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リークアンユーのあゆみ【完全ダイジェスト版】

リークアンユー   2,519 Views

シンガポールを今日のような発展へと導いたリークアンユー氏。

そのあゆみは、シンガポール現代史そのものであり、「リークアンユー氏を知らずして、シンガポールを知ることはできない」と言っても過言ではありません。

この記事では、シンガポールを建国し、成功に導いたリークアンユー氏のあゆみについて、ご紹介します。

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Contents

リークアンユー登場までのシンガポールの歴史と社会

イギリス領シンガポールの成立と発展

シンガポールが欧米をふくむ全世界から注目されるようになるのは、イギリス東インド会社のラッフルズがシンガポールに上陸した19世紀以降です。

ラッフルズはこの地を、イギリスの植民地とし、自由貿易港としてシンガポールの発展を促しました。

その政策が功を奏して港湾が急激に発展し、マレー人をはじめとして、中国人、インド人など多くの民族が移民としてやって来ました。

こうして、植民地期のシンガポールでは民族や言語、宗教によって分かれた社会が形成されていきました。

「華語派華人」と「英語派華人」

シンガポールにやって来た移民は中国人の比率が高く、彼らは中国での出身地別にコミニュティを形成して暮らすようになりました。

中国系住民たちの多くはシンガポールを一時的な出稼ぎの場所であると考えていました。

そのため、多くの中国系住民が政治的関心を抱いたのはシンガポールではなく、中国でした。

1911年に勃発した辛亥革命は、シンガポールに住む中国人たちに漢民族としての民族主義的な意識を覚醒・高揚させました。

その後、五四運動などの抗日運動がシンガポールにも影響し、日本製品や日本人商店にたいする不買運動が行なわれるなどしました。

そのような運動を行なった華人たちは「愛国華僑」と呼ばれました。

一方で、イギリスを志向する中国系住民もいました。

20世紀にはいると移民の2世・3世が次第に増加し、民族や宗教をこえて「シンガポール生まれ」あるいは「海峡生まれ」というアイデンティティを共有するようになっていきました。

彼らを「海峡集団」といい、シンガポールでの成功のためには、宗主国の言語である英語による教育を受けることが重要だと考えました。

そして、シンガポールにあって下級官吏や医師、弁護士、技術者、外資系事務職員など、比較的高収入で社会的地位の高い職業に従事するようになりました。

20世紀になって登場した、これら2つの志向をもった中国系住民=華人の集団は、それぞれの教育言語に対応させて、前者を「華語派華人」、後者を「英語派華人」と呼ぶようになりました。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユー登場までのシンガポールの歴史と社会」にてお伝えしています。

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リークアンユーの歩み:誕生から首相就任まで

幼少期~青年期

リークアンユーは1923年9月16日、中国系移民3世で「海峡華人」のリーチンクーンとチユアジンニオの長男として誕生しました。

リークアンユーの回想によると、家族は英語とマレー語で話していたといいます。

しかしながら、幼稚園では中国語による教育を受け、リークアンユーは中国古典の有名な文句の暗唱や書道を学ぶなどしました。

さらに小学校入学後も午後に自宅で中国語を勉強しました。ところが、徐々に面倒になってやめてしまったといいます。

7歳になるとリークアンユーは英語教育を行なう初等教育機関のテロク・クラウ小学校に入学し、つづいて12歳の時にリークアンユーはシンガポールを代表するエリート校であるラッフルズ学院に入学しました。

1939年にはケンブリッジ上級試験を受け、その成績が受験者のなかでトップとなり、3年に一度、1人の学生にのみ授与される、ラッフルズ大学の奨学金資格を獲得しました。

日本軍占領下

その後、ラッフルズ大学に入学しましたが、在学中の1941年12月にアジア太平洋戦争が勃発し、大学は閉鎖に追い込まれました。

日本軍は1942年2月15日、イギリス軍を無条件降伏させて、シンガポールを占領下におきました。

占領中、日本軍は華人を極度に警戒し、「抗日分子」とされた華人男子が多数虐殺されたシンガポール華僑虐殺事件が発生しました。

このとき、リークアンユーも虐殺の対象となりかけましたが、機転をきかせて脱出して虐殺を免れました。

リークアンユーは、日本軍占領期、日本軍の報道部で、連合国側の国々のラジオを傍受して文書としてまとめる仕事に従事していました。

連合国側の情報に接して、日本軍が次第に不利な形勢だと知り、1年ほどして退職し、家族全員を連れてマレーシアにあるカメロン高原に避難しようとしていましたが、同僚の密告で憲兵隊に嫌疑をかけられたため、結局とどまりました。

シンガポールにおける日本軍占領時代を振り返り、リークアンユーは、

日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。(『回顧録』)

と語っています。

ナショナリズムのめばえ

一方で、日本軍によるシンガポール占領によって「シンガポールの独立」を目指すナショナリズムの感情が芽生えていました。

アジアの一民族である日本人がイギリスを無条件降伏させたという出来事は、リークアンユーをはじめシンガポールの人びとの価値観を一変させてしまったのです。

そして、「 われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した。われわれは、自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心した」(『回顧録』)と、ナショナリズムの意識が芽生えたと言います。

