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「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

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世界帝国「大英帝国」形成と東南アジア

イギリス東インド会社設立

16世紀以降の東南アジアには前述のポルトガルによるマラッカ占領をはじまりとして、その後、1571年にはスペインがフィリピンのマニラを占領、さらにオランダによるインドネシアのジャカルタ占領というように、次々とヨーロッパ諸国が貿易拠点の確保を目的として進出し、みずからの勢力圏として次第に植民地化していきました。

そのようななか、イギリスがその列に加わりました。

1577年から1580年にかけてのフランシス=ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出しはじめましたが、その性格は、略奪、探検、冒険航海という性格が強かったとされています。

当時のイギリスには、すでに、レヴァント会社という会社がありました。

地中海やモスクワを経由して地中海東岸地域との貿易を専門とするこの商社が、イギリスにおけるアジアとの貿易を独占していたのです。

しかし、1595年にオランダがジャワ島バンテンに4隻の船団を派遣します。この派遣は成功し、これがヨーロッパじゅうに衝撃を与えました。

イギリスのレヴァント会社はオランダが直接、アジアから物産を大量に仕入れるのを見て、自分たちの独占が脅かされるのではないかと心配します。

とはいっても、当時のイギリスの航海技術、資本の蓄積ではオランダのような事業を展開することは高いリスクをともなうものだったのです。

その打開策として、レヴァント会社の関係者が中心となって、1600年、航海ごとに資金を出資する形でイギリスに東インド会社が設立されることになりました。

東インド会社は専従の従業員を有するジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立されました。

さらに、エリザベス1世にアジア貿易の独占権を認めるように請願しました。

こうして、イギリスは1600年にスペインの無敵艦隊に勝利して以降、これまで世界各地に占領地を築いて交易のネットワークを形成していたスペイン・ポルトガルが徐々に衰退していくと、これにかわって、上記のようにしてアジア交易のために設立された勅許会社・東インド会社のもとでアジア地域への進出をはかりました。

東インド会社は体裁としては民間企業ではありましたが、独自の軍隊をもち、その軍事力によって他国を攻撃・占領することができるなど、実質的にある種の国家のような存在でした。

インドへの進出

イギリス東インド会社の当初の最大のターゲットは南アジアの大国であるインドでした。

インドにはすでにポルトガルの拠点がありました。

またフランスも進出を図っていましたが、17世紀以降、次第にイギリスが圧倒していくこととなりました。

インドを支配していたムガル帝国は、最大領域を実現したアウラングゼーブ帝の死後、18世紀はじめ以降に没落していました。

各地の地方長官の離反、帝国内の小王国の反乱、在地勢力としてのザミーンダール(徴税請負人)の台頭、シク教徒の反乱などによって、17世紀まで繁栄をきわめたムガル帝国は、崩壊の危機に瀕(ひん)していたのです。

このような時期に、イギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出するなかで両者の利害対立が深まって、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発しました。

1757年6月のプラッシーの戦いではイギリスはムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍を破ります。

他方、同年8月にはムガール帝国の弱体化に乗じて中部インドのデカン高原を中心とした地域に、マラーター王国の宰相を中心に結成されたヒンドゥー教徒のマラータ族封建諸侯の連合体であるマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(1757年 – 1758年)によってインド全域を占領する勢いを見せました。

そのような情勢下で1760年のヴァンデヴァッシュの戦いにおいて、フランス東インド会社にイギリス東インド会社が勝利しました。

一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していました。

1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権,)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進しました。

さらに、イギリス東インド会社は一連のインドを侵略する諸戦争(マイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となったのです。

