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リークアンユーの歩み:誕生から首相就任まで

リークアンユー   542 Views

Contents

リークアンユーの誕生と生育環境

リークアンユーの誕生

リークアンユーは1923年9月16日、シンガポール市内の中心から少し北部のカンポンジャワ・ロード92番地で生まれました。

現在は閑静な住宅地となっているエリアです。

父親はリーチンクーンで当時20歳、母親はチユアジンニオで当時16歳で、この2人の長男として誕生しました。

民族的には中国系移民で、リークアンユーはその4世にあたります。

そしてそのなかでも高い教育を受けた「海峡華人」と呼ばれるひと握りのエリート層に属します。

リークアンユーの家系と家族

彼の生育環境を知っておくために、まずリークアンユーの家系と家族について具体的にみておきましょう。

曽祖父であるリーボクブーンは19世紀の中葉に中国客家地方からシンガポールに移民しました。

彼は多くの1世たちが望んだように晩年には中国に戻ったと言われています。

祖父のリーフンロン(1873~1942?)は英語教育を受けた英語派華人で、インドネシア華僑であるコーリェムニオと結婚して、インドネシアの有力華僑であるゴーチュイコク所有の海運会社でシンガポール社役員として勤務しました。

父親のチンクーンは1903年生まれで、英語中学を卒業してからシェル石油で30年のあいだ勤務し、退職してから宝石店店員として働きました。

母親であるチユアジンニオは1907年生まれで、「ニョニャ料理」(中国料理とマレー料理を融合させたシンガポールの料理)の専門家として有名な人物でした。

さらに、父親の姉、つまりリークアンユーの伯母であるリーチューニオは国内で英語教育を受けたのち、エドワード7世医科大学を卒業し、シンガポール初の女性開業医となった人物です。

長男であるリークアンユーには4人の弟と1人の妹がいます。

次男のリーキムユーは第二次大戦後に弁護士として兄のリークアンユーとともに活動しました。

そののち、外資系企業や華人系の企業、政府系の企業といった複数の大企業で会長や取締役に就任し、経営手腕を発揮しました。

三男はリーティアムユーで、警察官として勤務したのち、証券会社役員となりました。

四男のリーシィエンユーは医師でした。妹のリーキムモンは華人実業家と結婚しています。

以上のように、リークアンユーの一族は英語教育を受け、専門的職業につく、シンガポールのエリート一家だったのです。

子供時代のリークアンユーの言語環境

リークアンユーの回想によると、「アマー」と呼ばれる家政婦が広東語を話すほかは家族みな英語とマレー語で話していたといいます。

つまり、民族的ルーツは中国ではあるものの、英語教育を受けるとともに、中国ではなくマレー半島に現地化した生活をする裕福でエリートに囲まれた家庭環境で育った、というわけです。

しかしながら、リークアンユーが通った幼稚園では中国語による教育が行なわれていました。

そのような幼稚園に通うこととなったのは、母方の祖母の要望によるものでした。

すなわち、中国人であるからには、中国の歴史・文化を身につけるべきだと祖母が主張したからなのです。

ここでリークアンユーは中国古典の有名な文句の暗唱や書道を学ぶなどしました。

さらに小学校入学後も午後に自宅で中国語を勉強しました。ところが、徐々に面倒になってやめてしまったといいます。

こうして、英語を話す華人(英語派華人)の家系に生まれたリークアンユーは、英語教育を継続して受けることとなりました。祖父・リーフンロンからは、クアンユーという中国式の名前(華名)とともに、Harry(ハリー)という英語名もつけられ、家族や友人からは「クアンユー」ではなく、“ハリー”と呼ばれていたといいます。

リークアンユーは結局、幼少期の学習の甲斐無く中国語を習得することができませんでした。

このため、少年時代のリークアンユーには中国人の友人はほとんどいませんでした。彼が一緒に遊んでいたのはマレー人の子どもたちで、中国語の方言である福建語が混じったマレー語で話していたといいます。

政治家になってリークアンユーは中国語を話すようになりますが、これは彼が中国系であるから自然と習得できた、というものではなく、英語を理解できないシンガポールの華語系華人たちに自己の政治的立場を語りかけ、支持を訴えるために政治活動のかたわらで苦労して学習し習得した成果だったのです。

英語によるエリート教育

7歳になるとリークアンユーは英語教育を行なう初等教育機関のテロク・クラウ小学校に入学しました。

ここから英語派華人、そしてその中でもエリート層である「海峡華人」としてのリークアンユーの歩みがスタートします。

つづいて12歳の時にリークアンユーはシンガポールを代表するエリート校であるラッフルズ学院に入学して経済学、数学、英文学を専攻しました。

ラッフルズ学院ではのちに政治行動をともにすることになるゴーケンスイやホンスイセンといった海峡植民地出身の「海峡華人」青年たちと出会いました。

リークアンユーはここで突出して優秀な学生として評価を受けます。

すなわち、1939年にケンブリッジ上級試験を受け、その成績が受験者のなかでトップとなったのです。

その結果、シンガポールの名門・ラッフルズ大学の奨学金資格を獲得しました。この資格はシンガポールとマレーの学生に対して3年に一度、1人の学生にのみ授与されるものでした。

このことから、リークアンユーがいかに優れた成績を修めていたのかお分かりいただけるでしょう。

英語による教育の意義

リークアンユーがこの時までに受けてきた教育について、のちに次のように振り返っています。

 

自分はイギリスが統治するシンガポールで、中国人家庭の男系子孫として生まれた。一家の慣習や価値意識は中国的なものであったが、読んだ本に登場する英雄や敵役の人物像、学校で習ったのは英語とイギリス的なものだった(“Governing Singapore”, 1969年)

 

さらに、リークアンユーはこのような英語による教育について、

 

「英語教育を受けた人」というのは、たんに英語を話し、読み、書くことができる人という意味だけではなく……ある種のはっきりした特徴を身につけているのです。長所の第一は、同質である、ということです。第二は、基本的に自分たちのことを中国人、マレー人、あるいはインド人とは考えなくなっていることです。……英語教育を受けた人たちは、母語を話す自分の種族の大衆から分離しています(『政治哲学』上、1959年)