イギリス留学時代

リークアンユーは1946年9月、イギリスに留学しました。

当初、リークアンユーはロンドン大学で1学期間学んだのち、ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジに移って法律学を専攻して首席で卒業しました。

ケンブリッジ時代には真面目に学業に励むかたわら、ロマンスも生まれました。

その相手はクワ=ギョクチューというマレーシア出身の華人女性で、帰国後に二人は結婚しました。

また、リークアンユーはのちに政治の世界で行動を共にすることになる多くの仲間とイギリス留学時代に出会いました。

のちにリークアンユーの片腕として経済成長を政権内部でささえたゴーケンスイは、ロンドン大学で経済学を学んでいました。

また、外相を務めることとなるラジャラトナムはロンドン大学でジャーナリズムを専攻し、人民行動党で委員長を務めることになるトー=チンチャイもロンドン大学の留学生でした。

さらに労働大臣や法務大臣を歴任したケニー=バーンは、同じ時期にオックスフォード大学に留学していました。

独立をめざす動き

リークアンユーがイギリス留学をしていた頃、シンガポール国内では独立をめざす動きが広がりつつありました。

1945年12月にはすでに、「マラヤ民主同盟」が結成されていましたが、3年以内に解散してしまいました。

マラヤ共産党が武装蜂起したことにより、マラヤ民主同盟のメンバーたちがイギリスによって自分たちも弾圧されるのではないか、ということを恐れたため、自ら解散したのです。

一方、人口に占める割合の大きい華語派華人たちによる独立運動の中心的政治組織だったのが、マラヤ共産党で、1948年6月には、武力蜂起を実行しました。

イギリス植民地政府は、シンガポールとマレーシアに非常事態宣言を発令して、共産党を非合法化し、武力による鎮圧を行ない、この企図は失敗に終わりました。

その後、地下に潜って活動を継続し、労働団体や中国語による教育機関などで影響力を拡大していきました。

帰国

このような情勢のなか、1950年8月1日、リークアンユーはイギリスから帰国しました。

帰国したのちに弁護士資格を取得したリークアンユーは、レイコック&オン法律事務所で妻とともに弁護士として勤務しました。

リークアンユーは、イギリス植民地当局の弾圧によって逮捕・提訴された労働組合や学生指導者たちが続出するなか、その弁護を積極的に引き受けました。

彼は次々と裁判で勝利し、共産系労働組合や左翼人士との信頼関係を築いていきました。

自治の拡大

シンガポールの統治者として復帰したイギリスは、1946年4月1日、これまでのマレー半島地域の植民地の統治単位を再編し、マラッカとペナンをマレー半島本土と合わせて「マラヤ連合」(マレーシア)とし、シンガポールのみをイギリスの直轄植民地として分離しました。

戦後のイギリスは、アジアでの影響力が急速に低下していたため、少しでも影響力を維持しようと自治権を付与・拡大するなどして植民地住民たちに譲歩をはじめました。

シンガポールでも1947年7月にはイギリス植民地当局によって立法会議選挙法令が公布され、1948年3月20日に議席の一部を民選とするシンガポールで初めての選挙が実施されました。

この選挙は住民の一部に選挙権を制限した制限選挙でしたが、20万人のシンガポール市民が参加しました。

その後1955年には、シンガポールに部分自治が認められることとなりました。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユーの歩み:誕生から首相就任まで」にてお伝えしています。

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リークアンユーの政権獲得と政治闘争

人民行動党の結成

シンガポール自治政府が設立されるのを前に、リークアンユーら14人が発起人となって、1954年11月、人民行動党を結成し、リークアンユーが書記長に就任しました。

結党当時、人民行動党は英語教育を受けたエリートたちと華語派華人の共産系グループが共同して運営する政党でした。

大衆的基盤をもたないエリートの英語教育グループと、大衆的基盤をもちつつも活動が非合法化されていたため「隠れ蓑」としての組織を必要としていた共産主義グループとの利益が一致し、両者の同床異夢によって結党された人民行動党は、これら2つのグループが相互補完しあうことで、シンガポール社会での影響力を次第に増してゆくこととなりました。

初当選

結党翌年の1955年に行なわれた選挙では、3議席を獲得しました。

結党間もない政党として、まず政治参加することを課題として立候補者を絞り込み、全員当選を果たしたもので、目標を達成できたといえるものです。

このとき立候補したリークアンユーは、タンジョンパガー選挙区で78%の得票率で勝利し、政界入りすることとなりました。

リークアンユー政権の誕生

1959年にはシンガポールがこれまでの制限の多い部分自治からイギリス連邦内の自治州として外交と国防以外の権限を行使することが可能な、完全自治へと移行してゆくのです。

