1. TOP
  2. シンガポール 歴史
  3. シンガポールの独立とリー=クアンユー体制
Sponsored Link

シンガポールの独立とリー=クアンユー体制

Sponsored Link




Sponsored Link

Contents

シンガポールの独立と華人社会

苦渋の選択

シンガポール州の首相であったシンガポール人民行動党のリー=クアンユーは、マレーシア連邦政府との融和が不可能と判断してシンガポールの独立を決意します。

シンガポールの独立は市民には事前に何の予告もなく、1965年8月9日当日の朝になって、政府から発表がありました。すでに述べたように、これはシンガポールの意思というよりも、実際にはラーマン首相がリー首相にシンガポールの独立を迫って追い出したというのが真相に近いと考えられています。

シンガポール側からすれば、対立こそすれ、連邦離脱ということは想像もしていなかったため、これは市民ばかりか政府自身にとっても「晴天の霹靂(へきれき)」であったのです。

リー=クアンユーの自伝によれば、マレーシア連邦側に独立を要求され、「独立しなければ戒厳令を敷いて逮捕する」と脅迫されたことが書かれています。

シンガポールの独立は、それまで国内外でマレーシアとの合併の素晴らしさを宣伝し、マレーシアとの結合こそがシンガポール救済の道だと主張してきたリー=クアンユー首相にとって、苦渋の決断であったと思われます。

そのことを物語るように、独立発表のテレビ記者会見の際、途中でリー首相は泣き出してしまったのです。

この会見でリー=クアンユーは次のように苦しい胸のうちを語りました。

「私には、これは苦悶の瞬間である。これまでの私の人生、とりわけ政治家になって以降、私はマレーシアとシンガポールの合併と統一を固く確信し、そのために行動してきた。両国は、地理的にも経済的にも社会的にも一つになるのが自然だからである。それなのに、私があれほど信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまったのだ……。」

このリー首相の言葉から、シンガポールにとってこの独立がそれほど意思に背いたものであり、望まざる独立であったのか、ということが分かります。

シンガポール共和国誕生

こうして1965年、マレーシア連邦から分離した都市国家として、現在のイギリス連邦加盟国であるシンガポールが誕生しました。

イギリス連邦(Commonwealth of Nations)というのは、かつての大英帝国がその前身となって発足し、イギリスとその旧植民地によって構成される、緩やかな国家連合体で、英連邦(えいれんぽう)、コモンウェルス(the Commonwealth)とも呼ばれます。

その実態は、「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である」(コモンウェルス原則の宣言前文、1971年)とされていて、ゆるやかな独立主権国家の連合です。

また、構成国各国は必ずしも同君連合、すなわちイギリスと同じくイギリス国王を君主にしている、という関係にあるとは限りません。

シンガポールの場合は、象徴的な大統領がいるので、イギリスとは同君ではなく、旧宗主国と独立した旧植民地、という関係になります。

イギリスは加盟国国民に連邦市民権と呼ばれる権利を付与しています。

すなわち、国政および地方選挙における選挙権および被選挙権、加盟国国民に対する査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置、自国の在外公館のない国におけるイギリス在外公館の援護です。

これによって、とくにシンガポールの英語派華人たちとイギリスとの関係性が維持されることとなりました。

華人のグループ

さて、シンガポールは人口の4分の3が華人(中国系)になります。しかしながら、一言で「華人」と言ってもそこにはいくつかのグループがあります。

グループ分けの1つの指標としては、東南アジアの他の国々と同じように、福建・広東・潮州・客家・海南島といった各出身地(および使用している中国の方言)によるものがあります。

もう1つの指標はシンガポール独特のものなのですが、学校教育を中国語で受けたか、英語で受けたかというものです。

シンガポールでは前者を「華語派」、後者を「英語派」と呼びます。

シンガポール独立への道のりは、イギリスの植民地支配に対する住民の自治・独立を求める運動からはじまりました。

そして、さらにはマレー人中心のマレーシアと華人中心のシンガポールとの抗争へとつづきました。その後、独立に前後して繰り広げられたのが華語派と英語派との闘いでした。

最終的に独立したシンガポールで初代の首相となったリー=クアンユーは英語派の華人でした。

しかし、マレー人を優遇する政策を実行するマレーシア連邦政府にリー=クアンユーが対抗するためには、独立までの過程において同じシンガポールの華人でも多数を占める華語派の支持は不可欠なものでした。