 

と、ほかの集団とは異なるアイデンティティをもった、独自の特徴をもつ集団を生み出すものであったと述べています。

そして、その特徴とは、民族を超えた「同質」な存在であるとともに、民族に分化した世界に生きる「大衆」とは異なる、「分離し」た存在ということでした。

リークアンユーはシンガポールでの英語による教育をつうじて、「中国人」というアイデンティティを離れて同じように英語教育を受ける他の民族と同質性を帯びた存在となり、同時に「大衆から分離」した、つまり従来の民族別に分化した社会のどこにも属することのできない存在となったのです。

そして、このような集団こそが、のちに従来の枠組みとしての民族別社会を超えて、シンガポールという国家を形成するグループを生み出していったのです。

戦争による大学の閉鎖

その後、ラッフルズ大学に入学したリークアンユーですが、その在学中であった1941年12月にアジア太平洋戦争が勃発しました。

シンガポールはほどなくして日本軍によって占領され、その混乱のなかで大学は閉鎖に追い込まれました。

イギリスの敗退と日本軍占領下での体験は、リー=クアンユーをはじめとするイギリス志向のシンガポール人の意識を徐々に宗主国イギリスではなく自らが生まれ育ったシンガポールへと転換させる契機となりました。

つぎに、そのような動きとリー=クアンユーの動静について、太平洋戦争期におけるシンガポール情勢とともにみてみましょう。

日本軍によるシンガポール攻撃

シンガポールの軍事拠点化

イギリスは19世紀以来、シンガポールの経済発展を進めてきました。

加えて、第1次世界大戦ののち、シンガポールをアジア太平洋地域におけるイギリス海軍の軍事拠点として重要視するようになりました。

1920年代になるとシンガポール島北岸に戦艦や駆逐艦を常備できるほどの大規模な海軍基地の建設がはじまりました。

こうして、1938年に造船ドックを擁する最新式の巨大なイギリス海軍基地ができたのです。

加えてシンガポール北部には飛行場を3ヶ所建設していました。

イギリスは、シンガポールをイギリスが領有する東南アジアの植民地の軍事的拠点と位置づけるようになり、15万人以上のイギリス海軍や陸軍部隊を駐留させ、要塞としていたのです。

シンガポールはイギリスの東南アジア・極東地域における自由貿易港であると同時に軍事拠点となったのでした。

仮想敵国・日本

このようなシンガポールの軍事要塞化において仮想敵国とされたのは日本でした。

かつて日英同盟によって日本とイギリスは同盟関係を結び、日本は1904年に勃発した日露戦争を有利に戦うことができました。

また、第1次大戦ではイギリスとの同盟関係を根拠として日本も参戦し、ヨーロッパ戦線に注力していたため手薄になっていた遼東半島にあったドイツの領土を戦うことなく占領しました。

その結果、日本は第1次世界大戦の戦勝国としての地位を獲得し、戦後成立した国際連盟では常任理事国となるなど、アジアにあって国際的な影響力を増してきていました。

第1次世界大戦後の国際秩序構築の過程で日英同盟は無効となりましたが、日英同盟を背景に台頭した日本の勢力、とりわけその軍事力は欧米帝国主義諸国にとって無視できない存在となっていました。

同盟関係を解消したイギリスにとってもそれは同じことで、次第に日本はイギリスの軍事的脅威となっていったのでした。

日本による大陸進出と戦争の拡大

1930年代になると満洲事変をおこし、武力による中国大陸進出をはかっていた日本は、イギリスを中心にして「満洲国」建国を非難する動きが国際連盟でおこると、国際連盟を脱退しました。

このような日本の中国での行動はやがて、第二次上海事変などによって中華民国との全面戦争である日中戦争に発展しました。

そして、おなじくイギリスと対立していたドイツやイタリアと接近して三国同盟を結びます。

こうして次第にイギリスやアメリカとの対立を激化させていた日本は、1941年12月8日についにイギリス・アメリカと交戦する太平洋戦争(日本側はこれを「大東亜戦争」=アジアを解放するための戦争、としました)を起こしました。

マレー作戦によるアジア太平洋戦争開戦

その戦争が始まったのはマレー半島でした(後述するとおり、真珠湾攻撃はこの直後に行なわれました)。ご承知のように、マレー半島の先端にあるのがシンガポールです。

日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端にあるコタ・バルに接近したのち、午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸して海岸線で英印軍と交戦しました。

これが「マレー作戦」です。

イギリス政府に対する宣戦布告を行なう前の奇襲によって太平洋戦争の戦端がマレー半島で開かれたのです。

これに続いて日本海軍航空隊はハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃を行ないました。

有名な「真珠湾攻撃」です。日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ現地時間では7日午前7時)に発進、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始され、これにより日本はアメリカとも交戦状態に突入しました。

日本軍にとってのシンガポール

シンガポールはイギリスの東アジア地域における軍事的拠点、すなわち日本にとってはもっとも自国に隣接したイギリスの最前線基地でした。

そして、これはすでに述べたように、日本を仮想敵国として建設・整備されたものでした。

マレーシアやインドネシアを日本軍が攻略するためには、シンガポールのイギリス軍基地は非常に邪魔な障害物だったのです。

さらに広い視野からみると、シンガポールの海軍基地はその南にあるイギリス連邦諸国のオーストラリアとニュージーランドを日本軍の侵攻から守るための役割を担うものでもありました。

このため、シンガポールを攻略・確保することは、アジア太平洋地域を制圧することをめざす日本軍にとっては避けることのできない重要課題となりました。

日本軍のマレー半島進撃

開戦当日の1941年12月8日、日本海軍はまず、イギリス軍航空機の拠点であったシンガポールの空港を爆撃して、シンガポール周辺の制空権を奪いました。

また、同年12月10日にはマレー半島東岸にあったイギリス海軍の軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈しました。

これにより、マレー半島周辺の制海権も日本軍が掌握することとなりました。

マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら凄まじい速さでマレー半島各地を占領しながら南下しました。

そして55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端でシンガポールの対岸に位置するジョホール・バル市に突入しました。

