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シンガポール自立への模索

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シンガポールの自治権獲得とリー=クアンユー首相の登場

植民地再編

シンガポールの統治者として復帰したイギリスは、1946年4月1日、これまでのマレー半島周辺の植民地を再構成します。

すなわち、シンガポールはこれまで、海峡植民地としてマラッカ、ペナンと一つの単位をなしていて、マレー半島本土はこれとは別のマレー連合州という別の単位でした。

戦後になって、これを改編し、マラッカとペナンをマレー半島本土と合わせてマラヤ連合(マレーシア)とし、シンガポールのみをイギリスの直轄植民地として分離したのです。

今日のマレーシアとシンガポールの原型が、これにより誕生しました。

その後の歴史は、このシンガポールとマレーシア、という単位で展開していくこととなります。

再編の背景

このような形で再編とシンガポールの分離が行なわれた背景には、イギリスとマレーシアそれぞれの事情が絡み合い、結果的にシンガポールの分離が両者にとって都合がよかったことによります。

まず、イギリスの事情としては、戦後世界においてアジアにおける権益を維持・確保するにあたって、シンガポールのもつ軍事的・経済的な重要性によるものでした。

マレーシアが独立を目指した場合でも、シンガポールを分離しておくことで、シンガポールでの影響力を確保できる、と考えたのです。

他方のマレーシアの事情としては、マレーシアのマレー人がシンガポールの華人たちのもつ政治力と経済力がマレーシア全体に及ぶことを警戒していたことがあげられます。

マレーシアはあくまでマレー人を中心とした社会を志向していましたので、華人が多数を占めるシンガポールとは距離を置いておきたかったのです。

この問題はのちほど、より現実的な問題となって再燃します。

自治政府の設立

第2次世界大戦後のイギリスは、ヨーロッパの混乱と大戦前からアジアの各植民地で次第に高まっていた独立への機運が大戦の終結後になって一気に高まったことを背景として、戦後、アジアでの影響力が急速に低下していたため、少しでも各植民地での影響力を維持しようと自治権を付与・拡大するなどして植民地住民たちに譲歩をはじめました。

このような流れの中で、シンガポールでも1947年7月にはイギリス植民地当局によって立法会議選挙法令が公布されます。

そしてこれに基づき1948年3月20日に議席の一部を民選とするシンガポールで初めての選挙が実施されました。

この選挙は住民の一部に選挙権を制限した制限選挙でしたが、20万人のシンガポール市民が参加しました。

1948年にはマラヤ連邦に自治を認め、その後1955年にはリンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、シンガポールは部分自治を認められることとなります。

すなわち、シンガポールの立法評議会を財政・外交・軍事など以外の自治権を持つものに改め、民選議員の割合を増やした上で自治政府が設立されることになったのです。

これに伴い、シンガポールでは政党結成の動きが活発化しました。

この時の選挙では、のちにシンガポールの政治を事実上、一党独裁のもとにおく人民行動党は3議席を獲得するにとどまっていましたが、結党間もない政党としてまず政治参加することが同党の課題でした。

結局、英語教育労働者を支持基盤に持つ労働戦線が第一党となって、その党首であるイラン系のデビッド=マーシャルが自治政府の初代首相となりました。

自治政府の混乱と「マラヤ連邦」成立

この当時の自治政府首相の権限は非常に制限的なものであったため、マーシャルは度々、イギリス植民地当局とぶつかります。

このため、就任から1年ほどが過ぎた1956年6月に辞任してしまいました。

つづいて同じく労働戦線のリム=ユーホックが首相に就任しますが、華人の労働組合や学生運動が活発になっていて、不安定な政治情勢のなかでほとんど成果をあげることなく、次の選挙を迎えることとなりました。

1957年になると、イギリスの支配が弱まってゆくなかで、自治領という形ながらマレー半島内の一部がペナン・マラッカを中心に「マラヤ連邦」として独立しました。

そして、初代首相にはトゥンク・アブドゥル・ラーマンが就任します。後述しますが、ラーマンはその後、シンガポールの歴史と深い因縁を結ぶこととなります。

人民行動党の勝利とリークアンユー政権の成立

そして、1959年にはシンガポールがこれまでの部分自治からイギリス連邦内の自治州として外交と国防以外の権限を行使することが可能な、完全自治へと移行してゆくのです。

