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リークアンユーの政権獲得と政治闘争

リークアンユー   1,322 Views
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Contents

人民行動党の結成と政権獲得

人民行動党結成

シンガポール自治政府が設立されるのを前に、リークアンユーたちは自分たちの政治的基盤となる政党を結成する動きを加速させました。

そして、1954年11月21日、1500人超の人びとがビクトリア・メモリアル・ホールに集結して、人民行動党結成大会が開かれました。

リークアンユーは14人の発起人の一人として名をつらね、大会参加者によって書記長として選出されました。

また、委員長にはトーチンチャイが選出され、シンガポールにおいてイギリスからの独立をめざす政党として人民行動党が正式に発足しました。

英語派華人と華語派華人の共同運営

結党当時、人民行動党は英語教育を受けたエリートたちと華語派華人の共産系グループが共同して運営する政党でした。

英語教育グループの中心は海峡華人のリークアンユー、ゴーケンスイ、トーチンチャイと海峡インド人のラジャラトナムの4人でした。

彼らは当時、30代の青年で、ともにラッフルズ学院で学んでイギリスに留学したという経歴をもっています。

つまりイギリス留学時代の仲間が集まって、政治活動をはじめ、その4人のうち、最年少(当時31歳)であったリークアンユーがそのリーダーとなったのです。

一方の共産系グループを率いたのは、英語教育グループよりさらに若い21歳のリムチンションと23歳のフォンスィースアンでした。

彼らはシンガポール出身の華語派華人で、中華中学を卒業し、労働運動を組織するなかで台頭してきた若きリーダーたちです。

この両者は、植民地支配を集結させて独立へと向かうという点で一致したものの、シンガポール社会で分化した社会においては明らかに異なる集団に属していました。

共同運営のメリット

では、なぜこのような背景もイデオロギーも異なる集団との共同を、リークアンユーは考えたのでしょうか。

リークアンユーは著書『政治哲学』のなかで、自分たちのグループの限界について、

 

英語教育を受けた民族主義者、イギリスの大学の卒業生で、政治の駆け引きにも革命陰謀にも無経験なグループ、大衆の話す数多くの言語はしゃべれず、大衆のかかえる問題や困難は頭の中でしか共有していなかったグループ

 

であったと述べているように、自分たちの勢力の大衆的基盤の脆弱さをよく自覚していたがゆえに、労働組合・学生組織といった大衆的基盤をもつ共産系グループと連携することによって、支持を拡大することを企図したのでした。

他方の共産系グループにも、リークアンユーらとの連携にはメリットがありました。

前述のように、共産党が非合法化されていた当時の状況で自分たちが政治活動に関与するには、共産主義政党ではない政治組織が必要でした。

そこで、共産主義とは無縁ともいえる海峡集団のリーダーたちを前面に出すことで、共産主義色を表に出すことなく、合法的な政治活動が可能になる、と考えたのです。

このような同床異夢の両者によって結党された人民行動党は、これら2つのグループが相互補完しあうことで、シンガポール社会での影響力を次第に増してゆくこととなりました。

リークアンユーの初当選

結党翌年の1955年には、リンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、シンガポールは部分自治が認められることとなりました。

そして、シンガポールの立法評議会を財政・外交・軍事などを除いた自治権を持つものとし、民選議員の割合を増やして定員32名中25人が選挙で選出されることになったのです。

人民行動党は、この時の選挙を視野に入れて結成されたものでした。

のちにシンガポールの政治を事実上、一党独裁のもとにおく人民行動党はこの時、わずか3議席を獲得するにとどまっていましたが、これは結党間もない政党として、まず政治参加することを課題として立候補者を絞り込み、全員当選を果たしたもので、目標を達成できたといえるものです。

そのうちの1人がリークアンユーでした。彼はタンジョンパガー選挙区で78%の得票率で対する保守党の候補に勝利し、正式に政界入りすることとなりました。

混乱する政局

この選挙では、英語教育労働者を支持基盤とする労働戦線が最多議席を獲得して、その党首であるイラン系のデビッド=マーシャルが自治政府の初代首相となりました。

ちなみにマーシャルは、戦争中に連合国軍の兵士として参戦しましたが、日本軍の捕虜となって北海道の炭鉱で労働に従事させられた、という過去がある人物です。

この当時の自治政府首相の権限は非常に制限的なものであったため、マーシャルは何度も、イギリス植民地当局と衝突しました。

このため、1956年6月に1年あまりで首相を辞任してしまいました。

つづいて、同じく与党・労働戦線のリムユーホックが首相に就任します。

しかし、華人の労働組合や学生運動が活発になっていて、不安定な政治情勢のなかでほとんど成果をあげることなく、次の選挙を迎えることとなりました。

マラヤ連邦の独立とシンガポール市議会選挙

1957年になると、イギリスの支配が弱まってゆくなかで、自治領としてではありましたがマレー半島内の一部がペナン・マラッカを中心に「マラヤ連邦」として独立しました。