イギリスによる植民地支配が終焉したころの華語派の関心事は、シンガポールやマレー半島の情勢よりも、もっぱら中国で起きていた国共内戦の成りゆきでした。

初期の選挙にも華語派は関心が薄く、結果として英語派が議会の主導権を握ることになりました。

華語派華人による政治的・経済的主張の高まり

このような華語派の姿勢に変化が訪れるのが1950年代からです。1949年に中華人民共和国が成立し、蒋介石率いる国民党勢力が台湾に逃れたことで、中国における国共内戦に決着がついたため、彼らの関心がシンガポールの内政に向けられるようになったのです。

彼らは次第にシンガポールにおける政治的権利の拡大や経済的要求を主張するようになります。

50年代半ばには、中国との連携をはかろうとする左派の指導により、公民権獲得運動や労働争議が盛んになりました。

人民行動党と華語派華人

そして、1954年には華語派の住民を基盤にシンガポール独立後には一貫して政権の座につくこととなる人民行動党(PAP)が結成されました。

その幹事長に就任したのがリー=クアンユーだったのです。

彼は中国語がほとんど話せない英語派華人でした。シンガポール住民の地位向上には民主化と独立が必要不可欠であると考え、国家社会主義的なマラヤを建設することを主張していました。

そして、民主化する以上は、政治的な基盤として人口の多数を占めている華語派華人の支持を得る必要があると考えるようになったのです。

こうして、労働運動を通じて華語派住民に強い影響力を持つ左派との共闘を実現するため、弁護士だったリーは労働組合の顧問弁護士を引き受けることで左派との結びつきを深めて、人民行動党を結成したのでした。

このようにして左派・華語派を一旦取り込むことで新生シンガポールのリーダーとなることに成功したリー=クアンユーにとって、その後の政治運営において、これらの勢力といかに対峙していくのか、ということが課題になりました。

リー=クアンユー首相は左派・華語派との党内闘争を経て、すでに述べたように彼らを排除することに成功して党内の実権を握り、政権を維持しましたが、英語派華人である自分たちが社会の多数を占める華語派華人を無視して政権運営をすることはできません。

華語派華人をいかに押さえつけ、あるいは、いかに彼らと折り合いをつけてみずからの優位性を維持するのかが、シンガポール独立後のリー=クアンユー政権期全体の課題となっていきます。

Sponsored Link




リー=クアンユーによる支配体制の確立

リー=クアンユー

このような経緯によって、リー=クアンユーは意図せず独立したシンガポールの初代首相となりました。彼は、小国の生き残りのため、経済発展を最高かつ唯一の国家目標とする開発至上主義を掲げました。

まず、リー=クアンユーの略歴についてみてみましょう。

リー=クアンユーは1923年生まれで、民族的には中国系移民である華人の4世にあたります。

そしてそのなかでも高い教育を受けた「海峡華人」と呼ばれるひと握りのエリート層に属します。

英語を話す華人(英語派華人)の家系に生まれたリー=クアンユーは、幼くして英語教育を受けます。彼の祖父であるリー=フンロンからは、クアンユーという中国式の名前(華名)とともに、Harry(ハリー)という英語名もつけられました。

そして、家族や親しい友人からは中国式のクアンユーではなく、ずっと“ハリー”と呼ばれていました。

リー=クアンユーは幼い頃には中国語ができませんでした。このため、中国人の友人はほとんどいませんでした。

彼が一緒に遊んでいたのはマレー人の子どもたちで、中国・福建省の方言である福建語が混合したマレー語で話していたといいます。

テロク・クラウ小学校、ラッフルズ学院を経て、ラッフルズ大学に入学したリー=クアンユーですが、その在学中に太平洋戦争が勃発しました。

占領の混乱のなかで大学が閉鎖に追い込まれました。学業を中断せざるを得なくなったリー=クアンユーは日本軍占領期、タピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤を闇市で売って生計を立てました。