選挙権も拡大し、これまでの制限選挙から20歳以上の男子による普通選挙へと移行しました。

このときの選挙の実質的な闘いは与党・労働戦線と人民行動党との対決となりました。

結果、全51議席のうち人民行動党が43議席を獲得し、圧倒的多数を占める第一党になりました。

リークアンユーもまた、前回立候補したタンジョンパカー選挙区でふたたび勝利しました。

勝因としてもっとも大きかったのは、制限選挙から普通選挙への移行により、多くの華人が投票にするようになったことでした。

人口の多数を占める彼らを支持基盤とする人民行動党にとって、選挙権の拡大は大いに有利な要素として働いたのです。

こうして1959年6月、リークアンユーがシンガポール首相に就任し、閣僚には、トーチンチャイが教育相、ゴーケンスィーが財務相、ラジャラトナムが文化相に任命され、英語を話す層が中心の政権が発足しました。

新政権の政策:汚職取締りと工業化推進

首相となったリークアンユーは、次々と特色ある独自の政策を実行していきます。

まず、公職者の汚職を取り締まる汚職調査局を政府内に設置し、公務員や政治家の私生活まで監視しました。

また、社会の風紀の乱れを糺すとして、ストリップ・ショーやキャバレーといった遊興施設が禁止されるなど、市民生活への締めつけも行なわれました。

経済分野においては、これまでの中継貿易に依存する経済構造を脱するため、外国資本の導入による重工業化を積極的に推進し、ジュロン工業地帯が整備されました。

マレーシアとの合併推進

工業化をすすめるにあたって問題となったのが、製品を販売するためのシンガポールの国内市場が狭小であるということでした。

そこで想定されたのが、隣国マレーシア(マラヤ連邦)との合併を想定し、マレーシアの市場を国内市場化することでした。

リークアンユーはマレーシアとの合併交渉を積極的にすすめました。

一方、マラヤ連邦のラーマン首相は1961年、シンガポールをはじめとした隣接するイギリス植民地と合併して「マレーシア連邦」を結成する構想を打ち出します。

リークアンユーとラーマンは、合併に向けて協議をすすめ、合併案がまとめられました。

党内対立の激化

リークアンユーの首相就任前後から、人民行動党内部において、党の路線などをめぐって左右の勢力争いがくりひろげられるようになりました。

それが合併問題を契機として、一気に激化していきました。

与党内共産系グループは合併に反対しました。

その理由は、マレーシアのラーマン首相が、マレーシアの共産化を防止するために、シンガポールを取り込むことで、シンガポール国内の共産系グループの影響力を抑え込もうとしたからでした。

そのような思惑は、党内の実権を完全に掌握したいと考えていたリークアンユーとも利害が一致するものでした。

共産系グループはこれに反発して、1961年に行なわれた補欠選挙では野党候補を応援し、人民行動党候補を落選させました。

リークアンユーは国会に「政府信任案」を提出してこの危機を乗り切ろうとしました。

この信任案はわずか一票差で可決されましたが、この攻防は、31年続いたリークアンユー政権において最大のピンチでした。

バリサンとの闘争と住民投票の実施

こうした党内対立の末に、1961年7月にいたって共産系グループは、党から脱退し、新たにバリサン・ソシエリス(社会主義陣線)を結成しました。

バリサンは、マレーシア連邦への編入をはげしく非難し、合併阻止を試みました。

リークアンユーは1962年9月に合併案についての住民投票を実施して対抗します。

住民投票における選択肢は、「シンガポールは特別な自治州として合併するか、サバ・サラワク並みの自治で合併するか、マレーシアの普通の州として合併するか」という三択で、「合併しない」という選択肢はありませんでした。

そのため、バリサンはボイコットを呼びかけましたが、政府案支持が73.8%に達し、合併が決定しました。

バリサンの弾圧

このような状況にあって、1962 年12月にブルネイでマレーシアへの加盟反対を主張する北ボルネオ国民軍が反乱を起こすと、バリサンは「反植民地の民衆蜂起」と定義して支持する声明を出します。

これを口実に、リークアンユーはラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。

そして、1963年2月にマレーシア政府ととともに、「オペレーション・コールド・ストア」と名づけられた治安作戦を実行し、バリサンの主要メンバー百数十名を一斉に逮捕しました。

これがバリサンにとって決定的な打撃となりました。

連邦結成のための国際社会への訴え

こうして、マレーシア連邦の結成が1963年8月31日に実施されることが決まりましたが、インドネシアから妨害が入りました。

インドネシアは、マラヤやボルネオ島などマレー系民族の住む地域が分断されてしまったのは、イギリスとオランダによる植民地分割によるものであるので、全てインドネシアとして統一国家になるべきだ、と主張しました。

スカルノ・インドネシア大統領は、周辺海域およびボルネオ島で軍事行動を行ない、同時に、国際社会に向けて「マレーシア連邦の結成はイギリスによる新植民地主義の陰謀」であるとして、その阻止を訴えました。

