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リークアンユー登場までのシンガポールの歴史と社会

リークアンユー   705 Views
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「現代シンガポールの父」登場以前のシンガポール

古代のシンガポール

シンガポールは古く3世紀の文献に登場する、歴史のある場所です。

7世紀ごろには古代インドネシアに繁栄したシュリーヴィジャヤ王国の勢力下にあり、14世紀には、シュリーヴィジャヤ王国が没落してのち登場したマジャパヒト王国の支配下にあって、すでにシンガポールは貿易の場として利用されるようになっていました。

そして、マジャパヒト王国につづくマラッカ王国のもとでも貿易の場として栄えました。

大航海時代とシンガポール

その後、いわゆる大航海時代になると、ヨーロッパ人はアジアをめざして海に乗り出し、次々とアジア諸国に進出をはじめました。

そのようななか、16世紀にはヨーロッパからインドへの航路をいち早く切り開いたポルトガル人による攻撃を受けて破壊され、貿易港として栄えていたシンガポールは荒廃してしまいました。

つづいて17世紀にはポルトガルの勢力をマレー半島・マラッカ海域から駆逐したオランダ人によって支配されましたが、オランダはシンガポールを復興させることなく、ほとんど放置したままでした。

ラッフルズの上陸とイギリスによる植民地化

このようなシンガポールが欧米をふくむ全世界から注目されるようになるのは、イギリス東インド会社のラッフルズがシンガポールに上陸し、イギリスによる植民地支配がはじまる19世紀以降でした。

ポルトガルによる攻撃によって荒廃していた当時のシンガポールには、かつて港湾都市として繁栄していた面影はありませんでした。

ラッフルズはこの地が貿易の拠点としてもつ地理的優位性に着目し、在地の王(スルタン)と交渉してイギリスの植民地としました。

以降、ラッフルズは自由貿易港としてシンガポールの発展を促しました。

今日のような「国際都市シンガポール」のスタート地点となっているのがこの時期です。

イギリス植民地支配下のシンガポールとその後

その後、イギリスの植民地支配のもとで中継貿易港として栄えたシンガポールには、さまざまな民族の移民が集まり、シンガポールは都市として大いに発展しました。

その後のシンガポールの歴史はイギリスによる強圧的な植民地支配や第2次世界大戦における日本軍による過酷な占領など、紆余曲折がありました。そして、イギリスからの独立を勝ち取ったのちもマレーシア連邦からの脱退を余儀なくされ、独自の発展の道を探し続けねばなりませんでした。

そのような時代の中で、リークアンユーは歴史の舞台に登場しました。

イギリス統治下における多民族社会の形成

急増する移民

リー=クアンユーの出生および成長の過程を理解するためには、その背景にあるシンガポールの多民族社会における彼の立ち位置のついて知っておく必要があります。

ここではまず、シンガポールに多民族社会が形成されていくプロセスについてお話しします。

シンガポールに今日のような「モザイク社会」と呼ばれる複数の民族・言語・宗教が併存する多民族社会が形成されていったのは19世紀以降のイギリス統治時代のことでした。

イギリスによってシンガポールが植民地統治されていた19世紀、マレー半島ではすず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションの開発がすすみ、ラッフルズ以来の自由貿易政策が功を奏して港湾が急激に発展し、これらではたらく多くの労働者たちがシンガポールに居住するようになりました。

あるいは貿易商や植民地統治機構の行政官吏としてシンガポールに移民する人たちも急増しました。

こうして、マレー半島から移って来たマレー人をはじめとして、主として中国南部の福建省や広東省、潮州、海南島といった地域から移住して来た中国人、主に南インドのタミル語圏から移ってきたインド人、そして現在のインドネシアなどからの人びとなど多くの民族が移民としてシンガポールへやって来たのです。

また、植民地官吏や貿易商としてイギリス人をはじめとするヨーロッパ人もやって来ました。

記録によると、ラッフルズがやって来た頃のシンガポールには一部の地域にわずかな漁民や海賊がいただけで、ほとんど人は住んでいませんでした。

したがって、これらの19世紀以降に移民としてシンガポールにやって来て定着したマレー人・中国人・インド人そしてヨーロッパ系のユーラシア人といったさまざまなルーツをもつ人びとの子孫が現在のシンガポール社会を構成しているのです。