立法評議会の定員も増加し、全員が選挙により選出されることになりました。

また、これまでの制限選挙から20歳以上の男子による普通選挙へと移行しました。

このとき、全51議席のうち43議席を獲得し、圧倒的多数の第一党になったのがリー=クアンユー書記長率いる人民行動党でした。

こうして1959年6月3日、当時35歳であったリー=クアンユーが首相に就任しました。

リー=クアンユーは閣僚として当結成時からの「第一世代」と呼ばれる人々のうち、英語教育を受けたトー=チンチャイが教育相、ゴー=ケンスィーが財務相、ラジャラトナムが文化相に就任し、英語を話す層が中心となった層が中心の新政権が発足したのです。

その後、路線をめぐる党内の左右の勢力争いがくりひろげられました。

すなわち、英語教育を受けた層を中心とするリー=クアンユーなど右派と、華語教育を受けた層を中心とする左派との対立が次第に深まっていくのでした。

汚職のないクリーンな党

シンガポールの人民行動党は汚職のないクリーンな党として世界的に知られています。

その元ができたのが、このリー=クアンユーが首相に就任した直後でした。

まず、大臣級の給与削減を行ない、閣僚自身もボランテイアで清掃に参加する「シンガポール・クリーン・キャンペーン」を実施しました。

そして、公職者の汚職を取り締まり、監視させる汚職調査局を設置しました。この汚職調査局は公務員や政治家の私生活まで監視して、不審な場合は徹底的な取り調べを行ないました。

また、社会の風紀の乱れを糺すとして、ストリップショーやキャバレーが禁止されました。

経済構造の根本的改革

リー=クアンユー自治政府の目の前には経済開発という政策課題が横たわっていました。

それは中継貿易に依存していた経済構造を根本的に改革していくことでした。

周辺の東南アジア諸国が独立してゆくなかで、これらの国々が工業化をすすめたことで、原材料を輸出し、ヨーロッパから工業製品を輸入する、という物流の流れに次第に変化があらわれ、東南アジア諸国の貿易が減少していきました。

このため、ラッフルズ以来、ヨーロッパとアジアの中継貿易を主としてきたシンガポール経済は大きなダメージを受けていたのです。

これに対し、リー=クアンユー自治政府が立てた対策はゴー=ケンスィー財務相を中心とする工業化の推進でした。

当時は失業率が10%を超えていたこともあり、大規模な雇用創出が見込まれる工業化推進は雇用問題を解決するうえでも切実な課題でした。

重化学工業に重点を置く工業化

人民行動党政権が成立するや、経済開発庁など政府行政機関の調整を行ないました。

また、すでに先行して工業化をすすめていた周辺国といたずらに競争関係になるのは得策ではありません。

ですので、造船や石油化学といった重化学工業に重点が置かれることになりました。

そして、重化学工業を担いうる国内資本が皆無であったことから、外国資本を誘致する戦略が採られました。

そのための工業用地として、シンガポール島の西部にある沼地を整備して、ジュロン工業地区が建設されました。

マレーシアの国内市場化

このとき、問題なのがシンガポールで生産した工業製品を販売するための一定規模の国内市場の問題でした。

シンガポールのような小規模な市場では当然ながら、そこで見込まれる需要は限られていました。

そこで想定されたのが、将来の合併を見越してのマレーシアの国内市場化でした。

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マレーシア連邦の成立

マレー半島との一体化

その後、上のような経済的な事情もあり、シンガポールのリー=クアンユー首相はシンガポールのイギリスからの独立とマラヤ連邦との合併を目指して積極的に交渉をすすめました。

リー=クアンユーは「シンガポールの生き残りのためにはマレー半島との一体化が不可欠」だとシンガポールの住民に訴えます。

一方のマラヤ連邦のラーマン首相は1961年、シンガポールやサバ、サラワク、ブルネイといった隣接するイギリス植民地と合併して「マレーシア連邦」を結成する構想を発表しました。

合併案

思惑が一致したリーとラーマンはシンガポールの合併に向けた協議を進めました。

そして、両者による協議の結果、合併案がまとめられました。

その内容は、まず、シンガポールが引き続き自治州として、教育や労働政策も含めた強い自治権を保持することが盛り込まれました。

その背景には、両者の民族政策のちがいがありました。

すなわち、マラヤでは学校教育のマレー語化政策を進めていました。

しかしながら、シンガポールでは引き続き英語や中国語による教育を認めていました。

また、公務員採用や企業設立の際に、マラヤではプミプトラ政策と呼ばれるマレー人優遇政策が行なわれていましたが、シンガポールではこれを採用しなくてもよい、ということになりました。