これに対抗するために、リークアンユーは当時、国際社会で発言力を強めていたアフリカ諸国を訪問し、各国の首脳に合併の必要性をアピールしました。

マレーシア連邦の誕生

合併問題が国際紛争へと発展しつつあったことから、国連が介入することになり、連邦結成の日程も9月16日に延期されることとなりました。

政治的ダメージを恐れたリークアンユーは、もともとの連邦結成の日であった8月31日に、シンガポールだけがイギリスからの独立を宣言することで、これを乗り切ります。

そして、即座にマレーシアへの編入を宣言しました。

こうして、1963年9月16日、マレーシア連邦が誕生し、シンガポールは連邦を構成するひとつの州となりました。

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一党独裁の確立

この経緯を国内政治の観点からみると、リークアンユーはマレーシア連邦への合併問題によって、最大の敵対勢力を追い出すことに成功した、ということがいえるでしょう。

そして、選挙をつうじてバリサンの残存勢力についにとどめをさします。

1963年9月21日に実施されたシンガポール州議会選挙の際に、バリサンの支持基盤である労働組合の銀行口座を凍結するよう、政府が命令を出すなどして選挙のための資金を不足させて選挙活動を妨害するとともに、マレーシア連邦政府が人民行動党を支持したのです。

選挙の結果、全51議席のうち人民行動党が37議席、バリサンが13議席、無所属1議席となり、人民行動党の勝利に終わりました。

その後、指導者を失ったバリサンは内部対立を繰り返して、急速に勢力を縮小していきました。

対抗勢力が姿を消したことで、人民行動党による事実上の一党独裁が確立されていきました。

 連邦との関係冷え込み

政治力・経済力で他を圧倒するシンガポールはさらなる発展を熱望していましたが、連邦政府は他州とのバランスを重視してシンガポールの独走を心良く思いませんでした。

それに加えて、民族問題がさらに関係を悪化させます。

マレー人優遇を図りたい連邦政府に対して、華人の多いシンガポールは、マレー系・中華系住民の平等を主張しました。

こうして、徐々に連邦とシンガポールとのあいだに軋轢が生じていきました。

対立の表面化

この対立は、連邦の主導権をめぐる政治対立へと発展していきました。

人民行動党は、連邦内での発言力強化を図ろうと、1964年3月の連邦総選挙で、マレー半島各州において候補者を擁立しました。

選挙によってマレーシア政府与党 VS シンガポール政党という構図が明白になり、その葛藤は頂点に達します。

しかしながら、10人の候補に対し、当選者は1名にとどまり、この目論見は失敗に終わりました。

シンガポールの分離

連邦政府は以降、リークアンユーに対する敵対の態度を露骨に示すようになっていきました。

対立の末、国内情勢の混乱を懸念したマレーシアのラーマン首相は、シンガポールを分離して連邦から「追放」するという選択をします。

ラーマンは1965年8月9日に議会演説を行ない、シンガポールを連邦から分離することを告げました。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユーの政権獲得と政治闘争」にてお伝えしています。

リークアンユーの国づくり:独立国家・シンガポールの国家運営

突然の分離独立

独立は市民には事前に何の予告もなく、当日の朝になって、突然、政府から発表がありました。

国内外で合併への支持を訴えてきたリークアンユーにとって、独立は苦渋の決断であったと思われます。

そのことを物語るように、分離独立を発表するテレビ記者会見の席の途中、リークアンユーは涙を流して泣き出してしまったのです。

こうして1965年8月9日、現在のシンガポール共和国が生まれることとなりました。

「生存のための政治」

リークアンユー率いる人民行動党政権は「生存のための政治」というスローガンを掲げて危機の打開を図ろうとしました。

この「生存のための政治」においては4つの政策が実施されます。

1つは国内政治における国家凝縮性の向上です。簡単にいえば、政府批判や政権への敵対行為は認めず、政府が独占的に国家運営をしていく、というものです。

2つ目は国防体制の創出です。

3つ目は貿易立国、世界各国との経済関係強化です。

4つ目はマレー人国家に囲まれているという現実を直視して、華人国家ではなく、多民族国家をめざすことです。

そしてこのような生き残り戦略をもってリークアンユーはアジアやアフリカの国々を訪問し、支援を訴えました。

チャンスの到来

そのようななか、周辺諸国との関係に変化が訪れました。

まず、これまで敵対的な政策をとっていたインドネシアのスカルノが1965年10月に失脚し、政権を掌握したスハルトが、協調と開発重視の政策をうちだしました。

さらに、ベトナム情勢を背景として、1967年8月にインドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、シンガポールの五ヵ国によって「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が結成されました。

くわえて、1960年代は先進国における経済成長の時代で、60年代末になると、安価な労働力をもとめる多国籍企業により、発展途上国への投資・進出が活発化していきました。

このような情勢の変化のなか、リークアンユーは外国資本導入をすすめました。

経済成長の成功

その結果、1970年代にはいると、工業化が一気に進み、1970年代の終わりには、NIES(ニーズ、新興工業経済地域)として数えられるまでになりました。

70年代後半になると、周辺諸国においても安価な労働力によって外資を誘致し、工業化をすすめはじめたため、新たな成長戦略「産業構造高度化政策」が打ち出されました。

これまでの労働集約型ではない、資本集約型・技術集約型産業へと産業構造を転換していくというもので、ハイテク産業や研究・開発関連産業などの誘致に尽力しました。

しかしながら、80年代中盤の不動産やホテルに対する投資過剰、経営コスト上昇、さらにアメリカ経済停滞もあり、1985年には経済成長率がマイナス1.6%という、独立以来初のマイナス成長となってしまいました。