一時、華人を敵視する日本軍に捕らえられたこともありましたが、機をみて脱出しました。

もし、このとき彼の身に何かあったとすれば、今日のシンガポールは違ったものになっていたかも知れません。

その後、リー=クアンユーは大戦後の1945年にイギリスに留学し、ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律学を専攻しました。

1949年に同カレッジを首席で卒業した彼は、短期間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通いました。

そして、同年シンガポールに帰国したのちに弁護士資格を取得し、シンガポールの“Laycock and Ong”という法律事務所に弁護士として勤務しました。

そして、イギリス植民地当局の弾圧によって逮捕・提訴された労働組合や学生指導者たちが続出するなか、その弁護を引き受けた人物が、のちに初代シンガポール首相となるこのリー=クアンユーでした。

彼もまた、植民地支配からの解放とシンガポールの独立を志すエリート青年の一人だったのです。

リー=クアンユーは勤務先の上司であるジョン=レイコックが親英政党の進歩党候補者として立法審議会選挙に立候補しました。

リー=クアンユーはその運動員として活動したことを契機に政治活動に足を踏み入れることとなりました。

そして、1954年には中産階級とともに人民行動党を創設し、これまでみてきたように、その党首としてシンガポールの初代首相となりました。

バリサンとの闘いと事実上の一党独裁確立

その後は政府・人民行動党の支配のもと、彼の強力なリーダーシップによって経済発展のためにあらゆる面で政府が先頭に立つ強権政治を展開してゆくことなります。

その過程で治安法の発動による反対勢力に対する弾圧も、たびたび行なわれました。

そのような強権政治を実現していく上で障害になりそうな勢力が、もともと人民行動党にいた左派勢力のバリサンでした。

これまでマレーシアとの結合を主張してきたリー=クアンユー首相にとって、シンガポールが連邦から分離されて独立を余儀なくされたことは反対勢力にとって格好の攻撃材料でした。

とりわけ、連邦への帰属に強烈に反対してきたバリサンにとってリー首相を批判するのによい機会だったはずでした。

ところがバリサンは、まったく別の行動を起こします。

こんどはシンガポール独立を「イギリス帝国主義が仕組んだニセの独立」だと言い出し独立に異を唱えたのです。

そして、「偽国家の偽国会にいても意味がない」という理由で1966年から翌67年にかけてすべてのバリサンに所属する国会議員が辞職してしまいました。

バリサンの議員が辞職したのちの補欠選挙では、すべて人民行動党の候補者が無投票当選しました。

これ以降、シンガポールの国会では1981年の総選挙で初めて野党議員が1議席を獲得するまで、与党の人民行動党がすべての議席を独占することとなりました。

ヘゲモニー政党制

皮肉なことですが、反対勢力であったバリサンの議員が抗議の辞職をしたことで、リー=クアンユー率いる人民行動党による事実上の「一党独裁」状態が完成し、人民行動党はシンガポールのヘゲモニー政党となり、シンガポールの政治体制はヘゲモニー政党制となったのです。

このヘゲモニー政党制とは、一つの大政党のほかに、小さな政党または衛星政党が存在を許されるが、公式上にせよ事実上にせよ、権力をめぐる競争が許されない政党制のことをいいます。

このような大政党をヘゲモニー政党と呼び、人民行動党がこれにあてはまります。

ヘゲモニー(Hegemonie)と言うのは、ドイツ語で「主導権」「指導的立場」を意味する言葉で、イタリアの政治学者であるジョヴァンニ=サルトーリが提唱する政党制類型の一つです。

このようなヘゲモニー政党制は、人民民主主義を建前とする共産主義国(共産主義政党のほかに衛生政党が存在するかつての東欧や現在の中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国)にみられると同時に、開発主義国家にも多くみられます。

スハルト政権時代のインドネシアや朴正煕・全斗煥政権時代の韓国、蒋介石・蒋経国政権での戒厳令下の台湾、プーチン政権のロシアなどにおいては、野党は存在するものの、選挙制度などが政権政党に有利にできていました。