そして、初代首相にトゥンク=アブドゥル=ラーマンが就任します。

ラーマンはその後、リークアンユーと深い因縁を結ぶこととなります。

1957年に行なわれたシンガポール市議会の選挙は、人民行動党によってその実力を社会に示す機会となりました。

この選挙の結果、第一党となり、オン=エングェンをシンガポール市長に就任させたのです。

オンエングェン市長は民衆申訴局や密告局を設置して、住民の声を集約しつつ政府内部で横行していた汚職を一掃しました。

また、市庁舎前に設置されていたエリザベス女王の銅像を撤去し、シンガポール独立への意思表示を明確にしました。

さらに、華人が要求していた屋台営業の自由化および郊外のマレー人集落に水道を敷くなどしてシンガポール市民の人気を集めました。

完全自治への移行と普通選挙の実施

そして、1959年にはシンガポールがこれまでの制限の多い部分自治からイギリス連邦内の自治州として外交と国防以外の権限を行使することが可能な、完全自治へと移行してゆくのです。

立法評議会の定員も51議席に増員されて、全員が選挙によって選出されることになりました。

また、選挙権も拡大し、これまでの制限選挙から20歳以上の男子による普通選挙へと移行しました。

このときの選挙には、複数の政党が参加はしましたが、実質的な闘いは当時、政権の座にあった与党・労働戦線と4年のあいだ立法評議会における野党として活動し、1957年の市議会議員選挙で示されたように、その勢力を着実に拡大していたリークアンユー書記長が率いる人民行動党との対決となりました。

人民行動党の勝利とリークアンユーの首相就任

その結果は、全51議席のうち人民行動党が53.4%の得票率で43議席を獲得し、シンガポール立法評議会において圧倒的多数を占める第一党になりました。

対する労働戦線はわずか4議席の獲得となり、人民行動党の圧勝でした。

リークアンユーもまた、前回立候補したタンジョンパカー選挙区で72%の得票によりふたたび勝利しました。

このときの勝因としてもっとも大きかったのは、制限選挙から普通選挙への移行により、多くの華人が投票にするようになったことでした。

すなわち、シンガポールの人口の多数を占める彼らを支持基盤とする人民行動党にとって、選挙権の拡大は大いに有利な要素として働いたのです。

リークアンユーら人民行動党指導部の海峡集団からしてみれば、大衆的基盤を持つ共産系グループとの連携が結党5年にして功を奏した、ということになりました。

こうして1959年6月3日、当時35歳という若さのリークアンユーが完全自治を獲得してはじめてのシンガポール首相に就任しました。

リークアンユーは、閣僚として当結成時からの「第一世代」と呼ばれる人々のうち、英語教育を受けたトーチンチャイが教育相、ゴーケンスィーが財務相、ラジャラトナムが文化相に就任し、英語を話す層が中心となった層が中心の新政権が発足したのです。

しかし、これでリークアンユーの政治家人生はハッピーエンド、というわけにはいきませんでした。

これまで政権獲得を目指して2つのグループが共闘してきた人民行動党内の矛盾が、政権党となったことで一気に露呈してきたのでした。

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共産系グループとの対立とリークアンユー自治政府の政策

首相指名における党内対立

リークアンユーの首相就任前後から、議会の第一党となり政権を獲得することとなった人民行動党内部において、党の路線などをめぐって左右の勢力争いがくりひろげられるようになりました。

それが最初に表面化したのが、選挙での勝利をうけて人民行動党中央執行委員会が開かれた時のことでした。

その重要議題は「首相を誰にするか」ということでしたが、そのとき、リークアンユー書記長の対抗馬として華語派華人から絶大な支持を集めているシンガポール市長のオンエングェンを推す動きがありました。

オンエングェンはオーストラリアへ留学した会計士でしたが、福建語の演説が巧みでした。

実は、福建省など中国南部地方出身の華人を基盤とする人民行動党内の左派勢力を抑制するため、リークアンユーがオンエングェンを人民行動党にスカウトしたという経緯がありました。