ラッフルズ以来の発展が今日のような多民族国家としてのシンガポールの成長基盤となった、といえるでしょう。

民族別の棲み分け

シンガポール獲得以来、イギリスによるシンガポール統治に深く関与することとなったラッフルズはマレー人・中国人・インド人といったアジア系移民に対して、民族によって居住地を割り当てるという民族別の棲み分け政策を行ないました。

これによって、相互に関わりあうことで発生するかも知れない民族間の対立を未然に防止したのです。

さらには民族を超えて交流することによってアジア系住民たちのイギリスによる植民地支配への不満が1つになることを防ごうという狙いもありました。

こうして、植民地期のシンガポールでは民族や言語、宗教によって分かれた社会が形成されていったのです。

マレー人は母語であるマレー語で、イスラム教徒として生活していました。

あるいは、中国系の住民たちは中国におけるそれぞれの出身地方の中国語方言を話しながら仏教あるいは道教を信仰していました。

また、インド人はタミル語を話しつつ、ヒンドゥー教を信仰しながら暮らしていました。

このように、植民地期のシンガポール社会には大きく3つの民族・信仰社会が併存し、それぞれがあまり関わることなく民族別に分かれて、それぞれ特色あるコミュニティを形成していったのです。

中国系移民の増加

シンガポールにおいてはじめて人口統計が実施されたのは1824年のことでした。その統計の結果によると、マレー人が60.2%で最も多く、ついで中国人が31.0%、インド人が7.1%という構成になっていました。

この時のシンガポールはマレー人が多数を占める社会だったのです。

ところが、19世紀半ばになるとこのようなマレー人がマジョリティの状況に大きな変化が訪れます。

このころ、中国南部において人口が過剰な状態となっており、その人口が近隣の東南アジアをはじめとした海外へと移動していました。

その影響はシンガポールにもおよび、福建省および広東省など中国南部地域から、大量の中国人移民がシンガポールに移住してきたのでした。

このような事情から、1840年にいたって中国人がシンガポールの人口が過半数を超えるようになりました。

その後も中国人移民の流入は継続し、1910年に突入すると中国人がシンガポール人口に占める割合が72.1%と圧倒的な比率を占めるようになりました。

ついでマレー人が16.0%、インド人が8.0%などとなり、ほぼこのような割合で中国系住民が多数を占める人口構成が今日まで続いています。

統計にみるシンガポール移民の実態

ここで少し視点を変えて、統計にあらわれたシンガポール住民の民族別男女比率から人口構成をみてみると、この時代のシンガポール移民の実態がみえてきます。

当時、移民のほとんどが男性による出稼ぎであり、彼らは港湾における荷役などの肉体労働に従事することがほとんどでした。

このために、とくに初期は各民族とも男性比率が非常に高い人口構成となっていました。

とりわけ中国人やインド人は男性比率が高い傾向が強くみられます。

具体的には、1860年の時点における中国人の男女比率は14:1で民族別の統計ではもっとも男性比率が高くなっていました。

また同時期、インド人は8:1とやはり男性の比率が極端に高くなっていました。

時がたつにつれ、このような極端な傾向は徐々に解消してゆきましたが、とは言うものの1901年になっても中国人住民の男女比は4:1となっており、やはり男性が多数を占める社会でした。

中国やインドからの移民は男性による肉体労働者が中心であったことがうかがえると同時に、妻をはじめとした家族の女性構成員をともなって本格的に定住するというよりは、男性だけが出稼ぎをして、その後、故郷に戻る、という志向がつよかったということが、これらの統計から読み解くことができます。

中国系移民による出身地別コミュニティの形成

これまでみたように、シンガポールにやって来た移民は中国人の比率が高かったのですが、ラッフルズは単に中国人を集住させるのではなく、さらに彼らの中国における出身地ごとに居住地を分けました。