それぞれの人口における民族構成のちがいが配慮され、マラヤがシンガポールに配慮する形となったのです。

さらに、シンガポールでは自由貿易港を継続することとされましたが、一方で開発が遅れているサバとサラワクに融資するとされました。

合併に抵抗する左派

こうしてリー=クアンユーはイギリスからの独立とマラヤ連邦との合併をさらに主張するようになりますが、これに強く抵抗した勢力がありました。

それはリー=クアンユーが勢力を拡大するうえで当初、手を結んでいた与党・人民行動党内の左派でした。

彼らは当時、マラヤ共産党の影響下にある共産主義者でした。

このマラヤ共産党は戦争中に日本軍に対するゲリラ戦をつうじて勢力を拡大させました。

しかし、戦後は武装蜂起を企てたためにイギリスやマラヤ連邦によって徹底的に弾圧されて非合法組織とされてしまいます。

しばらくはジャングルに解放区を設置して勢力をなんとか確保していましたが、これらも制圧されてしまった結果、シンガポールの労働運動が彼らの活動の場となっていたのです。

左派の脱党とバリサン結成

シンガポールの与党・人民行動党は左右の路線対立の末に1961年にいたって左派が脱退することとなりました。

その契機となったのが、1961年5月にこれまで合併に否定的であったマレーシアのラーマン首相が、シンガポールの赤化防止のためにシンガポール合併を容認する方向へと変化したことでした。

人民行動党を脱退した左派勢力は新たにバリサン・ソシエリス(社会主義陣線=社陣)を結成して活動を開始し、リー=クアンユー首相が主導するマレーシア連邦への編入をはげしく非難しました。

バリサンへ移った議員は13人でしたが、労働組合を基盤とする支部や専従職員らの多くがバリサンへ移ってしまいます。

全体で51あった支部のうち、人民行動党に残留したのが16支部というありさまでした。

これにより、リー=クアンユー政権は危機に瀕することになりました。

バリサンによる批判

マレーシアとのあいだで協議された合併案に対し、バリサンは猛烈に批判します。

シンガポールはマレーシアの総人口の2割を占めるのにもかかわらず、マレーシア下院におけるシンガポールに割り当てられた議席は159議席中15議席のみでした。

さらに上院では55議席中シンガポールへの割り当て議席はわずかに2議席、そしてシンガポール住民が他地域へ移ると選挙権が行使できない、といった問題点を明らかにして批判するとともに、「シンガポール人はマレーシアの 『二等国民』にされるのだ」というキャンペーンを張ります。

これらの制限は、人口で上回る華人にマレーシアの政治主導権を奪われないため、ラーマンが絶対に妥協できない点でした。

住民投票実施

リー=クアンユーは1962年に住民投票を実施して、この合併案にシンガポールの人々のお墨付きを与えさせました。

この住民投票における選択肢は、「シンガポールは特別な自治州として合併するか、サバ・サラワク並みの自治で合併するか、マレーシアの普通の州として合併するか」という三択でした。

つまり、「合併しない」という選択肢はなかったのです。

そのため、バリサンはボイコットを呼びかけました。

バリサンへの弾圧と連邦結成の決定

このような状況にあって、1962 年12月にブルネイでマレーシアへの加盟反対を主張する北ボルネオ国民軍が反乱を起こしました。

バリサンは北ボルネオ国民軍の反乱を「反植民地の民衆蜂起」と定義し、これを支持する声明を出します。

この事態を口実に、リー=クアンユーはラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。

そして反対派を弾圧したうえで、マレーシア連邦の結成が1963年8月31日に実施されることが決まりました。

インドネシアの妨害

このような連邦結成への動きに対して外部から妨害が入ります。

インドネシアによるものでした。インドネシアの言い分は次のようなものでした。

すなわち、そもそもマラヤやボルネオ島などマレー系民族の住む地域が分断されてしまったのは、イギリスとオランダによる植民地分割によるものであるので、独立するなら全てインドネシアとして統一国家になるべきだ、というものでした。

