1. TOP
  2. シンガポール 歴史
  3. 第二次世界大戦とシンガポール

第二次世界大戦とシンガポール

Sponsored Link

日本の近代化とアジアへの勢力拡大

「富国強兵」と韓国併合

1868年の明治維新以降、日本は精力的にあらゆる分野の近代化を推進し、帝国議会の設置や『大日本帝国憲法』の制定など国制の整備につとめながら、産業を発展(殖産興業)させ、軍事力を増強する「富国強兵」を国是としてきました。

そして、朝鮮半島での主導権争いに端を発する清国との対立により1894年からはじまった日清戦争で勝利し、下関条約にもとづいて台湾を獲得して、はじめて海外植民地を領有するようになりました。

それ以降、1905年には日露戦争の結果として、対立してきたロシアに朝鮮半島における日本の優位を認めさせ、当時の大韓帝国を保護国化し、さらに1910年にいたってこれを併合して、植民地としました。

「二一ヵ条要求」と五四運動

朝鮮半島の領有により足がかりを得た日本は大陸へのさらなる勢力拡大をめざし、辛亥革命後の1915年に中国に対して「二一カ条要求」を突きつけて中国での権益拡大を図ろうとしました。

「二一ヵ条要求」に対しては、中国の民衆が反発して五四運動が起こりました。

そして、中国国内のみならず、東南アジアに暮らす中国系住民にも日本に対する反発が広がりました。

シンガポールでも中国本土と連動して、華人たちが日本製品をボイコットするなどの「抗日救国運動」を展開しました。

第一次世界大戦後の日本

その後、1914年にはじまる第1次世界大戦では日英同盟を理由に参戦し、中国のドイツ利権を奪うなどして「戦勝国」となりました。

第1次世界大戦後には日本政府による欧米列強との協調路線により、軍縮がすすめられて、アジアでの日本軍の軍事活動は抑制されていましたが、日本軍の内部ではこのような政府の方針に対する不満が高まっていました。

そして、「大日本帝国憲法」に規定された、軍の統帥権(軍を率いる権利)が天皇に属するものであることを根拠として、天皇の統帥権は行政権から独立したもので、行政権を行使する権限があるだけの政府が軍の行動を縛ることに対する批判が起こります。これを「統帥権問題」といいます。

一方、1925年(大正14年)には、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国各地に乱立する軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出しました。このため日本は3回に及ぶ山東出兵を行ないました。

満州事変

そして、1930年代になると日本国内では軍の勢力が強大となり、次第に独自の行動をとるようになっていきました。

こうして、軍が台頭するなかで、1931年には中国で日本の関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされます。

これに対し、日本政府は戦争不拡大の方針を内外にしめしました。

しかし、軍が日本政府のこの方針を無視する形で翌1932年には満州事変に発展させ、関東軍が主導するなかで「満洲国」が中国から「独立」するという形態でつくられ、日本の勢力圏となります。

日中戦争の長期化

さらなる中国での勢力拡大のために1937年には中国との全面戦争(日中戦争)に突入し、これに反対するイギリスやアメリカとの対立を深めていきました。

当初、中国との戦いを有利にすすめ、沿岸部の大都市を占領した日本軍の次のターゲットは東南アジアでした。とくに豊富な天然資源があるマレーシア(イギリスが支配)やインドネシア(オランダが支配)を日本軍は欲するようになっていきます。

その結果として、中国との戦争が長期化するなか、アジア太平洋地域での覇権をめぐって日本はイギリスやアメリカを中心とする連合国軍との戦争へと突入していくことになりました。

Sponsored Link

太平洋戦争の勃発とシンガポールの戦い

大英帝国海軍の要塞

イギリスはシンガポールの経済発展を進めるとともに、シンガポールをアジア太平洋地域における大英帝国海軍の要塞として育てていました。

すなわち、1920年代にシンガポール島の北岸に戦艦や駆逐艦を常備できるような巨大な海軍基地の建設が開始され、1938年に造船ドックを擁する最新式の海軍基地ができたのです。

さらに北部には飛行場が3ヶ所造られています。こうして、シンガポールを東南アジアにおけるイギリス植民地の軍事的拠点と位置づけ、15万人以上のイギリス海軍と陸軍部隊を駐留させて要塞化していたのです。

