
マレー世界における生存戦略
シンガポールが生き延びる道
つぎに、リークアンユーの外交政策についてみていきましょう。
シンガポールが小国で、かつ複雑な多種族社会であるにもかかわらず、リークアンユーの巧みな国内政治によって今日のような発展を実現した、ということはこれまでみてきた通りです。
しかし、それはリークアンユーの内政の手腕のみによるものではなく、小国として生存し、発展していくための、安定した国際関係構築の手腕によるところも大きいのです。
シンガポールは、かつて連邦の一員であったマレーシアと、東南アジアの大国であるインドネシアに囲まれた、食糧や水資源の自給もままならない小国です。
この両国にシンガポールの生存を認めさせ、共存を図るほかに、シンガポールが生き延びる道はありませんでした。
このマレーシアとシンガポール両国は、おなじマレー国家として歴史的・社会的な共通性をもっていて、宗教的にはイスラム教という共通項があり、言語的にもインドネシア語とマレー語は、そのままでもお互いが会話できるほど、きわめて近い存在です。
これに対し、シンガポールは華人国家であり、そのような種族的異質性は関係構築を困難にする要素になり得ます。
このような状況でマレーシアからの分離独立をはたしたシンガポールを、マレーシア、インドネシア両国は、すぐさま国家承認をおこないました。
しかし、国家として承認されることは、そのまま両国と良好な関係を構築することとイコールではありません。問題は、両国といかにパートナーとしての関係を築くことができるか、です。
両国は、シンガポールにとって軍事的ありは政治的脅威にもなりえますが、小国であるシンガポールがこれらの国に軍事的に対等に対抗するのは現実的ではありません。
あくまで、両者を尊重しつつ、共存共栄の道をさぐっていくことのみが現実にのこされた、唯一の選択肢でした。
マレー世界の情勢変化と三国協調
シンガポールが分離独立した1965年に、クーデターによってインドネシアで政権の座についたスハルト大統領は、第三世界ナショナリズムを主張してマレーシア連邦結成を「イギリス帝国主義の陰謀」とまで言っていたスカルノ前大統領とは異なり、政治対立よりも、開発と地域の発展を唱えました。
これにより、東南アジア諸国のあいだにあった対立関係が解消していきました。
このようなスハルトの登場による、インドネシアの外交政策の変化は、この地域におけるシンガポールの生存を可能にしました。
もう一方のマレーシアでも、リークアンユーにとっては連邦から追放したという因縁のあるラーマン首相が1970年代のはじめに引退し、1980年代には近代化と経済発展を重視するマハティールが首相に就任しました。
このような両国の変化により、シンガポールとインドネシア、マレーシア両国は、開発による発展という共通の目標をもって、隣国としてより深い協調関係を構築していくこととなりました。
三国の指導者間の信頼関係による協調を目指していたリークアンユーにとって、これは両国との関係構築を理想的なかたちで成功に導いた、といえる結果でした。
協力関係の進展と「成長の三角地帯」
1989年には、シンガポールとマレーシアのジョホール州、インドネシアのリアウ州が、地理的な近接性を生かして労働や産業の分業を通じて共同で地域の開発と発展を推進していく「成長の三角地帯」がスタートしましたが、これはシンガポールの提案によるものでした。
これによって、シンガポールは両国の労働力や土地を利用して労働力の不足緩和や経済圏拡大を図ろうとしたのでした。
一方で、マレーシアやインドネシアにとっても、シンガポールの資本と技術を導入することで、シンガポールの発展の成果が自国に伝播することを期待しました。
また、これら三国は共同軍事訓練を実施するなど、安全保障面でも関係を深めていくことになりました。
以上のようにして、分離独立当初には困難な状況にあったインドネシアとマレーシアとの関係構築について、リークアンユーは、その巧みな外交戦略と、両国における政治的環境の変化により、これを成功に導いてきたのでした。
シンガポールとアメリカとの関係
「非同盟中立」と反米的姿勢
今日、シンガポールとアメリカは比較的良好な関係にありますが、当初からそうであったわけではありません。
シンガポールが1965年に、マレーシアから分離独立した直後には、「非同盟中立」を外交方針としてかかげ、極端ともいえる反米の姿勢を示していました。
1965年8月、シンガポール政府は、アメリカ政府の中央情報局(CIA)が、1960年にシンガポール政府の役人を買収して、秘密情報を入手していたことを暴露しました。
