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イギリス統治下のシンガポール

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無関税の自由港「シンガポール」の発展

イギリス領「シンガポール」の成立

マレー半島の先端という、アジア周辺へのアクセスの良さからラッフルズはこの地に新たな港を作る事を決めました。

その際に「シンガプーラ」という名前を、イギリス人が発音しやすいイギリス風の「シンガポール」という名前に変えました。これが現在のシンガポールという国名の由来となっています。

イギリスは植民地支配のための植民地統治機構を設置します。

シンガポールを統治するのはカルカッタを拠点とするイギリス東インド会社総督でした。

そしてその下にシンガポール総督がおかれ、初代総督にはファークハルが就任しました。

無関税の自由港を建設

ラッフルズは、シンガポールの港を自由港にする政策を決め、無関税の自由港を建設する計画を立てました。

この時期にはすでにヨーロッパ諸国が東南アジアの各地に植民地を建設しており、その土地で一次産品を生産してアジア各地そしてヨーロッパなどに輸出することで利益を得ていました。

このような状況にあって、ほかの東南アジアの港湾が入港税を徴収しているのに対し、ラッフルズの政策はシンガポールの地理的優位性とも相まってシンガポールの発展に大いにプラスに作用しました。

すなわち、この無関税の自由港という魅力的な政策により、シンガポールは東南アジアの貿易拠点としての地位を獲得したのです。

移民の増加と「海峡植民地」の成立

そのためビジネスや就労のチャンスを求めて東南アジア、中国やインドなど周辺諸国の人々がシンガポールに移住を始め、人口・労働力ともに力をつけていきました。

こうして、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していったのです。

植民地初期のシンガポールにおいて、ラッフルズが交易のパートナーとして最も期待したのが、ブギス人でした。

ブギス人は、中国市場向けの重要な商品である燕の巣や鼈甲(べっこう)、砂金、龍脳、安息香といった特産物を東部インドネシア各地やスマトラ島・カリマンタン島などからシンガポールへ運び、そこでインド産の綿布やアヘン、ヨーロッパ産のタバコを入手しました。

蒸気船が一般的なものとなる19世紀後半までは、ブギス人が東部インドネシア海域で最も活発に交易活動を担ったのです。

第2代クロウファード総督の時代である1826年、シンガポールは既にイギリスが領有していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに、イギリスの「海峡植民地」の一部とされ、1832年には海峡植民地の首都と定められました。

東インド会社の廃止と直轄植民地化

この当時もまだ、シンガポールはインドの植民地当局のもとにありました。

この体制に変化があらわれるのが1857年にインドで発生した反英暴動以降でした。

この暴動によってイギリスは植民地支配体制の大幅な見直しをせまられることになりました。

1858年には植民地統治を行なってきたイギリス東インド会社が廃止されます。

そしてイギリス本国に植民地省があらたに設置され、インドはインド省の下に設けられた植民地政府が統治することとなります。

そして、シンガポールをはじめとする海峡植民地もいったんはその管轄下にはいりましたが、シンガポール在住のヨーロッパ人たちはイギリス本国の直接支配をイギリス当局に求めました。

結果、1867年には海峡植民地はイギリス本国の植民地省直轄の植民地となり、海峡植民地総督はその下に属することになりました。

さらに総督の補佐機関として、行政評議会と立法評議会が設置されました。

この体制は1942年の日本による占領がはじまるまで継続することとなります。

貿易中継港としての発展

イギリスの植民地となったのちは、同じイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、そして中国(当時の王朝は清でした)などとのあいだでアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割を果たしました。

さらにはそれだけににとどまらず、隣接するマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展していきます。

シンガポールの貿易中継港としての重要性がより高まるのは1869年のスエズ運河開通以降でした。

これまでアフリカ南端の喜望峰経由での東西海上交易路が地中海からアラビア海に抜けるルートができたことでヨーロッパと東アジアとの距離が一気に縮まったのです。

これにより、シンガポールは東アジアとヨーロッパを結ぶ貿易航路の中継港としての価値をますます高めていくこととなっていきます。

こうして、シンガポールの発展は加速し、東南アジアにあって未曾有の繁栄を謳歌するようになったのでした。

1873年から1930年までの40年のあいだにシンガポールの貿易額は八倍も上昇していることからも、スエズ運河開通の効果がシンガポールにもたらしたプラスの影響をうかがい知ることができるでしょう。