そして、同郷人によるコミニュティを形成して暮らすようにさせたのです。

この時代の中国系住民にあっては学校教育が普及しておらず、そのほとんどが中国語の標準語としての北京語=華語を話せませんでした。

さらに彼らの多くは学校教育を受けておらず、読み書きが満足にできない非識字者も多くいたために筆談さえもできませんでした。

このため、同じ中国系住民同士といっても出身地が違えば方言が大きく異なっており、お互いが何を言っているのかもわからないことが多くありました。

すなわち、日常の簡単な意思の疎通さえもがままならず、出身地による言語の違いによって、分離された状況だったのです。

しかし、このようなイギリス植民地当局の中国系住民に対する出身地別の棲み分け・分離政策は決して当事者たちを苦しめる方向に作用したわけではありませんでした。

むしろ、このような彼ら中国系住民にとっても、同郷出身者がまとまって住むメリットは十分にあったのでした。

コミュニティの内部では故郷の方言のみでの生活が可能でした。

そのため、母語以外の言語を習得することなく体ひとつで移民しても、すぐに現地のコミュニティに入り込んで職探しをすることができました。

また、中国系住民は出身地ごとに「幇(バン)」と呼ばれる人的結合を形成しました。

そして、その法人組織としての「会館」を設立していきました。

現在でも福建省出身者の福建会館、潮州人たちの義安公司、李氏公会などの華人団体が活動を継続しています。

こうして、同郷人による相互扶助のための組織を作って団結していたのです。

これらの組織は同じ地方の出身者があらたに移民してきた際に世話をしたり、学校や病院を作るなどの事業を行なうことによって、中国人移民の職業・教育・福利厚生における支えとなって大きな役割を果たしました。

また、こうした組織があることで、中国からさらに多くの移民がやってくることを促すようにもなったのです。

ここで、中国人の出身地域について、統計資料をみてみましょう。

1935年の統計によると、最も多いのが福建語を話す福建人で彼らが中国系住民の43.0%を占めていました。

ついで広東語を話す広東人が22.5%、潮州語を話す潮州人が19.7%、海南語を話す海南人が4.7%、客家語を話す客家人が4.6%となっていました。

分裂した社会

このように、同じ民族内部でさらに出身地に分かれて社会を形成していたのは中国人だけではありませんでした。

マレー人たちもまた、出身地によって分かれて社会を形成していたのです。

すなわち、マレー人の中にもインドネシア出身のジャワ民族が存在していました。

彼らはマレー系民族ではあるものの、使用言語が違っていたため、独立した民族社会を形成したのです。

また、インドは非常に広大な国ですので、そこには多くの言語が存在しています。

そのため、インド人たちもまた、タミール語を話すタミール人、ヒンディー語やベンガル語を使用する地域出身者などに分かれて、それぞれの社会を形成していました。

以上のように、イギリス植民地統治下のシンガポールにおいては、民族・宗教による分断の上に、さらに出身地によって分裂して多くの別個の社会が形成されました。

そして、それぞれの社会間にはあまり交流はなく、「シンガポール人」という共通のアイデンティティよりもそれぞれの分裂した社会の一員という意識が育ちました。

そして、各地域にはそれぞれの出身地がそのままシンガポールに再現したような空間が形作られていました。

英語派と華語派:中国系移民の2つのアイデンティティ

「錦衣環郷」「落葉帰根」

これまでみてきたように、中国からシンガポールに来た移民たちは出身地別に社会を形成していましたが、20世紀にはいると、彼らのなかに出身地の違いをこえて大きく2つの政治的志向をもつ集団が生まれてきました。

もともと、彼らには「錦衣環郷」「落葉帰根」といった言葉がありました。

他所で活躍しても最後にはもともといた故郷に帰る、ということです。

このような志向のもと、中国系住民たちの多くはシンガポールを一時的な出稼ぎの場所であると考えていたことは、すでに言及したとおりです。

ですので、そのような考えからは、そもそもシンガポールに対する政治的関心は生まれるはずがないのも当然と言えるでしょう。

こういった傾向はイギリス植民地当局によってシンガポール住民たちによる政治活動が禁じられていたこともあって、さらに拍車がかかりました。

以上のような背景から、中国系住民が政治的関心を抱いたのはシンガポールではなく、別の場所だったのです。その1つは中国で、もう1つはイギリスでした。

中国への政治的志向

中国への政治的志向が強まる契機となった歴史的事件として、中国で1911年に起こった辛亥革命の勃発がありました。

満州民族の王朝である清の支配に反抗して孫文らを中心とした革命派の漢民族が蜂起して清朝皇帝・溥儀を退位させ漢民族を中心とする共和制国家の建設をはじめたこの革命は、シンガポールに住む中国人たちにも大きな衝撃を与え、彼らに漢民族としての民族主義的な意識を覚醒・高揚させました。