シンガポールは大英帝国の東アジア地域における自由貿易港であると同時に軍事拠点だったのです。基地建設において仮想敵国として意識されていたのは日本でした。

日英の対立激化

すでに述べたように、1930年代になると満洲事変をおこし、武力による中国大陸進出をはかっていた日本は、イギリスを中心にして「満洲国」建国を非難する動きが国際連盟でおこると、国際連盟を脱退し、これはその後、第二次上海事変などによって中華民国との全面戦争(日中戦争)に発展しました。

そして、おなじくイギリスと対立していたドイツやイタリアと接近して三国同盟を結びます。

こうして日本は次第にイギリスやアメリカとの対立を先鋭化させていくこととなりました。

太平洋戦争勃発

その結果として、1941年12月8日にはついにイギリス・アメリカと交戦する太平洋戦争(日本はこれをアジア解放のための聖なる戦争であるとして「大東亜戦争」と呼びました)が勃発しました。

その戦端はマレー半島で開かれました。

日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれたのです。

続いて日本海軍航空隊がハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を行ないます。

日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始されました。

シンガポールの戦略的位置

シンガポールは大英帝国の東アジア地域における軍事拠点、すなわち日本にとってはもっとも自国に隣接したイギリスの最前線基地でした。

とりわけ、マレーシアやインドネシアの攻略するためにはシンガポールのイギリス軍基地は非常に邪魔な存在だったのです。

また、この基地は日本からみてその先にあるイギリス連邦諸国(オーストラリアとニュージーランド)を日本軍の侵攻から守るためのものでもありました。

このため、シンガポールを攻略することはアジア太平洋地域を制圧することをめざす日本軍にとっては必ず解決すべき重要課題となりました。

日本軍のマレー半島進撃

開戦当日の1941年12月8日、日本海軍はまず、イギリス軍航空機の拠点であったシンガポールの空港を爆撃してこの地域の制空権を奪いました。

また、同年12月10日にはマレー半島東岸にあったイギリス海軍の軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈しました。

これにより、マレー半島周辺の制海権も日本軍が握ることとなりました。

マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と各地で戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。

太平洋戦争においてシンガポールが本格的に戦闘に巻き込まれるのは年が明けてからでした。

シンガポール攻撃のはじまり

1942年1月までに日本軍はシンガポールを除くマレー半島全域を占領していて、シンガポールとジョホール水道で面しているジョホール・バルーの王宮に日本軍の陣が設置された状態でした。

日本軍によるシンガポール攻撃が時間の問題であることは、誰の目にも明らかなことでした。

日本軍は、1週間かけてシンガポール総攻撃の準備をすすめました。

こうして、シンガポールに駐留していたイギリス極東軍は、山下奉文中将が率いる日本軍によって激しい攻撃を受けました。

この攻撃は1942年2月7日に開始されましたが、イギリス極東軍は苦戦を強いられます。

イギリス軍の読み違い

シンガポールの歴史が展示されているシンガポール国立博物館の日本占領時代のコーナーを訪れると、まず目に入るのが壁一杯にかけられている、たくさんの自転車です。

日本軍が自転車でマレーシアとシンガポールに侵入してきたことをあらわすものです。

イギリス軍は、日本軍がジャングルに阻まれてマレー半島を南下するのはまず無理であると考え、シンガポール南方の海上から攻撃してくると予測していました。

そして、セントーサ島のシロソに大きな大砲を設置して日本軍の上陸に備えていました。

ところが日本軍は、イギリス軍の意表をついてマレー半島を南下してきます。

鉈で木を切り倒しながらジャングルの中に道を切り拓き、自転車を調達し、これに乗って北からに攻め込んできたのです。

そして、日本軍が有利な状況で戦闘が繰り広げられました。

日本軍の優勢

日本軍がシンガポールに攻撃を開始して一週間ほどが経過した1942年2月15日午前6時、シンガポール駐留イギリス極東軍のパーシバル司令官は前線からの戦況が芳しくないとの報告をうけました。

そして、貯水池は日本軍に制圧され、24時間後にはイギリス軍の水が底を尽き、さらに食糧保管庫も押さえられ48時間後には食糧も尽きること、ガソリンも残り僅かで、対空砲の弾薬はほぼ使い果たしてしまった状態で、大砲が少し残るだけだったことなどの報告がありました。