太平洋戦争においてシンガポールが本格的に戦闘に巻き込まれるのはこれからでした。

シンガポール攻撃

1942年1月末までに、日本軍はシンガポールを除くマレー半島全域を占領していて、シンガポールとはジョホール水道で面しているジョホール・バルーの王宮に日本軍の陣が設置された状態で、日本軍によるシンガポール攻撃がいつ起こってもおかしくないことは、誰が見ても明白なことでした。

日本軍は、1週間かけて対岸にあるシンガポールを攻撃する準備を整えていました。

こうして1942年2月7日、 シンガポールに駐留していた9万人のイギリス極東軍に対し、山下奉文中将が率いる12万人の日本軍による激しい攻撃がはじまりました。

この攻撃で、イギリス極東軍は苦しい戦いを余儀なくされました。

こうして日本軍がシンガポールに攻撃を開始して一週間ほどが経った1942年2月14日には日本軍がシンガポール島南端にある市街地を包囲します。

翌15日午前6時には、シンガポール駐留イギリス極東軍司令官であるのパーシバルのもとに、前線から戦況が芳しくないとの報告がはいりました。

貯水池はすでに日本軍に制圧されているため、24時間後にはイギリス軍の水はなくなり、さらに食糧保管庫も日本軍に押さえられているために48時間後には食糧も尽きてしまうこと、ガソリンも残り僅かで、対空砲の弾薬はほぼ使い果たしてしまった状態で、大砲が少し残るだけだったことなど、イギリス軍がこれ以上戦闘を継続するのは困難であることを示唆する報告をうけたのでした。

イギリス極東軍の無条件降伏

早朝からもたらされる不利な戦況についての情報に頭をかかえながら、窮地を打開する策を考えていたパーシバル司令官は午後9時半になって前線指揮官を召集して、今後の作戦会議を開きました。

会議に参加したヒース中佐は、すでに補給が絶たれているためイギリス軍の持久力が極端に低下していることから、司令官に降伏を進言しました。

同席したベネット中将らもヒースに賛成しました。

これ以上戦闘を継続すると、一般市民におびただしい死傷者が発生することにつながると考えたのです。

こうして、降伏はやむを得ないする意見が大勢を占めました。

パーシバル司令官は大いに悩みましたが打つ手はなく、結局は日本軍に降伏することにしました。

こうして、シンガポールに駐留していたイギリス極東軍は、日本軍に無条件降伏することとなりました。

約1週間続いた「シンガポールの戦い」は日本の勝利で幕を閉じ、日本によるシンガポール軍事占領がはじまりました。

日本軍による支配とシンガポール華僑虐殺事件

「昭南島」への改名と軍事占領のはじまり

シンガポールを軍事占領した日本は、名称をこれまでのイギリス式名称である「シンガポール」から日本風の「昭南島(しょうなんとう)」と改名しました。

これにともなって、シンガポール市は「昭南特別市」と改められ、日本による行政統治機関として昭南特別市政庁が設置されました。

こののち日本占領下においては、市政庁がシンガポール住民の日常生活を管理することになりました。

そして、昭南特別市の初代市長として、日本人内務官僚の大達茂雄が任命されました。

大達はのちに内務大臣をつとめた人物です。

その後、日本占領下のシンガポールには多くの日本人が官民問わず移り住むようになり、日本占領軍のもと日本人を支配民族とする過酷な軍政が敷かれることとなりました。

この厳しい占領期をシンガポールでは、その占領期間である「3年8ヶ月」という名称で呼んでいます。

華人のアイデンティティ

この「3年8ヶ月」の時代、日本占領軍によってもっとも過酷な支配を受けたのがリークアンユーもそのひとりである中国系住民(華人)たちでした。

この時代、シンガポールに住む華人の多くは、中国から移り住んだ移民一世やその子息である二世でした。

多くの中国系住民の家庭では福建語や潮州語、広東語といった出身地の中国語方言が話されていました。

また、彼らは中国語(華語)による学校教育を受けていて、中国系住民たちには自分たちは中国人であるというアイデンティティがありました。

中国系住民たちのなかでも、とりわけ中国語を生活・教育言語とする華語派華人たちは、イギリスによる植民地統治のもとでみずからの地位向上を実現するためには、祖国の後ろ盾が大切であると考えていました。

しかし現実の中国は内戦や列強の侵略で弱体化していたため、このような中国が強大な統一国家となるように支援することが重要であると考えていました。

すなわち、強大となった中国がイギリスに外交圧力を加えるようになれば、自分たち中国系住民の社会的地位も上昇することになるので、中国に対する侵略行為に対して抵抗することがみずからの生きる道であると考えていたのです。

このような信念のもと、さきほどお話ししたタン=カーキーのように、孫文らが指導する辛亥革命や蒋介石が指揮していた抗日戦争に積極的に資金を援助する華人もいたのでした。

華人を警戒する日本軍

このような事情から、シンガポールを軍事占領した日本軍は占領当初から華人を極度に警戒していました。

日本軍は、彼ら華語系華人たちを敵対する中国の蒋介石政権とつながった存在として考えていたのです。

そのため、蒋介石政権と中国系住民との関係を断たせることが占領軍の課題とされていました。実際、日本軍の占領政策のアウトラインをえがいた「実施要項」には

 

華僑に対しては、蒋政権より離反し、我が政策に協力同調せしむものとす

 

という占領下におけるシンガポールの華人に対する方針が明記されています。

一方の、イギリス式の英語教育を受けてきた英語派華人もまた、敵国であるイギリスに対して好意的であることから、英語を話してイギリスに協力する可能性のある、親英的な敵性勢力であるとみなしていきます。これはリークアンユーが属するグループです。

さらに、抗日マラヤ人民軍を組織し、マレー半島でゲリラ戦を展開して日本軍に抵抗していた共産主義団体・マラヤ共産党の構成員には多くの中国系住民が参加していました。

ロシア革命以降、世界的に共産主義思想が拡大していましたが、シンガポールやマレー半島にも祖国中国や宗主国イギリスではなく、共産主義にみずからの社会の行く末を託そうとする中国系住民の勢力が存在し、彼らもまた日本軍に抵抗していたのです。

