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シンガポールの前近代

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交易船が出入りする海港「トマセック」

ラッフルズ以前のシンガポール

イギリス東インド会社のラッフルズが上陸する以前のシンガポールについての歴史的叙述においては、長いあいだ「貧しい漁村だった」という叙述が一般的でした。

これまで、ラッフルズ上陸以前のシンガポールについては文献史料がほとんどないとされていて、マラッカ王朝までのマレーの歴史書(歴代王の記録)である『マレー年代記』に記された神話だけが知られるのみでした。

婆羅洲

シンガポールに関する歴史的な記述で最古のものは3世紀の中国の文献です。そこでは「半島の先端の島」を意味するプールォチュンPu-luo-chung(漢字表記:婆羅洲あるいは蒲羅中)という名称で呼ばれています。

トマセック

7世紀ごろには古代インドネシアで栄えたシュリーヴィジャヤ王国の勢力下にありました。シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配していた、多くの港市国家をしたがえる交易帝国でした。

東にスマトラ島のパレンバン、西にマレー半島西岸のクダあるいは北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていました。

このシュリーヴィジャヤという海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドとも活発に交易をおこないました。

そして、当時のシンガポールは漁村「トマセック」として知られていました。「トマセック」というのは「海の町」という意味です。この名のとおり、トマセックはあらゆる航路が交差するマレー半島の先端に位置するという地理的条件もあって、いろいろな国の船舶が寄港していたとされています。

マジャパヒト王国の支配

シュリーヴィジャヤ王国が没落してのち登場しするのがマジャパヒト王国です。マジャパヒト王国はジャワ島に興ったヒンドゥー教の王朝です。

もともとジャワ島にはシンガサリ朝がありました。1292年に元のフビライ=ハンの遠征活動で、元の侵入を受けました。

この時、反乱が起こって当時ジャワ島を支配していたシンガサリ朝のクルタナガラ王が殺されます。

その女婿のヴィジャヤはジャワ島東部のマジャパヒト(苦い果実という意味)村に落ち延びて、王位回復のため元軍の協力を取り付けるのに成功して、反乱軍を鎮定しました。

こうして成立したのがマジャパヒト王国です。その後、王は巧みに元軍を帰国させてマジャパヒト王国の独立を保ち、元および明に朝貢をしながら、存続しました。

そのマジャパヒト王国の宮廷詩人であるプラパンチャが14世紀に書いた『王朝栄華物語』にはマジャパヒト王国の服属国としてトマセックの名が登場しています。

このことから、少なくとも14世紀まではこの名で呼ばれていたようです。

また、同じ時期に書かれた中国・元代の旅行家である汪大淵の旅行記『島夷誌略』にも現在のシンガポールには「海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた」ことなどが記録されていることから、外国船が停泊する貿易港として当時から機能していたことが分かります。

パラメシュワラ王

『マレー年代記』の記録では、フォート・カニングの丘の王宮最後の王であるパラメシュワラ王が14世紀末にマジャパヒト王国に襲撃されたためにマレー半島のマラッカに逃れてマラッカ王国を建国した、とあります。

しかしながら、パラメシュワラ王がシンガポール最後の王を殺害して数年間統治したが、タイ南部のアユタヤ朝からの攻撃によってマラッカに逃げた、とする別の文献もあります。

こうした内容の若干の相違はあるものの、これら文献からうかがうに、14世紀にはフォード・カニングを中心とするシンガポールの王朝があったということが分かります。

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マラッカ王国支配下の「シンガプーラ」

マラッカ王国

マジャパヒト王国で内戦(パルグルグ戦争)が発生し、パレンバンの王子パラメシュワラが内戦を逃れてマレー半島各地を転々としていました。

パラメシュワラがシンガプーラ(現在のシンガポール)に逃れた際、アユタヤ王の女婿であったシンガプーラ王を殺害した事件を契機として、シンガプーラを含むマレー半島の覇権をめぐってマジャパヒト王国とアユタヤ朝シャム(タイ)とのあいだの対立が激化します。

機をみてマラッカに移ったパラメシュワラは1402年、マラッカ王国を建国しました。

「シンガプーラ」

そして、現在のシンガポールもその支配下におさめることとなりました。

パラメシュワラが登場する14世紀末ごろからこの地の呼称として「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ」という名称が定着し、現在の「シンガポール」(Singapore)の由来となりました。

なぜ「シンガプーラ」かは諸説ありますが、言語的にはインドの古典語であるサンスクリット語に由来するものです。

すなわち、サンスクリット語で「ライオン」を意味するSingaと「集落、漁村」を意味するPuraがあわさって、「ライオンの街」という意味をもつ「シンガプーラ」(Singapura)となりました。