午前9時半、窮地を打開する策を考えていたパーシバル司令官は前線指揮官を集め、今後の作戦会議を開きました。

ヒース中佐は、すでに補給が絶たれていてイギリス軍の持久力が極端に低下していることから、司令官に降伏を進言しました。

ベネット中将らもヒースに賛成し、これ以上戦闘を継続するのは一般市民におびただしい死傷者が発生することにつながると考え、降伏はやむを得ないする意見が大勢を占めました。

しかしながらパーシバル司令官は、「イギリスの名誉」を理由に再考するように指示します。

そして、あらゆる反撃のための作戦が検討されましたが、いずれも成功する可能性はないと判断し、出席者が全員が反対するにいたりました。

イギリスの降伏

パーシバル司令官は悩んだ末、最終的に日本軍に降伏することを決断します。

こうして、午前11時半にパーシバル司令官は、フォートカニング要塞を出て日本側に代表団を送って杉田中佐に停戦協定締結を要望する旨を伝えました。

午後、日本軍を率いていた山下司令官はこの報告を受けました。

しかし当初、山下司令官はこれを増援隊が来るまでの時間稼ぎの作戦だと疑います。

そして、山下司令官はイギリス軍側にあくまで無条件降伏を求め、パーシバル司令官との直接会談を要求しました。

これをうけて、パーシバル司令官は、急ぎ本国のロンドンに降伏許可を求めました。

午後5時過ぎ、パーシバル司令官は、イギリス軍将校2名と通訳をともなって、降伏を意味する白旗とイギリス国旗であるユニオンジャックを掲げ、シンガポールの日本軍司令本部となっていたブギティマにあるフォード工場にやって来ました。

この中の会議室で山下司令官と対面し、握手を交わして停戦交渉のための会談が始まりました。

パーシバル司令官は降伏文書を読んで、翌朝まで署名を待ってほしい伝えました。

ところが、山下司令官は怒り出し、断固とした態度で無条件降伏をせまります。

顔面が蒼白となったパーシバル司令官はトランス参謀と相談しながら苦悩し、結局、通訳に無条件降伏に“Yes.”と伝えたのです。

こうして、シンガポールに駐留していたイギリス極東軍は日本軍に無条件降伏することとなりました。

これをもって、約1週間続いた「シンガポールの戦い」は終結します。

このとき、捕虜となったイギリス兵たちはタイとビルマ(現在のミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設のために動員されました。

彼らは国際法上認められた捕虜としての権利が侵害された状況で、非常に厳しい環境のもとで労働に従事させられました。

この日から、3年8ヶ月にわたって、シンガポールは日本軍による占領統治時代を迎えることになりました。

とても皮肉なことですが、この降伏の日、すなわち日本軍による占領が開始される日は、日本軍占領下で過酷な弾圧を受けることになる中国系の華人たちが一年で最も「おめでたい日」と考える、中国暦の旧正月でした。

Sponsored Link

日本軍による占領

「昭南島」

軍事占領した日本は名称をシンガポールから日本風の「昭南島(しょうなんとう)」と改名しました。

そして、シンガポール市は「昭南特別市」と改められ、行政統治機関として昭南特別市政庁が設置されます。

昭南特別市の初代市長には、日本人内務官僚の大達茂雄が任命され東京から赴任することとなりました。

その後、多くの日本人官民が移り住むようになり、日本人を支配民族とする過酷な軍政が敷かれることとなりました。

昭南特別市は行政区画として7つの大区と、その下部にさらに小区がおかれ、小区が10の組にわけられました。

そして、それぞれに区長、小区町、組長がおかれて、行政系統を形成しました。

区長は各区内における食糧の配給、治安などの責任を負いました。さらに日本の隣組のような組織もつくられて、住民たちに互いを監視させあうしくみを構築しようとしました。

バナナ紙幣

占領当局は軍票を発行し、これまでのイギリス植民地当局の紙幣を強制的に交換させました。

そこにはバナナの絵が描かれてあったことから「バナナ紙幣」と呼ばれるようになりました。

占領当局はこの紙幣を乱発し、激しいインフレに見舞われて、シンガポールの経済は大混乱しました。

日本の敗戦後、この軍票「バナナ紙幣」は紙くず同然になってしまいます。

これが住民の反感を買い、日本占領軍が長く恨みを買った理由のひとつとなりました。

そして、「バナナ紙幣」という言葉は「価値のないもの」をさす代名詞になってしまいました。

シンガポール社会の日本化

また、占領当局はシンガポール社会の日本化をすすめようとしました。

まず、学校においては日本語教育を強制しました。また、日本語新聞『昭南新聞』を発刊します。

さらに、祝日も日本の天皇制に由来するものとされ、日本の国家神道を強制しようと昭南神社を設置し日本人ばかりでなく、イスラム教を信仰するマレー人を含めた現地の人々に参拝を強制しました。

