは、アメリカのパワーです。……私の考えでは、東アジアの国際秩序の持続のためには、アメリカのプレゼンスが不可欠です。(『中国・香港を語る』)

 

アメリカによるベトナム介入への協力と戦争特需

この時期は、アメリカがベトナムで本格的に軍事介入を展開していましたが、南ベトナムに駐留する米軍が、艦船や軍用機の修理・補修を行なうためにシンガポール軍の基地を利用することを認めました。

さらに、南ベトナムに対する石油および石油製品の大量輸出を決定するなどして、アメリカのベトナムにおける行動とアメリカが支援する南ベトナムを支えました。

このようにアメリカの行動を支えたのは、アメリカのアジアにおける軍事的・政治的プレゼンスが、シンガポールの生存と発展にとって、プラスになるというリークアンユーの考えがあったからでした。これについて、リークアンユーは、

 

我々はアメリカと西欧に感謝すべきだと思います。共産主義の拡大を防いでくれたのですから。もし彼らが防いでくれなかったら、シンガポールは共産化して、カンボジアやベトナムと同じくらい窮乏していたでしょう。(『中国・香港を語る』)

 

と、アメリカのパワーが、共産主義の拡大を防ぎ、シンガポールの発展を可能にした、と語っています。

端的に言えば、リークアンユーは、アメリカのパワーがシンガポールの政治体制を確立してくれた、と考えていたのでした。

その一方で、シンガポール経済も、これによって一定の利益をあげました。

1969年には、シンガポールの全輸出額の9.4%が南ベトナムへの輸出で占められていました。

このように、分離独立から間もないシンガポールは戦争特需で大いに潤いました。

リークアンユー首相の訪米

1967年10月には、リークアンユーは首相として初めてアメリカを訪問しました。

シンガポールとアメリカの首脳会談ののち、「両国関係の緊密化を約束する」という共同声明が発表されました。

そののち、リークアンユーはアメリカ各地を訪れて演説し、アメリカの企業・投資家たちにシンガポールへの投資をうったえました。

そして、この時期に、外国資本誘致を促進するシンガポール政府傘下機関である、経済開発庁の海外事務所がニューヨークやシカゴなどに設置され、両国の経済関係強化とアメリカ資本誘致体制の強化がはかられました。

アメリカの価値とシンガポールの価値

以上のように、アメリカとの関係を重視してきたシンガポールですが、アメリカがシンガポールの政治体制や社会価値に対して干渉することは決して容認せず、アメリカの文化や価値観がシンガポール社会に過度に浸透することを政府はよしとしませんでした。

むしろ、シンガポールの価値こそが欧米のそれよりも優れている、という姿勢でした。

リークアンユー政権の時代にそのことが顕著にあらわれているのが、「家族の絆」重視です。

このような政策の背景には、欧米的な価値の浸透や経済発展による忍耐、規律、秩序、愛国心といった「アジアの価値」が忘却されていくことへの政府の危機意識があり、このような「アジアの価値」を伝える役割を家族が担うべきである、という考えがありました。

また、リークアンユー政権を継いだゴーチョクトン政権においても、シンガポール在住のアメリカ人らが駐車中の車60台以上、さらに道路標識を破損させたことにより、有罪判決を受けた「マイケル・フェイ事件」におけるアメリカとの葛藤がありました。

裁判では犯行グループの中心であった18歳のアメリカ人、マイケル=フェイに罰金と禁固刑とともに、鞭打ちが言い渡されました。

この判決に対して、アメリカは「鞭打ちは拷問であり、人権侵害」だとして、反発し、当時のクリントン・アメリカ大統領までがこの問題について言及するなど、国際問題に発展しました。

しかし、これに対してシンガポールのゴーチョクトン首相は「社会の長期的利益の方が個人の利益に優先する。社会の安定と秩序の確立こそが重要」と反論して、刑を執行しました。

このような姿勢は、リークアンユー以来の、シンガポールの体制と価値を重視する姿勢が、引き継がれた結果であるといえるでしょう。

以上のように、リークアンユー政権は、アメリカをシンガポールの経済と安全保障上のパートナーとして重視してきました。

しかしながら、その一方で、政治制度や社会価値という面ではアメリカよりも自分たちの方が優秀であると考えて、アメリカからの干渉を断固として退ける態度を貫いているのです。

ASEANの一員として

ASEAN結成

分離独立当初のシンガポールは、華人が多数を占める「華人国家」として、周辺の「マレー国家」から警戒される存在であったことはすでに述べたとおりです。

さらにマレーシアとは分離独立の際の摩擦が尾をひいている状態であるうえに、安全保障上の頼みの綱であったイギリス極東軍のシンガポールからの撤退は、シンガポールが生存していく上で、東南アジア諸国といかに共存していくか、という課題をつきつけました。

そんななか、1967年8月、ASEAN(アセアン・東南アジア諸国連合)が結成されることになり、シンガポールも結成時の加盟国として、そこに加わりました。

ASEANのメリット

ASEANは、インドネシア、マレーシア、タイという反共親米国家により東南アジア諸国の連合組織として結成されたもので、独立したばかりの小国であるシンガポールにとっては、加盟によって独立国家としての地位が国際的に認知されることのほか、東南アジアの一員として、他の反共的な東南アジア諸国との友好関係を構築していくことにより、イギリス極東軍撤退後の東南アジア地域における安全保障上の懸念材料を減少させるというメリットがありました。

しかし、シンガポールがASEANに期待したのは、それだけではありませんでした。

それは、東南アジア地域における経済協力でした。

1967年の結成当時から、「地域の経済協力」が目標のひとつとして掲げられていたことは、経済発展による国力伸張をめざしていたリークアンユーの意図と思惑が一致するものでした。

実際に、地域における経済協力の具体的プランが本格化するのは冷戦崩壊後、そしてリークアンユーが首相を退いたあとになりますが、シンガポールは「ASEAN自由貿易地帯構想」(AFTA)推進の中心的役割を果たす加盟国として、東南アジア地域に自由貿易地帯を実現するために尽力しています。

リークアンユー政権下の対日関係

「血債問題」

戦後日本とシンガポールにとって、最大の懸案であったのは、日本軍がシンガポールを攻撃、占領した際に発生した華僑虐殺や強制労働の清算問題でした。

1950年代までの時期は、華人社会を中心に日本に対する被害調査と賠償を求める声がありました。

しかし、シンガポール内部の政治的混乱によって、このような声はかき消されてしまう傾向がありました。

ところが、1962年にシンガポール島東部において、日本軍の虐殺によるものと思われる大量の人骨が発見されると、対日賠償要求が「血債問題」としてシンガポールの人びとの関心事となり、運動が盛り上がりました。

同年8月には、虐殺の真相究明と被害者調査、日本の賠償を求めて10万人規模の反日集会が開かれました。

「血債問題」の終結

このような動きを抑え込もうとしたのが、当時はまだ自治政府であった、リークアンユー率いる人民行動党政府でした。

当時のリークアンユー政権は、マレーシアとの統合とともに、シンガポールの工業化推進のために日本の協力を求めたいと考えていました。

その後、マレーシア連邦離脱による完全独立によって、日本との経済関係強化は、シンガポールの生存には欠かせないものとなっていました。

このため、リークアンユー政権は、「血債問題」を急いで決着しようとしました。

その結果、1966年に日本が5000万マレーシアドルをシンガポールに援助することで、この問題を終結させました。

その翌年、1967年には、犠牲者慰霊塔をシンガポール市内の中心部に建立し、遺族たちの反日感情を慰撫しようと努めました。

経済的結びつきの強化

リークアンユー政権は、世界的な枠組みではアメリカのもとで、そしてその傘の下で、アジアでは日本の経済力をテコに、国際的な経済システムに参入しようとしていました。

「血債問題」がリークアンユーら政府関係者の努力により、ひと段落ついた1970年には、日本の皇太子夫妻がシンガポールを訪問しましたが、シンガポール政府は大いに歓迎しました。

当時、発展するシンガポール経済の象徴であったジュロン工業地帯に、皇太子夫妻をリークアンユーみずからが案内しました。

日本との経済的な結びつきをより一層、進めようとしたのです。

こうして、1970年代には日本は、シンガポールへの最大の投資国であり、シンガポールの最大の貿易相手国となりました。

その後も、リークアンユーは一貫して、親日政策をすすめ、日本からの投資や観光客誘致につとめました。

日本に学ぶ運動

1970年代後半になると、リークアンユー政権は、「日本に学ぶ運動」をシンガポール国内で展開します。

これは、自身の仕事に一生かけて取り組む日本人の職業倫理を学ぶよう、国民に訴えるものでした。

また、日本式の制度の導入もはかります。

たとえば、日本式経営とよばれる日本独自の経営方式、日本独特の労働組合の形態である企業別組合、地域と密着した交番の制度といったものがそれです。

さらに、シンガポール国立大学には日本研究科が開設され、若年層に対して、日本文化や日本語の学習が奨励されました。

このような経緯をへて、シンガポールには次第に親日的な雰囲気が育ち、戦争を知らない世代が増えた1980年代以降には、アニメやゲームといった日本のポップカルチャーが、若者を中心に受容されるようになっていきました。

リークアンユーの懸念

このように、リークアンユーとその政権は、アジアの大国としての日本の力をシンガポール発展のために最大限に活用しようとしましたが、唯一、リークアンユーが日本の力に依存しようとしなかったものがありました。

それは、政治・軍事力です。リークアンユーは、1990年代はじめに、つぎのように述べています。

 

日本軍国主義の復活に対する恐怖は、合理的というよりも感情的なものです。しかし、恐怖そのものは現実のもので、東アジアの多くの国の日本に対する姿勢に影響を与えます。……日本が再び海外に軍隊を派遣することを許すのは、まるでアル中患者にウィスキー・ボンボンを与えるようなものです。日本がいったん何かを始めたら、途中で止まるのは難しい。(『中国・香港を語る』)

 

リークアンユーは、第二次世界大戦での経験から、日本には地域における軍事的役割を果たすことを求めず、むしろ否定的でした。

しかし、これは単に反日的な意見とも言い切ることはできません。

むしろ、日本人の国民性を高く評価していたからこそ、出た言葉でもあります。

それは最後の「日本がいったん何かを始めたら、途中で止まるのは難しい」というフレーズからうかがうことができます。

すなわち、リークアンユーは別の発言で、日本の国民性を一度なにかをやると決めると、最後まで完璧にやり遂げようとする、と評価しています。

だからこそ、日本は経済大国になれた、と言うのです。

前述の「日本に学ぶ運動」も日本人のこのような国民性に学ぶことをシンガポール国民に求めるものでした。

一方で、リークアンユーが憂慮するのは、このような、賞賛すべき日本人の国民性が、軍事力の追求というかたちであらわれたときの、リスクなのです。

つまり、日本が軍事化を追求しはじめると、その国民性から、徹底した、完璧な、世界中が脅威に感じるような軍事大国を目指すのではないか、と懸念しているのです。

歴史教育と日本の2つのイメージ

1970年代までは、シンガポールでは歴史教育が行なわれていませんでしたが、1980年代になると学校で歴史教育が行なわれるようになり、その時期以降に学校教育を受けた世代は戦時中の日本軍の占領について知るようになりました。

シンガポール国民にとって、日本は2つの顔をもつ存在であるといえます。

ひとつは、第二次世界大戦のときの占領軍、もうひとつが、戦後の、すぐれた工業製品を生み出し、アジア諸国に投資をするという経済大国、というものです。

とくに、リークアンユー自身が日本軍占領期の生々しい経験をもっているため、彼の内面には、この2つの日本のイメージが交錯して存在しているのでしょう。

したがって、リークアンユーは日本がかつてのように軍事大国化することを警戒しながらも、他方で経済大国としての日本の役割を重視し、過去を克服して、親日政策をすすめる道を選んだのでした。