あらゆる説のうち、古代インドネシアにあったシュリーヴィジャヤ王国の王子が暴風のためこの島に上陸した際に、これまで見たこともない異様な動物を見て、これをライオンだと誤認したことがその名の由来であると言う伝説は有名です。

他には、マジャパヒト王国の属国地の通称であるという説や「シンガ」は寄港を意味するもので、単に寄港地という一般名称であったとする説などがありますが、シンガポールではスマトラよりここを訪れたサン・ニラ・ウタマという人物によって建設され、彼によってこの名がつけられたとする説を通説としています。

鄭和の記録

15世紀に皇帝の命により東南アジアを経て中東からアフリカまで遠征した中国・明代の鄭和(ていわ)の記録には、シンガポールが重要な寄港地として登場しています。

貿易拠点として15世紀にいたっても繁栄していたことがうかがえます。

大航海時代のはじまり

モンゴル帝国の衰退

ここで、やがてシンガポールもその波に呑み込まれることとなる、世界的な歴史の動きに目をむけてみましょう。

15世紀になるとこれまで強大な勢力でユーラシア大陸を制したモンゴル帝国が衰退しました。ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土を有するモンゴル帝国の支配は一方で東西交易を活性化させていましたので、ヨーロッパにとっては東方の軍事的脅威であると同時に、経済活動の原動力ともなっていました。

したがって、モンゴル帝国の衰退は少なからず、ヨーロッパの経済に影響をおよぼしました。

オスマン=トルコの勢力拡大

そこに、さらにヨーロッパにとって不利な要素が加わりました。15世紀中頃まで、東洋との貿易はシルクロードを通して行なわれていました。

そこでは、ヴェネツィアやジェノバといったイタリアの海洋都市国家やビザンツ帝国が仲介商人として活躍していました。

ところが、西アジア地域で勃興したイスラム教徒のオスマン=トルコが勢力を伸ばし、その勢力圏を拡大していました。

そして、1453年にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、繁栄していたイタリアの都市国家にも勝利して地中海の制海権を奪うこととなりました。

こうして、東西交易の中継地を制圧したオスマン=トルコは、地中海交易を支配するようになったのです。

そして、地中海での交易に高い関税をかけました。これによって、東西貿易の取引量は抑制されることとなり、地中海交易は次第に衰退していきました。

このような事情から、ヨーロッパは新たな交易ルートの開拓を模索しはじめます。

「大航海時代」のはじまり

他方で、15世紀の半ば、ポルトガルとスペインは国王を中心として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐する「レコンキスタ」を展開していました。

これを通じて、長期にわたって、イスラム王朝の支配を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が高揚し、国王を頂点とする中央集権制度がほかのヨーロッパ諸国よりも早い時期に成立しました。

また、このころ造船技術が飛躍的に向上し、羅針盤もヨーロッパに伝来しました。

こうしてヨーロッパ人が外洋航海することが可能になりました。

ポルトガルとスペインはイベリア半島とその周辺におけるイスラム勢力の衰退とともに北アフリカ地域に進出するようになりました。

以上のように、地中海に代わる新たな交易ルートの確保の必要性、「レコンキスタ」をつうじて成立した中央集権的絶対王政、そして航海技術の発達を背景として、ポルトガルとスペインは遠くアジアへの航路を求めて海に出て行くようになりました。

「大航海時代」のはじまりです。

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 ポルトガルのアフリカ・アジアへの進出

ポルトガルのアフリカ進出

このうち、ポルトガルはまず北アフリカに進出し、1415年、3人の王子が北西アフリカにあるセウタを攻略しました。

つづいてポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島およびマデイラ諸島を探検してシエラレオネ付近まで進出します。

さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナに拠点をつくって奴隷貿易をはじめました。

そして、ついに1488年、バルトロメウ・ディアス率いる船団がアフリカ最南端に到達します。

これにより、ポルトガルによるインド航路開拓が確実なものとなったと考えた国王ジョアン2世はこの地を「喜望峰」と命名しました。

インド航路開拓

次なるポルトガルの目標は、インドへの到達と直接交易です。

ポルトガル国王・イマヌエル1世はヴァスコ=ダ=ガマにインドとの直接航路開拓のための航海を命じました。

こうして、1497年7月8日、ヴァスコ=ダ=ガマは船団を率いてポルトガルのリスボンを出発してインドを目指しました。

ガマの船団はこれまで先人によって蓄積された航海の知識をもとに4ヶ月で喜望峰に到達しました。

そして、アフリカ南端からモザンビーク海峡に到達した船団は、イスラム商人からインドへの航路についての情報を収集しました。

1498年5月20日、ヴァスコ=ダ=ガマとその船団は前人未到の航海の末、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到達したのです。