これに対し、アメリカ政府は公には否定しましたが、裏でアメリカが、シンガポール政府に対して、国務長官の署名のはいった謝罪文を送り、経済援助を申し出ると、リークアンユー政権は、そのことも暴露してしまいます。
このとき、リークアンユーは、このようなアメリカの姿勢を批判して、「アメリカはアジアの指導者を理解するのに必要な経験と英知に欠けている」と述べました。
以上のような、非同盟中立外交の方針や、アメリカに対する厳しい態度には、マレーシアから分離独立してから間もないシンガポールにとっては、その生存のために、当時、つぎつぎと独立を達成して、国際的な発言力を高めていた新興のアジア・アフリカ諸国からの支持が必要であった、という事情もありました。
イギリス軍の撤退と対米政策の変化
しかし、1966年2月にシンガポールに駐屯していたイギリス極東軍の全面撤退が発表されると、このような外交方針は変更されることになりました。
小国であるシンガポールにとって、シンガポールに駐屯していたイギリス極東軍は、シンガポールの安全保障の要であり、これが撤退するとなると、代替する安全保障体制を構築することが緊急の課題となりました。
そこで、シンガポールが考えたのがアメリカの軍事力に依存した安全保障体制の構築でした。
リークアンユー政権は、これまでの対米姿勢を180度転換し、アメリカの東南アジアにおける軍事行動を全面的に支持し、経済関係も強化していくようになりました。
リークアンユーはのちに、アメリカのパワーのもつ意味を次のように語っています。
大まかに言って、現在我々が住んでいる統合された世界を創り出したのは、アメリカのパワーです。……私の考えでは、東アジアの国際秩序の持続のためには、アメリカのプレゼンスが不可欠です。(『中国・香港を語る』)
アメリカによるベトナム介入への協力と戦争特需
この時期は、アメリカがベトナムで本格的に軍事介入を展開していましたが、南ベトナムに駐留する米軍が、艦船や軍用機の修理・補修を行なうためにシンガポール軍の基地を利用することを認めました。
さらに、南ベトナムに対する石油および石油製品の大量輸出を決定するなどして、アメリカのベトナムにおける行動とアメリカが支援する南ベトナムを支えました。
このようにアメリカの行動を支えたのは、アメリカのアジアにおける軍事的・政治的プレゼンスが、シンガポールの生存と発展にとって、プラスになるというリークアンユーの考えがあったからでした。これについて、リークアンユーは、
我々はアメリカと西欧に感謝すべきだと思います。共産主義の拡大を防いでくれたのですから。もし彼らが防いでくれなかったら、シンガポールは共産化して、カンボジアやベトナムと同じくらい窮乏していたでしょう。(『中国・香港を語る』)
と、アメリカのパワーが、共産主義の拡大を防ぎ、シンガポールの発展を可能にした、と語っています。
端的に言えば、リークアンユーは、アメリカのパワーがシンガポールの政治体制を確立してくれた、と考えていたのでした。
その一方で、シンガポール経済も、これによって一定の利益をあげました。
1969年には、シンガポールの全輸出額の9.4%が南ベトナムへの輸出で占められていました。
このように、分離独立から間もないシンガポールは戦争特需で大いに潤いました。
リークアンユー首相の訪米
1967年10月には、リークアンユーは首相として初めてアメリカを訪問しました。
シンガポールとアメリカの首脳会談ののち、「両国関係の緊密化を約束する」という共同声明が発表されました。
そののち、リークアンユーはアメリカ各地を訪れて演説し、アメリカの企業・投資家たちにシンガポールへの投資をうったえました。
そして、この時期に、外国資本誘致を促進するシンガポール政府傘下機関である、経済開発庁の海外事務所がニューヨークやシカゴなどに設置され、両国の経済関係強化とアメリカ資本誘致体制の強化がはかられました。
アメリカの価値とシンガポールの価値
以上のように、アメリカとの関係を重視してきたシンガポールですが、アメリカがシンガポールの政治体制や社会価値に対して干渉することは決して容認せず、アメリカの文化や価値観がシンガポール社会に過度に浸透することを政府はよしとしませんでした。
むしろ、シンガポールの価値こそが欧米のそれよりも優れている、という姿勢でした。
リークアンユー政権の時代にそのことが顕著にあらわれているのが、「家族の絆」重視です。
このような政策の背景には、欧米的な価値の浸透や経済発展による忍耐、規律、秩序、愛国心といった「アジアの価値」が忘却されていくことへの政府の危機意識があり、このような「アジアの価値」を伝える役割を家族が担うべきである、という考えがありました。