そして、孫文をはじめとした辛亥革命の指導者たちの思想に共鳴した人々は、シンガポールにも国民党を結成し活動をはじめたのです。

抗日運動と愛国華僑

こうして中国系住民のあいだに民族主義が高揚するなか1915年に日本が中華民国政府に対して中国における日本の権益拡大を求める「二一ヶ条要求」をつきつけたことは、さらにシンガポールの中国系住民たちの民族意識に火をつけることとなりました。

この日本の要求に抗議して、彼らは中国での抗議運動の動向に呼応しつつシンガポールで日本製品のボイコットを行ないました。

また、1919年に中国で「五四運動」が発生すると、シンガポールに住む彼らも、これまでも行なっていた日本製品に対するボイコット運動をさらに強化したり、日本商品の置かれた商店を襲撃するなどして、中国での動きにリンクした運動を展開しました。

さらに1930年代になると、日本は1932年に「満洲国」を建国し、1937年には中国との全面戦争に突入しました。

これに対し中国では反発が起こり、中国国内ではこれに対抗するために抗日運動や抗日武装闘争が繰り広げられました。

シンガポールでも、このような中国での動きに連帯しながら、日本商品に対するボイコット運動が頂点に達していきました。

これによって、日本人が経営する商店・病院・理髪店の利用拒否や、日本商品を扱う商店に立ち入ること自体を止める運動などが展開されたのです。

以上のような運動を行なった華人たちは「愛国華僑」と呼ばれました。その代表的存在である富豪・タン=カーキーはこのようなシンガポールの中国系住民を組織化するとともに、中国に対して巨額の資金援助を行ないました。

このようなシンガポールの中国系住民による運動は、大陸で戦争をすすめる日本軍にとっては非常に悩ましいものであり、のちにシンガポールを日本軍が占領した際に、中国系住民(華人)がまず弾圧された背景にもなりました。

イギリスを志向する「海峡集団」

一方で、イギリスを志向する中国系住民もいました。

20世紀にはいるとシンガポールで生まれた移民の2世・3世が次第に増加していました。

1世たちがやがては故郷に帰ることを思いながら民族別・出身地別のコミュニティで生活していたのとは異なり、これらの新しい世代は、民族や宗教をこえて「シンガポール生まれ」あるいは「海峡生まれ」というアイデンティティを共有するようになっていったのでした。

従来の移民としてやってきた「移民集団」に対して、彼らを「海峡集団」といいます。

これまでの民族や出身地・宗教などによる分化に加え、それぞれの分化した社会においてさらに「移民集団」と「海峡集団」という分化がもたらされたことで、シンガポールはより複雑なアイデンティティをもつ人びとで構成される「モザイク社会」となっていきました。

これらの中国系住民は、母国・中国への帰属意識よりもシンガポールでの成功を考えるようになっていきました。

そして、そのために重要なものは、シンガポールの宗主国であるイギリスの言語である英語による教育を受けることだと考えました。

こうして彼らはみずからのアイデンティティを祖先がいたみずからのルーツ・中国ではなく、宗主国であるイギリスに求めるようになります。

クィーンズ・チャイニーズ

このような中国人たちは「クィーンズ・チャイニーズ」と呼ばれるようになっていきました。

このような人々はシンガポール国内における英語による教育や、イギリスへの留学などをつうじて、イギリス式の教育を受けました。

そして、シンガポールにあってイギリス植民地政府の下級官吏や医師、弁護士、技術者、外資系事務職員など、比較的高収入で社会的地位の高い職業に従事するようになりました。