抗日マラヤ人民軍は結成時には165人の小さな武装集団でしたが、徐々にその数を増やし、戦争終結時には1万人ものメンバーがいました。これもまた、日本軍が華人を敵視する理由となりました。

民族的序列の改変

以上のような理由から、日本軍は中国系住民をシンガポールにおける民族ヒエラルキーの最下位におき、厳しい弾圧をくわえました。

イギリス支配下において、アジア系民族のなかでは比較的優位にあった華人をそのように位置づけることは、これまでのシンガポール社会における民族的序列を改変するものでした。

華人に代わって占領下で優遇されたのはマレー人、ついてインド人でした。

華人に対する日本軍の敵対的方針の極限ともいえる事件が「シンガポール華僑虐殺事件」です。この事件についてみておきましょう。

掃蕩作戦命令の発令

シンガポールの軍政を統括する山下軍司令官は、河村少将をシンガポール警備司令官に任命しました。

そして、河村に2月18日の朝に、「抗日分子を一掃すべし」という「掃蕩作戦命令」をだしました。

これにより、シンガポール市内にいた中国系住民の成年男子を対象に数日分の食糧をもって集まるように、との命令が出されました。

そこで抗日分子を探し出し、即刻処刑することがその目的でした。

この命令は第二五軍参謀の辻政信中佐によって企画立案されるとともに、辻中佐自身が現場でその執行を指導しました。

「抗日分子」の分別

こうして、日本軍によって2月21日から23日までのあいだに、中国系住民の男子が市内5か所に集められました。

それは60万人を超える膨大な人数でした。

そして、義勇軍に入っていた者、銀行員、イギリス植民地政府の仕事をしていた者、シンガポールに来て五年未満の者などは手を挙げるように日本軍の兵士が迫ったのです。

そこで、手を挙げた者は掃蕩作戦命令だとされました。

また、警察機構を利用して、抗日的とみなされる者の摘発も行なわれました。

このような方法によって「抗日分子」とそうでない者が分別されました。

そうでない者は帰宅することを許されましたが、「抗日分子」として分別された中国系住民には恐ろしい末路が待っていました。

虐殺

トラックに載せられ、海岸や郊外のジャングルなどに連行され、そしてそこに大きな穴を掘らせたのちに機関銃で処刑されていったのです。

その被害者の数をめぐって、日本では5~6,000人とするのが一般的になっています。

一方で、4~5万人という説もあります。

このような大きな数字のへだたりは占領時の混乱した状況での出来事であったため、文献史料をもって実証することが難しくなっています。

そのため、なかなか真相を判断することができていません。ですが、少なくとも多くのシンガポールに住む中国系住民の命がこの虐殺で奪われたことは間違いありません。

日本軍占領下のリークアンユー

あらゆる職業に従事するリークアンユー

リークアンユーは著書『シンガポールの政治哲学』のなかで、「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と当時の様子を振り返っています。

この時期のリークアンユーについて具体的にみてみましょう。

大学が閉鎖されたことによって学業を中断せざるを得なくなったリークアンユーは、日本軍占領期、あらゆる職業に従事しています。

まず、祖父の友人の日本人が経営していた繊維会社でタイピストとして、1年半従事します。

また、日本軍の報道部でも働きます。

このとき、仕事に関連して日本語を独学で学びましたが、幼稚園時代に学んだ漢字の知識が役に立ったといいます。

ここでの仕事は、連合国側の国々のラジオを傍受して、受信状態が良くないために聞き取れない部分を推測しながら文書としてまとめる、というものでした。

リークアンユーは、この仕事で連合国側の情報に接していたので、日本軍が次第に不利な形勢になっていることを知っていました。

そのため、1年ほどして退職し、家族全員を連れてマレーシアにあるカメロン高原に避難しようとしていました。

しかし、この避難計画は報道部の同僚が密告したことによって憲兵隊に嫌疑をかけられたため実行できず、結局マレーシアにとどまりました。

タピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤を闇市で売ったり、住宅修理などの建設請負業で生計を立てたこともありました。

日本軍占領期の記憶

シンガポールにおける日本軍占領時代を振り返り、リークアンユーは次のように言います。

 

日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。(『回顧録』)

 

リークアンユーもまた、ほかのシンガポール人と同様に、日本軍占領時代を苦渋に満ちた時代であったと考え、日本の行動を「残忍で常軌を逸し、悪意に満ち」たものであったと感じていたことがわかります。

戦闘に参加した兵士たちが他の戦地に向かったのち、シンガポールの治安を担うことになった憲兵隊の過酷な取り締まりの様子についても、次のように『回顧録』に記しています。

 

新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間も座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。

 

日本軍はシンガポールに全面的な服従を求め、大半の市民はそれに従った。人々は日本軍を嫌っていたものの、日本軍が自分たちを押さえ込む力を持っていることを心得ており、迎合していたのである。こうした事態に素早く対応できなかったり不快感を持った人や、新しい支配者を受け入れなかった人はひどい目にあった。

 

日本軍政は恐怖心を広めることでシンガポールの人々を統制した。日本軍は、気高く振舞おうとの姿勢はまったく見せなかった。

 

リークアンユーが感じたシンガポール占領の実態は「気高く振舞おうとの姿勢はまったく」ない、過酷な懲罰を課して「恐怖心」で人びとを支配するものであったのでした。

リークアンユーのみた日本軍の「治安回復」と略奪

日本による占領が開始された当初には治安が混乱状態となり、強盗団が市内を跋扈する事態となりました。

強奪団を捕らえた憲兵隊は彼らの首をはね、シンガポール市内の随所にさらし首にすることで見せしめにし、その恐怖心によって治安を回復しようとしました。

これを目撃したことをリークアンユーは次のように振り返っています。

 

日本軍は略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点にみせしめにしたので終結した。日本軍は人々の心に恐怖心を植えつけたのである。

 

また、日本軍による略奪についても次のように記しています。

 

日本軍も略奪行為を働いた。日本の支配が始まった最初の数日間は、通りで万年筆や腕時計を持っていた人は日本兵にすぐに取り上げられた。兵士たちは公式の捜査で、あるいはそう装って家に押し入り、個人的に着服できるものを奪っていった。