また、リークアンユー政権を継いだゴーチョクトン政権においても、シンガポール在住のアメリカ人らが駐車中の車60台以上、さらに道路標識を破損させたことにより、有罪判決を受けた「マイケル・フェイ事件」におけるアメリカとの葛藤がありました。
裁判では犯行グループの中心であった18歳のアメリカ人、マイケル=フェイに罰金と禁固刑とともに、鞭打ちが言い渡されました。
この判決に対して、アメリカは「鞭打ちは拷問であり、人権侵害」だとして、反発し、当時のクリントン・アメリカ大統領までがこの問題について言及するなど、国際問題に発展しました。
しかし、これに対してシンガポールのゴーチョクトン首相は「社会の長期的利益の方が個人の利益に優先する。社会の安定と秩序の確立こそが重要」と反論して、刑を執行しました。
このような姿勢は、リークアンユー以来の、シンガポールの体制と価値を重視する姿勢が、引き継がれた結果であるといえるでしょう。
以上のように、リークアンユー政権は、アメリカをシンガポールの経済と安全保障上のパートナーとして重視してきました。
しかしながら、その一方で、政治制度や社会価値という面ではアメリカよりも自分たちの方が優秀であると考えて、アメリカからの干渉を断固として退ける態度を貫いているのです。
ASEANの一員として
ASEAN結成
分離独立当初のシンガポールは、華人が多数を占める「華人国家」として、周辺の「マレー国家」から警戒される存在であったことはすでに述べたとおりです。
さらにマレーシアとは分離独立の際の摩擦が尾をひいている状態であるうえに、安全保障上の頼みの綱であったイギリス極東軍のシンガポールからの撤退は、シンガポールが生存していく上で、東南アジア諸国といかに共存していくか、という課題をつきつけました。
そんななか、1967年8月、ASEAN(アセアン・東南アジア諸国連合)が結成されることになり、シンガポールも結成時の加盟国として、そこに加わりました。
ASEANのメリット
ASEANは、インドネシア、マレーシア、タイという反共親米国家により東南アジア諸国の連合組織として結成されたもので、独立したばかりの小国であるシンガポールにとっては、加盟によって独立国家としての地位が国際的に認知されることのほか、東南アジアの一員として、他の反共的な東南アジア諸国との友好関係を構築していくことにより、イギリス極東軍撤退後の東南アジア地域における安全保障上の懸念材料を減少させるというメリットがありました。
しかし、シンガポールがASEANに期待したのは、それだけではありませんでした。
それは、東南アジア地域における経済協力でした。
1967年の結成当時から、「地域の経済協力」が目標のひとつとして掲げられていたことは、経済発展による国力伸張をめざしていたリークアンユーの意図と思惑が一致するものでした。
実際に、地域における経済協力の具体的プランが本格化するのは冷戦崩壊後、そしてリークアンユーが首相を退いたあとになりますが、シンガポールは「ASEAN自由貿易地帯構想」(AFTA)推進の中心的役割を果たす加盟国として、東南アジア地域に自由貿易地帯を実現するために尽力しています。
リークアンユー政権下の対日関係
「血債問題」
戦後日本とシンガポールにとって、最大の懸案であったのは、日本軍がシンガポールを攻撃、占領した際に発生した華僑虐殺や強制労働の清算問題でした。
1950年代までの時期は、華人社会を中心に日本に対する被害調査と賠償を求める声がありました。
しかし、シンガポール内部の政治的混乱によって、このような声はかき消されてしまう傾向がありました。
ところが、1962年にシンガポール島東部において、日本軍の虐殺によるものと思われる大量の人骨が発見されると、対日賠償要求が「血債問題」としてシンガポールの人びとの関心事となり、運動が盛り上がりました。
同年8月には、虐殺の真相究明と被害者調査、日本の賠償を求めて10万人規模の反日集会が開かれました。
「血債問題」の終結
このような動きを抑え込もうとしたのが、当時はまだ自治政府であった、リークアンユー率いる人民行動党政府でした。
当時のリークアンユー政権は、マレーシアとの統合とともに、シンガポールの工業化推進のために日本の協力を求めたいと考えていました。
その後、マレーシア連邦離脱による完全独立によって、日本との経済関係強化は、シンガポールの生存には欠かせないものとなっていました。
このため、リークアンユー政権は、「血債問題」を急いで決着しようとしました。
その結果、1966年に日本が5000万マレーシアドルをシンガポールに援助することで、この問題を終結させました。