欧米的価値とアジア的価値

欧米的価値の相対化

リークアンユーのアイデンティティは英語によるエリート教育によって育った海峡華人でした。

したがって、リークアンユーの価値規範は基本的にアジア的なものではなく、欧米的なものでした。

そのため、シンガポールを建国したリークアンユーは、華人国家であるシンガポールを、いわば「非中国化」、「欧米化」することに力を注いできたともいえます。

しかしながら、1980年代以降、リークアンユーはアジア的価値を賞賛しつつ、欧米的価値を相対化したり、批判したりするような発言を、活発にするようになっていきました。

欧米式民主主義普遍化への批判

とりわけ、民主主義をめぐる発言に、そのような内容が多くみられます。

リークアンユーは西洋式の民主主義が世界共通の価値なのか、それはアジア社会には適合しないのではないか、という疑念を抱いていました。

そして、そのような問いのすえにいたった結論はつぎのようなものでした。

 

すべての西欧的価値が支配的になるということではない。私に言えることは、西欧的価値が実際にすぐれていて、ある社会がすぐれた実績を上げ、生存していくのに役立つのであれば、普遍的にあるだろうということです。それは進化論の「適者生存」の過程だと、私は心の底から信じています。西欧的価値を採用すれば、その社会の生存の展望が暗くなるなら、採用は拒否されるでしょう。(『中国・香港を語る』)

 

さらに、アジアの政治形態がどうあるべきかについて、リークアンユーはつづけて、

 

すべての国がそれぞれ独自の代表型政府のスタイルを作り出していかねばなりません。実際、欧米民主主義のやり方を修正し、欧米とは異なる自国の環境に適応させない国は、経済発展に成功しないように思われます。(『中国・香港を語る』)

 

と言います。

つまり、欧米民主主義は絶対的・普遍的なものではなく、それは「社会の生存」という観点から、それぞれの社会がその採否を決定すべきであり、欧米民主主義を実情にあわせて修正・適応させながら、各国が独自の国家統治体制を創出していくべきだ、としているのです。

ここにはリークアンユーの実利主義的な思想が見え隠れしますが、欧米民主主義を相対化する見方は徹底しています。

シンガポール型民主主義

リークアンユーには、個人を重視する欧米社会に対して、家族を重視するアジア社会、というように対照的に欧米社会とアジア社会をとらえつつ、アジアの政治社会は個人の自由や権利より、社会全体の利益や安定を優先させるものである、という考えがありました。

1980年代になると、アジアの開発主義国家では、国民による民主化の要求が高まり、フィリピンや韓国では、独裁政権が倒れ、民主化がすすみました。

一方で、1980年代末以降、ソ連や東欧などの共産主義諸国でも次々と民主化がすすむなか、中国では民主化をもとめる学生らを人民解放軍の武力により制圧した天安門事件をへて、経済の改革開放をすすめつつ、共産党の一党独裁を堅持しました。

その後、中国政府と共産党は政治の民主化よりも経済発展への道をまい進することで、国民の支持を獲得しようとしました。

このような情勢にあって、リークアンユーは、あくまで経済開発を優先して、民主主義はそれを妨げない範囲で、という姿勢だったのです。

これこそが、リークアンユーが主張する「シンガポール型民主主義」です。

このような考えは、現在の中国もふくめてアジアの開発体制に共通するものですが、そのなかで、これを維持し、経済面でもっとも着実に成功をおさめているのがリークアンユーがリードしてきたシンガポールでした。

その体制をささえる価値として、個人を重視する欧米の社会価値ではなく、集団を重視する、という「アジア的価値」を強調し、その成果を示すことで急激な民主化ではなく、さらなる経済発展への道を進もうとしたのでした。

アジア的価値への転換

アジアの経済成長と中華圏志向

このようなリークアンユーの欧米的価値からアジア的価値への転換とその強調は、単に理念のレベルにとどまるものではありませんでした。

このことは、1980年代のアジア諸国の急激な経済成長と大いに関係がありました。アジアの経済成長が、リークアンユーの視線を欧米からアジアへと転換させたのです。

リークアンユー政権は、独立国家シンガポールの形成期である1960年代から70年代にかけては、シンガポール社会の英語化を推進し、対外的には欧米が主導する国際秩序のもとでの独立維持と経済発展を追求しました。

もちろん、マレー諸国やASEAN諸国との連携は重視しましたが、対内・対外政策の基調は、いずれも欧米志向であったといえるでしょう。

しかし、このようなリークアンユー政権の欧米志向は1980年代、とくにその後半になってアジア志向、とくに中華圏志向へと一転します。

儒教の奨励

1980年代後半に、シンガポール政府は華人が儒教を学ぶことの重要さを強調するようになりました。リークアンユーはつぎのように述べています。

 

儒教は二つの面で役に立ちました。ひとつは、国や社会のために、個人の利益を犠牲にすることをいとわない気持ち。もうひとつは、コンセンサスを求める習慣です。(『中国・香港を語る』)

 

この言葉は、上でみた欧米の個人主義との対比として、儒教を学ぶ意義を簡潔に語ったものですが、このような考えから、華人に儒教を学ぶように奨励したのでした。

シンガポール華人団体総連合会の結成

さらに、シンガポール社会が華人社会であることを維持させるような政策も登場します。

1986年に政府主導により、華人団体を結集させ、「シンガポール華人団体総連合会」が結成されました。

さらに、中国の改革開放が進展するにつれて、華人資本による中国への投資が活発化し、これまで国内産業への投資では外国資本に先を越されていた華人資本が収益を上げるようになりました。

シンガポール政府もこれを利用し、華人資本による海外投資政策を展開するようになっていきました。

このような流れは、1990年にリークアンユーが首相を辞任して以降もさらに顕著になりますが、1991年にはシンガポールが開催国となって「第一回世界華商大会」をシンガポールで開催し、つづいて1993年に香港で開催された「第二回世界華商大会」でもリークアンユーは現地に赴いてスピーチをしました。

「華人国家」の宣言

こうした姿勢は、これまでタブーであったシンガポールが「華人国家」であることの宣言であるともいえます。

すでに冷戦は終結し、ASEANの枠組みも確固たるものとなっていたこの時期、周辺に遠慮する必要がなかったこともありますが、発展するアジア、なかでも中国や台湾、香港、そして東南アジアの華僑ネットワークをシンガポールの発展のために活用しようという、リークアンユーの実利主義・実用主義的な思想と政治姿勢を反映したものでしょう。

リークアンユーは1990年代にはいって、つぎのように語っています。

 

過去30年間を振り返ると、わが国の人口の77%を占める華人が中国の伝統的価値を保持していたのは、幸運だったと思います。(『中国・香港を語る』)

 

この発言は、社会の英語化をすすめていた時代のリークアンユー自身を批判するもののようにも聞こえます。

じつは、独立間もないころに、自身がすすめていた英語重視の教育のデメリットについて、

 

英語教育はこの多種族社会に共通語と共通の環境、そして共通の価値観さえ与えているが、同時に、自前の文化を保持している民族のもつ気迫や活力や文化的勢いを奪ってもいる。(『政治哲学』上)

 

と指摘しています。

アジア的価値の重視が、単なる変節や豹変ではなく、リー=クアンユーはその重要性を問題意識として保持していたといえるでしょう。

しかし、それは独立当初の段階にあっては国内的には共産主義系の華語派華人との対立、国外的にはマレー国家に囲まれた地政学的環境や世界的な冷戦構造によって、「華人国家」として歩むことはリーダーとして不可能なことでした。

実利を重視するリークアンユーであればなおさらでしょう。

「華人が中国の伝統的価値を保持していたのは、幸運だった」という言葉が出たのは、リークアンユーにこのような思いがあったからではないでしょうか。

リークアンユーは言います。

 

シンガポール社会の重心は、その価値観、姿勢、好みにおいて、依然としてアジアの伝統にあるのです。(『中国・香港を語る』)

 

これは、シンガポールが「華人国家」であることを明言したものです。

もちろん、このような中華圏志向への転換、「華人国家」の強調は、リークアンユーならではの、実利を追求するためのものでもありました。

と同時に、自身が英語教育を受けながらも華人である、というアイデンティティが、英語重視という方針は変更しないままに、アジア的価値、華人国家の強調という、一見相反する方針を並行させることになったのではないでしょうか。

リークアンユーのこのような姿勢は、21世紀になって、グローバル化が進展し、アジア各国でますます社会の英語化が求められている状況と、中国経済の台頭への対応という2つの課題を1980年代の時点で先取りしてその進むべき方向を示していた、といえるでしょう。

中華圏志向は、まさしく、リークアンユーの「先見の明」だったのです。

首相辞任後のリークアンユーとシンガポール

リークアンユーの首相辞任とその後継者

首相辞任の背景

1990年11月26日、リークアンユーは首相を辞任します。

彼は31年間、シンガポールの首相として君臨し、これまでみてきたようなさまざまな政策を実行し、シンガポールを発展させてきました。

そのリークアンユーの首相辞任の翌日、11月27日に49歳のゴー=チョクトンが後継の首相として就任しました。

リークアンユーの首相辞任の背景には世界的な冷戦構造の崩壊がありました。

すなわち、ソ連・東欧の共産主義国家が崩壊し、自由と民主主義、そして市場経済が「グローバル・スタンダード」とされるようになり、リークアンユー政権のような開発主義国家は、その非民主的性格から国内外からの批判を浴びるようになったのです。

このような流れをうけて、フィリピンや韓国といった世界各地の開発主義国家は、激しい民主化運動をへて民主的体制へと転換していきました。

そして、この政権交代もまた、こうした流れを反映したものでした。

ゴーチョクトンの経歴

では、後継の首相に就任した、ゴーチョクトンについてみておきましょう。

彼は1941年生まれのもと経済官僚で、政府系の海運会社であるネプチューン・オリエント・ラインズ社で社長をつとめました。

そして、社長在任中にその経営手腕を発揮して同社を赤字から黒字経営に立て直しました。

そのことを評価されて1976年に国会議員選挙に出馬することになり、初当選を果たして、政治家に転身した人物です。

その後、1979年には新しく設置された貿易産業相に就任して、シンガポールの貿易と産業の発展に力を尽くしました。

さらに1984年になると、副首相・国防相としてリークアンユーの補佐役をつとめ、その後継者として内外の注目を集めるようになりました。

協調型の政治運営

このような経歴のうえで首相に就任したゴーチョクトンですが、彼の政権ではリークアンユーのような独裁的なリーダーシップではなく、集団指導制による協調型の政治運営が行なわれました。

主要閣僚には、ゴーチョクトンと同じ第2世代が就任して世代交代が印象づけられるとともに、次世代である第3世代にも積極的に政権に参加させました。

まず、第2世代の主要閣僚として、副首相には華語教育出身のオン=テンチョンが就任し、教育相には銀行家出身のトニー=タン、外相にはインド系のS・ダナバランが就任しました。

さらに第3世代では、副首相にリーシェンロン(リークアンユーの長男)、情報・芸術相代行として当時36歳だったジョージ=ヨーが就任します。

そして、政権党として首相にならぶ権力を有する党書記長のポストも1992年にリークアンユーからゴーチョクトン首相に移り、これをもってシンガポール政権中枢部における世代交代は完了しました。

新ポスト「上級相」就任

リークアンユーの院政

しかし、これによってリークアンユーが政界から完全に引退したというわけではありませんでした。

この時、リークアンユーはまだ67歳で、政治家としてはまだまだ活躍できる年齢でした。

また、とくになんらかの失政が理由で、首相を辞任したというわけでもありませんでした。

リークアンユーはゴーチョクトン政権において、リークアンユーのために新設されたポスト「上級相」に就任して、いわゆる院政をしいたのでした。

上級相の表向きの役割は政治経験の豊富な者として閣僚たちに助言することでした。

しかし、その実態は若い世代の閣僚たちの政治を政権内部から監視するというものでした。

こうして、ゴーチョクトンを首相とする新政権においてもリークアンユーは影響力を行使しつづけたのです。

ゴーチョクトンの自由化路線と人民行動党の「敗北」

ゴーチョクトン首相のもとでは、これまでの権威主義的な政治体制よりも、ソフトな政治が志向されるようになります。

ゴーチョクトン首相の、たとえ野党が選挙で10議席獲得するようなことがあっても、それは民主主義国家であれば不自然なことでない、という趣旨のリベラルな発言は、ソフトなイメージの新世代のリーダーとして、国民の支持を得ました。