 

自宅が日本軍宿舎に

そして、日本軍はリークアンユーの住んでいた家を一時、宿舎にしたことがありました。彼はそのことについて以下のように述べています。

 

日本軍下士官が数人の兵士とともに我が家にやってきた。・・・彼らは我が家を一時、宿舎にすることを決めたようだ。 これが私の悪夢の始まりだった。

 

私は衣類を洗濯せず、風呂にも入っていない日本兵が放つ吐き気がするにおいには我慢できなかった。彼らは室内や敷地を歩き回った。 彼らは食料を探しており、私の母が蓄えた予備食料を見つけ、食べたいものは食べてしまった。

 

私が日本兵の要求をすぐに理解できずにいると、怒鳴られ何度も平手打ちを食らった。

 

このように、リークアンユーは日本兵と同居することを余儀なくされ、彼の言葉を借りれば「悪夢」のような生活を送ったのです。

しかし、リークアンユーの「悪夢」はそれだけにとどまりませんでした。

虐殺現場からの脱出

検査所への集合と脱出

それはすでにお話しした「シンガポール華僑虐殺事件」でした。『回顧録』には集合させられた時の様子が次のように記されています。

 

日本軍は十八歳から五十歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため五ヵ所の検査所に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。

 

そして、リークアンユーもこの通達により検査所に集合させられました。

 

日本兵が我が家から立ち去ってまもなく、華人はすべて尋問を受けるためブサール通りの華人登録センターに集合するよう日本軍からの命令が来た。 近所の人が家族と一緒に出向くのを見て、私も行ったほうが賢明だと思った。家にいて憲兵隊に捕まると必ず罰があるからだ。

 

私はテオンクーと集合場所に向かった。人力車の運転手寮にあるテオンクーの部屋は鉄条網で囲まれた境界線の中にあった。数万人の華人家族が小さな一区画に押し込められていた。 すべてのチェック・ポイントでは憲兵隊が見張っていた。憲兵隊の周りには何人かの現地の人々や台湾人がいた。私は記憶していないが、彼らの多くが顔が分からないよう頭巾をかぶっていたとの話を聞いている。 テオンクーの部屋に一泊した後、私は思いきってチェック・ポイントから出ようとしたが、憲兵隊は外出を許可しなかったばかりか、中に集められていた華人青年グループに加わるよう指示したのである。 本能的に危険を感じた私は番兵に荷物を取りに部屋に戻る許可を求めるとそれは許可され、私はテオンクーの部屋で一日半を過ごした。 それからもう一度同じチェック・ポイントから出ようとすると、理由ははっきりしないけれども許可が出たのである。私は左の上腕とシャツの前部に消えないインクを使ったゴムのスタンプが押された。 漢字で「審査済み」のマークがあれば、私が当局のお墨付きをもらった証明だった。私はテオンクーと家まで歩いて帰った。私は本当に胸をなでおろした。 人間の命や生死に関わる決定がこんなに気まぐれに安易になされるとは、私にはとても理解できることではない。私はマレー半島作戦を計画した辻政信大佐による反逆者一掃作戦からかろうじて逃れたのである。(『回想録』)

 

リークアンユーは以上のようにして危機一髪の状況で虐殺のプロセスから脱出したのです。

もし、このとき彼の身に何かあったとすれば・・・その後のシンガポールの発展を導き、そして、のちにシンガポールがこの問題を克服して日本との親善を推進した、シンガポールにとっても日本にとってもかけがえのない人物を失ってしまうところでした。

「身の毛のよだつ話」

もし脱出できなければ、どうなっていたのか。これについてリークアンユーは続けて次のように述べています。

 

私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され二十二日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、四十、五十台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。 バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。

 

彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛もよだつ話を伝えた。

 

日本も二月十八日から二十二日までに六千人の華人青年を殺害したことを認めている。戦後、華人商工会議所がシグラプ、プンゴル、チャンギで大量の墓地を発見した。商工会議所の推定によれば大量殺害の被害者は五万人から十万人に達した。

 

リークアンユーと同じように、なんとか難を逃れた人びとにとってこの衝撃の事実は「身の毛のよだつ話」でした。

商工会議所の推定として記されている被害者数は実際よりは多く見積もられているものかも知れませんが、それは虐殺される側の恐怖心を反映したものかもしれません。

暴力と恐怖

リークアンユーは日本の占領時代全体を振り返ってこう言います。

 

私は日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。私は毛沢東の「政権は銃口より生まれる」との言葉を知らなかった。しかし、日本軍の冷酷さ、銃、剣付き鉄砲、それにテロと拷問を目の当たりにして、だれが権限を持ち、何が忠誠心を含め人々の行動を変えることができるかという議論はすでに私は結論を出していた。日本軍はシンガポール人に対し単に従順になるだけでなく、長期的観点から日本の支配に順応するよう求めていらのである。シンガポール人が自分たちの子供を言葉、習慣や価値などの日本の新体制に適応できる人間に教育するように仕向けたのである。(『回顧録』)

 

すなわち、シンガポール人を「日本の新体制に適応」するように、暴力と恐怖によって人びとの行動をつくり替えようとしたものであると理解していたのです。

そして、当時の日本人について手厳しく批判しています。

 

同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と自分たちは違うと考えていたのである。

 

このような日本に対する感情は、戦後において日本とシンガポールが交流していく上で大きな障害となりました。

後述しますが、それを克服する努力が日本そしてシンガポール双方でなされたことで、今日のような関係が構築可能となったのです。

戦争と占領の過程で亡くなったすべての人びとを悼むとともに、シンガポールの人びとが「日本人に幻滅した」状態から、信頼を取り戻すために先人たちが積み重ねてきた数々の努力に敬意を払わずにはおれません。

「最も大きなかつ唯一の政治教育」

しかし、その一方でリークアンユーはこのようなことも言っています。

 

私は、刑罰では犯罪は減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じない。これは戦前のシンガポールではなく、日本の占領下とその後の経験で得た信念である。(『回顧録』)