しかし、応急措置的な経済政策をすぐに実行に移し、わずか一年のうちにこの不況から脱出することに成功して、90年代にいたるまで6~10%の成長率を記録しました。

開発優先の国家体制

シンガポールには国家主導の経済発展を支える体制がありました。

労働組合は政府傘下の全国労働組合評議会に一本化され、スト権をはじめとした労働者の権利は厳しく制限されました。

選挙制度は人民行動党に有利になっており、批判的な野党指導者や活動家には甚大な損害賠償請求を行なって破産させたり、治安維持法によって処罰するなど、弾圧を行ないました。

また、官僚機構は、政府の指示を忠実かつ迅速に実行します。

小学校からのエリート主義的な教育システムによって選抜された人材が国費奨学生として海外の名門大学に留学したのち、官僚となることを義務化することで優秀な人材を確保しています。

こうして、リークアンユーを頂点とする政府と党が一体となった開発体制によって、経済発展がすすめられました。

種族融和政策

民族・言語によって分化した社会をひとつの国民として統合していくことは、建国以来の課題でした。

リークアンユー政権は、長期にわたって国民統合のための言語文化政策を試みました。

まず、第一の段階が「種族融和政策」です。

シンガポール社会に存在する多様な規範や価値を包摂し、その調和と安定を図ることによって国民統合を実現しよう、というものです。

その一環として、マレー語、英語、華語、タミル語が公用語とされました。

種族融和政策は、種族間の対立と近隣諸国との緊張を回避する、といった消極的な理由で採用されたもので、国民を積極的に統合する、という観点からみれば不十分なものでした。

英語社会化

そこで、国民統合策の第二段階として登場したのが、英語による学校教育によって「英語社会化」を図る、という政策でした。

シンガポール社会において英語は、植民地時代からの共通語で、特定の民族の言語でもないため、受容されやすい、というメリットがありました。

社会の英語化によって、社会の安定と統合を図ろうとしたわけです。

さらに、実利面からみた場合、シンガポールが外国資本を誘致しつつ発展していくうえで、国際言語である英語を共通語としていることが、プラスに作用することは言うまでもありません。

そのために、シンガポール政府は英語を学ぶよう、国民に強く促しました。

二言語政策

その後、1970年代初めになると、複数言語を習得することを求める「二言語政策」をすすめました。

このような政策には、種族アイデンティティを政府が尊重することで、国民統合をすすめるねらいがありました。

しかし、大卒のエリートたちは、二言語の習得に成功しましたが、それ以外の一般国民には必ずしも浸透しませんでした。

華語普及運動

つぎに1979年からは、華人を対象とした華語普及運動が開始されました。

リークアンユーは、華人が中国語の方言を使い続けることは、社会統合の観点からシンガポール発展にマイナスになると考え、日常の生活において方言を使用せず、華人同士では標準中国語を使用するよう奨励しました。

これによって、現在では若い世代の大部分は方言を流暢に話すことができなくなりました。

すなわち、中国での出身地域別に形成されていた華語派華人コミュニティを弱体化させ、華人社会を一元的な言語のもと、再構築する効果があったのです。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユーの国づくり:独立国家・シンガポールの国家運営」にてお伝えしています。

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リークアンユーの外交戦略

マレー世界の変化と協調関係の構築

シンガポールは、マレーシアとインドネシアに囲まれた小国で、両国との共存のほかに道はありませんでした。

スハルトによって、インドネシアの外交政策は、対立から協調へと大転換しました。

もう一方のマレーシアでも、1980年代には近代化と経済発展を重視するマハティールが首相に就任しました。

この変化により、開発による発展という共通の目標をもって、隣国としてより深い協調関係を構築していくこととなり、1989年には、隣接するシンガポールとマレーシアのジョホール州、インドネシアのリアウ州が、共同で開発を推進する「成長の三角地帯」が、シンガポールの呼びかけによってスタートしました。

また、共同軍事訓練など、安全保障面でも関係を深めていくことになりました。

対米関係

1965年に、マレーシアから分離独立した直後には、リークアンユーは「非同盟中立」外交をかかげ、極端ともいえる反米の姿勢を示していました。

しかし、1966年2月にシンガポールからのイギリス軍撤退が発表されると、代替する安全保障体制としてアメリカの軍事力に依存するようになり、経済関係も強化していくようになりました。

シンガポールは、南ベトナムに駐留する米軍が、修理・補修のためにシンガポール軍の基地を利用することを認め、南ベトナムに対する石油および石油製品の大量輸出を決定するなどして、アメリカの軍事介入と南ベトナムを支えました。