このようなゴーチョクトンの自由化路線の結果は、1991年8月31日に行なわれた総選挙で、人民行動党にとっては手痛いダメージとしてあらわれました。

これまで1議席だった野党の議席がなんと4議席に増えたのです。

もちろん、それでも圧倒的多数は与党・人民行動党が占めていたので、政権運営にただちに支障がでるものではありませんでしたが、リークアンユー政権の時代にはありえない、人民行動党の「敗北」でした。

リークアンユーの発言力増大と人民行動党の挽回

これをうけて、上級相であったリークアンユーは自由化路線を模索していたゴーチョクトン首相に対し、政治の厳格さを求めて、きびしく批判しました。

選挙で振るわなかったことで、政権における上級相としてのリークアンユーの発言力が増大し、これまで以上に積極的に、政権運営に対して影響力を行使するようになりました。

その結果、97年の選挙では、野党の議席は4議席から2議席に半減しました。

これに対して、人民行動党は全83議席中81議席を獲得し、うち47議席が無投票当選でした。

さらに2001年の選挙では野党が2議席にとどまったのに対して、定数を増やした1議席についても人民行動党が獲得し、82議席に増加させました。

うち、無投票当選は55議席にのぼりました。このように、順調に人民行動党の勢力は挽回していきました。

現状維持へ

こうして、いったんは自由化路線を示したゴーチョクトン政権ではありましたが、これまでの権威主義的政治を志向するリークアンユー上級相の指導もあり、人民行動党の権力を現状維持する方向へと舵が切られ、シンガポールの政治的自由化はのちの課題として先送りされてしまったのでした。

以上のように、世界各地の開発主義国家が、激しい民主化運動をへて民主的体制へと転換していくなかで、リークアンユーは首相の座を後継世代に譲りました。

しかしながら、リークアンユーは政治の一線から退くことはありませんでした。彼の建国の父、そしてシンガポール経済を成功に導いた指導者としてのカリスマ性と政治的発言力は絶大なもので、ゴーチョクトン政権のもとで上級相として、シンガポールの国家運営に大きな影響力をもって、関与しつづけたのでした。

長男・リー=シェンロンの首相就任

リーシェンロンの半生

2004年8月12日には、第2代シンガポール首相のゴーチョクトンが退任し、リークアンユーの長男で、副首相であったリーシェンロンが第3代首相に就任しました。

リーシェンロンは父であるリークアンユーら「第1世代」、ゴー=チョクトンら「第2世代」につづく、「第3世代」の政治家でした。

まず、簡単にリーシェンロンの半生をみてみましょう。

リーシェンロンは1952年にシンガポールで誕生し、父であるリークアンユーの教育方針にしたがって、華語による教育をおこなう学校に通いました。

その一方で同時に家庭教師からマレー語も学んでいました。彼はもともと英語派華人だったので、英語・華語(標準中国語)・マレー語という3つの言語に堪能になりました。

言語教育の観点からも、父親のリークアンユーが長男のシェンロンを、未来のシンガポールをリードするエリートとして教育していたことがうかがえます。

高校を卒業した後、シンガポールでもっとも名誉ある国家奨学金である「大統領奨学金」と「国軍海外奨学金」を受給して、イギリスのケンブリッジ大学に入学し、数学を専攻しました。

1974年に帰国して国軍に入隊し、さらに1979年にはアメリカのハーバード大学に留学して行政学を専攻しました。

その後、1982年に国軍統合幕僚長に就任、1984年6月には国軍のナンバー3である准将に昇進しました。

まさに、典型的なシンガポールのエリートコースを歩んでいました。

そして、リーシェンロンは1984年12月の国会議員選挙に立候補して当選し、政界入りすることとなりました。

リーシェンロンはそれと同時に、すぐに国防担当国務相に就任しました、

さらに、1987年には通産相をつとめました。

その後、ゴーチョクトン首相のもとで1990年から2004年まで副首相をつとめました。

その間に、与党・人民行動党でも第一書記次長に就任するなど、リーシェンロンは目を見張るほどのスピード出世を果たします。

そして、ついに52歳で父親と同じ首相に就任したのです。

リーシェンロン内閣

リーシェンロン内閣は総数20人の閣僚によって構成されていました。

ゴーチョクトン内閣の閣僚が全部で17人でしたので、リーシェンロン新内閣ではより多くの人材を登用して、諸課題に対処しようとしていたことがわかります。

リーシェンロン内閣の閣僚のうち、ジョージ=ヨー外相、リム=フンキア通産相、テオ=チーヒエン国防相は、リー=シェンロン首相と同じ第3世代であるだけでなく、リー=シェンロンと同じく、大統領奨学金・国軍海外奨学金を受給してケンブリッジ大学でともに学んだ、学友でした。

このほか、彼らを含め、閣僚の11人が第3世代で占められています。

リーシェンロン内閣で、リークアンユーは、このとき新設された「顧問相」に就任して、上級相に就任したゴー前首相とともに、ひきつづきシンガポールの政治運営の監督役として、閣内にとどまりました。

「世襲」への批判

ゴーチョクトンをはさんで、リークアンユーとリーシェンロンが父子で首相の座についたことについては、少なからず批判があるのも事実です。

また、リーシェンロン政権発足の時には、リークアンユーの息子でリーシェンロンの弟であるリーシェンヤンがシンガポール・テレコム総裁、リーシェンロン夫人が政府系投資会社テマセク・ホールディングス(Temasek Holdings)の経営責任者であったりと、リークアンユー・リーシェンロン父子とその一族がシンガポールの政治・経済を牛耳っている、という批判もありました。

このような状況にたいして前述のように、皮肉を込めて「リー王朝」と揶揄されることがあります。

新世代に対応した政治

リーシェンロン首相は、就任の記者会見で新政権の目標を3つ示しました。

1つは若い世代の要望・情熱に応えること、2つ目は3・40代の国民のなかから次期の国家指導者を育成すること、そして3つ目は経済活力と競争力を維持して国民生活を豊かにすること、でした。

また、これまでの成長一辺倒から「ゆとり」を重視するという路線転換についても語りました。

「ミニ・リークアンユー」と呼ばれるように、リーシェンロンは父親譲りの権威主義的な政治姿勢は維持していました。

しかし、そのような態度をとりつつも、同時に、父親のような強圧的ともいえる強烈なリーダーシップで有無を言わさず国民を引っ張っていく、というスタイルとは異なる新たな政治を目指していくという姿勢がうかがえます。

これは社会が変化し、新世代に対応した政治をシンガポール社会が求めていたことを反映してのものだといえるでしょう。

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求められる変化とリー=クアンユーの政界引退

野党の躍進

2001年と2006年の選挙でも人民行動党が圧勝し、野党の議席はわずかにとどまりました。

しかし、経済発展の結果、多くの大卒ホワイトカラー・中間層が誕生したことで、社会構造は変化していました。

さらに、インターネットの普及によって、政府の監視をかいくぐって自由に意見を交換している人々も少なくありません。

政権の側にもこのような状況に対応した変化が求められているのも事実でした。

そのような動きがわずかながら現実のものとなるのが2011年の選挙でした。

この選挙を前にして、人民行動党は批判のあった野党候補への個人攻撃や野党議員を選出した地域に不利益を与えることなど、高圧的なやり方を停止すると発表しました。

一方の野党は人民行動党の政治をチェックすることを優先課題として共同戦線を組んだのです。

すなわち、野党候補同士がぶつかり合うことのないように、各党が協議して選挙区を分担し、有力候補を特定選挙区に立候補させることで一人でも多くの野党議員を当選させることを目指したのでした。

そのため、これまで多かった人民行動党の無選挙当選は5議席にとどまり、全87議席のうち、82議席をめぐって選挙戦が繰り広げられることとなりました。

その結果、人民行動党の議席は81議席で、野党は労働者党が過去最高の6議席を獲得するにいたりました。

人民行動党苦戦の背景

例のごとく、「勝利」の記者会見(野党が議席を増やしたとしても、与党として多数の議席を獲得し、政権を維持したので、「勝利」となります)を開いたリーシェンロン首相は人民行動党が苦戦した理由として国民の失望、不満、満たされない要望、をあげました。

その背景として2つの要素が考えられます。

1つは雇用や住宅をめぐる経済的要素です。

政府が外国人移民奨励を進めたことによる、中間層の雇用機会の減少や、富裕層による不動産投資の影響が中間層などが住む公共住宅の価格に波及したことなどが考えられます。

もう一点は若い世代を中心にして管理政治への不満が高まっている、という政治的な要素です。

それが具体的にあらわれたのが選挙期間中にリークアンユーが、野党候補を選んだ選挙区はその後の5年間後悔することになる、という発言をしたことに対するインターネット上の反応でした。

こういった発言は、かつてであれば選挙民に対する威嚇として通用した手法でした。

しかし、この時の選挙民の反応は違いました。

この発言はネットをつうじて拡散するとともに、これに対する批判が数多く寄せられたのです。

インターネットが選挙の流れを変えるという、21世紀の選挙にリークアンユーら古い世代の政治家が十分に対応できていなかった、ということもその背景にはあったかも知れません。

リークアンユーの政界引退

このようなリークアンユーの言動にたいして、有権者の反発は予想以上に大きかったので、彼の息子でもあるリーシェンロンが直接、父親に自制を求めたほどでした。

選挙後の2011年5月14日、1990年に首相を辞任してから20年のあいだ、上級相そして顧問相として政治の中枢にいたリークアンユーが、選挙結果をうけて、第2代首相であったゴーチョクトンとともに引退を表明しました。

引退にあたって、リークアンユーはゴーチョクトンと連名で、つぎのような声明を発表しました。

 

われわれは選挙結果を分析し、それがシンガポールの将来にどのような影響を与えるのか熟慮した。われわれはこれまでシンガポールの発展のために努力してきたが、困難で複雑な状況の時代には、若い世代の政治家の手でシンガポールを前進させるべきであるとの結論に達した。シンガポール政治の分岐点となった今回の選挙結果を受けて、われわれは閣僚を辞任し、シンガポールの将来を担う任務を、若いシンガポール国民の気持ちを理解する若い世代の閣僚に委ねることに決めた。しかし、若い世代の政治家は、これまでシンガポールに多大な貢献をした旧世代指導者を常に気遣い、大切にする必要がある。

 

この声明ののち、リークアンユーは、閣僚ばかりでなく、首相退任後も継続して就任してきた政府海外投資公社社長など、ほかの政府機関におけるポストからも退きました。

こうして、リークアンユーは完全に、自らが築いてきたシンガポールという国家の運営の表舞台からおりたのでした。

このときのリークアンユーの年齢は88歳でした。

一方、厳しい選挙結果をうけて、リーシェンロン政権と与党・人民行動党は「国民目線の政治」を目指すことになります。

その実現はいまだ未知数ですが、いずれにせよ、2011年の選挙における野党の躍進、そしてその結果をうけたリークアンユーの政界引退は、これまでリークアンユーがリードしてきたシンガポールの現代史が、あらたな段階に突入したことを告げるものであるといえるでしょう。

リークアンユーが見た21世紀の世界

20世紀を駆け抜けた指導者、21世紀の世界を語る

豊富な知識とすぐれた分析力

激動の20世紀の歴史をシンガポールの建国者・指導者として生き抜いたリークアンユー。

そのような経験豊かな政治家としてのリークアンユーによる国際情勢にたいする分析は、世界各国のリーダーたちも教えを請うほど、示唆に富んだものでした。

アメリカの国務長官であったマデレーン=オルブライトはリークアンユーを「だれよりも優れた近代感覚と戦略的視点をもっている」といい、アメリカの元財務長官であるロバート=ルービンはリークアンユーが「地政学的・文化的問題に造詣が深」く、「地政学的な問題や地域の問題を深く認識している」と評価しています。このような、アメリカ政治の第一線で活躍してきた政治家たちが、リー=クアンユーの国際情勢にたいする豊富な知識と、すぐれた分析力を高く評価しています。

困難な時代を生きる私たちの道しるべ

では、20世紀の歴史を駆け抜け、シンガポールを成功に導いた指導者・リークアンユーが見た21世紀の世界とは、どういうものだったのでしょうか?