オランダの勢力後退

こうしてインドを勢力圏に収めたイギリスにとって次に課題になったのが、アジアのもう一つの大国である中国との交易路の確保でした。

東インド会社の拠点はカルカッタにありましたが、ここから中国に至るルートとしてはマラッカ海峡を経由して南シナ海に抜けるのが一般的でした。

この当時、この距離を補給なしで航行するのは不可能でしたので、イギリス東インド会社にとって寄港地を確保することが重要でした。

このような話をすると、本サイトの記事をずっとお読みいただいている方からこんな疑問が出るかもしれません。「イギリスは東南アジアから手を引いていたんじゃないの?」と。

たしかに、イギリスはかつて、アンボイナ事件を契機として、東インド諸島から全面的に撤退を余儀なくされていました。

そして、当分のあいだはインド経営に専念していました。

ところが、18世紀後半以降、中国との広東貿易が盛んになり、他方で19世紀初めのヨーロッパじゅうを巻き込んだナポレオン戦争によって、東南アジアを支配していたオランダの勢力が後退していました。

すなわち、オランダは18世紀末から19世紀初めにかけてナポレオン率いるフランスの支配下に置かれ、その後もしばらく混乱状態にあったのです。

具体的には以下のような事態です。フランス革命の際、フランス革命軍が1793年にネーデルラント周辺を占領しました。

そして、フランスへ亡命していた革命派らにバタヴィア共和国を樹立させました。

さらに、ナポレオンがフランスで皇帝に即位すると、1806年にナポレオンの弟ルイ=ボナパルトを国王としてバタヴィア共和国はホラント王国となりました。

その後、ナポレオンは1810年になってホラント王国を廃止してフランス帝国の直轄領とします。

そして、総督フランソワ=ルブランがアムステルダムに駐在することとなりました。

この混乱のなかで東インド会社は解散しました。

イギリスの巻き返し

そして、東南アジアの東インド植民地(オランダ領東インド)を当時、フランスと敵対関係にあったイギリスが1811年から1816年にわたって一時占領するという事態まで発生しました。

1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたもとのオランダ王家・オラニエ=ナッサウ家がオランダに戻り、ウィレム1世が即位してネーデルラント連合王国を樹立しますが、つづいてベルギーが分離独立を主張して戦争となり、1830年に独立します。

このようなオランダの混乱状態に乗じて、イギリスは再び東南アジアと東アジアで活動するようになったのです。

オランダの混乱に乗じて、日本でもイギリスは事件を起こしています。

1808年に長崎で起きたフェートン号事件です。10月4日(文化5年8月15日)に、イギリス船フェートン号が、敵対国であったフランス支配下のオランダの船舶を拿捕するため、長崎に侵入したのです。

そして、オランダ人を人質として薪水や食料の提供を要求しました。当時の長崎奉行であった松平康英は日本側にこれを撃退するだけの武力がないと判断して、イギリス側の要求を受け入れました。

この事件はナポレオン戦争期のアジア地域でオランダがいかに空白をつくっており、その空白をついて、イギリスがどれほど「やりたい放題」に振る舞っていたのかということを物語るものです。

中国への航路確保

インドと中国を結ぶ航路の寄港地としてはマラッカがもっとも適していました。

しかしながら、すでにみたように、マラッカはポルトガルの占領ののち、オランダによって占領されていました。

勢力が衰退していたとはいえ、オランダと直接衝突してその獲得を考えることは現実的ではありませんでした。

こうしてイギリス東インド会社はマラッカよりも南にイギリス船舶の寄港地を確保することを目標とすることになりました。

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イギリスによるシンガポール植民地化

ラッフルズ

このように、アジアとの交易を目的に設立されたイギリスの勅許会社・東インド会社は、中国とインドの植民地を結ぶ貿易ルートを確保するために、マレー半島南部付近に、イギリスの船舶の寄港地を必要としていました。