これにより、シンガポールは戦争特需で大いに潤いました。

1967年10月には、リークアンユーはアメリカを訪問し、首脳会談ののち、「両国関係の緊密化を約束する」という共同声明を発表しました。

この時期に、外国資本誘致を促進する経済開発庁の海外事務所がニューヨークやシカゴなどに設置され、両国の経済関係強化とアメリカ資本誘致体制の強化がはかられました。

ASEANのメリット

ASEANは、反共親米の東南アジア諸国連合組織として結成されたもので、独立したばかりの小国であるシンガポールにとっては、独立国家としての地位が国際的に認知されることのほか、反共的な東南アジア諸国との友好関係を構築していくことにより、イギリス極東軍撤退後の安全保障上の懸念材料を減少させるというメリットがありました。

また、東南アジア地域における経済協力も魅力でした。

結成当時から、「地域の経済協力」が目標のひとつとして掲げられていたことは、経済発展による国力伸張をめざしていたリークアンユーの意図と一致するものでした。

対日関係① 血債問題

1962年、日本軍の虐殺によるものと思われる大量の人骨が発見されると、対日賠償要求が「血債問題」としてシンガポールの人びとの関心事となり、運動が盛り上がりました。

一方で、日本との経済関係強化は、分離独立間もないシンガポールの生存には欠かせないものとなっていました。

このため、リークアンユー政権は、これを急いで決着しようとし、1966年に日本が5000万マレーシアドルをシンガポールに援助することで、この問題を終結させました。

1967年には、犠牲者慰霊塔をシンガポール市内に建立し、遺族たちを慰撫しようと努めました。

対日関係② 経済関係強化

以降、日本との経済的な結びつきをより一層強めようと努力し、1970年代、日本は、シンガポールへの最大の投資国であり、シンガポールの最大の貿易相手国となりました。

その後も、リークアンユーは一貫して、親日政策をすすめ、日本からの投資や観光客誘致につとめました。

このような経緯をへて、シンガポールには次第に親日的な雰囲気が育ち、戦争を知らない世代が増えた1980年代以降には、アニメやゲームといった日本のポップカルチャーが、若者を中心に受容されるようになっていきました。

「華人国家」の宣言

1980年代のアジアの急速な経済成長は、リークアンユーの視線を欧米からアジアへと転換させました。

1986年には政府主導により、華人団体を結集させ、「シンガポール華人団体総連合会」が結成されました。

また、中国の改革開放が進展するにつれて、華人資本による中国への投資が活発化し、収益を上げるようになると、シンガポール政府もこれを利用し、華人資本による海外投資政策を展開するようになっていきました。

こうした姿勢は、これまでタブーであったシンガポールが「華人国家」であることの宣言であるともいえます。

発展する中華圏や東南アジアの華僑ネットワークをシンガポールの発展のために活用しようという、リークアンユーの実利主義・実用主義的な政治姿勢を反映したものでしょう。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユーの外交戦略」にてお伝えしています。

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首相辞任後のリークアンユーとシンガポール

首相辞任と上級相就任

1990年11月26日、リークアンユーは首相を辞任します。

翌日、ゴーチョクトンが後継の首相として就任しました。

リークアンユーは新設された「上級相」に就任して、閣内で影響力を行使しました。

いったんは自由化路線を示したゴーチョクトン政権ではありましたが、これまでの権威主義的政治を志向するリークアンユー上級相の指導もあり、人民行動党の権力を現状維持する方向へと舵が切られ、シンガポールの政治的自由化はのちの課題として先送りされました。

長男・リーシェンロンの首相就任

2004年8月12日には、第2代首相のゴーチョクトンが退任し、リークアンユーの長男で、副首相であったリーシェンロンが首相に就任しました。

リークアンユーは、このとき新設された「顧問相」に就任し、上級相に就任したゴー前首相とともに、ひきつづきシンガポールの政治運営の監督役として、閣内にとどまりました。

リーシェンロンは、これまでの成長一辺倒から「ゆとり」を重視するという路線転換について語りつつも、父親譲りの権威主義的な政治姿勢は維持しました。

時代の変化と政界引退

2001年と2006年の選挙でも人民行動党が圧勝し、野党の議席はわずかにとどまりました。

しかし、2011年の選挙では、野党の労働者党が過去最高の6議席を獲得するにいたりました。

敗因のひとつとなったのが、選挙期間中にリークアンユーが、野党候補を選んだ選挙区はその後の5年間後悔することになる、という発言をしたことに対するインターネット上の批判的な反応でした。

こういった発言は、かつてであれば選挙民に対する威嚇として通用した手法でしたが、インターネットが選挙の流れを変える21世紀の選挙ではマイナスにはたらきました。

2011年5月14日、リークアンユーは、選挙結果をうけて、88歳で政界引退を表明しました。

さらに詳しく知りたい方は「首相辞任後のリークアンユーとシンガポール」にてお伝えしています。

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リークアンユーが見た21世紀の世界

豊富な知識とすぐれた分析力

リークアンユーによる国際情勢分析は、各国のリーダーたちも教えを請うほど、示唆に富んだものでした。

ここでは、晩年に21世紀の中国、アメリカ、インドについて語ったものを中心に、簡単にご紹介したいと思います。

21世紀の中国

リークアンユーは、中国のもつ潜在的可能性について率直に評価し、「そんな国が、アジアで、そしてやがては世界でナンバーワン国家になる野心をもたないわけがない」とつけ加えます。