ここでは、そのいったんを垣間見るべく、リークアンユーが生前に語った21世紀の世界情勢のうち、全世界、そして日本にとって大きな影響をおよぼす中国、アメリカ、インド、イスラム世界など、地域別の情勢やその間の関係、そして民主主義の将来について語ったものを中心に、ご紹介したいと思います。

すでに故人となったリークアンユーですが、これらの言葉は、先の見えない混迷の21世紀の世界を生きる私たちに、進む方向を照らす灯台として、リークアンユーがいまもなお、語りかけているようでもあります。

困難な時代を生きる私たちの道しるべとして、これから、読者のみなさんとともに、リークアンユーの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

リークアンユーの現代中国論

中国の台頭

20世紀末から国際的に存在感を増してきた国家が中国です。

シンガポールにとっても中国系住民が多くを占めるなど、独立以降その影響力は無視できない存在です。

このため、リー=クアンユーにとって21世紀における中国の行方は非常に気になるものでした。

また、英語教育を受けたとは言え中国はリー=クアンユーの祖先が住んでいた、みずからのルーツでもありました。

ここでは、彼の現代中国論について少しみてみたいと思います。

リークアンユーは中国のもつ潜在的可能性について率直に評価していました。彼は次のように語っています。

 

中国には4000年の歴史を誇る文化があり、多くの有能な人材のいる13億の国民がいる。きわめて優秀な人材を大勢プールしているのだ(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

しかし、だからこそ「そんな国が、アジアで、そしてやがては世界でナンバーワン国家になる野心をもたないわけがない」とつけ加えます。

計り知れない潜在的可能性があるからこそ、中国が野心をもつのはむしろ当然なのだ、というのです。

そして、「中国には、世界で最強の国家になろうという意図がある」といいます。

中国への懸念

このような中国の台頭に対する懸念も表明しています。

リー=クアンユーは「中国語で中国は『中心の王朝』を意味する」とし、これはかつての周辺国に朝貢させていた時代を想起させるとした上で、

 

強国となり工業化した中国は東南アジアの善隣友好国となりうるのだろうか?…中国がかつてのように宗主国の地位にふたたび納まり、自分たちが数百年前のように属国扱いされて中国への朝貢を強いられるかもしれないと思うと、穏やかではいられない(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と言います。

しかし、それは軍事力によるものではないだろうと予測しています。

なぜなら、中国が市場システムへと移行し、体制を確立するには半世紀近い平和と安定が必要であると中国自身が考えているからだと主張します。

さらに、アメリカと軍事力で競争すればかつてのソ連のように国が疲弊してしまうことは、中国もわかっている、と言うのです。

中国はどのようにして世界を圧倒するのか

では、中国はどのようにして周辺国そして世界を圧倒するのでしょうか。

「中国が重要視するのは、自分たちの影響力を、経済を通じて広げることだ」と明言します。リークアンユーは言います。

 

広大な市場や購買力が高まりつつある中国は、東南アジア諸国を中国の経済システムに取り込もうとしている。日本と韓国も、いやでも中国の市場に取り込まれることになる。中国は、軍事力を行使することなく、周辺国を吸収できるというわけだ。

 

そして、「中国経済の成長を食い止めるのは、もはや非常に困難なのだ」と、この流れが不可逆的なものであることを指摘します。

そして中国がいずれはGDPでアメリカに追いつくとも考えていました。

中国発展の障害

しかしながら、そのような中国の発展にも障害があることも同時に指摘しています。

それはテクノロジーの発展と中国の現状とのギャップです。

テクノロジーの発展による情報化社会の進展は、国民への管理・監視体制を維持することを困難にし、またこれによって地域間の経済格差の問題や社会の腐敗の問題への国民の反感を拡大させ、これまでの統治制度を時代遅れのものにしてしまっている、と言います。

これは2013年に刊行されたインタビューですが、かつてリークアンユーの発言によって人民行動党が選挙で苦戦を強いられ、結果的に政界引退へとつながったことと重ねて理解するならば、この出来事から自身が学んだことを語っているようにも思えます。

さらに、テクノロジー面そのものにおいて、中国はアメリカに追いつくことは困難であろうとも言っています。

その理由のひとつとして意見の自由な交換がテクノロジーの発展をもたらすが、中国にはそのような雰囲気がない、ということをあげています。

これらの問題を克服するには、従来の治安維持、暴動を抑える政策を維持しつつも「地方や都市の権限を増やし、市民の権利を増やして手綱を緩めるという現実的な方法で改革していけば、国を保つことができるだろう」と提言します。

「現実的な方法」による改革の提言

しかし、リークアンユーは中国が、かつてのソ連のように急激に自由民主主義へと移行するのは現実的ではない、とも考えています。

あくまで、現在の共産党による支配を維持しつつ、緩やかな「現実的な方法」による改革の提言をしているのです。

リークアンユーはその著書《From Third World To First :The Singapore Story 1965-2000》(Marshall Cavendish Editions, 2000)のなかで、今後の半世紀のあいだに中国は計画経済から市場経済へ、農村ベースから都市ベースへ、厳しくコントロールされた共産主義社会から開放的な市民社会へと転換を遂げる必要があると主張しています。

そして、中国の指導者に対して次のように提言しています。

 

国民による、より多くの政治参加を許容し、国民生活に関わる圧力を緩和し、経済低迷期において社会を不安定化させる可能性のある要因を調整していかなければならない。

 

汚職への対応について

そして、今後、中国が未来に向かい発展してゆくにあたって、最大かつ致命的な問題は「腐敗」だと指摘します。リー=クアンユーは次のように言っています。

 

中国では腐敗は政治文化と結託しており、経済改革を施したとしても根絶するのは難しい。省レベル、市レベル、国レベルを問わず、多くの共産党の幹部や政府官僚が腐敗と無関係ではいられない。より深刻なことに、法律を執行する役人、公安や裁判官なども腐敗している。この問題の根源的原因は文化大革命時代に一般的な道徳規範が破壊されたことにある。そして、1978年に始まった鄧小平による改革開放政策は、役人たちが汚職腐敗へアクセスする機会をより大きくしてしまった。

 

このように、リークアンユーは、中国における腐敗はその政治文化と結びついているので、根絶するのは困難であるとしつつ、その根本的な原因を文化大革命によって古来からの「一般的な道徳規範が破壊されたことにある」と指摘します。

そして、その後の改革開放政策によって、中国の公務員が汚職に手を染める機会が増えてしまった、と言います。

このような汚職の増加に対する中国当局の対応についても、リークアンユーはみずからの意見を述べています。

リークアンユーは20世紀末の時点で、中国の指導者が法体系を整備することを通じた制度の確立および、共産主義イデオロギーのもと、これまでタブー視され打倒の対象とさえ言われてきた儒教の強調による道徳規範の拡大・浸透図ろうとしている、と中国の政権の動向を分析しています。

しかしながら同時に、

 

政府役人が非現実的なほどに低い報酬しか与えられない状況下では、それらの奨励や措置は効果を生まないであろう。たとえ、どれだけ死刑や無期懲役といった処罰を強化しても、である。

 

として、その手法として構想されていた政治道徳の強調というやり方に疑問を呈しています。

これは、習近平率いる現在の中国共産党指導部がすすめる「反腐敗闘争」に対する疑念にもつながるものでしょう。

すなわち、シンガポールでは公務員が厚遇された上で汚職を厳しく取り締まって成功しているのに対し、低い報酬ではたらく中国の公務員に単に伝統的な規範意識や道徳感情にのみ訴えて汚職を根絶する、という中国の汚職根絶策に根本的な疑問を投げかけているのです。

2000年に刊行されたこの書物で指摘された問題は、今日もなお有効なものであると考えられます。

汚職を克服し、中国が健全なかたちで経済発展を実現していくためには、そのあり方を、かつてシンガポールから汚職を一掃しようとしたリークアンユーの「アメとムチ」の政策から学ぶ、というのも一つの方法でしょう。

リークアンユーに敬意を抱く習近平

ちなみに、習近平はリークアンユーに敬意を抱く政治指導者の一人です。

習近平は2011年5月23日、リークアンユーについて次のように語っています。

 

リーは「我々が尊敬する先輩」だ。今も、我々の相互関係を発展させるために休むことなく働きつづけているので、私は心から敬服している。我々の相互関係にあなたがしてくださった重要な貢献を、我々はけっして忘れない。

 

習近平は「私が尊敬する先輩」ではなく、「我々が尊敬する先輩」という表現でリークアンユーに敬意を表わしています。

これはリークアンユーを尊敬する人物が、中国の党や政府の指導層に多く存在することを示唆しているといえるでしょう。

そして習近平は、リークアンユーが中国とシンガポールの関係において「重要な貢献」を果たした、と高く評価し、そのようなリークアンユーの功績を、自分たち中国の政治指導者は「けっして忘れ」ることはできないものだ、と考えていました。

習近平の印象

一方、リークアンユーは、2007年11月に訪中した際に習近平に会った印象を、のちに次のように記しています。

 

習近平は胸襟や視野が広く、問題の本質を見極める能力に長(た)けている。しかも、その才能を見せびらかそうとしない。ずっしりした印象を持った。彼は過去において多くの困難と試練に立ち向かった。一歩一歩奮闘した。愚痴を吐かない男だ。私は習近平をネルソン・マンデラ級の人物だと見ている(“One Man’s View of the World” Straits Times Press、2013年)

 

このように、習近平はリークアンユーから、「胸襟や視野が広く、問題の本質を見極める能力に長け」た「ネルソン・マンデラ級の人物」と称賛されているのです。

これは、2013年にまもなく90歳になろうとしていた晩年のリークアンユーが出版した書籍の記述です。

ここに表明されたリークアンユーの称賛は、リークアンユーが中国発展の弊害と考えた腐敗の根絶に対する、習近平の取り組みへの期待のあらわれではないかと思われます。

尊敬する先輩政治指導者からのこの称賛の言葉をうけて、習近平は前述のようなリークアンユーによる指摘をどのように受け止め、中国発展の弊害となっている腐敗と闘っていくのか、そして、共産党政権を維持する、という選択肢のもとで、どのように中国を発展させていくのか、世界が注目しています。

リー=クアンユーは21世紀のアメリカをどう考えたのか

アメリカは衰退するのか?

20世紀に大国として登場し、とくに冷戦終結後には唯一の超大国、覇権国家として君臨したアメリカ。その影響力は、このまま継続するのか、ということは世界的な関心事です。

21世紀になって急激に台頭してきた中国にたいして、アメリカはどう対処するのか、といったところも気になります。

では、リークアンユーは21世紀のアメリカがどうなっていくのか、あるいは、世界はこのままアメリカの覇権のもとにありつづけるのか、といった問題をどう考えていたのでしょうか?