インドネシアのこのような主張の背景には、当時のスカルノ・インドネシア大統領が唱えていた「大インドネシア主義」があり、マレーシアに対して対決政策(コンフロンタシ)を宣言したスカルノ大統領は「マレーシア粉砕」をスローガンに周辺海域およびボルネオ島で軍事行動にまで出ました。

また、国際社会に向けてインドネシア政府は「マレーシア連邦の結成はイギリスによる新植民地主義の陰謀」であるとして、これを阻止すべきであると訴えました。

国際社会へのはたらきかけ

これに対抗すべく、リー=クアンユー首相は当時、国際社会で発言力を強めていたアフリカ諸国を訪問し、35日間で17ヵ国を歴訪して各国の首脳と会談して自分たちがマレーシアへの統合を心底望んでいることをアピールするなどの外交戦略を繰り広げました。

こうして、この問題が国際紛争に発展しつつあることから、国連でもマレーシア連邦へのサバやサラワクの編入が妥当なものなのか、ということが問題となりました。

そして、マレーシア連邦に加わることについての住民たちの意思を確かめる国連調査団の派遣が決定されました。これに伴って、連邦結成の日程も9月16日に延期されることとなりました。

イギリスからの独立宣言

このような事態に危機感を抱いたのがシンガポールのリー=クアンユー首相でした。

合併延期によって国内でバリサンが支持を伸ばすことや、合併自体が実現不可能になった場合の政治的危機状況を恐れたのです。

そこでリー首相が考えついたのが、もともとの連邦結成の日であった8月31日にシンガポールだけがイギリスからの独立を宣言してしまう、という方法でした。

この方法によって、シンガポールはただちにイギリスからの独立を成し遂げてしまいます。

一方のイギリスからすれば、いずれはマレーシア連邦に合併されるシンガポールの方便的な独立であることは十分にわかっていました。

このため、イギリスはあえて抗議や反発をすることをしませんでした。

そして、一旦イギリスから独立したシンガポールはマレーシア連邦への合併を宣言し、1963年9月16日、シンガポールも含めた「マレーシア連邦」が誕生して、シンガポールはマレーシア連邦を構成するひとつの州となりました。

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人民行動党(PAP)の台頭と党内闘争におけるリー=クアンユーの勝利

人民行動党の台頭

このようなプロセスでおこなわれた選挙をつうじてシンガポールで台頭してきたのが、独立後に政権の座に着くこととなる上述の人民行動党(略称はPAP、1954年結成)でした。

人民行動党(PAP)は1955年の選挙で3議席を獲得したのを皮切りに、1957年の選挙では第一党となり、オン=エングェン(王永元)をシンガポール市長に就任させました。

オン=エングェン市長は民衆申訴局や密告局を設置して、住民の声を集約しつつ政府内部で横行していた汚職を一掃しました。

また、市庁舎前に設置されていたエリザベス女王の銅像を撤去し、シンガポール独立への意思表示を明確にしました。

さらに、華人が要求していた屋台営業の自由化および郊外のマレー人集落に水道を敷くなどしてシンガポール市民の人気を集めました。

このような市長の人気も追い風となり、1959年の総選挙では全51議席のうち人民行動党が 43議席を獲得して圧勝しました。

こうして、人民行動党の党首であったリー=クアンユーはイギリス統治下のシンガポールにおいて外交・防衛以外の権限を持つシンガポール自治州首相に就任することとなりました。

オン=エングェンはオーストラリアへ留学した会計士でしたが、福建語の演説が巧みでした。

福建語など中国南部地方出身の華人を基盤とする左派勢力を抑制するため、リー=クアンユーがオンを人民行動党にスカウトしたという経緯がありました。

しかし人民行動党内での首相候補争いに1票差で敗れてしまいました。

結果、一度はリー=クアンユー政権の下で国家発展相に就任しましたが、予算配分をめぐってリーと摩擦が生じることとなり人民行動党から離党してしまいました。

オンは人民統一党を結成して1961年の補欠選挙では人民行動党を圧倒しました。

そのため、中国語が苦手なリーは北京語に加え、慌てて福建語の勉強を始めた、というエピソードがあります。

人民行動党分裂

その後、人民行動党に再度危機が訪れます。

前述の党分裂によるバリサンの成立です。

左派を党内から追い出しはしたものの、これまで呉越同舟的なかたちで共同してきた勢力が外部の対抗勢力として立ち現れました。

これに対し、リー=クアンユー首相は徹底的な弾圧で応じました。

バリサンが北ボルネオ国民軍の反乱を「反植民地の民衆蜂起」として、支持する声明を出すと、この事態を口実に、ラーマンとともにバリサンを逮捕するようイギリスに要求しました。