その翌年、1967年には、犠牲者慰霊塔をシンガポール市内の中心部に建立し、遺族たちの反日感情を慰撫しようと努めました。
経済的結びつきの強化
リークアンユー政権は、世界的な枠組みではアメリカのもとで、そしてその傘の下で、アジアでは日本の経済力をテコに、国際的な経済システムに参入しようとしていました。
「血債問題」がリークアンユーら政府関係者の努力により、ひと段落ついた1970年には、日本の皇太子夫妻がシンガポールを訪問しましたが、シンガポール政府は大いに歓迎しました。
当時、発展するシンガポール経済の象徴であったジュロン工業地帯に、皇太子夫妻をリークアンユーみずからが案内しました。
日本との経済的な結びつきをより一層、進めようとしたのです。
こうして、1970年代には日本は、シンガポールへの最大の投資国であり、シンガポールの最大の貿易相手国となりました。
その後も、リークアンユーは一貫して、親日政策をすすめ、日本からの投資や観光客誘致につとめました。
日本に学ぶ運動
1970年代後半になると、リークアンユー政権は、「日本に学ぶ運動」をシンガポール国内で展開します。
これは、自身の仕事に一生かけて取り組む日本人の職業倫理を学ぶよう、国民に訴えるものでした。
また、日本式の制度の導入もはかります。
たとえば、日本式経営とよばれる日本独自の経営方式、日本独特の労働組合の形態である企業別組合、地域と密着した交番の制度といったものがそれです。
さらに、シンガポール国立大学には日本研究科が開設され、若年層に対して、日本文化や日本語の学習が奨励されました。
このような経緯をへて、シンガポールには次第に親日的な雰囲気が育ち、戦争を知らない世代が増えた1980年代以降には、アニメやゲームといった日本のポップカルチャーが、若者を中心に受容されるようになっていきました。
リークアンユーの懸念
このように、リークアンユーとその政権は、アジアの大国としての日本の力をシンガポール発展のために最大限に活用しようとしましたが、唯一、リークアンユーが日本の力に依存しようとしなかったものがありました。
それは、政治・軍事力です。リークアンユーは、1990年代はじめに、つぎのように述べています。
日本軍国主義の復活に対する恐怖は、合理的というよりも感情的なものです。しかし、恐怖そのものは現実のもので、東アジアの多くの国の日本に対する姿勢に影響を与えます。……日本が再び海外に軍隊を派遣することを許すのは、まるでアル中患者にウィスキー・ボンボンを与えるようなものです。日本がいったん何かを始めたら、途中で止まるのは難しい。(『中国・香港を語る』)
リークアンユーは、第二次世界大戦での経験から、日本には地域における軍事的役割を果たすことを求めず、むしろ否定的でした。
しかし、これは単に反日的な意見とも言い切ることはできません。
むしろ、日本人の国民性を高く評価していたからこそ、出た言葉でもあります。
それは最後の「日本がいったん何かを始めたら、途中で止まるのは難しい」というフレーズからうかがうことができます。
すなわち、リークアンユーは別の発言で、日本の国民性を一度なにかをやると決めると、最後まで完璧にやり遂げようとする、と評価しています。
だからこそ、日本は経済大国になれた、と言うのです。
前述の「日本に学ぶ運動」も日本人のこのような国民性に学ぶことをシンガポール国民に求めるものでした。
一方で、リークアンユーが憂慮するのは、このような、賞賛すべき日本人の国民性が、軍事力の追求というかたちであらわれたときの、リスクなのです。
つまり、日本が軍事化を追求しはじめると、その国民性から、徹底した、完璧な、世界中が脅威に感じるような軍事大国を目指すのではないか、と懸念しているのです。
歴史教育と日本の2つのイメージ
1970年代までは、シンガポールでは歴史教育が行なわれていませんでしたが、1980年代になると学校で歴史教育が行なわれるようになり、その時期以降に学校教育を受けた世代は戦時中の日本軍の占領について知るようになりました。
シンガポール国民にとって、日本は2つの顔をもつ存在であるといえます。
ひとつは、第二次世界大戦のときの占領軍、もうひとつが、戦後の、すぐれた工業製品を生み出し、アジア諸国に投資をするという経済大国、というものです。
とくに、リークアンユー自身が日本軍占領期の生々しい経験をもっているため、彼の内面には、この2つの日本のイメージが交錯して存在しているのでしょう。
したがって、リークアンユーは日本がかつてのように軍事大国化することを警戒しながらも、他方で経済大国としての日本の役割を重視し、過去を克服して、親日政策をすすめる道を選んだのでした。