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民族・宗教・出身地によって分断された社会の形成

多民族国家シンガポールの基盤

この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにや港湾荷役における労働者、あるいや貿易商や行政官吏として移民がさらに集まってきました。

マレー半島から移って来たマレー人をはじめ、中国人は主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部から、インド人は主に南インドのタミル語圏から、そして現在のインドネシアなどから多くの移民がシンガポールへやって来たのです。

また、植民地官吏や貿易商としてイギリスなどヨーロッパ人もやって来ました。

前述したように、ラッフルズがやって来た頃のこの土地にはほとんど人は住んでいませんでした。

したがって、19世紀以降にやって来た人々(マレー人・中国人・インド人そしてヨーロッパ系のユーラシア人)の子孫が現在のシンガポール国民を構成しているのです。

この時期の繁栄が今日の多民族国家としてのシンガポールの基盤となった、といえるでしょう。

民族別の棲み分け政策

ラッフルズはアジア系移民に対して、民族ごとの居住地を割り当てるという民族別の棲み分け政策を実行します。

こうすることで、交わることで発生しうる民族間の対立を防止し、あるいは交流するなかでイギリスによる植民地支配への不満が民族をこえて1つになることを防ぎたかったのです。

これにより、イギリス植民地期のシンガポール社会は民族や言語、宗教によって分かれた社会が現出されました。

マレー人は母語であるマレー語で、イスラム教徒として生活していました。

あるいは、中国人はそれぞれの出身地方の中国語方言を話しながら仏教あるいは道教を信仰していました。

また、インド人はタミル語を話しつつ、ヒンドゥー教を進行しながら暮らしていました。

このように、この時期のシンガポール社会は大きく3つの民族・信仰社会が分かれて存在する場だったのです。

統計からみた移民たち

1824年に最初の人口統計が実施された際にはマレー人が60.2%で最も多く、ついで中国人が31.0%、インド人が7.1%などでした。

ところが、19世紀半ばになると、人口過剰であった福建省および広東省から、大量の中国人移民が押しよせるようになりました。

こうして、1840年には中国人が過半数を超え、1910年にいたると中国人が72.1%に達し、マレー人が16.0%、インド人が8.0%などとなり、ほぼこのような人口構成が今日まで続きます。

また、男女の比率に関しては、移民のほとんどが男性が出稼ぎで肉体労働に従事することが多かったために、とりわけ当初は男性比率の高い社会でした。

とくに中国人やインド人は傾向として男性比率が高く、1860年時点で中国人の男女比率が14:1、インド人では8:1となっていました。

時が下るにつれ、このような極端な傾向は解消してゆきましたが、それでも1901年の中国人住民の男女比は4:1とやはり男性が多数を占める社会構造がありました。

また、彼ら移民にとっては、シンガポールは一時的に出稼ぎをする場所との認識が強くあり、その多くは自国に戻るという考えでした。

同郷コミニュティの形成

このように、シンガポールにやって来た移民は中国人の比率が高かったのですが、ラッフルズはさらに彼らの中国における出身地ごとに居住地を分けました。

そして、同郷コミニュティを作って暮らすようにさせたのです。

学校教育が普及しておらず、イギリス植民地期の中国系住民のほとんどが中国語の標準語である北京語=華語を話せませんでした。

非識字者も多かったために筆談もできなかった当時、中国系住民同士でも出身地が違えば意思の疎通さえ難しい状況でした。

このような彼ら中国系住民にとって、同郷出身者がまとまって住むことのメリットは十分にあったのです。

コミュニティの内部では故郷の方言のみでの生活が可能で、中国系住民は出身地ごとに「幇(バン)」と呼ばれる人的結合を形成し、その法人組織としての「会館」を設立していきました。このようにして、相互扶助のための組織を作って結束していたのです。

これらの組織は同じ地方の出身者があらたに移民してきた際に世話をしたり、学校や病院を作るなどの事業を行うことによって、中国人移民の職業・教育・福利厚生における支えとなって大きな役割を果たしました。