そしてバリサンを排除したうえで、マレーシア連邦の結成が決められたのです。

リー=クアンユーの側からすれば、マレーシア連邦への合併問題によって、最大の敵対勢力を追い出すことができた、ということです。

そして、バリサンの残存勢力についにとどめをさします。

合併直後の1963年9月21日に実施されたシンガポール州議会選挙の際に、バリサンの支持基盤である労働組合の銀行口座を凍結するよう政府が命令を出すなどして選挙のための資金を不足させて選挙活動を妨害するとともに、マレーシア連邦政府が人民行動党を支持したのです。

選挙の結果、全51議席のうち人民行動党が37議席、バリサンが13議席、無所属1議席となり、人民行動党の勝利に終わりました。

こうして、指導者を失ったバリサンは内部対立を繰り返して、急速に勢力を縮小していきました。

以上のような熾烈な党内闘争に勝利した人民行動党のリー=クアンユー首相のもとで、以降、シンガポールはマレーシア連邦への編入と脱退・独立を経験したのでした。

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シンガポールにおける公用語の指定

1955年に部分自治を認められたシンガポールは、完全な独立を勝ち取るため、周辺の各国から移住してくる人々の市民権を認め、市民の大部分を占める中国、マレー、インドの3つのコミュニティを代表して3つの公用語を指定しました。

この3つの公用語である中国語・マレー語・タミル語は、現在のシンガポールでも継続して公用語となっており、今のシンガポールの多様な文化の基礎を築いたとも言えます。

連邦政府との対立

マレー人優遇を図りたいマレーシア連邦政府に対してイギリス統治時代に流入した中華系住民である華人(華僑)が大半を占めるシンガポールは、マレー系・中華系住民の平等を主張し、徐々に連邦政府と軋轢が生じていきました。

しかし、これがそのまま連邦からの離脱につながったわけではありませんでした。なぜなら、当時はシンガポールが単独で独立国家になることなど、非現実的であると考えられていたためです。

その理由として、以下のようなことがあげられます。

(1)シンガポールはそもそも小さな島にすぎず、狭小であって、国としての体裁を整えることは到底できない

(2)シンガポールはマレー半島の貿易港として栄えているため、マラヤ経済と切り離せるものではない

(3)水・食料をマレー半島に完全に依存しているため、これから分離してシンガポールは生存できない

(4)東南アジアの中央に中国系住民主体の国が出現することで、周辺諸国ばかりか世界の西側諸国から共産主義中国の影響下にある国と見なされて警戒・敵視される恐れがある

さらに、住民たちのみずからのアイデンティティについての認識の問題もありました。確かに、歴史的に見てもシンガポールはマラヤの一部でした。

また「現地生まれの華人」と自ら称する人であっても、マレー半島の生まれだということが少なくありませんでした。

住民のあいだにも、「シンガポールはマレー半島の一部である」という認識が根強くあったのです。

以上のような理由から、リー=クアンユー首相率いるシンガポール当局にとっては、対立する連邦政府との利害関係を調整することは課題になっても、連邦を離脱し、独立国家としての道を選ぶことなどは当初はありえないことでした。

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選挙を契機とした連邦政府との対立激化

マレーシア政府与党 VS シンガポール政党

1963年には選挙をきっかけに関係がさらに悪化します。

それ以前からシンガポールはマレー系住民の優先政策を進める連邦政府と対立するようになり、リー=クアンユー首相が率いる人民行動党はマラヤでも中国系住民を基盤に勢力を伸ばしていました。

そして、選挙の際にマレーシア連邦政府与党である統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)とのあいだで、相互の地盤を奪い合う激しい選挙戦が展開されました。