そのオンエングェンが、リークアンユーのライバルとして彼に立ちはだかったわけです。

委員会では委員の意見が2分され、双方が同数の支持を得ました。

最終的に議長の判断で、リークアンユーが首相として推されることになりましたが、これによりリークアンユーは党内の華語派華人の勢力を見せつけられたのでした。

オンエングェンの猛攻

以降、政治運営の主導権をめぐり人民行動党内部で、両者の対立が激しくなっていきました。

すなわち、英語教育を受けた層を中心とするリークアンユーなどイギリス的国家建設をめざす右派と、華語教育を受けた層に広範な支持基盤をもち共産主義を志向する左派・共産系グループとの対立が、次第に深まっていったのです。

首相指名争いに敗れたオンエングェンは、一度はリークアンユー政権の下で国家発展相に就任しました。

しかしながら、予算の配分をめぐってリークアンユーと摩擦が生じることとなり、人民行動党から離党してしまいました。

離党後、オンエングェンは人民統一党を結成して、1961年の補欠選挙では人民行動党を圧倒しました。

そのため、中国語が苦手なリークアンユーは、オンエングェンに対抗するために北京語に加え、慌てて福建語の勉強を始めた、というエピソードがあるほど、一時はオンエングェンの猛攻に頭を悩ませました。

汚職根絶・風紀取締り強化

一方、首相となったリークアンユーは、次々と特色ある独自の政策を実行していきます。

今、シンガポールの人民行動党は、汚職のないクリーンな党として世界的に知られていますが、その原型ができたのが、リークアンユーが首相に就任した直後です。

まず、リークアンユー首相のもとで、大臣級の給与削減が実施されました。

そして、閣僚たちもボランテイアで清掃に参加する「シンガポール・クリーン・キャンペーン」が行なわれました。

その上で、公職者の汚職を取り締まり、監視させる専門部署として汚職調査局を政府内に設置しました。

この汚職調査局は、公務員や政治家の私生活まで監視するもので、不審なことがあった場合は徹底した取り調べが行なわれました。

また、社会の風紀の乱れを糺すとして、ストリップ・ショーやキャバレーといった遊興施設が禁止されるなど、市民生活への締めつけも行なわれました。

経済構造の根本的改革という課題

他方、リークアンユー自治政府の目の前には、経済開発という政策課題が横たわっていました。

その第一の課題は、これまで中継貿易に依存していた経済構造をどのようにして根本的に改革していくのか、ということでした。

その背景には、周辺の東南アジア諸国が独立し、これらの国々が経済発展のために工業化をすすめたことがありました。

これにより、東南アジアから原材料を輸出し、ヨーロッパから工業製品を輸入する、という長期にわたって続いてきた物流の流れに次第に変化があらわれ、東南アジア諸国の貿易が減少していったのです。

そのため、ラッフルズがシンガポールに港湾を建設して以来、ヨーロッパとアジアの中継貿易を軸として発展してきたシンガポールの経済は大きなダメージを受けていたのです。

外国資本導入による工業化へ

これに対し、リークアンユーを中心とする自治政府が提示した打開策は、ゴーケンスイ財務相を中心として工業化を推進するということでした。

当時はシンガポールの失業率が10%を超えていたこともあり、工業化の推進は大規模な雇用創出が見込まれることもあって、経済構造の改革という問題のみならず、目の前の雇用問題を解決するうえでも切り札となるものでした。