このため、ヘゲモニー政党制であるといえるのです。シンガポールもこのような開発主義国家のパターンに該当します。

不満分子根絶へ

こうして「一党独裁」体制を手にしたリー=クアンユー政権は不満分子を根絶するための方策をすすめていきます。

まず最初に手をつけたのは左派の基盤となってきた労働組合でした。

労働組合に対する管理の強化は、すでに独立前からすすめられていました。すなわち、共産系の労働組合を強制解散させて、これにかわって政府が主導する全国労働組合評議会(NTUC)を結成しました。

そして、そこに残った労働組合をすべて加盟させたのでした。全国労働組合評議会の書記長には人民行動党の有力者が任命されます。

労働組合による政治ストライキは、左派勢力が強かった1960年代前半に頻発していました。

このような状況を心良く思わない人民行動党はこういったストライキを政府の管理下におくことを考えます。

そして、その結果として1968年に労働組合法が改正されて、労働仲裁裁判所を新たに設置して、そこでストライキの妥当性を判断させ、それが認められるまではストライキに入ることができないようにしました。

これによって、事実上、政府公認のストライキ以外は実行できなくなりました。

つぎに、不満分子たちの基盤となっているとされる華語派を根絶することを考えました。

とくに、華語学校の学生運動がそのターゲットとなり、マレーシア連邦時代に導入された「適正証明書制度」が独立後も活用されました。

これは、社会の安全を損なう者(共産主義者など)でないということを、大学入学にあたって政府から証明してもらうことを義務付けるものでした。

これには華語派学生の政治的拠点であった南洋大学だけでなく、政治的には比較的穏健なシンガポール大学からも抗議の声があがりました。

ところが、政府・人民行動党はこれを積極的に活用して、共産主義者およびその支持者たちを大学から排除することに成功し、大学やその学生たちの非政治化を実現しました。

また、政府・人民行動党は華語派華人が受けていた華語教育そのものもターゲットにしました。

そのために、中国語で講義を行なっていた南洋大学の講義も1965年には政府の圧力で半分が英語で行なわれていました。

1975年になると中国語科をのぞいてすべて英語化し、さらには1980年には南洋大学自体が閉鎖され、シンガポール大学と統合されてしまいました。

中国語で教育を行う小中学校も1987年に入学停止としました。

英語使用の推進と華語普及運動

一方で、リー=クアンユーは、ビジネスや行政、異なる人種間における共通語として、英語の使用をうながします。

一方で華語(標準中国語)・マレー語・タミル語も公用語として公認しました。

こうして、シンガポールの公立学校における授業においては、英語が使用されています。

同時に生徒自身の民族語を習得するための授業も行われてもいます。

他方、1979年からは、リー=クアンユー政権によって、華人を対象とした華語普及運動(講華語運動、Speak Mandarin Campaign)が開始されました。

これにより放送では基本的に全ての番組で華語が使われるようになりました。

これは華語派華人の伝統を保護するような政策に見えますが、じつはその逆なのです。

これによって、彼らが日常的に使ってきた、華語以外の中国語方言の伝承が妨げられる結果となったのです。

現在では若い世代の大部分は方言を流暢に話すことができなくなりました。

すなわち、これには中国での出身地域別に形成されていたシンガポールの華語派華人コミュニティを弱体化させる効果があったのです。

メディア掌握

教育の分野だけでなく、メディアにもこのような強権の発動はおよびます。

1971年に華語教育の衰退を懸念して政府の英語化をすすめる施策を批判した華字新聞『南洋商報』の編集者3人を国内治安法違反の容疑で逮捕しました。

その理由は、共産主義思想を宣伝し、華人ショービニズムを煽った、というものでした。

1975年には中国語で発行されている新聞各社の経営権を政府が掌握しました。さらに、1977年に「新聞・印刷紙法」が改正され、個人が新聞社の株式を3%以上所有することを禁止しました。

これによって華字新聞を華人企業家たちの手から奪います。

そして、シンガポールで刊行されるすべての新聞を一つの持株会社のもとに統合しました。

そのうえで1983年には各社を強制的に合併させました。

そして、翌年の1984年にいたって、政府が主導して設立したシンガポール・プレス・ホールディング社がすべての新聞社をその傘下とし、シンガポール・プレス・ホールディング社の経営責任者として人民行動党の政治家が任命されました。こうして、華語新聞の実質的な国有化が実施されたのでした。