リークアンユーは、アメリカ経済やアメリカの社会が衰退していくようなことは絶対にないと考えていました。たしかに、債務超過や赤字といった問題はあるものの、このような問題はアメリカが本来持っている、高い改革・再生能力によって克服できると考えていたのです。

リークアンユーはつぎのように言っています。

 

アメリカは今、経済的な困難に直面しているが、アメリカの独創力や回復力、革新的な精神があれば、問題の核心に目を向け、問題を克服し、競争力を取り戻すことができるはずだ。今後20~30年のあいだ、アメリカは単独でスーパーパワーを維持するだろう。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

アメリカの強み

このようなスーパーパワーを維持することができるという論の根拠として、リークアンユーは、

 

(アメリカには)さまざまな強みがある。たとえば、型にはまった考え方をしないことや、幅広く独創的で実際的なこと。新しい発想や新しい技術を編み出し取り入れて競争をするうえで有利な「多様性」があること。世界各国からの有能な人材を引きつけ、アメリカに無理なく溶け込ませる社会であること。英語が科学、技術、発明、ビジネス、教育、外交の分野や世界トップクラスに上りつめた人材の共通語になっているため、言語が世界に開かれていることもそうだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と語っています。このような、アメリカの移民を受容する風土と、優秀な人材の共通言語としての英語を用いる社会という「強み」が、アメリカが、スーパーパワーを維持できる理由だというのです。

では、このような観点から、台頭している中国との対比で見ると、どうでしょうか。これについて、リークアンユーは、つぎのように語っています。

 

今後、10年、20年、30年のうちに、アメリカが力を失うとは思えないし、有能な人材が中国に流れることもないだろう。彼らはアメリカへ向かう。英語という世界言語に加えて、だれもが溶け込めるような、移民を受け入れる風土がある国だからだ。中国に行って定住しようとするなら、中国語の習得と、中国文化の理解という大きな壁がある。そのハードルを越えるのはとても難しい。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

中国と対比したとき、アメリカがもつ有利さは、「英語という世界言語」と「移民を受け入れる風土」であり、これにたいして中国は、中国語と中国文化という「大きな壁」があり、これを乗り越えるのは「とても難しい」というのです。

この言葉は、多種族共存と社会の英語化によってシンガポールを発展させてきた、リークアンユーの経験からでたものではないか、と思われます。リークアンユーは言います。

 

アメリカ経済が世界を引っ張っているかぎり、イノベーション力や技術力でトップの座を守る。EU(欧州連合)諸国も日本も中国も、アメリカに代わってトップの座に就くことはないといえる。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

かくして、リークアンユーはつぎのような結論に達するのでした。

 

今から向こう数十年間、ゲームのルールを決めるのはアメリカだ。国際平和や安定に関する大きな問題は、アメリカのリーダーシップなくして解決することはできない。アメリカに代わって主要な世界勢力になれる国も組織もない。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このように、リークアンユーは少なくとも21世紀はじめの数十年のあいだは、アメリカの覇権は継続すると考えていたのです。

「大衆民主主義」の迎合性

しかし、その統治体制については必ずしも評価しているわけではありませんでした。リークアンユーは、アメリカにおける「大衆民主主義」の大衆迎合性を厳しく批判しています。

 

大統領と議会は、国民感情の圧力を受けると、きまってその言いなりになる。たとえ再選されなくても、国のためになることを学び、国のためになるように国を導く覚悟をもって実行する者をリーダーにする必要がある。問題が浮き彫りになったときに、すみやかに政策転換できないような統治制度では、役に立たない。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユーはシンガポールに強圧的ともいえる国民管理システムを導入するとともに、行政システムを効率化して反対を気にすることなく、迅速に問題を処理できる統治システムをつくりあげたことは、すでにみたとおりです。

これに対し、アメリカの統治システムは、国民感情に左右されやすく、かつ、問題を迅速に処理できない、ということを問題視しているのです。

徹底した迅速かつ効率的な国家運用を追求してきたリークアンユーからすれば、アメリカの民主主義体制は非常に非効率的で、国家運営の障害になってもプラスにはならない、というようにみえたのでしょう。

とくに、直接選挙によって国家運営において最高権力者となる大統領が選出される、という仕組みにたいしては疑問を呈しています。リークアンユーはつぎのように語ります。

 

大統領制は、議会制より統治制度として優れているわけではなさそうだ。大統領制の場合、テレビへの露出が決め手になる。一方、議会制の場合、まず議員になり、それから首相の座に就く。イギリスでは、時間をかけて国民は議員たちの人物を見極め、……判断する。……(アメリカの場合では)選挙戦は、メディアへの露出と広告での戦いという要素が強くなっている。メディア担当アドバイザーは、プロとして引く手あまたで高収入だ。こうした選挙では、チャーチルやルーズベルト、ドゴールのような大統領はおそらく誕生しないだろう。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

つまり、アメリカのような大統領選挙では、メディアでのイメージ合戦によって大統領が選出される結果となり、イギリスのように国民によって時間をかけて検証をうけた国会議員が首相に就任するという議会制よりも問題がある、と指摘しているのです。

そして、このような選挙からはチャーチル。ルーズベルト、ドゴールといった優れたリーダーは生まれない、と苦言を呈しています。

アメリカの民主主義は万能か?

ここから、リークアンユーは、民主主義そのものにたいする疑念を吐露します。

 

私は民主主義がかならずしも発展につながるとは思っていない。むしろ、国家の発展に必要なのは民主主義ではなく、規律だと思っている。民主主義が蔓延しすぎると、無統制や無秩序につながり、国家の発展を妨げるからだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このように、リークアンユーにとって、政治体制の優越を決定づけるのは、「国家の発展」という基準によります。つづけて、つぎのように言います。

 

政治制度の価値を最後に決めるのは、国民の大多数が生活水準を引き上げられる社会を確立する助けになるかどうか、加えて、個人の最大の自由が、他の人の自由とその社会で共存できるかどうかだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このような見方は、とくにアジアの発展途上国にたいして、アメリカがアメリカ型の民主主義を押し付けることの弊害として語られます。

リークアンユーは、「無秩序や低開発に悩む発展途上国は、強力で誠実な政府を必要とする」としながら、「アメリカがアジアの戦略的発展に大きな影響力を及ぼしたいなら、アジアに入ったり出たりしてはいけない」とクギをさしています。

リークアンユーは、アメリカの民主主義は万能ではなく、とくにアジアの発展途上国にはアメリカ型民主主義とは異なる、強力な政治体制が必要なので、アメリカはアジア諸国にアメリカ型民主主義を強要すべきでなく、それがアメリカ自身の利益にもなる、と主張したのでした。

これは、自身が築き上げたシンガポールの政治体制が決してアメリカの政治体制に勝るとも劣るものではない、という自負心のあらわれでもあり、また、シンガポールに民主化をもとめるアメリカのメディアや市民団体などにたいする牽制でもあったのでしょう。リークアンユーは言います。

 

アメリカのメディアが台湾や韓国、フィリピンやタイの民主化・出版の自由化を称賛するのを見ると、アメリカ人はアメリカ文化がいちばん優れていると思っていることがよくわかる。上から目線でほめているのであり、優れた文化が劣った文化の頭をほめ言葉でなでているのだ。

同じように、アメリカ社会のほうが優れているという視点から、アメリカメディアはシンガポールを取り上げ、独裁的だ、専制的だ、規制や制約のしすぎで、息苦しい無菌社会だとたたく。それはなぜか?国家統治はこうあるべきというアメリカ人の考え方に、シンガポールがそぐわないからだ。だが、我々は他の国にシンガポール流を試させる立場にない。アメリカの考え方は理屈にすぎない。正しいと実証できない、少なくとも東アジアで実証できない理屈だ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

ここから、そういったリークアンユーの意図は明らかです。

アメリカが地位を維持するために重要なこと

ところで、アメリカが現在のような超大国の地位を維持するためには、なにが重要なのでしょうか?これについてリークアンユーは「21世紀は、太平洋地域で覇権を競う世紀になる」としつつ、

 

アメリカの主たる関心は、太平洋地域で優位を保つことにある。その地位を失うと、アメリカが世界各地で果たす役割も縮小する。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と言って、アメリカが太平洋地域でのプレゼンスを維持することが重要であると指摘しています。

そして、そのためには、財政赤字政策に失敗して、アメリカの借金が取り返しのつかない状態にならないようにすべきだ、と警鐘を鳴らします。

さらに、リークアンユーは、

 

だから、アメリカは、中東にばかり関与してはいけない。イラクやイラン、イスラエルや石油ばかりかかわっていると、東南アジアにおけるアメリカの利権より、他の国、とくに中国の利権のほうが強くなってしまう。中国の関心は一貫している。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と、アメリカが覇権を維持するために必要な、太平洋地域でのプレゼンスを失わないように、アメリカは中東にばかり関与すべきではない、と戒めています。

以上のように、リークアンユーは、アメリカの覇権は当分維持されるであろう、という立場に立っていました。

しかし、アメリカ式民主主義をアジアの発展途上国に普遍的なものとして押し付けることは、結果としてこの地域でのアメリカの影響力維持にとってマイナスになる、と主張し、アメリカのメディアがシンガポールの体制を批判的に報じることを批判しました。

そして、アメリカが覇権を維持するには、財政赤字問題を深刻化させないようにするとともに、中国が台頭するなかで中東にのみ目を奪われず、東南アジアにおけるアメリカの利権に神経をそそぐべきだと唱えたのでした。

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リークアンユーが予測する21世紀の米中関係

米中は直接衝突するのか?

これまで、台頭する中国、そして超大国アメリカの21世紀をリークアンユーがどのように考えていたのか、についてみてきました。

つづいては、その両国の関係が21世紀にどのような方向にすすんでいくのか、についてリークアンユーの考えをみてみたいと思います。

世界にすでに覇権を確立しアメリカ、そして台頭する中国、この両国のあいだに大きな対立や葛藤が起こりうるのか?について、さまざまな見解がありますが、リー=クアンユーはどのように考えたのでしょうか。

この問題について、リークアンユーの考えは明確です。

 

今は、冷戦期ではない。当時のソ連は、アメリカと世界の覇を競っていた。今の中国は、国益で動いているだけだ。……中国は、アメリカの市場やアメリカの技術、留学先としてのアメリカを必要としている。……深刻な敵対関係に陥ると、中国にとっては情報や技術の可能性を封じられることになる。……自国の市場の育成に躍起になっている中国とアメリカとのあいだに、妥協できないイデオロギー対立はない。互いに協調的であると同時に、競争的な関係にあるといえる。両国間の競争は避けられないが、紛争にまでは発展しない。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このように、中国にとってアメリカは競争相手ではあるが、一方で自国の発展には欠かせない国であり、「互いに協調的であると同時に、競争的な関係」であるので、直接的な紛争までは起こらない、とリークアンユーは考えています。

そして、中国の軍事力とアメリカとの関係については、

 

米中が武力衝突する可能性は低い。中国の指導者たちは、軍事力ではアメリカのほうが圧倒的に勝っているし、あと数十年はそれが変わらないことを知っている。軍の近代化は推し進めても、それはアメリカに対抗するためではない。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と、アメリカの軍事力が圧倒的であることを中国も知っているので、中国が、軍事力によってアメリカに対抗しようすることはないだろうし、米中両国が直接的に武力衝突するような事態は考えにくい、としています。

アメリカはいかなる対中政策をとるべきか?

では、アメリカは、台頭する中国にたいして、どのような対応をすればいいのでしょうか?