リークアンユー率いる人民行動党政権は成立してすぐに、経済開発庁など政府行政機関の調整を行ない、経済発展の基盤となる行政システムを確立しました。

しかしながら、すでに先行して工業化をすすめていた周辺国といたずらに競争関係になるような工業化を推進するのは得策ではないといえます。

したがって、軽工業中心の周辺国の工業化政策とは異なり、シンガポールの工業化においては造船や石油化学といった重化学工業に重点が置かれることになりました。

そして、重化学工業を担いうるような力のある国内資本がシンガポールには皆無であったために、外国からの資本を誘致するという戦略が提示されました。

さらに、そのために必要な工業用地として、政府によってシンガポール島西部にある沼地が整備されて、工業地区が建設されました。それがジュロン工業地区です。

このような工業化への努力は、やがてマレーシアから分離独立して以降も継続されます。

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狭小な国内市場という問題への処方箋

このとき、問題となったのが、シンガポールの国内市場が狭小であるということでした。

シンガポールで生産した工業製品を国内で販売するためには、一定規模の購買力のある市場が必要です。

しかしながら、シンガポールのような小規模な市場では当然のこととして、そこで見込まれる需要はきわめて限定的なものとならざるを得ませんでした。

そこで想定されたのが、隣国マレーシア(当時はマラヤ連邦)との将来の合併を想定し、マレーシアの市場を国内市場化することでした。

こういった経済的事情もあり、その後、リークアンユーはマレーシアとの合併交渉を積極的に試みるようになりました。

マレーシアとの合併へ

こうして、シンガポールのイギリスからの独立とマレーシア(当時、マラヤ連邦)との合併を目指して積極的に交渉をすすめたリークアンユーは、「シンガポールの生き残りのためにはマレー半島との一体化が不可欠」だとシンガポールの住民に強く訴えかけました。

一方のマラヤ連邦のラーマン首相は1961年、シンガポールをはじめサバ、サラワク、ブルネイといった当時のマライ連邦に隣接するイギリス植民地と合併して「マレーシア連邦」を結成する構想を打ち出します。

このようにして思惑が一致したリークワンユーとラーマンは、シンガポールとマレーシアの合併に向けた具体的な協議へとはいっていきました。

こうして両者による協議が行なわれた結果、合併案がまとめられ、本格的な合併へと舵がきられてゆくこととなりました。

双方の事情を反映した合併案

このとき合意された合併案の内容は、次のようなものでした。

まず、合併後もシンガポールが引き続き自治州として、教育や労働政策も含めた強い自治権を保持することが明示されていました。

合併を主張しながら、それと矛盾するとも思えるような合併案が両者で合意された背景には、シンガポールとマレーシア双方の民族政策のちがいがありました。

すなわち、マレーシアでは学校教育をマレー語で行なう学校教育のマレー語化政策を進めていました。

しかしながら、シンガポールにおいては引き続き英語や中国語による教育を認めていました。

また、公務員採用や企業設立の際に、マレーシアにおいてはプミプトラ政策というマレー人を優遇する政策が行なわれていましたが、華人が人口の多数を占めるシンガポールではこれを採用しなくてもよい、ということになりました。

それぞれの人口における民族構成のちがいが配慮され、マレーシアが華人勢力の強いシンガポールに配慮する形となったのです。

その一方で、シンガポールでは自由貿易港を継続することとされましたが、同時に開発が遅れているサバとサラワクに融資するとされました。

この地域で経済的に発展の可能性のあるシンガポールの富を、開発の遅れた地域にも分配することで、ラーマンが構想する「マレーシア連邦」全体の発展を、シンガポールに牽引してもらおうとしたのです。

合併をめぐる党内対立の激化

こうしてリークアンユーは、イギリスからの独立とマラヤ連邦との合併をさらに主張するようになりますが、これに強く抵抗した勢力がありました。

それは、リークアンユーら大衆的基盤が脆弱な英語教育グループが勢力を拡大するために、結党以来、その大衆運動組織を利用し共闘してきた与党・人民行動党内の左派である共産系グループでした。

前述したように、彼らは当時、マラヤ共産党の影響下にある共産主義者のグループでした。

マラヤ共産党は戦争中に日本軍に対するゲリラ戦をつうじて、勢力を拡大させました。

しかし、戦後は武装蜂起を企てたためにイギリスやマラヤ連邦によって徹底的に弾圧されて非合法組織とされてしまいます。

しばらくはジャングルに解放区を設置して勢力をなんとか確保していましたが、これらも制圧されてしまった結果、シンガポールの労働運動が彼らの活動の場としてその後も勢力を保ち続けていたのです。

このような彼らの基盤を利用することで勢力を拡大し、政権を獲得するにいたったリークアンユーは、合併問題を通じて党の組織形態の矛盾が爆発する事態に対処しなければならなくなりました。

そもそもが政権獲得のために同床異夢の状態で発足した人民行動党が、いつかは直面しなければならない問題でしたが、それがこの時期に来て先鋭化していくのです。

両首相の思惑

これほどまでに与党内共産系グループが合併に反対した理由は、マレーシアのラーマン首相の思惑にありました。

マレーシアにおける共産化を警戒するラーマンは、まずシンガポールの共産化を防止する必要があると考え、反共を国是とするマレーシア政府のもとにシンガポールを取り込むことで、シンガポール国内に根強い支持基盤をもっていた共産系グループを抑え込もうとしたのでした。