 

リークアンユーは晩年に、「人間は残念ながら、本質的に悪である。だから悪を抑える必要がある」という言葉を遺していますが、まさにこの言葉のとおり強圧的とも言える厳罰主義によって独立後のシンガポールを統治しました。

ここでは、そのような思想は日本軍の占領政策から学んだと語っているのです。

その是非はともかく、「日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ」とみずから語っているように、この時期にリークアンユーが政治家として多くのことを学んだことは間違いないようです。

リークアンユーが、「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と言う彼にとっての日本軍占領時代とは、以上のようなものだったのでした。

占領の終結とナショナリズムの覚醒

「白人神話」の破壊

日本軍によるシンガポール占領によって、シンガポールの人びとにはこれまでとは違った感情が芽生えていました。

それは「シンガポールの独立」を目指す、ナショナリズムの感情でした。

これは日本が予期しなかった結果ですが、これまで絶対的だと考えていたイギリスが日本に降伏し、イギリス人が日本兵に服従している姿はイギリスによる支配の絶対性という、シンガポール住民の心の中にあった一種の「神話」をことごとく破壊することになりました。

リークアンユーの『回想録』には次のように述べられています。

 

英国兵、インド兵、オーストラリア兵を向こうに回し、日本が十一万の兵力を動員して攻撃し獲得したマラヤとシンガポールの実情だった。…人々が驚き、動転し、それに愚かさが入り交じった七十日間で、シンガポールの英国植民地社会は、英国人は優秀だという虚構とともに吹き飛んだのである。… 白人は生まれながらに優秀であるという優越神話をうち立てることに成功したので、多くのアジア人は英国人に刃向かうことなど現実的でないと思い込んでいた。 しかし、アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話をうち砕いてしまったのである。

 

この「吹き飛んだ」あるいは「打ち砕いた」という表現が物語っているように、「アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し」てイギリスを無条件降伏させたという出来事は、リークアンユーをはじめシンガポールの人びとの価値観を一変させてしまったのです。

と同時に、イギリスに代わって支配者となった日本による過酷な占領によって、日本による統治もまた受け入れがたいものであると感じていました。

自分の国は自分たちで

こうして、シンガポールを統治するのはいかなる外部勢力でもなく、シンガポールで生活を営む自分たち自身しかいない、という感情を生み出したのです。

そのことを物語るリークアンユーの言葉があります。

 

私と同世代の仲間は、第二次世界大戦と日本占領を経験した若い世代である。この過程で、われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した。われわれは、自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心したのである。(“History of Modern Singapore”)

 

こうして、「イギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した」シンガポールの人びとが、「自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心 」するという、ナショナリズムの意識が確実にシンガポールの人々に育っていきました。

そして、その先に目指されることとなるのは「独立」でした。

独立への意志

1945年の敗戦により、日本はシンガポールから撤退することになりました。

ところが、それに入れ替わってふたたび戻ってきたイギリスによって、植民地支配が継続することになりました。

しかしながら、イギリスの降伏とそれに続く日本の過酷な支配をつうじて新たに、そして確実にシンガポールの人々のなかに最も大きなかつ唯一の政治教育は決して消えることはありませんでした。

のちにシンガポール建国の父となったリークアンユーは、当時のみずからの決意について、次のように述べています。

 

われわれはイギリス人を追い出したかった。イギリスの武力崩壊を見た後、そして3年半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否した。第2次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、痛めつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った。われわれは自ら治め、自ら尊厳ある国民として誇りを持てる国で、子どもたちを育てていこうと決心した(リー=クアンユー『シンガポールの政治哲学』)

 

ヨーロッパが戦後の混乱状態にあって各地で植民地からの独立の気運が高揚し、イギリスの植民地に対する支配力が低下してゆくなかで、とりわけ遠く離れたマレー半島の支配はイギリスにとって非常に困難な状態に陥っていきました。

このことは、シンガポール独立を求める勢力にとって追い風となっていきました。

大衆的基盤の不在

他方、インドをはじめとするイギリス植民地をはじめ、オランダが戻ってきたインドネシアや、フランスがふたたび支配を継続しようとしたインドシナでは、武力を含む独立闘争が展開されていました。

植民地支配を継続しようとふたたびやって来たかつての支配者を待ち構えていたのは、歓迎する人びとではなく、武装した人びとだったのです。

しかしながら、シンガポールは事情が違っていました。

確かにリークアンユーのような知識人を中心にナショナリズムに覚醒した人びとは存在していましたが、他の地域のようにナショナリズムがさらに広範な大衆にも共有され、指導者を中心としてそれを担う人びとが組織を形成するにはいたっていなかったのです。

それどころか、1945年9月にイギリス軍がシンガポールにふたたび上陸すると、家々にはその歓迎のためにイギリス国旗であるユニオンジャックが掲げられたと言われています。

シンガポールでは他の東南アジア地域に一歩遅れて、戦後にいたってナショナリズムを基盤とした大衆運動組織を形成することが課題となりました。

イギリスによる締めつけが次第に緩んでいくシンガポールで、独立を目指す運動組織の担い手としてリークアンユーが政治の舞台に登場しました。

以下、戦後のリークアンユーのあゆみについてみてみたいと思います。

リークアンユーイギリスへの留学

イギリスへの旅立ち

リークアンユーは第2次世界大戦後の1946年9月、シンガポールを出発します。

イギリスに留学するためでした。

日本軍の占領によって中断していた学業にふたたび取り組むために、イギリスへの留学という道を選んだのです。

当時は戦後間もない時期で、ヨーロッパへ向かう船のチケットを入手するのは非常に困難でした。

しかし、すぐれた交渉能力を発揮して、戦後すぐにイギリス軍の請負仕事をしていたコネクションによって、イギリス軍の兵員輸送用であった軍艦ブリタニック号に乗船することに成功し、イギリス行きを果たしたのでした。

イギリスでの修学

当初、リークアンユーはロンドン大学で学んだのですが、ロンドン大学は大都会ロンドンにあるため、その環境に馴染むことができなかったために、1学期で去ってしまいました。

そしてケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジに移ったリークアンユーはここで法律学を専攻しました。