地名も日本式に変えました。

また、シンガポールの標準時も日本時間に合わせました。

このような「日本化」政策が行なわれた理由として、日本がいう「大東亜共栄圏」の中心部に位置するシンガポールをその日本文化の拠点としていたことがありました。

占領下の経済的混乱

食糧は配給制とされ、米、塩、砂糖などは家族の人数によって量が制限されて、公定価格での配給統制となりました。

日本占領軍は、占領後間もなく食糧不足に直面しました。

そのため、少しでもこれを緩和しようとして、30万人ほどの住民をマレーシアの東海岸に強制的に移住させて開墾させる計画を実行に移そうとしました。

しかしながら、移住を望まない住民の抵抗によって、この計画は失敗に終わります。

また、日本軍による占領の時期、イギリス支配のもとでラッフルズ以来の自由港政策により発展し、シンガポール経済の原動力となっていた貿易は日本軍支配のもとで停滞していきました。

以上のように、日本の占領期には経済的混乱によってシンガポールの人々は苦しい生活を余儀なくされたのです。

憲兵隊による弾圧

一方、治安維持を担うこととなった憲兵隊はかつてイギリス植民地統治機関がおかれていた「エンプレス・プレイス」に本部を構え、中国人をスパイとして雇用するなどの方法で市内で住民を監視し、敵対者とみなされた者には拷問が加えられるなど、厳しい弾圧が加えられました。

こうして憲兵隊はシンガポールにおける日本占領軍による圧政の象徴的存在となりました。

民族別の統治政策

日本軍は、抑圧の度合いを民族によって異ならせる民族別の統治政策を実施しました。

すなわち、マレー人を土着民として相対的に優遇したのに対し、華人は迫害、という差別を行い、民族間の対立感情を高めて分割統治しました。

これが戦後のシンガポールにおける社会統合に悪影響を及ぼしたという指摘もあります。

暴動を抑えるために、日本軍は反日感情をもつ中華系住民の華人を中心に選別し、拷問さらには虐殺を伴う徹底的な弾圧を行ないました。

当時は日中戦争中であったため、中国における日本軍の行動にたいする反発による反乱が発生することを恐れた日本軍は、中華系住民に対してとくに厳しい圧政をおこなったのです。

この厳しい占領期をシンガポールではその占領期間である「3年8ヶ月」という名称で呼んでいます。

Sponsored Link

シンガポール華僑虐殺事件

中国人としてのアイデンティティ

20世紀の半ばにあってシンガポールに住む華人の多くは、中国からの移民一世や二世で、家庭では福建語や潮州語、広東語といった出身地の中国語方言を話していました。

また、華語で学校教育を受けており、華人たちには中国人としてのアイデンティティがありました。

華人たち、とりわけ中国語を生活・教育言語とする華語派華人たちは、イギリスによる植民地統治のもとでみずからの地位向上を実現するためには、内戦や列強の侵略で弱体化した祖国=中国が強大な統一国家となることが重要であると考えていました。

すなわち、強大な中国がイギリスに外交圧力を加えるようになれば、自分たちの社会的地位も上昇する、と考えていたのです。

特に19世紀後半にシンガポールやマレー半島へやって来た日本人移民が、日本の大国化によって地位を向上させていったのを見ていて、そのように考えるようになったとも言われています。

そのため、タン=カーキーのように孫文らが指導する辛亥革命や蒋介石が指揮していた抗日戦争に積極的に資金を援助する華人もいたのでした。

華人に対する警戒

このような背景から、シンガポールを占領した日本軍は華人を極度に警戒しました。

日本軍は、中国の蒋介石政権とつながる存在として考えていたのです。

そして、「華僑に対しては、蒋政権より離反し、我が政策に協力同調せしむものとす」という方針を立てていました(「実施要領」)。

また、イギリス式の英語教育を受けてきた英語派華人もまた、敵国であるイギリスに対して好意的であることから、敵性勢力であるとみなしていきます。

さらに、抗日マラヤ人民軍を組織し、マレー半島でゲリラ戦を展開して日本軍に抵抗していたマラヤ共産党の構成員には多くの中国系住民が参加しており、これも華人を敵視する理由となりました。