欧米的価値とアジア的価値
欧米的価値の相対化
リークアンユーのアイデンティティは英語によるエリート教育によって育った海峡華人でした。
したがって、リークアンユーの価値規範は基本的にアジア的なものではなく、欧米的なものでした。
そのため、シンガポールを建国したリークアンユーは、華人国家であるシンガポールを、いわば「非中国化」、「欧米化」することに力を注いできたともいえます。
しかしながら、1980年代以降、リークアンユーはアジア的価値を賞賛しつつ、欧米的価値を相対化したり、批判したりするような発言を、活発にするようになっていきました。
欧米式民主主義普遍化への批判
とりわけ、民主主義をめぐる発言に、そのような内容が多くみられます。
リークアンユーは西洋式の民主主義が世界共通の価値なのか、それはアジア社会には適合しないのではないか、という疑念を抱いていました。
そして、そのような問いのすえにいたった結論はつぎのようなものでした。
すべての西欧的価値が支配的になるということではない。私に言えることは、西欧的価値が実際にすぐれていて、ある社会がすぐれた実績を上げ、生存していくのに役立つのであれば、普遍的にあるだろうということです。それは進化論の「適者生存」の過程だと、私は心の底から信じています。西欧的価値を採用すれば、その社会の生存の展望が暗くなるなら、採用は拒否されるでしょう。(『中国・香港を語る』)
さらに、アジアの政治形態がどうあるべきかについて、リークアンユーはつづけて、
すべての国がそれぞれ独自の代表型政府のスタイルを作り出していかねばなりません。実際、欧米民主主義のやり方を修正し、欧米とは異なる自国の環境に適応させない国は、経済発展に成功しないように思われます。(『中国・香港を語る』)
と言います。
つまり、欧米民主主義は絶対的・普遍的なものではなく、それは「社会の生存」という観点から、それぞれの社会がその採否を決定すべきであり、欧米民主主義を実情にあわせて修正・適応させながら、各国が独自の国家統治体制を創出していくべきだ、としているのです。
ここにはリークアンユーの実利主義的な思想が見え隠れしますが、欧米民主主義を相対化する見方は徹底しています。
シンガポール型民主主義
リークアンユーには、個人を重視する欧米社会に対して、家族を重視するアジア社会、というように対照的に欧米社会とアジア社会をとらえつつ、アジアの政治社会は個人の自由や権利より、社会全体の利益や安定を優先させるものである、という考えがありました。
1980年代になると、アジアの開発主義国家では、国民による民主化の要求が高まり、フィリピンや韓国では、独裁政権が倒れ、民主化がすすみました。
一方で、1980年代末以降、ソ連や東欧などの共産主義諸国でも次々と民主化がすすむなか、中国では民主化をもとめる学生らを人民解放軍の武力により制圧した天安門事件をへて、経済の改革開放をすすめつつ、共産党の一党独裁を堅持しました。
その後、中国政府と共産党は政治の民主化よりも経済発展への道をまい進することで、国民の支持を獲得しようとしました。
このような情勢にあって、リークアンユーは、あくまで経済開発を優先して、民主主義はそれを妨げない範囲で、という姿勢だったのです。
これこそが、リークアンユーが主張する「シンガポール型民主主義」です。
このような考えは、現在の中国もふくめてアジアの開発体制に共通するものですが、そのなかで、これを維持し、経済面でもっとも着実に成功をおさめているのがリークアンユーがリードしてきたシンガポールでした。
その体制をささえる価値として、個人を重視する欧米の社会価値ではなく、集団を重視する、という「アジア的価値」を強調し、その成果を示すことで急激な民主化ではなく、さらなる経済発展への道を進もうとしたのでした。
アジア的価値への転換
アジアの経済成長と中華圏志向
このようなリークアンユーの欧米的価値からアジア的価値への転換とその強調は、単に理念のレベルにとどまるものではありませんでした。
このことは、1980年代のアジア諸国の急激な経済成長と大いに関係がありました。アジアの経済成長が、リークアンユーの視線を欧米からアジアへと転換させたのです。
リークアンユー政権は、独立国家シンガポールの形成期である1960年代から70年代にかけては、シンガポール社会の英語化を推進し、対外的には欧米が主導する国際秩序のもとでの独立維持と経済発展を追求しました。
もちろん、マレー諸国やASEAN諸国との連携は重視しましたが、対内・対外政策の基調は、いずれも欧米志向であったといえるでしょう。
しかし、このようなリークアンユー政権の欧米志向は1980年代、とくにその後半になってアジア志向、とくに中華圏志向へと一転します。