そして、そのような思惑は、党内の実権を完全に掌握したいと考えていたリークアンユーにとっても魅力的なものだったのです。

つまり、合併そのものに共産系グループの排除、という両首相の意図があったわけです。

共産系グループの離脱とバリサンの結成

このような意図を理解していた共産系グループが反発しないわけがありません。

マレーシアとの合併を推進しようと国内世論に訴えるリークアンユーに徹底抗戦しようとしました。

1961年に行なわれた補欠選挙では共産系グループが野党候補を応援し、その結果、人民行動党の候補は落選してしまいました。

これにより、リークアンユーは苦しい立場に陥ってしまいました。

そこで国会に「政府信任案」を提出してこの危機を乗り切ろうとしました。

この信任案は深夜の激論をへて未明に採決されることになりましたが、結果は26:25というわずか一票差で可決され、なんとか国会の信任という政権継続のための大義名分をえました。

この「政府信任案」をめぐる攻防は、31年続いたリークアンユー政権において最大のピンチでした。

こうした人民行動党における左右の路線対立の末に、1961年7月にいたって「政府信任案」をめぐる攻防に敗れてしまった左派は、党から脱退することとなりました。

人民行動党を脱退した共産系グループは、新たにバリサン・ソシエリス(社会主義陣線=社陣)を結成して、医師出身のリーシューチョウを委員長に選出して活動を開始しました。

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バリサンとの闘争とマレーシア連邦への編入

左右分裂の打撃

人民行動党の左右分裂によって、バリサンへと移った国会議員は13人でした。

しかし、その打撃はそれよりも末端組織において深刻でした。

労働組合を基盤とする人民行動党の支部や専従職員らの多くが、バリサンへ移ってしまったのです。

全体で51あった支部のうち、人民行動党に残留したのが16支部というありさまでした。

これにより、リークアンユー政権はふたたび危機に瀕することになりました。

バリサンが指摘する合併の問題点

バリサンは労働組合など傘下の大衆団体の勢力を背景として、リークアンユー首相が主導するマレーシア連邦への編入をはげしく非難し、合併阻止を試みました。

そして、合併案の問題点を具体的に指摘していきました。

まず、シンガポールはマレーシアの総人口の2割を占めるのにもかかわらず、マレーシア下院におけるシンガポールに割り当てられた議席は159議席中15議席のみでした。

さらに上院では55議席中シンガポールへの割り当て議席はわずかに2議席、そしてシンガポール住民が他地域へ移ると選挙権が行使できない、といった問題点を批判したのです。

それとともに、バリサンは「シンガポール人はマレーシアの 『二等国民』にされるのだ」というキャンペーンによって、マレーシアとの合併阻止をシンガポールの人びとに訴えました。

バリサンが指摘したこのマレーシア連邦議会におけるシンガポール選出議員数の制限は、シンガポールと合併することで人口がマレー人を上回ることになる華人に、マレーシアにおける政治の主導権を奪われないために、ラーマンが絶対に譲ることができないものでした。

マレー人が統治するマレーシア、という原則はマレーシアという国家の根本にかかわるもので、絶対に変更されるようなことがあってはならないと考えたのです。

住民投票の実施とバリサンへの弾圧

マレーシアとの合併に対して共産系グループの反発が日々高まるなか、リークアンユーは1962年9月に住民投票を実施して、この合併案にシンガポールの人々のお墨付きを与えさせることによって共産系グループの主張を封じさせようとしました。

この住民投票における選択肢は、「シンガポールは特別な自治州として合併するか、サバ・サラワク並みの自治で合併するか、マレーシアの普通の州として合併するか」という三択でした。

つまり、「合併しない」という選択肢はなかったのです。

そのため、バリサンはボイコットを呼びかけました。

しかし、その結果は政府案支持が73.8%に達し、シンガポールがマレーシア連邦にその一州として編入されることが決定しました。

このような状況にあって、1962 年12月にブルネイでマレーシアへの加盟反対を主張する北ボルネオ国民軍が反乱を起こしました。

バリサンは北ボルネオ国民軍の反乱を「反植民地の民衆蜂起」と定義し、これを支持する声明を出します。

この事態を口実に、リークアンユーはラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。

そして、1963年2月にマレーシア政府ととともに、「オペレーション・コールド・ストア」と名づけられた治安作戦を実行します。

これにより、バリサンの主要メンバーたち百数十名を一斉に逮捕しました。

とくにその指導者として手腕を発揮していたリムとフォンが逮捕されたことは、共産系グループにとって決定的な打撃となりました。

こうして反対派を弾圧したうえで、マレーシア連邦の結成が1963年8月31日に実施されることが決まりました。

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インドネシアによる妨害

このような連邦結成への動きに対して、隣国のインドネシアから妨害が入りました。

インドネシアは主張する内容は次のようなものでした。

そもそもマラヤやボルネオ島などマレー系民族の住む地域が分断されてしまったのは、イギリスとオランダによる植民地分割によるものであるので、独立するなら全てインドネシアとして統一国家になるべきだ、というものでした。