「掃蕩作戦命令」

以上のような背景のもと、山下軍司令官は河村少将をシンガポール警備司令官に任命し、2月18日の朝に、「抗日分子を一掃すべし」という「掃蕩作戦命令」をだしました。

これにより市内にいる華僑の成年男子対象に数日分の食糧をもって集まるように命じます。

抗日分子を探し出し、即刻処刑するようにという命令でした。

この命令を企画立案するとともに、みずから現場で指導したのが第二五軍参謀の辻政信中佐でした。

虐殺の実行

日本軍は2月21日から23日までのあいだに、華人男子を市内五か所に集めました。

こうして集められた人々の数は60万人を超えていました。

そして、義勇軍に入っていた者、銀行員、イギリス植民地政府の仕事をしていた者、シンガポールに来て五年未満の者などは手を挙げよと迫ります。

こうして、手を挙げた者が「抗日分子」だとされました。また、警官などに抗日的とみなされる者を摘発させたりもしました。

このようにして「抗日分子」とそうでない者が分別され、そうでない者は帰宅を許されましたが、「抗日分子」として指定されたものはトラックに載せられ、海岸や郊外のジャングルなどに連行されます。そしてそこに大きな穴を掘らせたのちに機関銃で処刑されていきました。

その被害者の数をめぐって、日本側の主張は5~6,000人としていますが、この虐殺を追求する側は4~5万人という数字をあげています。

占領時の混乱した状況での出来事であり、確実な史料を確保することが難しいために、真相を明らかにすることは容易ではありませんが、多くの人命がこの虐殺で奪われたことは間違いありません。

さらに、同じようにして2月末には西村琢磨中将を師団長とする近衛師団がシンガポール市外で「抗日分子」の粛清を行ない、ふたたび数多くの住民が処刑されました。

これらの事件を「シンガポール華僑虐殺事件」といいます。

Sponsored Link

住民に対する強制献金

占領行政への「献金」

さらに日本占領軍は5,000万海峡ドルの強制献金によってもシンガポールの住民たちを苦しめました。

これは、シンガポール占領行政に必要な資金を住民による自主的な「募金」「献金」の名目で、シンガポールの住民たちに負担させようとして行なわれたものでした。

華僑協会

これを推進するために日本軍の主導で組織されたのが華僑協会でした。

そして、その会長となったのが、なんと、リム=ブーンケンだったのです。

彼は親英的な英語派華人であり、海峡華英協会の設立者でした。

リム=ブーンケンは華人社会において有力な指導者でしたので、そのカリスマ性とネットワーク力を利用して募金活動を展開させようとしたのです。

強制献金

献金の額は強制的に割り当てられましたが、戦闘と占領により混乱した時期にあって、その資金を準備するのが難しい住民も多くいました。

こうした住民は家財道具を売り払うなどして、無理に資金を準備しました。

そして、2.900万海峡ドルが住民からの強制献金によって集められ、不足分は日本の銀行である横浜正金銀行からの融資により住民からの「献金」がうまくいったように宣伝されました。

Sponsored Link

「許そう、しかし忘れない」

「血債の償い」 を求める集会

シンガポールのマリーナエリア、ラッフルズ広場には「血債の塔」と呼ばれる「日本占領時期死難人民記念碑」があります。

上述のシンガポール華僑虐殺事件について、戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から虐殺された人々の白骨が発掘されたことを契機として、日本に「血債の償い」 を求める集会が開かれました。