リークアンユーは、アメリカが米軍のプレゼンスによって、現在のアジア太平洋地域における勢力均衡を維持することが重要であると考えました。

リークアンユーは、つぎのように言います。

 

軍事的なプレゼンスを示すのに、かならずしも軍事力を行使する必要はない。駐留すること自体に効果があり、駐留することで地域に平和と安定をもたらすのだ。そうした安定は、中国のみならず、すべての国の国益にかなっている。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

アメリカは、米軍を各地に駐留させることで、アジア太平洋地域でのアメリカのプレゼンスを維持することができ、それによって地域の平和と安定を実現することは、中国をはじめ各国の利益にもつながる、というのがリークアンユーの持論でした。

そこで、最大のリスクとなるのが、アメリカ経済が危機状態になって、このようなプレゼンスを維持できなくなることでした。

 

アメリカの支援が数年にわたって減ったり途絶えたりすると、日本や中国、韓国やロシアが新たな勢力の均衡を図ることになる。だが、どの国が主要プレイヤーになっても、アメリカが主要プレイヤーである現在ほどの安定は望めない。……もし勢力バランスが変わって、アメリカが主要プレイヤーではなくなり、世界がまるで変わってしまうと、(第2次大戦の)苦い思い出がよみがえってくるだろう。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

すなわち、アメリカがアジア太平洋地域において現在のような役割を果たすことができなくなった場合、ほかの国が影響力を増大させたとしても、現在のような安定は望むことはできず、戦争の危険性さえあると考えたのでした。

しかし、リークアンユーによれば、だからと言って、中国の台頭を止めることはできず、「アメリカは最終的には、中国と覇を分け合うことになるだろう」と、言います。

リークアンユーは、中国のこれからをつぎのように予測しました。

 

中国は20~30年でアメリカの地位を脅かすようになるだろう。

世界中で強まる中国の影響力は、30~40年後に、世界をまったく新しい勢力バランスに変えてしまうほどになる。これは大国が一つ増えたと考えてすむレベルではない。台頭する中国は、世界史上最大の国家になるのだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

なんと、中国がアメリカをしのぐ、「世界史上最大の国家になる」というのです。

しかし、リークアンユーは、アメリカは「最初から中国の敵国と決めつけてはいけない」と忠告します。

そうすれば、アメリカにたいする対抗戦略を助長する結果となり、アメリカにとって決してプラスにはならないからだ、というのです。

とくに、これまでアメリカが、民主化や人権の問題、あるいはチベットや台湾の問題など「外的な因子」によって対中政策を決定してきたことに批判的です。

リークアンユーは言います。

 

こうした中国の主権や統一路線を脅かす事案に、中国は敵意をむき出しにする。もしアメリカの政策が中国を抑え込んだり、中国の急速な経済成長のペースを落とさせたり止めたりすることを目的とするのなら、当然の反応といえるだろう。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

そして、アメリカの目的を達成させるために対中政策において何が重要かをあきらかにつつ、アメリカの進むべき道をしめします。

 

アメリカの対中政策の狙いが自由化なら、貿易や投資を増やすことでそれは達成できる。だが、最恵国待遇を打ち切るというのであれば、その狙いは達成できない恐れがある。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

つまり、「外的な因子」に目を奪われてしまい、中国に対して経済的なダメージを与えるような対中政策を採るならば、それはアメリカの利益にもならない、とリークアンユーはいうのです。

「諸外国が中国を、自分たちの思いどおりにさせることはできない」とも忠告しています。

逆に、中国にたいする貿易や投資を増やすことで、アメリカも目的を達成することができるとして、積極的な対中経済政策をうながしました。

かくして、リークアンユーは、アメリカが中国にたいしてとるべき態度をつぎのように語ります。

 

我々は対等になり、貴国は最終的に我が国以上の大国になるだろうが、互いに協調していくことが重要だ。腰を下ろして、世界の諸問題について話し合おうではないか(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

アメリカは、中国を大国として認め、中国との対話と協調をすすめるべきだ、というのです。

アメリカの態度如何で、「中国は、経済力や軍事力を使って勢力範囲を広げて覇権国になるかもしれないし、善良な国際市民でありつづけるかもしれない」とも指摘します。

リークアンユーはいいます。

 

中国をグローバルシステムの一員に引き入れると、中国は国際ルールにのっとって行動するために、既得権益を強化するはずだ。それにより、貿易やサービス、投資やテクノロジー、情報などで、対外的な依存度が強まる。その依存の度合いは、一方的に国際的協定を破ると割りに合わない犠牲を負うところまで強まるかもしれない。

アジア太平洋の平和と安定は、中国が外国嫌いの強烈な愛国主義国家にならずにいられるかどうかにかかっている。欧米が中国の発展の邪魔や阻止をしたり、無理やり世界のルールを教え守らせ、国際的で対外的に開かれた国家にさせようとしたりすると、中国は欧米と敵対するようになるだろう。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

中国に国際ルールを強要するのではなく、中国との結びつきを強化し中国との相互依存関係を強めることで、中国がおのずと国際ルールを守らざるをえないようにしていくことが、アメリカのとるべき対中政策であるとリークアンユーは考えていたのでした。

中国はアメリカにどう対応すべきか?

では、対する中国の側は既存の超大国アメリカに、どのように対応すればいいのでしょうか?

それは、アメリカの対中政策と同様に、中国の台頭がアメリカやその同盟国の脅威である、と思わせないようにすることです。

リークアンユーは、かつての中国の激動期を知らない、若い世代の中国人の認識について、忠告しています。

 

自分たちは世界に冷たくされた、自分たちは世界に利用された、自分たちは資本主義者に 打ちのめされ、北京を略奪された、自分たちは不本意なあらゆる仕打ちをされた、という思い込みがある。だが、これはよくない。

世界で唯一の大国であった昔の中国には、もう戻れない。今の中国は、数ある大国のうちの一つなのだ。……成長期の平和な中国しか知らず、過去の激動期を体験していない若い世代が、かつての中国はイデオロギーの過剰信奉によって過ちを犯したと認識することだ。若者は正しい価値観や、将来必要となる謙虚さと、責任のある態度を身につける必要がある。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

すなわち、かつての中国が「イデオロギーの過剰信奉」によって混乱状態となったことを忘れず、歴史認識からくる極端なナショナリズムに陥ることがあってはならず、謙虚さ、責任などといった倫理を身につけるべきである、と中国の若い世代に訴えているのです。

そのうえで、リークアンユーは中国の進むべき道をしめします。

 

中国は、急成長が世界の他の国々にもたらす問題について自覚しているし、摩擦を最小限にとどめるべく国際社会と協調したいと願っている。中国の成長がもたらす反発を和らげる方法を学ぶことは、中国にとってプラスになる。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

すなわち、急成長し、台頭する中国が、もう一つの超大国であるアメリカやその同盟国にたいしてなすべきことは、摩擦をなるべく回避することであり、これは中国も望んでいることなので、まず、中国が急成長することによって引き起こされる反発をなるべく和らげる方法をまず学び、実践することであり、そうすることこそが、中国自身の利益になる、というのが、リークアンユーの持論でした。

以上のように、リークアンユーは、戦略的な共存関係構築こそが米中双方にとって相互の利益につながると考えていたのでした。

21世紀のインドはどうなるのか?

インドは台頭するのか?

アジアにある第2の巨大な国家であるインドですが、その21世紀をリークアンユーはどのようにみたのでしょうか?

つぎに、リークアンユーが語った21世紀のインドについてみていきましょう。

まず、インドは21世紀に大国として台頭するのでしょうか?

この問いにたいするリークアンユーの答えは、基本的には否定的です。

 

かつてネルーが首相を務めていた1959年と1962年に訪れたとき、インド社会は間違いなく豊かになり、大国になると思った。1970年代末には、軍事的にも強国になると思えた。だが、硬直したお役所仕事のせいで、経済的に繁栄するとは思えない。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

では、その障害となっている「硬直したお役所仕事」とは、具体的にどういったものなのでしょうか?

それについて、リークアンユーはつぎのように言っています。

 

インドは憲法制度にも政治制度にも制約があるため、迅速に動くことができない。政治指導者が何かをしたいと思っても、まずは中央の複雑きわまりない制度を経て、続いてさらに複雑きわまりない自治体の制度を経なければならない。……

インドの政治指導者が固い決意で改革に取り組んでも、インドの官僚は行動が遅く変革したがらない。宗教のぶつかり合いや汚職にも阻まれる。さらに、大衆民主主義はインドの政策に矛盾をもたらし、頻繁に与党が入れ替わる。インドのインフラはお粗末で、事業を行政や規制の壁が阻み、財政赤字がとくに州レベルでかさみ、投資や雇用創出の妨げになっている。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

ここでリークアンユーが指摘するインド発展の弊害は、迅速さを欠いた行政システムです。

中央と地方をまたぐ、きわめて複雑に入り組んだ制度やこのような行政システムの改革をこばむ官僚の存在、宗教対立、汚職、ポピュリズムによる政治の不安定などがその理由で、そのためにインフラの整備が遅れ、財政赤字も積み重なって、さらに投資や雇用の障害となっている、というのです。

では、こういった行政システムを変革することは可能でしょうか?

リークアンユーは、つぎのような見解をしめしています。

 

インフォシス共同創業者で元会長のナラヤナ=マーシーのように、インドの大臣や官僚上層部がみな仕事熱心かつタフな現場監督で不屈の交渉人としてつねに前向きな考え方をするなら、インドは世界でどの国よりも急成長を見せ、世代交代しないうちに先進国の仲間入りをするだろう。しかしながら、マーシーはおそらくインドの統治制度を一人の人間が変え、インフォシスのような効率的な組織にすることはできないと認識している。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

ここで、リークアンユーは、インフォシスのマーシー元会長の例をあげつつ、インド政府機構においてマーシーが成し遂げたような統治制度の変革が行なわれたならば、しばらくしてインドは先進国となれる、とその潜在的可能性に言及しながらも、インドの現状では、誰かひとりのリーダーシップにより、そうなることは実際にはありえない、と考えていたのでした。

インド成長の障害

では、インド社会の成長を阻んでいる要素はなんなのでしょうか?

リークアンユーは、このことについて、つぎのように述べています。

 

有能な人材を育てて国のトップに就けようという意識のない社会に、私は賛同できない。生まれながらに序列が決まる封建社会にも反対だ。それが端的に現れた例が、インドのカースト制度だ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

ずばり、「カースト制度」だというのです。

また、他民族で共通言語をもたない、ということもインドの成長の妨げになると考えていました。

 

インドは、実際には一つの国家ではない。実態は、イギリスの敷いた鉄道に沿ってたまたま並んでいた32の異なる民族集団だ。……32の異なる民族が330の異なる地域言語を話す国なのだ。……デリーの街に行って英語を話すとしたら、通じるのは人口12億人のうち2億人くらいだろう。ヒンドゥー語が通じるのは2億5000万人、タミル語が通じるのは8000万人くらいだろう。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

また、インドにおける公務員や官僚、実業家にたいする見方も問題であると指摘しています。

 

典型的なインドの公務員は、自分の主な役割を、仲介ではなく取り締まりだと、いまだに考えている。典型的なインドの官僚はというと、利益をあげて金持ちになるのは罪ではない、ということを受け入れない。そのため、官僚たちは、インドの実業界ではほとんど信用がない。一方インドの実業家は、国家福祉のことなど頭にない、金に意地汚い日和見(ひよりみ)主義者だと見なされる。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

インドでは、公務員は取り締まりを自分の仕事だと考え、官僚たちは、利益をあげることを罪だとみなして、経済活動に関心が薄く、実業家は守銭奴のように見なされる、それではインドが発展する余地などないではないか、というのがリークアンユーの考えでした。

リークアンユーは、出自や民族に関係なく、優秀な人材をエリート官僚として育成し、シンガポールの発展に貢献させるシステムをつくりあげました。

また、官僚自身が積極的に経済運営に参与し、実業家が事業を推進することが社会の発展につながる経済政策を実施しました。

このような観点からみるとき、インドのこういった考え方は、成長や発展とは程遠いものとしてリークアンユーの目には映ったのでしょう。

インド成長の可能性と課題

では、インドが成長する可能性について、リークアンユーはどのように考えたのでしょうか?