そのために派遣されたのが当時、イギリス東インド会社のサー=トーマス・=タンフォード=ラッフルズでした。

ラッフルズは東インド会社の職員で、スマトラ島のイギリス植民地ベンクーレンの準知事をつとめていました。

14歳から東インド会社に勤務し、ほとんど教育を受けていないのですがマレー語やジャワ語といった現地語に通じていました。

あるいはジャワ史を著すなど、マレー地域についてとても博識な人物でした。そのため、マレー半島を中心にアジア貿易の推進のため長らく派遣されていたのです。

余談ですが、ラッフルズは動植物や歴史に非常に関心があり、ボロブドゥール遺跡や世界最大級の花である「ラフレシア」(花の名は彼に由来するものです)の発見者としても知られています。

また現在、シンガポールを代表する高級ホテルである「ラッフルズ・ホテル」も彼の名をとっています。

シンガポール上陸

ラッフルズは1819年1月28日、シンガポール川をすこし遡上した場所にある小規模なマレー人の集落である「カンポン」というところに補助士官であるウィリアム=ファークハルおよび兵士・船員・助手ら約120人のインド人を引き連れてシンガプーラ島に上陸しました。当時の島の人口は約150名ほどであったと言われています。

島南部は天然の良港であり、飲料水の補給も可能なため、ここをイギリス東インド会社の拠点とすることを考えるようになりました。

そこでラッフルズの一行が島の事情を調査してみると、シンガプーラ島はジョホール王国の支配下にあり、その支配者であるスルタン(王)は島の外に居住していることが判明しました。

さらに、この王国がオランダの影響下にあることもわかります。

このためオランダがシンガプーラ島をイギリス東インド会社の拠点とすることに猛烈に反対することは明白なことでした。

一方で、オランダによる影響力のアキレス腱も分かってきました。

それは、当時のスルタンをめぐって内紛が存在している、という事実です。

すなわち、1812年に先代のスルタンが死亡した際に兄弟のあいだで王位継承をめぐる争いを経て、弟が当時のスルタンに即位していたのです。

このため、王位に就くことのできなかった兄は大いに不満を抱いていました。

スルタンとの交渉とシンガポールの植民地化

ラッフルズは、すかさずこの兄弟間の葛藤をきわめて狡猾に利用して、自分たちに有利になるように事を進めていきます。

なんと、兄のほうが正統であるとして、みずからの勢力を背景としてスルタンに即位させてしまったのです。

そのうえで、スルタンに毎年、年金5000ドルを支払うことを条件としてシンガポール川河口周辺の一帯をイギリス東インド会社の領土として割譲することを認めさせました。

そして、両者のあいだで1819年2月8日、そのことが明記された条約が締結されます。これによってシンガポールはイギリスの植民地となったのです。

しかしながら、この条約はロンドンのイギリス東インド会社本部の承認のもと結ばれたものではなく、ラッフルズが勝手に結んだもの、いわば彼の越権行為だったのです。

また、マラッカ海峡をアジア交易の拠点にしていたオランダは、マレー半島へのイギリスの進出に反対しました。

結局、イギリス東インド会社本部はすでにシンガポールが植民地になっている、という既成事実を最後には受け入れるほかありませんでした。

英蘭協定と「海峡植民地」成立

また、オランダはイギリスと外交交渉を行ないます。その結果、1824年に英蘭協定が結ばれ、マレー半島のマラッカとスマトラのイギリス領が交換されました。

これによって、マレー半島、シンガプーラ島はイギリスの勢力下に入ることとなったのです。

さらに、1824年にはスルタンとの契約が新たに結ばれ、1万8,000ドルを毎年支払うという条件でイギリス東インド会社はシンガポール島全体を領土とすることに成功しました。

さらに、イギリスは1832年、ペナン、マラッカを加えて直轄植民地として「海峡植民地」とし、その首都にシンガポールを定めました。

1867年には、イギリス植民地省の直轄植民地となり、マレー半島の植民地の中心となりました。

こうして、シンガポールはイギリスの植民地として20世紀にかけて発展が続きました。

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スルタン一族とジョホール王国のその後

王宮イスタナ

では、シンガポールをイギリスの植民地とする条約に署名した、ジョホール王国のスルタンやその子孫はその後、どうなったのでしょうか?