血債には中国語で「人民を殺害した罪、血の負債」という意味があります。

集会には数万人の市民が集まり、この問題がシンガポールの全国民的関心であることを内外に示しました。

血債の塔

その結果1967年に完成したのがこの「血債の塔」と通称される「日本占領時期死難人民記念碑」なのです。

虐殺されたシンガポール住民を慰霊し、また同じことを二度と繰り返さないために、募金をあつめてこの塔が建設されたのでした。

この塔のフォークのように分かれた4本の柱は、中国人、マレー人、インド人、ユーラシア人(欧亜混血者)をあらわしています。

前述のように民族別の分割統治を行なっていたとはいえ、民族を問わず、多くのシンガポール住民が日本占領軍によって被害に遭ったということです。

碑文には、「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」とあります。

「協力金」支払い

なお、この問題については同じ1967年の9月、長期にわたる交渉の結果、強制献金で要求した額と同等の5,000万シンガポールドル(約60億円)を無償で2,500万シンガポールドル、有償で2,500万シンガポールドルを「協力金」として日本政府が支払うことで政治的に決着がつきました。

「賠償」ではなく、「協力金」となったのは、1951年にサンフランシスコ講和会議締結時にシンガポールを支配していたイギリスが対日賠償権を放棄していたため、これを法的に継承しているシンガポール政府には「賠償」を要求する権利がなかったからです。

現在のシンガポールの人々は日本による戦争および占領に対し、「Forgive, but Never Forget(許そう、しかし忘れない)」と考えているといいます。

「許そう、しかし忘れない」

リー=クアンユー初代シンガポール首相は著書『シンガポールの政治哲学』のなかで「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と当時の様子を振り返っています。

現在、激しい反日感情が個々の日本人に向けられるということはほとんどないシンガポールですが、この「許そう、しかし忘れない」という言葉からも分かるように、日本軍による占領期の出来事がシンガポール社会にとって癒しがたい傷となっていることは事実です。

以上のような出来事は、日本人がシンガポールの人々と接する際に十分に留意すべき、忘れてはならない痛ましいシンガポールの歴史です。

このような痛ましい歴史をふまえつつ、日本とシンガポールの平和と友好のためにいまの世代に何ができるか、両国の明るい未来に向かって考えてゆかねばなりません。

Sponsored Link

日本の敗退と独立運動の激化

日本の敗戦

開戦当初は優勢だった日本軍でしたが、アメリカ軍を中心とする連合国の生産力に圧倒され、やがて各地で敗北をつづけていきました。

そして、戦争末期には激しい地上戦の末、アメリカ軍に沖縄が占領され、日本本土の主要都市は軒並み空襲によって破壊され、さらには広島と長崎には原子爆弾まで投下されて、国土は荒廃し、国民生活は破壊されました。

こうしてついに、1945年8月14日、ドイツにつづいて日本が連合国に対してポツダム宣言受諾の意思を伝え、降伏することとなりました。

翌日の8月15日正午に昭和天皇が直接、そのことを伝える番組がNHKでラジオ放送され、東南アジア各地にも日本の敗戦が伝えられました。

占領の終結と戦犯裁判

こうして、シンガポールはじめアジア太平洋地域に展開していた日本軍は連合国によって武装解除され、シンガポールの占領状態は終結しました。

戦争犯罪者として7人の日本人が被告となり、華人虐殺や強制労働について裁く戦争裁判がはじまりました。

裁判は1947年2月に終了し、被告は全員有罪とされ、2人が死刑、5人は無期懲役となりました。

イギリス主導のこの裁判に対しては、とくに被害の大きかった華人からの不満がありましたが、戦後の不安定な社会状況への対応に追われるイギリス植民地当局はこれに対応することはしませんでした。

ナショナリズムの意識

一方、日本軍によるシンガポール占領によって、シンガポールの人々にこれまでとは違った感情がひろがっていました。

それは「シンガポールの独立」ということでした。

これは日本が予期しなかった結果ですが、これまで絶対的だと考えていたイギリスが日本に降伏したことと過酷な日本の支配によって、シンガポールを統治するのはいかなる外部勢力でもなく、シンガポールで生活を営む自分たち自身しかいない、という感情を生み出したのです。

そのことを物語るリー=クアンユーの言葉を紹介しましょう。

「私と同世代の仲間は、第二次世界大戦と日本占領を経験した若い世代である。この過程で、われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した。われわれは、自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心したのである。」(History of Modern Singapore)

こうして、「自分たちで統治する、自分たちのシンガポール」というナショナリズムの意識が確実にシンガポールの人々に育っていきました。

そして、その先に目指されることとなるのはが「独立」なのです。

敗戦により日本はシンガポールから撤退することになりますが、それに入れ替わってふたたび戻ってきたイギリスによって植民地支配が継続することになりました。

シンガポールの人々の悲願であったシンガポール独立への道は閉ざされてしまうこととなってしまったのです。

こうして希望が再び闇の中に沈んでしまうかにみえたものの、長年培われた反英感情にくわえて新たに、そして確実にシンガポールの人々のなかに育まれつつあったナショナリズムは収まりませんでした。