また、こうした組織があることで、中国からさらに多くの移民がやってくることにもなったのです。

中国人の出身地域について、1935年の統計をみると、最も多いのが福建語を話す福建人で彼らが43.0%を占めていました。

ついで広東語を話す広東人が22.5%、潮州語を話す潮州人が19.7%、海南語を話す海南人が4.7%、客家語を話す客家人が4.6%となっていました。

このように、同じ民族内部でさらに出身地に分かれて社会を形成していたのは中国人だけではありませんでした。

マレー人たちもまた、出身地によって分かれて社会を形成していたのです。すなわち、マレー人の中にもインドネシア出身のジャワ民族が存在していました。

彼らはマレー系民族ではあるものの、使用言語が違っていたため、独立した民族社会を形成したのです。

また、広大なインドには多くの言語がありました。

インド人たちもまた、タミール語を話すタミール人、ヒンディー語やベンガル語を使用する地域出身者などに分かれて、それぞれの社会を形成していました。

分裂社会

以上のように、イギリス植民地統治下のシンガポールは、民族・宗教による分断の上に、さらに出身地によって分裂して多くの別個の社会が形成されました。

そして、それぞれの社会間にはあまり交流はなく、シンガポール人というアイデンティティよりもそれぞれの分裂した社会の一員という意識が育ちました。

そして、各地域にはそれぞれの出身地がそのままシンガポールに再現されたような空間が出現したのです。

もちろん、それぞれの社会が閉鎖されていたわけではありませんので、民族間結婚などを通じた交流もありました。

しかしながら、それはごく一部の動きであり、全体としてはやはり分断された状態であった、といえるでしょう。

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中国系住民=華人に芽生えた2つの政治的志向

2つの政治的志向

これまでみてきたように、中国からシンガポールに来た移民たちは出身地別に社会を形成していましたが、20世紀にはいると、彼らのなかに出身地の違いをこえて大きく2つの政治的志向をもつ集団が生まれてきました。

もともと、彼らにはシンガポールを終(つい)の棲家とは考えず、「錦衣環郷」「落葉帰根」の語が示すように、一時的な出稼ぎの場所であると考えていましたので、そのような考えからは、そもそもシンガポールに対する政治的関心は生まれません。

そのような傾向はイギリス植民地当局が政治活動を許さなかったため、さらに拍車がかかりました。

したがって、彼らが政治的関心を抱いたのはシンガポールではありませんでした。

その1つは中国の情勢で、もう1つはイギリスを回路とした地位向上でした。

中国への政治的志向

中国への政治的志向が強まる契機となった出来事が、中国で1911年に起こった辛亥革命でした。

漢民族が満州民族の王朝である清を打倒したこの革命は、シンガポールに住む中国人たちにも大きな衝撃を与えました。

そして、孫文ら、辛亥革命の指導者たちの思想に共鳴した人々によってシンガポールにも国民党が結成されることとなりました。

さらに、1915年に日本が袁世凱を大総統とする中華民国政府に対して「二一ヶ条要求」をつきつけたことに対して、彼らは日本製品のボイコットを行ないました。

また、1919年に中国で起こった抗日示威運動である「五四運動」が発生すると、シンガポールに住む彼らも、日本製品に対するボイコット運動を強化したり、日本商品の置かれた商店を襲撃するなどして、中国での動向に呼応しました。

さらに時代が下って1930年代になると、日本は1932年に「満洲国」を建国したり、1937年に宣戦布告なしで中国との全面戦争(日中戦争)に突入しました。

これは中国側の反発を買うもので、中国国内ではこれに対する抗日運動や抗日武装闘争が繰り広げられました。

シンガポールでも、このような中国での動きに呼応して、日本商品に対するボイコット運動が頂点に達していきました。

具体的には日本人が経営する商店・病院・理髪店の利用拒否や、日本商品を扱う商店に立ち入ること自体を止める運動などが展開されました。

以上のような運動を行なった華人たちは「愛国華僑」と呼ばれました。

そしてその代表的存在として彼らを組織化し、物心両面で支えたのがゴム事業で成功を収めた富豪・タン=カーキーでした。

タン=カーキーは中国に対して巨額の資金援助を行ないました。

このような運動は、大陸で戦争をすすめる大日本帝国にとっては非常に悩ましいものであり、のちにシンガポールを日本軍が占領した際に、華人がまず弾圧のターゲットとなる背景にもなりました。