人民行動党は選挙にあたってサバ、サラワクとともに野党連合を結成し、マレーシア連邦政府との対決姿勢を明確にしめしていきました。

マレー人優遇のマレーシア政府与党 VS シンガポール政党という構図が明白になりその葛藤は頂点に達したのです。

インドネシアの圧迫

対外関係に目を向けると、インドネシアがマレーシア連邦の結成に強く反対していました。

インドネシアのスカルノ大統領は、マレーシア連邦の結成はイギリスの陰謀であるとして批判したのです。

そしてボルネオ島北部のサバ州とサラワク州はイギリスによって植民地化される以前はインドネシアの領土であったという主張をはじめました。

そして実力行使による解決策(コンフロンタシ)を提示しました。

インドネシアはこれを早速、実行に移します。

サバ州とサラワク州、そしてマレー半島に軍事力を行使し、攻撃部隊を上陸させたのです。

これに対し、イギリス軍はマレーシアに軍隊を派遣しました。

こうして、地域の緊張が急激に高まりました。

さらに、1965年3月になると、シンガポールのオーチャード通りの銀行ビルで爆弾テロが発生しました。

死者3名、負傷者33名の人的被害が出たこの事件の犯人は2名のインドネシア兵士でした。

このような軍事的攻撃とともに、スカルノ大統領は、対シンガポール貿易を禁止しました。

ちなみに、シンガポールの対外貿易に占めるインドネシアの割合はこの当時、全体の3分の1でした。

これによって中継貿易で繁栄していたシンガポールは大きな打撃をうけます。

分離独立は非現実的な選択

さらに、フィリピンもサバ州を自国の領土であると主張し、マレーシアとの国交を断絶しました。

インドネシアやフィリピンとの関係という観点からみれば、マレーシアとの合併によってトラブルに巻き込まれるリスクが高まっていたのです。

しかしながら、さまざまな観点から、シンガポールにとってはマレーシアからの独立は非現実的な選択でしかなく、対立はあくまでも連邦にとどまる前提でのものと考えていました。

シンガポール経済がマレーシア経済全体に占める割合の大きさも、対立しても連邦はシンガポールが必要である、という自負心につながっていたとも考えられます。

民族間対立の激化

ところが、1964年7月21日にはマレーシア連邦の憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策をシンガポールでも求めるマレー系のデモ隊と、一部の中国系住民が衝突する事態が発生して死傷者が出ました。

「シンガポール人種暴動」と呼ばれる事件です。

このように民族間の対立がシンガポールで先鋭化していたことは事実でした。

一方のマレーシアにとってはシンガポールを除けば中国系の人口がなんとか過半数にはならなかったにもかかわらず、シンガポールが連邦内に存在していることで、中国系がマレー系よりも上回ってしまっていました。

マレー人たちにとってはシンガポールが連邦にとどまっていることで、中国系にマレーシアを乗っ取られるという危機感があったのです。

連邦からの「追放」

マレーシアのマレー人政治家たちは、この対立の責任がリー=クアンユーにあると主張しました。

リーがマレーシアの国家原理に異議を唱えていることが、このような対立と混乱を招く原因になっている、という主張です。

彼らマレー人政治家たちのあいだで、リー=クアンユーの処遇が議論されるようになりました。

強硬派はリー=クアンユーの逮捕を求めました。

穏健派はリー=クアンユーを国連大使に任命して、マレーシアから離れさせ、シンガポール州首相の後任にはリー=クアンユーの片腕であるとともに、穏健な主張のゴー=ケンスィーがいいのではないか、との提案を行ないました。

1977年に刊行されたマレーシアのラーマン首相の回顧録には「リーは、シンガポールとマレーシアが一緒になるために懸命に頑張った。しかし、それ以上に、マレーシアを壊すためにもっと頑張った」と記しています。

激しい対立を経て、結局、マレーシア連邦首相・ラーマンと、シンガポール人民行動党・リーは、両者の融和が不可能と判断するにいたりました。

これ以上の民族対立による混乱を懸念したマレーシアのラーマン首相は、シンガポールをマレーシア連邦の外に放り出すこと、いわばシンガポールの連邦からの「追放」という選択をしたのです。

ラーマンは1965年8月9日にこのことを国民に告げる議会演説を行ない、シンガポールを連邦から分離したのでした。

 

下記はシンガポールの歴史記事についての一覧です。

シンガポールの歴史【完全ダイジェスト版】 約1万文字

シンガポールの歴史 完全版 約10万文字

シンガポールの前近代 

「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

イギリス統治下のシンガポール

第二次世界大戦とシンガポール

シンガポール自立への模索 今回読まれた記事

シンガポールの独立とリー=クアンユー体制

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(政治編)

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(社会編)

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(国家戦略編)

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