そしてその翌年、インドの香辛料をポルトガルに持ち帰ることに成功しました。

イスラム勢力制圧

残る課題は航路の中間にいるイスラム勢力を制圧することでした。

そこで、1509年2月、ポルトガル国王の命でフランシスコ=デ=アルメイダが遠征艦隊を率いてイスラム勢力を攻撃します。

ディーウ沖海戦です。

この戦いに勝利したポルトガルは、念願のインドとの直接交易路を確保しました。

ポルトガルによる海洋帝国

その後、ポルトガルは順調にマレー半島(後述)・セイロン島へと勢力を拡大しました。

そして、1557年には中国大陸のマカオに要塞を築いて東アジア地域におけるのポルトガルの拠点とします。

また、1543年には日本の種子島にポルトガル船が漂着して鉄砲を伝えるとともに、これを契機に日本との交易もはじめました。

こうして、ポルトガルはヨーロッパ諸国のなかでいち早く、香辛料貿易によって海洋帝国を築きあげたのでした。

こうして16世紀末以降にオランダ、そしてイギリスが勃興するまで、ヨーロッパからアジアにいたる海域ではポルトガルがわがもの顔で船を航海させ、交易をおこない、ときには周辺の陸地を武力で侵略・支配する時代となりました。

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ポルトガルの侵略とオランダの隆盛

マラッカ占領

このような世界史の荒波にシンガプーラは呑み込まれます。

1509年、ディオゴ=ロペス=デ=セケイラの率いるポルトガルの遠征隊は、海上貿易で繁栄するムラカ(マラッカ)に初めて到達して通商を要求しました。

はじめ、マラッカ王国のスルタンであったマフムード=シャー1世はポルトガル人に交易と商館の建設を許可します。

しかし、インドにおけるポルトガル勢力のムスリム迫害のはなしを聞いたマフムード=シャーは、ポルトガル人の排除に急遽方針を変更して、ポルトガル人約60名を殺害しました。

これにより、ポルトガル艦隊は24人の捕虜をムラカにのこしてインドに撤退します。

報告を受けたポルトガルのアフォンソ=デ=アルブケルケ(アルバカーキ)・インド総督は1511年7月に、16隻の艦隊を率いてムラカに到着しました。

そして、マラッカ王国に捕虜の釈放と要塞建設の用地の提供、および賠償金を要求しました。

しかしながら、マラッカ側は捕虜の釈放以外の条件に難色を示します。

これに対して、アルブケルケ率いるポルトガルの武装集団は上陸してムラカの港市に攻撃を加えました。

マラッカ王国はこれに応戦して、熾烈な攻防戦が展開されましたが、同年8月に、ムラカは陥落してしまいました。

いわゆるポルトガルによる「マラッカ占領」です。

こうして、繁栄していたマラッカ王国が1511年に滅亡しました。

これにより、ポルトガル領マラッカが成立し、マラッカ王国の商人や王族の一部がシンガプーラへと逃れていきました。

シンガプーラ破壊

しかしながら、シンガプーラも1513年にポルトガルによって侵略されました。

マラッカ王国からの移住者をはじめとした現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となってしまいます。

その結果、シンガプーラは以前の繁栄の面影を失ない、以降は漁民と海賊が居住する、マングローブの生い茂るさびれた漁村となってしまいました。

マラッカ王国の王族たちは、各地に逃れ、後継王朝を築いていました。

そのうち、マフムード=シャー1世の次男であるアラウッディン=リアヤト=シャーは、1528年、マラッカ王家の分流・パハン王家の助けを得て、カンパルからマレー半島南端にあるジョホールに移り、ジョホール川上流のプカン・トゥアで王国を再建しました。ジョホール王国です。

こうして16世紀以降、シンガプーラ島は、このマラッカ王国の後継王朝として建国された対岸のジョホール王国のスルタンの支配下におかれることとなりました。

これ以降、ポルトガルはマラッカ海峡の香辛料貿易を独占し、大きな利益をあげていくこととなりました。

スペインのポルトガル併合とオランダ

他方、16世紀後半、スペインと対立して八十年戦争の最中であったオランダは、スペインが貿易制限や船舶拿捕などを行なったため大きな経済的打撃を受けていました。

そんななか、当時、東南アジアの香辛料貿易をほぼ独占していたポルトガルは、1580年にスペインによって併合されていました。

このため、オランダはポルトガルを通じた香辛料の入手が困難になっていたのです。

そこで、オランダはみずからアジア航路を開拓し、スペインに対抗する必要がありました。

オランダは1595年から1597年までの航海によってジャワ島のバンテンとの往復に成功しました。

そして、オランダのいくつかの商社が東南アジアとの取引を本格化させていきます。

しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったため、東南アジアでの香辛料購入価格が高騰しました。

加えて、一方のオランダ本国では競合商社間で価格競争が熾烈となり、香辛料の売却価格が下落していきます。

さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことにより、オランダの国際競争力への懸念をつのらせました。