イギリスを志向する人々

次に、イギリスを志向する人々についてみてみましょう。

このような思考が生まれてきた背景には、20世紀に入った頃から増加してきたシンガポール生まれの移民2世、3世の存在がありました。

かれらは1世のように民族別の社会でやがては帰国することを考えるのではなく、民族や宗教をこえて「シンガポール生まれ」あるいは「海峡生まれ」というアイデンティティを共有するようになっていきました。

これらの人々は、母国への帰属意識よりも生まれ育ったシンガポールでの成功を考えるようになっていきました。

そして、そのために重要なものは、支配国であるイギリスの言語、すなわち英語による教育を受けることだと考えました。

こうして彼らはみずからのアイデンティティを祖先がいた国ではなく、宗主国であるイギリスに求めるようになります。

このような中国人たちを「クィーンズ・チャイニーズ」と呼びます。

このような人々は英語による教育や、イギリスへの留学などをつうじて、イギリス式の教育を受けました。

そして、イギリス植民地当局の下級官吏や医師、弁護士、技術者、外資系事務職員など、比較的高収入で社会的地位の高い職業に従事するようになりました。

海峡華英協会

彼らのイギリスへの帰属意識をイギリスもまた積極的に活用していきます。

1900年に医師で典型的な「クィーンズ・チャイニーズ」であるリム=ブーンケンを指導者として海峡華英協会が設立されました。

この協会では住民の福祉問題とともに、シンガポール社会におけるイギリスへの関心を高めることなどが議論されました。

そして、第1次世界大戦の際にはこの海峡華英協会が戦闘機53機をイギリスに献納しました。

さらには、ヨーロッパ戦線を助けるため、シンガポールの防衛をイギリス人に代わって志願する志願兵部隊も組織しました。

華語派華人と英語派華人

20世紀になって登場した、これら2つの志向をもった中国系住民=華人の集団は、前者が華語派華人、後者は英語派華人として、のちに独立運動の担い手となっていくことになります。

しかしながら、両者は使用する言語や教育、政治性が相当に異なっていました。

このため、社会的な接点はほとんどありませんでした。

また、これまでみたように、彼らはシンガポールそのものではなく、一方は中国に、もう一方はイギリスにアイデンティティを感じていたので、独立運動の基盤となるナショナリズムはこの時期には育っていませんでした。

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イギリスに対する反感

マレー人独立活動への弾圧

前述のように、イギリス植民地であったインド、オーストラリアと中国との三角貿易拠点や、天然ゴム等の輸出港として多くの移民が流入しました。

シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配のもと、これらインドや中国からの労働力を背景として経済的には急速に発展していきました。

ところがその一方で、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きます。

とりわけ労働層であるマレー人達への圧政はひどく、独立を抑制するため過酷な支配が行なわれました。

すなわち、長年の間にわたり、マレー人をはじめとする地元住人はイギリスの植民地政府に3級市民として扱われ、一方的な搾取とイギリスからの独立活動への弾圧、虐殺の繰り返しという過酷な植民地支配に苦しめられたのです。

イギリスの植民地化で虐殺されたマレー人は数万人にのぼるといわれています。

反英の機運

こういった圧政とこれに対する住民の反発を背景として、20世紀はじめには、一部の知識層のあいだで反英の機運が高まることとなっていきました。

これに対して、イギリス植民地当局は非常事態宣言を出しました。

そしてイギリスによる支配に異を唱える活動家たちに対して徹底的な取り締まり・弾圧を行ないます。

このような植民地支配政策に対して地元民のイギリスへの反感がますます高まり、こうした反英感情は第2次世界大戦後まで引き継がれていくこととなります。

そして、日本軍占領期に育ったナショナリズムの感情と相まって、のちにイギリスからのシンガポール独立を進める運動のエネルギーとなっていきました。

 

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