インドネシアのこのような主張の背景には、当時のスカルノ・インドネシア大統領が唱えていた「大インドネシア主義」がありました。

マレーシアに対して対決政策(コンフロンタシ)を宣言したスカルノ大統領は、「マレーシア粉砕」をスローガンに周辺海域およびボルネオ島で軍事行動にまで行ないました。

また、国際社会に向けてインドネシア政府は「マレーシア連邦の結成はイギリスによる新植民地主義の陰謀」であるとして、これを阻止すべきであると訴えたのでした。

国際社会へのはたらきかけと連邦結成の延期

これに対抗するために、万難を排して合併をすすめてきたリークアンユー首相は当時、国際社会で発言力を強めていたアフリカ諸国を訪問し、35日間でなんと17ヵ国もの国々を歴訪して各国の首脳と会談しました。

会談では、自分たちがマレーシアへの統合を心底望んでいることを積極的にアピールするなどの外交戦略を繰り広げました。

こうして、この問題が国際紛争に発展しつつあることから、国際連合でもマレーシア連邦へのサバやサラワクの編入が妥当なものなのか、ということが関心事となり、議論されました。

その結果、マレーシア連邦に加わることについての住民たちの意思を確認する国連調査団の派遣が決定されました。

これにともなって、連邦結成の日程も9月16日に延期されることとなりました。

このような事態に、シンガポールのリークアンユー首相は大いに危機感をつのらせました。

合併延期によって国内でバリサンが支持を伸ばすことや、合併自体が実現不可能になった場合の政治的危機状況を恐れたのです。

イギリスからの独立とマレーシア連邦誕生

そこでリークアンユー首相が考えついたのが、もともとの連邦結成の日であった8月31日に、シンガポールだけがイギリスからの独立を宣言してしまう、という方法でした。

この方法によって、シンガポールは大きな障害もなく、すぐさまイギリスからの独立を成し遂げてしまいます。

これまでの道のりからするとあまりにあっ気ない植民地支配の終焉ですが、イギリスからすれば、いずれはマレーシア連邦に合併されるシンガポールが、国連でのやりとりに巻き込まれることなく合併を成就させるための方便的な独立であることは十分にわかっていました。

また、その隙にふたたびシンガポールで共産主義者が勢力を盛り返すことは、イギリスも望まないことでした。

このため、植民地支配の終焉はすでに織り込み済みであったイギリスは、あえて抗議や反発をすることをせずに黙認した、というわけです。

そして、リークアンユーの戦略に沿って一旦イギリスから独立したシンガポールは、即日マレーシア連邦への合併を宣言し、1963年9月16日、シンガポールも含めた「マレーシア連邦」が誕生して、シンガポールはマレーシア連邦を構成するひとつの州となりました。

英語エリート層による一党独裁の確立

この経緯を国内政治とりわけ人民行動党内部での権力闘争という観点からみると、リークアンユーはマレーシア連邦への合併問題によって、最大の敵対勢力を追い出すことに成功した、ということがいえるでしょう。

そして、選挙をつうじてバリサンの残存勢力についにとどめをさします。

合併後間もない1963年9月21日に実施されたシンガポール州議会選挙の際に、バリサンの支持基盤である労働組合の銀行口座を凍結するよう、政府が命令を出すなどして選挙のための資金を不足させて選挙活動を妨害するとともに、マレーシア連邦政府が人民行動党を支持したのです。

選挙の結果、全51議席のうち人民行動党が37議席、バリサンが13議席、無所属1議席となり、人民行動党の勝利に終わりました。

その後、指導者を失ったバリサンは内部対立を繰り返して、急速に勢力を縮小していきました。

こうして、マレーシアとの合併問題を通じて政治的対抗勢力であった共産系グループを弱体化させ、選挙で圧勝した人民行動党はこの選挙以降、これに対抗できるほどの勢力が姿を消し、事実上の人民行動党による一党独裁が確立されていきました。