都会の喧騒に囲まれたロンドン大学とは異なり、ケンブリッジ大学の閑静なキャンパスは彼を満足させました。

ここを首席で卒業した彼は、短期間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通いました。

留学先でのロマンス

ケンブリッジ時代には真面目に学業に励むかたわら、ロマンスも生まれました。

その相手はクワ=ギョクチューというマレーシア出身の華人女性でした。

彼女は1920年にマレーシアで誕生し、ラッフルズ学院を卒業したのち、海峡植民地では女性初の女王奨学金を受けた非常に優秀な女性でした。

1947年秋にイギリスに留学したクワギョクチューはリークアンユーと同じようにケンブリッジ大学で法律を学んでいました。

じつはすでにシンガポールで知り合いではあったのですが、ケンブリッジ大学在学中に急接近したのでした。

超高学歴エリートカップルの誕生です。

そして二人はシンガポールに帰国するとすぐに結婚しました。

同志との出会い

また、リークアンユーはのちに政治の世界で行動を共にすることになる多くの仲間とイギリス留学時代に出会いました。

のちにリークアンユーの片腕としてリークアンユー政権のもとでの経済成長を政権内部でささえ、数々の大臣職を務めることとなるゴーケンスイはロンドン大学で経済学を学んでいました。

また、リークアンユー政権の外相として、長期にわたって対外的なスポークスマン役を務めることとなるラジャラトナムはロンドン大学でジャーナリズムを専攻していました。

また、リークアンユー政権の与党・人民行動党で委員長を務めることになるトー=チンチャイもロンドン大学の留学生でした。

さらにリークアンユー政権で労働大臣や法務大臣を歴任したケニー=バーンは、同じ時期にオックスフォード大学に留学していました。

イギリスでの出会いは、これらのちに「同志」として政権を担うことになる人びとだけではありませんでした。

マレーシアの第2代首相・ラザクなど隣接するマレーシアで将来指導者となる人びとをはじめ、イギリスの支配下にあったアジア・アフリカの国々から自国の未来を憂いつつイギリスに留学していた人びととの交流は、リークアンユーのナショナリズム意識をより確かなものとし、植民地支配からの解放への願いを強くしていきました。

労働運動へのコミットと留学生団体での講演

一方で、リークアンユーはイギリスで労働運動にもコミットするようになっていきました。

すなわち、ケンブリッジ大学労働クラブの一員となって、選挙の際には応援演説に立つなどして労働党を支援するなどの運動を行なっていたのです。

しかしながら、イギリス共産党とは一定の距離をとっており、リークアンユーが政権樹立後にとった反共的態度は、この頃からの思想的傾向であったことがわかります。

また、1950年1月、シンガポールとマレーシア出身の留学生による団体「マラヤ・フォーラム」主催の講演会でリークアンユーは「帰国留学生の任務」という講演を行ないました。

そのなかで、リークアンユーは①シンガポールやマラヤ(マレーシア)には共産主義は適さないこと、②戦後独立した旧植民地の国々の指導者は海外帰国留学生であり、自分たちもまたそうする使命があり、イギリスもまた自分たちのようなイギリス留学生が指導する運動のほうが他の運動より受け入れやすいこと、などを訴えました。

イギリス留学時代にリークアンユーは明確な独立への志向と、自分たちこそがその指導者なるにふさわしいという意識を確立していたことをうかがい知ることができます。

以上のように、リークアンユーのイギリス留学時代は、彼が帰国後に歩むべき道(=「使命」)、そしてその道を夫婦として、政治家としてともにする人びとと出会う重要な時期であったのです。

シンガポール独立への胎動とリークアンユーの帰国

マラヤ民主同盟の結成

リークアンユーがイギリス留学をしていた頃、シンガポール国内では少しづつ、独立をめざす動きが広がりつつありました。

1945年12月にはすでに、リークアンユーらイギリス留学していた青年たちより一世代上の英語教育を受けた自由主義者と共産主義に共鳴する人びとが連携して、「マラヤ民主同盟」(Malayan Democratic Union)が結成されていました。

この団体が第一の目標として掲げたのが、マレーシアのすべての民族によって独立を勝ち取ることでした。

しかし、この団体は3年もしないうちに解散してしまいました。

その背景には、1948年6月にイギリスによる植民地政府に対してマラヤ共産党が武装蜂起したことがありました。

これにより、マラヤ民主同盟のメンバーたちはイギリスによって自分たちも弾圧されるのではないか、ということを恐れたため、自ら解散したのです。

マラヤ民主同盟には、団体としては短期間のあいだに知識人階層による理念的な運動に終わった、という限界はありました。

しかし、一方ではその後の独立運動の担い手となる英語教育を受けた人びとと共産主義者とが連携して運動をしたこと、そしてすべての民族による独立を主張したことなどは、のちの独立運動やリークアンユーが党首となる人民行動党のモデルとなるもので、その先駆的意義は非常に大きいと言えるでしょう。

マラヤ共産党と華語派華人

一方、中国系住民のうち、人口に占める割合の大きい華語派華人たちの独立運動は、この時期の動向を語る上で避けて通れない存在です。

彼らの中心的政治組織だったのが、マラヤ共産党でした。

戦争中には日本軍に対するゲリラ戦を組織的に行ない、日本軍撃退に貢献したことで、戦後は合法化されていました。

日本が敗北したことにより、マラヤ共産党は次に独立を目指すようになりました。

つまり、打倒の対象が日本軍からイギリス植民地政府へと移行したわけです。

そして、前述のように1948年6月、マラヤ共産党はイギリスをマレーシア・シンガポールから駆逐して政権を掌握するべく、武力蜂起を実行しました。

イギリス植民地政府は、シンガポールとマレーシアに非常事態宣言を発令して、共産党を非合法化しました。

そして、武力による鎮圧を行ないます。その結果、この企図は失敗に終わりました。

その後、マラヤ共産党は非合法化されていたので、地下に潜って活動を継続し、労働団体や中国語による教育機関などで影響力を拡大していきました。

リークアンユーの帰国と弁護士活動

このようにシンガポールで独立への胎動が芽生え始めた1950年8月1日に、リークアンユーはイギリスから帰国しました。

帰国の際に乗船したオランダ船には、先に述べたクワギョクチュー、ゴーケンスイ、ケニーバーンも乗っていました。

そして、同年9月30日にリークアンユーとクワギョクチューは結婚式を挙げました。

帰国したのちに弁護士資格を取得したリークアンユーは、シンガポールのマラッカ・ストリートにあるレイコック&オン法律事務所(Laycock and Ong)という法律事務所で妻のクワギョクチューとともに弁護士として勤務しました。