儒教の奨励
1980年代後半に、シンガポール政府は華人が儒教を学ぶことの重要さを強調するようになりました。リークアンユーはつぎのように述べています。
儒教は二つの面で役に立ちました。ひとつは、国や社会のために、個人の利益を犠牲にすることをいとわない気持ち。もうひとつは、コンセンサスを求める習慣です。(『中国・香港を語る』)
この言葉は、上でみた欧米の個人主義との対比として、儒教を学ぶ意義を簡潔に語ったものですが、このような考えから、華人に儒教を学ぶように奨励したのでした。
シンガポール華人団体総連合会の結成
さらに、シンガポール社会が華人社会であることを維持させるような政策も登場します。
1986年に政府主導により、華人団体を結集させ、「シンガポール華人団体総連合会」が結成されました。
さらに、中国の改革開放が進展するにつれて、華人資本による中国への投資が活発化し、これまで国内産業への投資では外国資本に先を越されていた華人資本が収益を上げるようになりました。
シンガポール政府もこれを利用し、華人資本による海外投資政策を展開するようになっていきました。
このような流れは、1990年にリークアンユーが首相を辞任して以降もさらに顕著になりますが、1991年にはシンガポールが開催国となって「第一回世界華商大会」をシンガポールで開催し、つづいて1993年に香港で開催された「第二回世界華商大会」でもリークアンユーは現地に赴いてスピーチをしました。
「華人国家」の宣言
こうした姿勢は、これまでタブーであったシンガポールが「華人国家」であることの宣言であるともいえます。
すでに冷戦は終結し、ASEANの枠組みも確固たるものとなっていたこの時期、周辺に遠慮する必要がなかったこともありますが、発展するアジア、なかでも中国や台湾、香港、そして東南アジアの華僑ネットワークをシンガポールの発展のために活用しようという、リークアンユーの実利主義・実用主義的な思想と政治姿勢を反映したものでしょう。
リークアンユーは1990年代にはいって、つぎのように語っています。
過去30年間を振り返ると、わが国の人口の77%を占める華人が中国の伝統的価値を保持していたのは、幸運だったと思います。(『中国・香港を語る』)
この発言は、社会の英語化をすすめていた時代のリークアンユー自身を批判するもののようにも聞こえます。
じつは、独立間もないころに、自身がすすめていた英語重視の教育のデメリットについて、
英語教育はこの多種族社会に共通語と共通の環境、そして共通の価値観さえ与えているが、同時に、自前の文化を保持している民族のもつ気迫や活力や文化的勢いを奪ってもいる。(『政治哲学』上)
と指摘しています。
アジア的価値の重視が、単なる変節や豹変ではなく、リー=クアンユーはその重要性を問題意識として保持していたといえるでしょう。
しかし、それは独立当初の段階にあっては国内的には共産主義系の華語派華人との対立、国外的にはマレー国家に囲まれた地政学的環境や世界的な冷戦構造によって、「華人国家」として歩むことはリーダーとして不可能なことでした。
実利を重視するリークアンユーであればなおさらでしょう。
「華人が中国の伝統的価値を保持していたのは、幸運だった」という言葉が出たのは、リークアンユーにこのような思いがあったからではないでしょうか。
リークアンユーは言います。
シンガポール社会の重心は、その価値観、姿勢、好みにおいて、依然としてアジアの伝統にあるのです。(『中国・香港を語る』)
これは、シンガポールが「華人国家」であることを明言したものです。
もちろん、このような中華圏志向への転換、「華人国家」の強調は、リークアンユーならではの、実利を追求するためのものでもありました。
と同時に、自身が英語教育を受けながらも華人である、というアイデンティティが、英語重視という方針は変更しないままに、アジア的価値、華人国家の強調という、一見相反する方針を並行させることになったのではないでしょうか。
リークアンユーのこのような姿勢は、21世紀になって、グローバル化が進展し、アジア各国でますます社会の英語化が求められている状況と、中国経済の台頭への対応という2つの課題を1980年代の時点で先取りしてその進むべき方向を示していた、といえるでしょう。
中華圏志向は、まさしく、リークアンユーの「先見の明」だったのです。
下記はリークアンユー氏に関する記事の一覧です。
リークアンユーのあゆみ【完全ダイジェスト版】 約1万7千文字
シンガポール建国の父、リークアンユー:その生涯と政治・思想 約13万文字
リークアンユーの外交戦略 今回の記事