それまでの共産系グループとの闘争をふりかえってリークアンユーは「やるか、やられるか」の日々の連続であったと言っています。

そのような熾烈な政治闘争によって、華語系華人らで構成される共産系グループを党内から駆逐し、無力化させたことで同党のキャスティングボードを握ったリークアンユーら英語教育グループが、シンガポール社会をリードする集団として固定化していきます。

これはその後のシンガポール社会が、「管理」「成長」「安定」といった彼ら英語エリート層の価値規範によって構築・運営されていくことを意味していました。

他方、1954年の人民行動党結成からバリサンとの闘争に勝利した1963年までのあいだにプライベート面では長女のウェイリンと次男のシェンヤンが誕生し、5人家族となりました。

妻のクワギョクチューは夫が政治闘争に奔走するなかで、弁護士事務所の経営を担いつつ、子育てをしながらリークアンユーの政治活動を支えました。

マレーシア時代のリークアンユー

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マレーシア連邦の一員として

国内の政治闘争に勝利したリークアンユーのもう一つの懸案が、「独立」でした。

イギリス連邦内の自治州として完全自治を獲得したとはいえ、イギリス支配を完全に脱し得ない状況を変えたい、というのがリークアンユーの思いでした。

しかしながら、シンガポールが単独で独立するのは非現実的であるとリークアンユーは考えていました。

つまり、マレーシア連邦の一員として、イギリスの支配から脱却することを目指したのです。

そもそもシンガポールとマレー半島は、ひと続きの地域として同じ社会に属しつつ、歴史的、社会的、経済的、政治的に有機的な繋がりをもっていました。

それが分断されたのは、イギリスによる植民地としての線引きがなされたことに起因するものでした。

シンガポールに住むいずれの民族にも、家族など血縁のある者がマレーシアに住んでいるということが多く、食料や水といった生存に必要なものもマレーシアに依存していました。

このようなことを考慮すれば、マレー半島の一部としてマレーシアと合併しようという構想はむしろ自然なことでした。

リークアンユーは、次のように合併の必要性を説いています。

 

我々は単独では生存できません。合併が遅れれば、我々すべてが、労働者も、行商人も、事務員も、技術者も、ビジネスマンも区別なく、苦しむことになります。ビジネスが減り、利益が減り、賃金が減り、仕事が減ります。(『政治哲学』)

 

そして、一部にあるシンガポール単独独立論については「愚の骨頂」として退けました。

シンガポールの人びとの多くも、マレーシアとの合併を違和感なく受け入れました。

そしてすでに述べたように、シンガポール住民による投票をへて、マレーシア連邦の12番目の州としてシンガポールは植民地からの独立を達成しました。

それは1963年9月16日、リークアンユーの40歳の誕生日の出来事でした。

連邦との関係冷え込み

しかし、シンガポールと連邦との良好な関係はすぐに冷え込んで行きました。

140年のあいだイギリスの植民地政策によって分離させられていたことの重みは、関係者が当初考えていたよりもずっと重かったのです。

シンガポールは連邦を構成する他の州とは大きく異なる独自性があり、政治力・経済力という点からも他を完全に圧倒する力を有していました。

シンガポールはさらなる発展を熱望していましたが、連邦政府は他州とのバランスを重視してシンガポールの独走を心良く思いませんでした。

それに加えて、民族問題がさらに関係を悪化させます。

マレー人優遇を図りたいマレーシア連邦政府に対して、イギリス統治時代に流入した中華系住民である華人が大半を占めているシンガポールは、マレー系・中華系住民の平等を主張しましたが、連邦は連邦政府への華人の戦力拡大を危惧してマレー人優遇政策を固持しようとしました。

こうして、徐々に連邦とシンガポールとのあいだに軋轢が生じていきました。

連邦の主導権をめぐる政治対立へ

そしてこのような対立は、連邦の主導権をめぐる政治対立へと発展していきました。

当時のマレーシアでは、マレー人による統一マレー人国民組織が政治を主導していて、華人によるマレーシア華人公会とインド人によるマレーシア=インド人会議の2つの政党がこれを支える、という三党連合を軸に運営されていました。

連邦内の地域政党であった人民行動党はその切り崩しをはかり、連邦内での発言力強化を図ろうとしました。

マレーシア華人公会に代わって、マレーシアの華人を代表する政党として統一マレー人国民組織の連携政党になろうと画策したのです。

1964年3月に実施された連邦総選挙では、マレー半島各州において候補者を擁立し、その実現を目指しました。

それ以前から、シンガポールはマレー系住民の優先政策を進める連邦政府と対立しており、リークアンユー首相が率いる人民行動党はマラヤでも中国系住民を基盤に支持を伸ばしてはいました。