オランダ連合東インド会社の発足

このような状況にあって、ホラント州の政治家であったオルデン=バルネフェルトが、香辛料貿易を行なっていた複数の商社をまとめて、1602年3月20日、オランダ連合東インド会社を発足させました。

会社といっても普通の会社ではありません。

商業活動ばかりでなく、条約の締結権や軍隊の交戦権さらには植民地の経営権といった、アフリカ南端の喜望峰以東におけるあらゆる特権が与えられた勅許会社でした。

こうすることによって外国に対抗しようとしたのです。

そして、アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフにそれぞれ支社が置かれました。

ちなみに、この会社は複数の株主による投資によって運営され、利潤が配分されていて、世界初の株式会社であるといわれています。

以上のようにして、オランダは東インド会社を組織し、国家レベルで本格的にアジア貿易に乗り出していました。

オランダ領マラッカの成立

やがて、オランダは先行していたスペインやポルトガルにかわってヨーロッパにおける海洋交易国として浮上してきます。

そして1641年、ついにオランダがマラッカを攻撃し、ポルトガルからマラッカを奪い取りました。

これによってオランダ領マラッカが成立し、今度は、オランダがマラッカ海峡の香辛料貿易を独占するようになったのです。

また、ジョホール王国はオランダの影響下にはいることとなり、シンガプーラもオランダの勢力圏となりました。

オランダ東インド会社の攻勢

さらに、オランダは日本やタイとの交易にも乗り出します。

中国との交易については、中国国内に拠点をもつことは許されませんでしたが、台湾を占拠して中国との貿易の拠点としました。

日本ではカトリック国であるスペイン・ポルトガルに警戒を強めていた江戸幕府を説得してポルトガルを日本との交易から排除することに成功し、いわゆる「鎖国」下の日本においてヨーロッパ諸国で唯一、交易が認められることとなりました。

こうして、アジアにおけるポルトガルの海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって衰退したのです。

アンボイナ事件

また、1623年にはインドネシア・モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイギリスの拠点をオランダが襲い、イギリスの商館員全員を殺害するという事件が発生します。

アンボイナ事件もしくはアンボイナ虐殺事件と呼ばれるものです。

これによってオランダはイギリスの勢力を東南アジアにおける香辛料貿易から排除し、アンボイナ島の権益を取り上げてしまいました。

このような事件の影響もあり、イギリス東インド会社やフランス東インド会社も、オランダとの競合関係を回避して、東アジアや東南アジアから撤退して、当分のあいだはインド経営に専念することとなりました。

以上のように、オランダは1602年にオランダ連合東インド会社を設立してアジアに進出して以降、ポルトガルから香料貿易を奪い取って、海上帝国を形成しました。

オランダの黄金時代

これによって世界各地からもたらされる貿易の富がアムステルダムに流れ込み、17世紀のオランダは黄金時代を迎えて栄えていました。

このように、このころの東南アジア・東アジア地域におけるヨーロッパの勢力は、イギリスやフランスを退けてオランダが最盛期を迎えており、当時のシンガプーラもまた、その勢力下にあったのです。

これまでみてきたように、前近代のシンガポールは東南アジアを制したものが支配する地でした。

そして、それらの勢力の興亡を見てきた場所だったのでした。

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2014年にはじめて歴史教科書に登場した「ラッフルズ以前」のシンガポール

シンガポール・リバー周辺の発掘調査

これらラッフルズ以前のシンガポールの歴史が次第に明らかになる重要な契機となったのが1984年からフォード・カニング、旧国会議事堂、パダンといったシンガポール・リバー周辺を中心に発掘調査が行なわれたことでした。

この調査はシンガポール国立大学教授のジョン=ミクシクによって始められました。

発掘調査ではインドのものと考えられるガラス製ビーズ、腕輪の一部、中国元代の陶器、唐宋期の銅銭など数千万にのぼる遺品が発掘されました。

これら発掘調査によって、14世紀ごろにはマレー半島の先端に位置しマラッカ海峡の玄関口となるシンガポールの地の利を活かして、 海港「トゥマセック」と呼ばれるマレー世界の交易拠点として繁栄していたことが明らかになったのです。

歴史教科書にはじめて記述されたラッフルズ以前のシンガポール

これまでほとんど顧みられることのなかったラッフルズ以前のシンガポール繁栄の歴史は2014年、つまりシンガポール独立50周年の前年になってようやく中学校の歴史教科書に建国以来はじめて記述されることとなりました。

これからも、さらなる調査・研究によって、これまで知られていなかったかつてのシンガポールの姿に21世紀の私たちが出会うことになるでしょう。

 

下記はシンガポールの歴史記事についての一覧です。

シンガポールの歴史【完全ダイジェスト版】 約1万文字

シンガポールの歴史 完全版 約10万文字

シンガポールの前近代 今回読まれた記事

「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

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