1819年に東インド会社のラッフルズと協定を結んだジョホール王国のスルタン・フセインは、1824年に正式にシンガポールの統治権をイギリス東インド会社に譲与する協定に調印しました。

イギリスはスルタンの居住先として、ローチョー・リバー一帯を与えました。

これにより、スルタンはここに居を構えることとなり、従来の拠点であったリアウ諸島にいた王族・臣下もここに移り住みました。

現在のマレー・ヘリテイジ・センターはその王宮で、イスタナと呼ばれます。

フセインの子・アリが1840年に建設したものです。

イブラヒムの勢力拡大

アリの代になると、ジョホール王国の海軍長官(トゥメンゴン)であったイブラヒムの勢力がアリをしのぐようになり、ジョーホール王国での支配地域がムアールの地域のみとなってしまいます。

そして、残りの王国の統治権はイブラヒムが握るようになりました。その後、ジョホール王国のスルタンはイブラヒムの子孫が継承することになりました。

マレー連合州

イギリスはその後、マレー半島内部にあったスルタン領諸国に干渉し、1896年にはこれら諸侯国を保護国化し、クアラルンプールを首都とするマレー連合州を組織しました。

1899年から始まったジョホールの鉄道敷設交渉では、スルタンとなったイブラヒムとイギリス植民地省が対立しました。

これにより、イギリスがジョホールに対する攻勢を強めることとなりました。

マレー連合州は1909年、カリマンタン島のブルネイやマレー半島内の非連合州とともにシンガポール駐在の海峡植民地知事の管轄下に置かれてイギリス領マラヤが完成しました。

ジョホールも非連合州でしたが、イギリスの総顧問官が置かれることとなり、王国の実権はイギリス人顧問が握ることになりました。

こうして、ジョホール王国はほぼ完全にイギリスのコントロール下に置かれて、その独立は名目的なものとなってしまったのです。

こうして、イギリスはマレー全土への支配権を確立しました。

世襲されるジョホール州スルタン

しかし、イギリスの支配下にあっても、ジョホールは諸侯国のひとつとして世襲のスルタンが王位を継承していました。

その後もマレーシア連邦成立ののち現在にいたるまで、連邦を構成するジョホール州ではスルタンは世襲されており、他州のスルタンとともに、マレーシアの国王候補の資格を有しています。

1981年から2010年までジョホールのスルタンであったイスカンダル(Sultan Iskandar ibni Almarhum Sultan Ismail)は1984年から1989年のあいだ、マレーシア国王の座にもついていました。

スルタン・フセインの子孫たち

スルタン・フセインの子孫の話にもどります。

1897年にはシンガポールのイスタナとその周辺の土地の権益をイギリスが奪います。そして、アリの子が死亡したのち、3人の王妃による相続権争いが発生し、法廷で争った結果、裁判所が土地の一切の所有権を王族から回収してしまいました。

ただし、ここに居住する権利は認めました。

これにより、シンガポール独立後も王族の子孫たち数百人がこの王宮内に居住していました。

1993年にシンガポール政府がこの地域を再開発する計画を発表しました。

このとき、200人近い王族が、老朽化し荒廃した王宮の建物で文字通り「肩を寄せ合って」暮らしていました。

マレー・ヘリテイジ・センター

1999年3月、王宮・イスタナをマレーの伝統文化と歴史を展示する「マレー・ヘリテイジ・センター」に改修することを決定したシンガポール政府は、ここに住んでいた王族の子孫たちに補償金として30年にわたり総額で35万シンガポールドル(日本円で約3,000万円)を支払い、公共住宅を転居先として準備しました。

こうして王族の子孫たちは公共住宅に移り、イスタナも2004年11月、「マレー・ヘリテイジ・センター」となってオープンしました。

 

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