イギリスの支配力低下

一方のイギリスは戦勝国とはなったものの、戦争で大きなダメージを負っていました。

そのような国内事情に加えて広大な植民地を有するイギリスは、その世界にひろがる各植民地で相次ぐ独立要求の高揚にも対応が迫られていました。

インドをはじめとする他のイギリス植民地と同じようにマレー半島やシンガポールでも、植民地支配に抵抗する動きが高まります。

のちにシンガポール建国の父となったリー=クアンユーは当時のみずからの決意について、次のように述懐しています。

「われわれはイギリス人を追い出したかった。イギリスの武力崩壊を見た後、そして3年 半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否した。第2次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、痛めつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った。われわれは自ら治め、自ら尊厳ある国民として誇りを持てる国で、子どもたちを育てていこうと決心した」(リー=クアンユー『シンガポールの政治哲学』)

ヨーロッパが戦後の混乱状態にあって各地で植民地からの独立の気運が高揚し、イギリスの植民地に対する支配力が低下してゆくなかで、とりわけ遠く離れたマレー半島の支配はイギリスにとって非常に困難な状態に陥っていきました。

このことは、シンガポール独立を求める勢力にとって追い風となっていきました。

Sponsored Link

歴史教科書のなかの「戦争の記憶」

1980年代半ばまで

苦難を味わった戦時期のシンガポールの記憶を、シンガポールは歴史教科書においてどのように継承しているのでしょうか?

ちなみに、シンガポールでは1980年代半ばまで、歴史教育自体を重視していませんでした。

それよりも科学技術教育など、経済発展に直接資すると考えられた科目が大切にされていました。

1975年には小学校の科目から歴史が消え、歴史・地理・道徳をあわせた生活科という科目がつくられましたが、日本占領期に関する教科書の記述はほんのわずかでした。

その後、1984年から社会科が生活科に代わって導入されたシンガポールの小学校の教科書からは、そのわずかな戦争の記述さえも消えてしまいました。

Sponsored Link

シンガポール史必須化と占領期の記憶

他方、シンガポールの中学校では、1984年の学習指導要領の改定により、中学校ではじめてシンガポール史が教えられることになり、必須とされました。

ここで第2次世界大戦について詳細に教育されることとなりました。その後、1994年、1999年、2005年と歴史教科書が改定されましたが、日本占領期の描写や教科書における記述の割合などについては大きな変化はありませんでした。

1999年からは小学校でも社会科教科書で日本占領期に関する記述がはじまります。その内容は中学教科書の内容に沿ったものでした。

教科書では、戦争にいたる背景や経緯とともに、日本化教育や華人粛清といった日本占領下のシンガポールの過酷な状況が詳しく記述されています。

また、抗日運動を行なった人物を顕彰する記述もみられます。

現在のシンガポールの若い世代にも、歴史教育などによって戦争中に日本がシンガポールでなにをしたのかについての記憶がくわしく伝承されているのです。

 

下記はシンガポールの歴史記事についての一覧です。

シンガポールの歴史【完全ダイジェスト版】 約1万文字

シンガポールの歴史 完全版 約10万文字

シンガポールの前近代 

「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

イギリス統治下のシンガポール

第二次世界大戦とシンガポール 今回読まれた記事

シンガポール自立への模索

シンガポールの独立とリー=クアンユー体制

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(政治編)

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(社会編)

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(国家戦略編)

Sponsored Link

\ SNSでシェアしよう! /

シンガポール移住生活&観光&ビジネス singainfo.comの注目記事を受け取ろう

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

シンガポール移住生活&観光&ビジネス singainfo.comの人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

その他の記事

  • リークアンユー:シンガポール建国の父、その生涯と政治・思想

  • 第二次世界大戦とシンガポール

  • シンガポール自立への模索

  • イギリス統治下のシンガポール

関連記事

  • シンガポールの歴史【完全ダイジェスト版】

  • シンガポールの歴史

  • シンガポールの前近代

  • 「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

  • シンガポール国名の由来

  • リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(国家戦略編)