そして、イギリス植民地当局の弾圧によって逮捕・提訴された労働組合や学生指導者たちが続出するなか、その弁護を積極的に引き受けた人物が、のちに初代シンガポール首相となるこのリークアンユーでした。

彼もまた、植民地支配からの解放とシンガポールの独立を志すエリート青年の一人だったのです。

政界への進出

リークアンユーは次々と裁判で勝利し、共産系労働組合や左翼人士との信頼関係を築いていきました。

そのネットワークが政界進出において、重要な意味をもちました。

1951年には、リークアンユーの勤務していた法律事務所の上司であるジョンレイコックが、保守派の親英政党である進歩党から候補者として立法審議会選挙に立候補しました。

リークアンユーはその運動員として活動したことを契機に、政治活動に足を踏み入れることとなりました。

その間、1952年には、のちにシンガポール第3代首相となる、長男のリーシェンロンが誕生しました。

そして、1954年には英語教育グループと共産主義系グループが連携して人民行動党が創設され、リークアンユーはその書記長に選出されることとなります。

シンガポールにおける自治の拡大

植民地統治単位の改編とシンガポールの分離

次に、シンガポールを統治するイギリス植民地政府のシンガポールをめぐる動向についてみておきましょう。

日本の敗戦とともにシンガポールの統治者として復帰したイギリスは、1946年4月1日、これまでのマレー半島地域の植民地の統治単位を再編しました。

シンガポールはこれまで、「海峡植民地」の一部としてマラッカやペナンと一つの単位をなしていました。

そして、マレー半島はこれとは別の「マレー連合州」という単位で統治されていました。

第2次世界大戦終結後、イギリスはその改編に乗り出し、マラッカとペナンをマレー半島本土と合わせて「マラヤ連合」(マレーシア)とし、シンガポールのみをイギリスの直轄植民地として分離しました。

現在の独立国家としてのマレーシアとシンガポールに該当する地理的・政治的単位が、これにより誕生したのです。

シンガポール分離の背景

このような形で植民地の統治単位再編とシンガポールの分離が行なわれた背景には、イギリスとマレーシアそれぞれの事情が絡み合い、結果的にシンガポールの分離が両者にとって都合がよかったことによります。

まず、イギリスの事情としては、戦後世界においてアジアにおける権益を維持・確保するにあたって、シンガポールのもつ軍事的・経済的な重要性によるものでした。マレーシアが独立を目指した場合でも、シンガポールを分離しておくことで、シンガポールでの影響力を確保できる、と考えたのです。

他方のマレーシアの事情としては、マレーシアのマレー人がシンガポールの華人たちのもつ政治力と経済力がマレーシア全体に及ぶことを警戒していたことがあげられます。

マレーシアはあくまで、マレー人を中心とした社会を志向していましたので、華人が多数を占めるシンガポールとは距離を置いておきたかったのです。

この問題はのちほど、より現実的な問題となって再燃します。

イギリスの影響力低下

第2次世界大戦後のイギリスは、ヨーロッパの混乱と大戦前からアジアの各植民地で次第に高まっていた独立への機運が大戦の終結後になって一気に高まったことを背景として、戦後、アジアでの影響力が急速に低下していたため、少しでも各植民地での影響力を維持しようと自治権を付与・拡大するなどして植民地住民たちに譲歩をはじめました。

とくに、アジア太平洋地域におけるイギリスの影響力低下の兆しは、戦争中からはじまっていました。

それは、戦時下のイギリス政府を率いていたチャーチル首相が、人種的な理由から日本を過小評価しており、また植民地防衛についてはエジプトを重視していたために、シンガポールやオーストラリアなど極東地域への軍事力展開を相対的に軽視していたことによります。

このようなイギリス政府の政策は、日本軍の進撃を容易にしたばかりでなく、日本軍を迎え撃つ立場にあったオーストラリアがイギリスではなく、太平洋地域に大規模な兵力を展開していたアメリカを頼らざるをえなくしてしまいました。

もちろん、イギリスも手をこまねいて見ていたわけではなく、1943年に東南アジア連合軍総司令部最高司令官にイギリス軍のマウントバッテンを就任させて、戦後の秩序も視野に入れつつアジア太平洋戦線における主導権回復を目指しました。

しかしながら、アジア太平洋地域におけるイギリスの影響力低下とこれに代わるアメリカの台頭は、変えることのできない歴史の流れとなって戦争終結後も続いていきました。

自治権拡大や独立を求める植民地への譲歩は、こうしたイギリスの影響力低下への対処としてなされたものでした。

自治の拡大とはじめての選挙

このような流れの中で、シンガポールでも1947年7月にはイギリス植民地当局によって立法会議選挙法令が公布されます。

そしてこれに基づき、1948年3月20日に議席の一部を民選とするシンガポールで初めての選挙が実施されました。

この選挙は住民の一部に選挙権を制限した制限選挙でしたが、20万人のシンガポール市民が参加しました。

1948年にはマラヤ連邦(マレーシア)に自治を認め、その後1955年にはリンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、シンガポールは部分自治を認められることとなります。

すなわち、シンガポールの立法評議会を財政・外交・軍事など以外の自治権を持つものに改め、民選議員の割合を増やした上で自治政府が設立されることになったのです。これに伴い、シンガポールでは政党結成の動きが活発化しました。

このような流れの中で登場したのが、リークアンユー率いる人民行動党だったのです。

 

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リークアンユーのあゆみ【完全ダイジェスト版】 約1万7千文字 

シンガポール建国の父、リークアンユー:その生涯と政治・思想 約13万文字

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