後述しますが、リークアンユーもまた、このようなイギリスを志向する中国系住民に属する家系に生まれました。

彼らのイギリスへの帰属意識をイギリスもまた積極的に活用していきます。

「クィーンズ・チャイニーズ」であるリム=ブーンケンを指導者として、1900年に海峡華英協会が設立されました。

この協会では住民の福祉問題とともに、シンガポール社会におけるイギリスへの関心を高め、シンガポールに親英的な勢力を育成するることなどが議論されました。

加えて第1次世界大戦の際には海峡華英協会が戦闘機53機をイギリスに献納し、ヨーロッパ戦線を助けるため、シンガポールの防衛をイギリス人に代わって志願する志願兵部隊も組織するなど、シンガポールにおいてイギリスの世界支配を助ける勢力、いうなれば「大英帝国の応援団」として活動しました。

「華語派華人」と「英語派華人」

20世紀になって登場した、これら2つの志向をもった中国系住民=華人の集団は、それぞれの教育言語に対応させて、前者を「華語派華人」、後者を「英語派華人」と呼ぶようになりました。

これら2つの集団が、のちにシンガポールの独立運動の担い手となっていくことになります。

しかしながら、両者は使用する言語や教育、政治性が相当に異なっていました。同じ出身集団に属する兄弟と、教育言語が異なる人物の回顧録には次のような記述があります。

中国志向の私は、主として英語(による)教育を受けた兄弟との議論に熱をあげた。兄弟たちは、「ぼくたちの国は英国だ」とよくいった。すると私は「ぼくの国は中国だ」と言い返した。(『南洋華人』1987年)

彼は中国語による教育を受けたが、ほかの兄弟は英語で教育を受けていた、というケースですが、ここにみられるように、兄弟のあいだでさえ、教育言語によってアイデンティティや政治的・社会的意識に大きな差異が生じていたのです。

また、この兄弟においてもそうであるように、彼らはシンガポールそのものではなく、一方は血統的なルーツである中国に、もう一方は宗主国であったイギリスにアイデンティティを感じていたので、独立運動の基盤となるナショナリズムはこの時期には育っていませんでした。

ナショナリズムの未成熟

リークアンユーは当時の自分たちの考えについて、のちに以下のように回顧しています。

我々には白人に対する恨みなどの問題はまったくなかった。政府や社会における英国人の優越的な地位は単なる世の中の事実だったにすぎない。

英国人は結局のところ世界で最も偉大な人たちだったのである。彼らは史上最大の帝国を築き上げ、領土は四つの海と五つの大陸にまたがっていた。我々はこれを学校で歴史の授業で学んだ。

英国人はシンガポールを統治するために定期的に交代する数百人の兵士を配備するだけで十分だった。(以上、すべて『回顧録』)

このように、リークアンユーによれば当時のシンガポールに人々は「白人に対する恨みなど」はなく、シンガポールにおいてイギリス人が優位にあったことも「世の中の事実だったにすぎな」かったというのです。

リークアンユーは学校で学んだ内容からもイギリス人は「世界で最も偉大な人たち」であると考えるようになったのでした。

このような状況だったので、イギリスはとくに強大な軍事力をシンガポール統治のために配備する必要がなかった、と言っています。

さらに、リークアンユーは次のようにも言っています。

私は両親や祖父から英国の優越性を前提にした社会を自然のこととして受け入れるような教育を受けて育った。

私の記憶では、言葉であろうと行勤であろうと、白人の優越性に疑問を差しはさんだ現地人はいない。英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、敢然と闘う人はいなかった。(『回顧録』)

つまり、当時のリークアンユーにとってイギリスによる植民地支配とその社会システムは「自然のこと」であり、「英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、敢然と闘う人はいなかった」のです。

これは英語教育を受けた人たちの話ですが、のちにこの集団から独立を目指す勢力が育ったことを考えると、この当時の意識がその後のそれとはまったく異なるものであったことが分かります。

2つのアイデンティティをもつ中国系住民が「シンガポール」という国家をを形成するために協力するには、日本軍による過酷な占領をへてリークアンユーの巧妙な政治的戦略の登場をまたねばならなかったのです。

 

下記はリークアンユー氏に関する記事の一覧です。

リークアンユーのあゆみ【完全ダイジェスト版】 約1万7千文字 

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