そして、マレーシア連邦政府与党である統一マレー国民組織とシンガポールの人民行動党とのあいだで、互いの地盤を奪い合う激しい選挙戦が繰り広げられました。

人民行動党は選挙にあたってサバ、サラワクとともに野党連合を結成し、マレーシア連邦政府との対決姿勢を明確にしめしていきました。

マレー人優遇のマレーシア政府与党 VS シンガポール政党という構図が明白になり、その葛藤は頂点に達したのです。

しかしながら、10人の候補を擁立したのに対し、当選者はわずか1名にとどまりました。結局、この目論見は失敗に終わったのでした。

これををきっかけに、シンガポールと連邦政府の関係がさらに悪化します。

マレーシアとの合併の際に、当分のあいだはマレー半島の政治に人民行動党は進出しない、という合意事項があったからでした。

連邦政府とその与党は以降、シンガポール、そしてその首相であるリークアンユーに対する敵対の態度を露骨に示すようになっていきました。

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シンガポール人種暴動

これはやがて、マレー人と華人による民族対立となって激化していきます。

1964年7月21日にはマレーシア連邦の憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策をシンガポールでも実施するように求めるマレー系住民によるデモ隊と、一部の中国系住民が衝突する事態が発生して死傷者が出ました。

「シンガポール人種暴動」と呼ばれる事件です。この事件に象徴されるように、民族間の対立がシンガポールで先鋭化していたのでした。

一方のマレーシアにとっては、シンガポールを除けば華人の人口がなんとか過半数にはならなかったにもかかわらず、シンガポールが連邦内のひとつの州として存在していることにより、中国系がマレー系よりも上回ってしまっていました。

マレー人たちにとっては、シンガポールが連邦にとどまっていることで、多数派となった華人たちにマレーシアを乗っ取られるという危機感があったのです。

シンガポールにおいても、マレーシアにおいても、こうした民族対立は日々激化していきました。

リークアンユーへの圧迫とシンガポールの「追放」

マレーシアのマレー人政治家たちは、この対立の責任がシンガポールのリークアンユーにあると主張しました。

リークアンユーがマレー人を中心とする国家として建国されたマレーシアの国家原理に異議を唱えていることが、このような対立と混乱を招く原因になっている、という主張です。

こうして、彼らマレー人政治家たちのあいだで、リークアンユーの処遇が議論されるようになりました。

リークアンユーに対して強硬な態度をとるグループは、リークアンユーを逮捕するように要求しました。

他方、穏健なグループは、リークアンユーを国連大使に任命して、マレーシアから国外に出して、マレーシアの政局から離れさせるようにすればいいと主張しました。

そして、シンガポール州首相の後任にはリークアンユーの片腕として活躍し、穏健な主張をするゴーケンスイがベターなのではないか、との提案を行ないました。

いずれにせよ、連邦のマレー人政治家たちのあいだにはリークアンユーをシンガポール首相の座から引きずり下ろしてしまおう、という空気が流れていたのでした。

1977年に刊行された回顧録でマレーシアのラーマン首相は当時を振り返って、

 

リーは、シンガポールとマレーシアが一緒になるために懸命に頑張った。しかし、それ以上に、マレーシアを壊すためにもっと頑張った。

 

とリークアンユーを非難しています。

この皮肉めいた言い方からは、ラーマンがリークアンユーのことをいかに疎ましく思っていたかが伝わってきます。

ラーマンにとっては、リークアンユーという人物そのものが、自分たちが独立運動の末に建国した「マレーシアを壊す」存在であったのでした。

もう、両者とも妥協の余地がないほどに極限に達していました。

以上のような激しい対立を経て、結局、マレーシア連邦首相・ラーマンと、シンガポール人民行動党・リークワンユーは、両者の融和が不可能と判断するにいたりました。

これ以上の民族対立による国内情勢の混乱を懸念したマレーシアのラーマン首相は、シンガポールを分離してマレーシア連邦の外に放り出すこと、いわばシンガポールを連邦から「追放」するという選択をしたのです。

ラーマンは1965年8月9日にこのことを国民に告げる議会演説を行ない、シンガポールを連邦から分離したのでした。

シンガポール州の首相であったシンガポール人民行動党のリークアンユーもまた、紆余曲折の末、ついにマレーシア連邦政府との融和が不可能と判断してシンガポールの独立を決意しました。

 

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