しかし、それは軍事力によるものではないだろうと予測しています。

なぜなら、中国が市場システムへと移行し、体制を確立するには平和と安定が必要で、アメリカと軍事力で競争すれば国が疲弊してしまうことは、中国もわかっている、と言うのです。

「中国が重要視するのは、自分たちの影響力を、経済を通じて広げることだ」と明言し、この流れが不可逆的なものであることを指摘します。

しかしながら、そのような中国の発展にも障害があることも同時に指摘しています。

テクノロジーの発展による情報化社会の進展は、国民への管理・監視体制を維持することを困難にし、これまでの統治制度を時代遅れのものにしてしまっている、と言います。

これらの問題を克服するには、従来の治安政策を維持しつつも「地方や都市の権限を増やし、市民の権利を増やして手綱を緩めるという現実的な方法で改革していけば、国を保つことができるだろう」と提言します。

そして、中国発展の最大かつ致命的な問題は「腐敗」だと指摘します。

リークアンユーは、習近平に会った印象を、「胸襟や視野が広く、問題の本質を見極める能力に長け」た「ネルソン・マンデラ級の人物」と称賛していますが、腐敗の根絶に取り組む習近平への期待のあらわれではないかと思われます。

21世紀のアメリカ

リークアンユーは、アメリカ経済やアメリカの社会が衰退していくようなことは絶対にないと考えていました。

アメリカの移民を受容する風土と、優秀な人材の共通言語としての英語を用いる社会という「強み」が、アメリカが、スーパーパワーを維持できる理由だといいます。

台頭してきた中国と対比したとき、アメリカがもつ有利さは、「英語という世界言語」と「移民を受け入れる風土」であり、これにたいして中国は、中国語と中国文化という「大きな壁」を乗り越えるのが難しいと語ります。

かくして、リークアンユーは少なくとも21世紀はじめの数十年のあいだは、アメリカの覇権は継続すると考えていたのです。

一方で、アメリカ流「大衆民主主義」の大衆迎合性を厳しく批判しています。

リークアンユーは、アメリカの民主主義は万能ではなく、とくにアジアの発展途上国には強力な政治体制が必要なので、アジア諸国にアメリカ型民主主義を強要すべきでなく、それがアメリカ自身の利益にもなる、と主張しました。

21世紀のインド

リークアンユーは、インド台頭の可能性については否定的でした。

中央と地方をまたぐ、きわめて複雑に入り組んだ制度や行政システムの改革をこばむ官僚の存在、宗教対立、汚職、ポピュリズムによる政治の不安定などがその理由で、そのためにインフラの整備が遅れ、財政赤字も積み重なって、さらに投資や雇用の障害となっている、というのです。

その背景には、カースト制度、そして、他民族で共通言語をもたない、ということがある、と考えていました。

一方で、リークアンユーは、「インドには国際政治の中で、できるだけはやく経済大国として台頭してほしい」と述べています。

アジアの没落を防ぐためには、アジアでのインドのプレゼンスが不可欠だといい、成長したインドが地域の安定に積極的に関与することを期待しています。

とくに、アメリカがアジアでのヘゲモニーを失ってしまう可能性を考えた場合には、将来的にインドがその空白を埋める役割をすべきであると、考えたのでした。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユーが見た21世紀の世界」にてお伝えしています。

人生のすべてをシンガポールに捧げた「建国の父」リークアンユーの死

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「建国の父」の死

リークアンユー初代シンガポール首相は、2015年3月23日未明に91歳で死去しました。

シンガポールではこの「建国の父」の死に際し、1週間にわたり喪に服すこととなりました。

リークアンユーの国葬は3月29日、シンガポール国立大学の講堂で営まれ、日本をはじめインド、オーストラリア、韓国など23カ国の首脳らを含む2200人が参列し、シンガポール国民とともに「建国の父」の死を悼みました。

人民行動党の圧勝

リークアンユー死亡から半年後の2015年9月11日には、シンガポールで国会議員選挙が行なわれました。

選挙では、前回から2議席定員が増加していて、議席総数89議席のうち、人民行動党が83議席を獲得したのにたいして、最大野党の労働者党は6議席にとどまりました。

リーシェンロン首相は、選挙の翌日に記者会見を開き、勝利宣言を行ないました。

リークアンユー亡き後のシンガポール国民は、その路線の継承を選択したのでした。

さらに詳しく知りたい方は「リークアンユーが見た21世紀の世界」にてお伝えしています。

リークアンユーのまとめ

目を見張る経済成長

これまでシンガポールを建国し、成功に導いてきた政治指導者・リークアンユーの生涯と政治、思想、そしてリークアンユーによる未来の世界にむけた分析と提言をみてきました。

振り返ると、1959年にリークアンユーがイギリス領シンガポール州の首相に就任したとき、シンガポールの人口は200万人以下でした。

ところが、現在では600万人に達しつつあります。

そのなかには多くの外国人が含まれていて、彼らのような移民たちが、小さな島国であるシンガポールを東南アジアを代表する世界的な大国として成長させる原動力となりました。