リークアンユーはインドの持つ強みについて、つぎのように語っています。

 

インドの民間セクターは、中国よりも強力だ。インド企業は中国企業に比べると、国際的 なコーポレート・ガバナンスを守り、株主に高い利益を還元している。インド経済には透明性があり、資本市場が機能している。

インドの銀行制度と資本市場は中国よりも強力で、制度も整っている。とくに、知的財産 の創造と保護のためになくてはならない法制度がよく整備されている。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

すなわち、中国の状況と比較しつつ、

 

 1.企業のコーポレート・ガバナンス遵守、株主への高い利益還元

 2.経済の透明性

 3.銀行制度の強力さ

 4.資本市場の強力さ

 5.知的財産権の法制度整備

 

といった点が、インドの強みであると言っています。

くわえて、

 

 6.人口の若さ

 

というのも、インドの強みになるとしています。しかし、人口については、若者への教育が必要で、「さもないと、人口の多さが重荷に変わってしまう」と忠告しています。

ただし、リークアンユーは、以上のような強みを生かすためには、制度の改革と旧習を打破していくことが必要であると力説します。

さらに、

 

インドがきちんとインフラを整えれば、投資を呼び込み、中国にすぐに追いつくだろう。 インドに必要なのは、国際競争に参入しやすいように制度を自由化することだ。そうすれば、国際的な大企業と肩を並べることができる。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と、インフラの整備と、あまりにも複雑な規制を緩和して、制度を自由化することが必要であるといいます。

「お役所仕事」をあらためること、これがリークアンユーがインド経済を活性化し、発展させるための最低限の条件であると考える課題なのです。

インドは中国の対抗馬になるか?

中国が台頭する時代にあって、その対抗馬としてインドの経済的・軍事的プレゼンスに期待する声が日本でもあります。

実際、日本政府も中国への対抗上、おりにふれてインドとの接触をはかっています。

では、インドは本当に中国の対抗馬になりうるのでしょうか?

あるいは、中国に対抗していくうえで、信頼できるパートナーなのでしょうか?

このような問いにたいするリークアンユーの考えをみてみましょう。

リークアンユーは、「インドには国際政治の中で、できるだけはやく経済大国として台頭してほしい」と述べています。

そして、アジアの没落を防ぐためには、インドの台頭、アジアでのインドのプレゼンスが不可欠だといいます。

リークアンユーは、

 

韓国は小さすぎる、ベトナムも小さすぎる。東南アジアは、あまりに異質な国々から構成されている。バランスを保つためには、もう一つの大国が必要なのだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と述べて、東南アジア地域の安全保障や政治的な安定、経済の発展に、成長したインドが積極的に関与することを期待しています。

とくに、100年後、200年後を見越したとき、アメリカがアジアでのヘゲモニーを失ってしまう可能性を考えた場合には、将来的にインドがその空白を埋める役割をすべきであると、考えたのでした。

リークアンユーは米中対立の場は、太平洋とインド洋になると予測しています。

そうなれば、インド洋にいるインド海軍は、いやおうなしに対応を迫られます。

リークアンユーは、

 

中国はインド洋に海軍を展開し、湾岸諸国からの石油の供給やアフリカからの商品の供給に抗議している。そこは、インドが軍を展開している場所だ。もしインドがアメリカ側についたら、アメリカはきわめて有利になる。そうなると、中国は対応措置が必要になるため、ミャンマーとパキスタンに港を建設したのだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

と、インド洋情勢を分析しています。

しかし、インドが米中のうち、どちらの味方をするのかはフィフティ・フィフティであると、リークアンユーはいいます。

すなわち、

 

アメリカとインドのあいだには、中国を封じ込める直接のパートナーシップはない。両国の関係が深まっても、インドは独立したプレイヤーのままだろう。利害が対立すれば中国から自国の利益を守り、利害が一致すれば中国と協力すると思われる。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

として、インドはアメリカの絶対的同盟者としてではなく、「独立したプレイヤー」として、自国の利害関係によって、中国と敵対したり、協力したりするだろうというのです。

リークアンユーのこのような分析がただしいならば、インドとの信頼関係、さらには協力関係構築が重要であることはいうまでもありませんが、一方で、インドを過度に信頼して、インドにこの地域での自国の安全保障を丸投げしてしまう、というのもリスクがあります。

あくまで、インドとの利害関係のなかで、関係各国がどのように動くか、臨機応変に対応していくことが求められるのでしょう。

混迷するイスラム世界の21世紀を語る

世界を脅かすイスラム原理主義

21世紀はテロと戦争で幕が開いた、と言われます。

冷戦終結によって、世界的な戦争の恐怖から人類が解放されたと思ったのもつかの間、20世紀末には各地で民族や宗教の違いに端を発する紛争が頻発しました。

そして、21世紀がはじまると、アメリカで同時多発テロが発生し、当時のブッシュ政権は中東で、「テロとの戦い」を開始しました。

中東での戦争は、イラクから、アフガニスタン、そしてさらに広範囲に拡大し、その過程で登場したISによって、大規模なテロが世界各地で発生し、世界情勢はますます混迷を深めています。

では、このようなイスラム原理主義団体やその影響を受けた個人による欧米へのテロ攻撃、そして、それに対する欧米の軍事行動について、リークアンユーはどのように考えていたのでしょうか?

リークアンユーは、「アル・カイダ式のテロは世界規模であり、特異でかつてなかったものだ」といいます。

そして、「世界各地のさまざまな原理主義集団が、過激な信念を共有している」としています。

テロが世界規模で発生していると同時に、その犯行主体であるイスラム原理主義団体どうしが、ワールドワイドに共感しあっている、というのです。

さらに、「イスラム教徒のテロが頻発しだすと、抑え込むのに何年もかかる」として、未然にこのような事態を防いでいくことを訴えます。

こういったイスラム原理主義者によるテロのうち、もっとも警戒すべきものとして、WMD(大量破壊兵器)によるテロをあげています。

 

世界はWMD(大量破壊兵器)を手にしたテロリストたちの脅威にさらされる。そうなると、身の毛がよだつような大量殺戮が起こるだろう。だからこそ、ならず者国家の核開発を阻止し、備蓄兵器やその原料を没収する必要があるのだ。……イランが核兵器を所有したら、地政学的なバランスは大きく変わるだろう。中東の他の国も核兵器をもちたがり、WMDのための核分裂性物質がテロリストの手に渡る危険性が増大する。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

すなわち、リークアンユーは、WMDによるテロを未然に防止するためには、「ならず者国家の核開発を阻止し、備蓄兵器やその原料を没収する必要がある」というのです。

そうしないと、核拡散のリスクが高まり、それにより、核物質をテロリストが手にする危険性が高まる、と懸念しています。

さらに、中東は石油の産出国がある地域であるため、リークアンユーは、石油問題としてもこの問題を考えています。

 

イスラム過激派がいなくても石油問題は起こるが、石油にイスラム過激派、そしてWMDがからむと、きわめて危険な問題になる。まさに脅威だ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

経済成長を重視するリークアンユーにとって、石油の問題がテロリズムとからむことは非常に忌むべき事態、「脅威」でした。

リークアンユーは、このような観点からも、イスラム原理主義の台頭は世界にとって脅威となっている、と考えていたのです。

混迷するイスラム世界にどう対処していくのか?

では、イスラム原理主義が台頭しているイスラム世界の混迷に、世界はいかに対処すべきであるとリークアンユーは考えたのでしょうか?

この問題について、リークアンユーは、つぎのように語っています。

 

アメリカが国家として未熟なイラクから撤退すると、聖戦士たちは勢いを得て、アメリカ の首都ワシントンやその同盟国など、そこかしこで戦いを挑んでくる。アフガニスタンからロシア軍が、イラクからアメリカ軍が撤退させられるような事態になると、イスラム原理主義者が、自分たちには世界を変える力があるように思うようになる。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このように、リークアンユーは、アメリカ軍のイラクからの撤退は、イスラム原理主義のさらなる台頭をまねく、としています。

そして、これにより、「世界にイスラム教の版図を広げるためには自爆テロも辞さないという狂信ぶりが、さらに激しくなると思われる」と警戒しています。

リークアンユーの基本的スタンスとしては、世界の平和と安定を維持しているのは米軍によるプレゼンスによるところが大きい、ということですが、この発言でも、そのような信念があらわれているといえます。

このように、基本的には米軍の軍事力に依拠しながら、地域の安定を維持しつつ、原理主義者たちに「勢い」を得させないことが重要である、と考えていましたが、一方で、イスラム世界、とりわけイスラム教内部の動きはさらに重要であると考えていました。

リークアンユーは、つぎのように語っています。

 

この(原理主義者との)戦いに勝てるのは、イスラム教徒だけだ。イスラム教徒のうち、近代化を支持する穏健派指導者や政治指導者、宗教指導者や市民団体の指導者は声をそろえて、原理主義者に異を唱える必要がある。……原理主義者と戦ってイスラム教徒の心をコントロールできるのは、イスラム教徒自身、なかでも穏健でより近代的な暮らしを支持する信者だけだ。イスラム教徒は、イスラム教の道に外れた解釈に基づくテロリストのイデオロギーに対して、反論すべきだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユーは「戦いに勝てるのは、イスラム教徒だけ」と、明言します。

米軍の最新式兵器をもってしても、イスラム教徒の内心までは動かすことはできず、イスラム教界における原理主義の勢力を駆逐することができるのは、イスラム教徒自身以外にはないからです。

だからこそ、穏健派イスラム教徒の態度を、リークアンユーは批判し、なすべき行動を提示します。

 

イスラム教の穏健派は、態度を明確にして先頭に立ちモスクや神学校の過激派たちに異を唱えることをせず、問題に目をつぶり、過激派がイスラム教だけでなく、イスラム世界全体を乗っ取るのを黙認している。……科学技術の発達した近代世界の一員になることを望むイスラム教徒は、過激派に立ち向かい、過激派指導者が暴力や憎悪を説くのを阻止しなければいけない。イスラム教徒の学者や宗教指導者に、イスラム教はテロの教えではなく平和の教えであり、他の宗教やその信者に寛容であるべきだと指導させなければならない。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

そして、テロとの戦いにおいて、アメリカは、「ヨーロッパ諸国やロシア、中国やインドなど非イスラム諸国や、多数を占める穏健派イスラム教徒と協力しなければならない」と、リークアンユーはイスラム穏健派を含む、世界規模の連携を主張します。

このように、広範な国際協力を基本として、アメリカ軍の軍事力を適切に運用していくとともに、イスラム穏健派が発言し、行動することで、イスラム世界におけるイスラム原理主義者たちの影響力を低下させていくことが、リークアンユーが提唱する、イスラム原理主義への対処のあり方でした。

このようなリークアンユーの立場は、決して軍事力だけでは問題は解決せず、イスラム世界内部における根本的な問題解決があってこそ、イスラム原理主義とそのテロリズムの問題は解決するのである、というものです。

イスラム原理主義者によるテロリズムは、現在進行形の非常に深刻な問題であり、その状況も日々、変化しています。

しかし、リークアンユー没後の今日においてもなお、リークアンユーが遺したこれらの言葉は、イスラム原理主義の問題を考えていくうえで、示唆に富んだものではないか、と思います。

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人生のすべてをシンガポールに捧げた「建国の父」リークアンユーの死

リークアンユーの死

「建国の父」リークアンユーの国葬

冒頭でもふれたように、リークアンユー初代シンガポール首相は、2015年3月23日未明に91歳で死去しました。

シンガポールではこの「建国の父」の死に際し、1週間にわたり喪に服すこととなりました。

リークアンユーの遺体は国会議事堂に安置されますが、シンガポール国民が弔意をあらわし、別れを告げるために、国葬の前夜まで長蛇の列を作りました。

とくに昼間は連日、猛暑がつづいていたにもかかわらず、数多くののシンガポール国民が、リークアンユーの遺体が安置された祭壇に拝礼するまで、8時間近い時間をかけて待ちました。