また、シンガポールのGDPは1960年には10億ドル(約1192億円)未満でした。

しかしながら、2014年にいたって、3000億ドル(約35兆7000億円)にもなりました。

さらに、1960年時点では、一人あたりのGDPは427ドル(約5万円)だったのが、2013年には、一人あたり5万5000ドル(655万円)を超過しています。

これほどの短期間での目を見張る経済成長は、世界に類を見ないもので、シンガポールの誇りであると言えるでしょう。

これを一代で成し遂げたのが、リークアンユーでした。

リークアンユーは、さまざまな困難をすぐれた政治的判断で乗り切り、これほどまでの経済発展を実現した類まれなるリーダーなのです。

政治家リークアンユーの自画像

しかし、リークアンユーははじめから政治の世界に入ることを望んでいたわけではありませんでした。

晩年にリークアンユーは、つぎのように述べています。

 

政治の世界に入りたいと思っていたわけではない。法律家になって、いい暮らしをし、優秀な弁護士になりたかったのだが、当時の政治的な大変動のさなかにいたおかげで、この世界に放り込まれた。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユー個人の希望としては、ほんとうは、弁護士として成功したかったが、時代の荒波に飲まれて、政治家となった、と言っているのです。

しかし、リークアンユーは責任感をもって政治家としての勤めを果たそうと努力しました。

 

私には責任がある。私はこの国を発展させる責任を負わなければならない。私にできるのは、私が世を去るときには、この国の制度がうまく健全に、クリーンに効率よく機能するようにすることだけだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

リークアンユーは自己自身を分析して、つぎのように言っています。

 

自分の性格は、意志が強く、ぶれがなく、粘り強いと思っている。うまくいくまであきらめない。それだけだ。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

このようなリークアンユーの「うまくいくまであきらめない」という性格が、困難に直面しても粘り強く、解決策を見出してきたリークアンユーの政治家としての歩みに反映され、シンガポールを成功へと導いたのでしょう。

しかし、その一方で、熾烈な政敵との闘争や、経済成長のために厳しい態度をもって対処してきたことも事実です。

リークアンユー自身も、栄光ばかりでなく、このような陰の部分にたいして、決して無自覚であったわけではありませんでした。

リークアンユーは晩年に、このように語っています。

 

私がしたことがすべて正しいと言うつもりはないが、それらはすべて崇高な目的のためだった。棺のふたが閉まったら、判断してほしい。私の評価はそれからにしていただきたい。私が口を閉じるまでには、まだ愚かなことをしでかすだろうから。(『リー=クアンユー、世界を語る』)

 

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リークアンユーをいかに評価するのか

最後までお読みいただいたみなさんは、リークアンユーの「棺のふたが閉まった」今、リークアンユーという人物をどのように評価されますか?

そして、リークアンユーが築き上げたシンガポールという国の未来をどのように考えますか?

さまざまな評価が可能でしょう。

しかし、これだけは確実です。

今日のようなシンガポールの発展が実現できたのは、シンガポールのリーダーとして人生を駆け抜けた、リークアンユーという一人の人間がいたから、です。

これからも、リークアンユーはどこかで、みずからが建国し、発展させた祖国・シンガポールを、そして、そのシンガポールのリーダーとして向かい合い、ときには渡り合ってきた東南アジアを、アメリカを、中国を、インドを、中東を、日本を、そして世界を、見守り続けることでしょう。

 

下記はリークアンユー氏に関する記事の一覧です。

リークアンユーのあゆみ【完全ダイジェスト版】 約1万7千文字 今回の記事

シンガポール建国の父、リークアンユー:その生涯と政治・思想 約13万文字

リークアンユー登場までのシンガポールの歴史と社会

リークアンユーの歩み:誕生から首相就任まで

リークアンユーの政権獲得と政治闘争

リークアンユーの国づくり:独立国家・シンガポールの国家運営

リークアンユーの外交戦略

首相辞任後のリークアンユーとシンガポール

リークアンユーが見た21世紀の世界

人生のすべてをシンガポールに捧げた「建国の父」リークアンユーの死

 

 

(主要参考文献)

秋田茂『イギリス帝国の歴史:アジアから考える』中公新書

岩崎育夫『リー・クアンユー:西洋とアジアのはざまで』岩波書店

岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史:エリート開発主義国家の200年』中公新書

桐山昇・栗原浩英・根元敬『東南アジアの歴史:人・物・文化の交流史』有斐閣アルマ

小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書

佐々木雄太・木畑洋一 編『イギリス外交史』有斐閣アルマ

田村慶子『多民族国家シンガポールの政治と言語:「消滅」した南洋大学の25年』明石書店

田村慶子 編著『シンガポールを知るための65章[第3版]』明石書店

田村慶子・本田智津絵『シンガポール謎解き散歩』KADOKAWA

林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書

リー=クアンユー『リー・クアンユー、世界を語る』サンマーク出版

Edited by Gillian Koh, Ooi Giok Ling,“State-Society Relations in Singapore”,Oxford University Press

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