「建国の父」、そしてシンガポール成長の功労者であるリークアンユーの国葬は3月29日、シンガポール国立大学の講堂で営まれました。

国葬には日本の安倍晋三首相をはじめインド、オーストラリア、韓国など23カ国の首脳らを含む2200人が参列し、シンガポールの「建国の父」の死を悼みました。

国葬の冒頭で、リークアンユーの長男でもあるリーシェンロン首相が挨拶しました。

リーシェンロン首相はこのなかで、「亡くなったリー氏のおかげでシンガポールは国際的な舞台で影響力を示すことができた」と、リークアンユーがシンガポールに果たした功績をたたえました。

このあと、1965年のシンガポール分離独立当時、リークアンユーを支えた指導者たちも続いて弔辞を読み上げました。

シンガポールの将来を新世代にゆだねる、として政界を引退していたリークアンユーでしたが、引退の後も建国の父、そしてシンガポールを今日のような発展に導いた指導者としてのリークアンユーにたいする敬意の念が、多くのシンガポール国民のなかに生き続けていたことをしめす国葬でした。

リーシェンロン首相の対国民談話

リークアンユーの死に際して、

リークアンユーの長男で首相であるリーシェンロンが、国民にたいしてメッセージを発表しました。

メッセージは、シンガポールの公用語であるマレー語、中国語、英語の順にリーシェンロン首相によって読み上げられました。

この国民にむけたリークアンユーにたいする追悼メッセージでは、「自分の父親」としてではなく、あくまでシンガポールの「建国の父」としての業績が語られます。

普段はいたって冷静なリーシェンロン首相。

しかし、このときには、直前まで泣いていたことがはっきり分かるほど、テレビに映し出された彼の目は赤くなっていました。

そして、メッセージの途中には、涙で言葉がつまります。

以下は、シンガポール首相官邸公式YOUTUBEページにアップされた、そのときの動画です。

 

 

英語によるメッセージは以下のような内容でした。

 

私たちの建国の父の中でも、最も重要な方が亡くなりました。

彼は私たちを鼓舞し、勇気を与え、団結させ、私たちを指導してきました。

彼は私たちの独立のために闘い、全く何もないところから国家を建設し、私たちがシンガポール人であることに、誇りを持たせてくれました。

彼のような人は、もうあらわれないでしょう。

多くのシンガポール人にとって、そして、シンガポール人でない人々にとってさえも、リー=クアンユー氏は、「シンガポールそのもの」でした。

首相として、彼は不可能と思われることを達成するために、私たちを叱咤激励してきました。

首相を退任してからも、その知恵と才能によって、後継者たちを指導しました。

高齢になってからも、彼はシンガポールをずっと見守っていました。

シンガポールは、彼にとって変わることのない、情熱の対象でした。

彼は、すべてをシンガポールに捧げました。

彼は、

 

「私はみずからの人生のほぼすべてを、この国をつくりあげることに使った。それ以外に、私のすべきことなどはなかった。私が最後に手に入れたものは何か。それは、成功したシンガポールだ。私が捨てねばならなかったものは何か。それは、私自身の人生だ」

 

と、言っています。

リー=クアンユー氏の死去に際して、悲しみで言葉もありません。

皆さんも同じ気持ちだと思います。

しかし、彼の死を悼みながらも、同時に、彼の御霊(みたま)を称えようではありませんか!

団結して彼が建設してきたものをさらに発展させ、彼の理想に向かって懸命に努力し、シンガポールをこれからも、特別で成功した国として維持していきましょう!

ミスター・リー=クアンユー、安らかにお眠りください。

2015年総選挙における人民行動党の勝利

リークアンユーの後継者として

リーシェンロン首相は、国葬での挨拶のなかで、

 

シンガポールを育てたリー氏の仕事を引き継ぐのが我々の役目だ。

 

とシンガポール国民に語りかけました。

国葬をつうじて、リーシェンロン首相はみずからが、リークアンユーの成し遂げた仕事、そしてその結果としての、発展したシンガポールの後継者であることを内外にしめしたのです。

リークアンユー死亡から半年後の2015年9月11日には、シンガポールで国会議員選挙が行なわれました。

21世紀にはいって、支持が低下し続けていた人民行動党が、リークアンユーなしで迎えるはじめての国政選挙でした。

「シンガポールを育てたリー氏の仕事を引き継ぐ」という役目をになうことになったリーシェンロンは、厳しい戦いとなることを覚悟して、全力で選挙運動に臨みました。

人民行動党の圧勝へ

前回2011年の国会議員選挙では、人民行動党が81議席、労働党は6議席を占めていました。

さらに、2012年に実施された補欠選挙で、野党の労働党が勝利して、さらに1議席を追加しました。

リークアンユーの晩年の人民行動党にとっては、選挙のたびに厳しい状況がつづいていたのでした。

ところが、9月11日に行なわれた選挙では、与党・人民行動党が圧勝と言える結果となりました。

今回の選挙では、前回から2議席定員が増加していて、議席総数89議席のうち。人民行動党が83議席を獲得したのにたいして、最大野党の労働者党は6議席にとどまりました。

与党・人民行動党の得票率は69.9%で過去最低の60.1%を記録した前回の総選挙から大幅に上昇して、退潮傾向に歯止めがかかりました。

得票率75.3%を獲得した2001年の総選挙以来の高い水準となったのです。

一方で、2011年の選挙で善戦した野党は、今回の選挙では初めて全選挙区で候補を立てて躍進を目指しました。

ところが、ほとんどの選挙区において与党が、前回よりも得票率を伸ばしたのです。

リーシェンロン首相は、選挙の翌日、12日早朝に記者会見を開き、人民行動党への高い支持率について「予想以上の結果だった」としつつ、勝利宣言を行ないました。

さらに記者会見では、選挙の半年前に死去した父・リークアンユーについても触れて、「彼を失った後も、国民は国を発展に導く道を選べると分かった」と話しました。

3月に死去した「建国の父」リークアンユー後のシンガポールの政治は、ひとまずは安定的に人民行動党が政権運営していくことになりました。

勝利の理由とこれから

では、これまで低下しつつあった人民行動党への支持が再び上向いたのは、どうしてでしょうか?

その理由として、つぎの2つが考えられます。

まず1つは、リークアンユーの死亡にともなって、あらためてリークアンユーが指導してきた時代のシンガポールの発展を再評価しようという国民の意識の反映があげられます。

これとともに、もう1つの理由としては、ふたたびリークアンユーの時代のような、まざましい発展を成し遂げたい、という国民の願望のあらわれでないかと思われます。

選挙での人民行動党の勝利をうけてリーシェンロン首相は、

 

強力な委任を与えてくれたシンガポール国民に感謝する。

 

と国民への謝意を述べました。

リークアンユーの後継者たらんことを国葬で表明したリーシェンロン首相にこれから問われるのは、まさに、その国民からの「強力な委任」にどれだけ応答することができるか、でしょう。

そして、シンガポールの国民が、自分たちの「代表」として委任した人びとに、いかにその委任に応答させていくのか、です。

リークアンユー亡き後のシンガポール国民は、その路線の継承を選択しました。

今後、何十年先、何百年先のシンガポールがどのような道を歩むかは、誰にもわかりません。

しかし、シンガポールの人びとは、これからもリークアンユーを記憶し、困難に直面したときのひとつの道しるべとして、過去に彼が下した決断や、彼が遺したことばを参照するとこでしょう。

死してもなお、「建国の父」リークアンユーは永らく、シンガポールを導き続けることでしょう。

さいごに

目を見張る経済成長

これまでシンガポールを建国し、成功に導いてきた政治指導者・リークアンユーの生涯と政治、思想、そしてリークアンユーによる未来の世界にむけた分析と提言をみてきました。

振り返ると、1959年にリークアンユーがイギリス領シンガポール州の首相に就任したとき、シンガポールの人口は200万人以下でした。

ところが、現在では600万人に達しつつあります。

そのなかには多くの外国人が含まれていて、彼らのような移民たちが、小さな島国であるシンガポールを東南アジアを代表する世界的な大国として成長させる原動力となりました。

また、シンガポールのGDPは1960年には10億ドル(約1192億円)未満でした。

しかしながら、2014年にいたって、3000億ドル(約35兆7000億円)にもなりました。

さらに、1960年時点では、一人あたりのGDPは427ドル(約5万円)だったのが、2013年には、一人あたり5万5000ドル(655万円)を超過しています。

これほどの短期間での目を見張る経済成長は、世界に類を見ないもので、シンガポールの誇りであると言えるでしょう。

これを一代で成し遂げたのが、リークアンユーでした。

リークアンユーは、さまざまな困難をすぐれた政治的判断で乗り切り、これほどまでの経済発展を実現した類まれなるリーダーなのです。

政治家リークアンユーの自画像

しかし、リークアンユーははじめから政治の世界に入ることを望んでいたわけではありませんでした。

晩年にリークアンユーは、つぎのように述べています。

 

政治の世界に入りたいと思っていたわけではない。法律家になって、いい暮らしをし、優秀な弁護士になりたかったのだが、当時の政治的な大変動のさなかにいたおかげで、この世界に放り込まれた。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユー個人の希望としては、ほんとうは、弁護士として成功したかったが、時代の荒波に飲まれて、政治家となった、と言っているのです。

しかし、リークアンユーは責任感をもって政治家としての勤めを果たそうと努力しました。

 

私には責任がある。私はこの国を発展させる責任を負わなければならない。私にできるのは、私が世を去るときには、この国の制度がうまく健全に、クリーンに効率よく機能するようにすることだけだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユーは自己自身を分析して、つぎのように言っています。

 

自分の性格は、意志が強く、ぶれがなく、粘り強いと思っている。うまくいくまであきらめない。それだけだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このようなリークアンユーの「うまくいくまであきらめない」という性格が、困難に直面しても粘り強く、解決策を見出してきたリークアンユーの政治家としての歩みに反映され、シンガポールを成功へと導いたのでしょう。

しかし、その一方で、熾烈な政敵との闘争や、経済成長のために厳しい態度をもって対処してきたことも事実です。

リークアンユー自身も、栄光ばかりでなく、このような陰の部分にたいして、決して無自覚であったわけではありませんでした。

リークアンユーは晩年に、このように語っています。

 

私がしたことがすべて正しいと言うつもりはないが、それらはすべて崇高な目的のためだった。棺のふたが閉まったら、判断してほしい。私の評価はそれからにしていただきたい。私が口を閉じるまでには、まだ愚かなことをしでかすだろうから。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユーをいかに評価するのか

最後までお読みいただいたみなさんは、リークアンユーの「棺のふたが閉まった」今、リークアンユーという人物をどのように評価されますか?

そして、リークアンユーが築き上げたシンガポールという国の未来をどのように考えますか?

さまざまな評価が可能でしょう。

しかし、これだけは確実です。

今日のようなシンガポールの発展が実現できたのは、シンガポールのリーダーとして人生を駆け抜けた、リークアンユーという一人の人間がいたから、です。

これからも、リークアンユーはどこかで、みずからが建国し、発展させた祖国・シンガポールを、そして、そのシンガポールのリーダーとして向かい合い、ときには渡り合ってきた東南アジアを、アメリカを、中国を、インドを、中東を、日本を、そして世界を、見守り続けることでしょう。

 

(主要参考文献)

秋田茂『イギリス帝国の歴史:アジアから考える』中公新書

岩崎育夫『リー・クアンユー:西洋とアジアのはざまで』岩波書店

岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史:エリート開発主義国家の200年』中公新書

桐山昇・栗原浩英・根元敬『東南アジアの歴史:人・物・文化の交流史』有斐閣アルマ

小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書

佐々木雄太・木畑洋一 編『イギリス外交史』有斐閣アルマ

田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語:「消滅」した南洋大学の25年』明石書店

田村慶子 編著『シンガポールを知るための65章[第3版]』明石書店

田村慶子・本田智津絵『シンガポール謎解き散歩』KADOKAWA

林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書

リー=クアンユー『リー・クアンユー、世界を語る』サンマーク出版

Edited by Gillian Koh, Ooi Giok Ling,“State-Society Relations in Singapore”,Oxford University Press

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