華人企業家に対する管理強化

さらに、華人企業家に対しても管理を強化しました。

すでに独立前の1963年の選挙の際に、バリサンに資金援助したという理由で、有力な華人企業家であったタン=ラークサイから国籍を剥奪していました。

そして、これを見せしめにして華人企業家たちの政治行動に圧迫をくわえていたのです。

以上のようなさまざまな管理・抑圧によって、人民行動党に対する批判・対抗勢力が駆逐されたり、非政治家されたりすることによって、シンガポール社会で人民行動党による一党支配体制が出来上がっていったのでした。

野党への対応

その後、国会議員選挙では1981年の総選挙で初めて野党が1議席を獲得したのですが、人民行動党は選挙制度や選挙区割りを自党に有利なように次々と変更し、野党候補者を当選させないことに力を尽くしました。

さらに政府批判をした野党議員や候補者を名誉毀損で訴えて破産させるなどして、事実上、政治的自由は制限された状態でした。

2011年の選挙で野党が「歴史的勝利」を果たしたされていますが、それでも全 87議席のうち野党が獲得した議席はわずか6議席にすぎませんでした。

Sponsored Link




25年で幕を閉じた南洋大学

南洋大学の設立

弾圧の対象となった大学・南洋大学について、その歴史を少しみてみたいと思います。

南洋大学は現在の南洋理工大学がある場所にかつてあった大学です。

南洋大学は南大と略称されますが、台湾・香港を含む中国以外で初めての華語大学でした。

その設立は1956年で、中国系移民たちが自分たちのルーツを伝承しようと、自分たちの力で資金集めを行なって開学しました。

中国系移民は、前述のように会館などの活動の一環として華語教育を実施する小学校や中学校をいくつも建設しました。

ところが、中国系移民が設立した大学はこの南洋大学のみでした。

このような大学が設立されるにいたった背景には、イギリス植民地当局の学校政策と中華人民共和国成立に対する植民地当局の対応がありました。

すなわち、戦後のイギリス植民地当局はすべての言語別の小学校をみずからの管理下におき、補助金を出すことにしましたが、その額が英語校華語校で大きな差をつけるなどして冷遇し、英語校へと生徒を誘導する政策をとりました。

また、中国で共産党政権が誕生すると、華語を用いる学校にその影響が及ばないようにイギリスは中国からの教員の招請を禁じました。

また、さらには中国の大学に進学した華語校の卒業生が帰国できないようにしてしまったのです。

こうして、華語校では教員不足とこれまで中国に留学していた卒業生の大学進学先の問題が深刻となっていきました。

このような状況に危機感をいだいた華語系華人の有力者たちは、1953年から福建省出身者のコミュニティを中心として華語大学設立のための募金活動をはじめました。

こうして、1956年、文学部・商学部・理学部の3学部を備えた南洋大学が開学されることとなり、573人の新入生を迎えました。

華語教育の牙城

しかしながら、イギリスや独立を目前にしていたマラヤ連邦はこの大学設置に強く反発します。

そして、大学としての承認をしなかったのです。

これにより、南洋大学は私立の専門学校扱いとなってしまいます。

しかし、このような抑圧がかえって、「華語教育の牙城」として、南洋大学が権力に対抗しようとする華語系華人たちの象徴的存在としてゆくこととなりました。

そして、この大学が左派学生や野党の支持基盤になっていく結果にもなりました。

1959年に成立した人民行動党政権もまた、南洋大学に対する弾圧を続けました。

この政権はマレーシア連邦の一員となることを目指していましたので、連邦の言葉であるマレー語と国際言語としての英語に重きを置く傾向がありました。

このため、華語を重視する南洋大学の学生たちはこれに反発していました。

大学への弾圧と吸収合併強要

1963年のマレーシア連邦結成後、南洋大学の学生や職員が「共産分子取締」として、多数逮捕されました。さらに理事長の市民権を剥奪し、大学の存続を危機に陥れました。

シンガポールの分離・独立後、人民行動党はさらに露骨に南洋大学への抑圧を行なうようになります。

そして、華語のできない学生受け入れや、学生への英語の奨励などを大学に声明させたのです。

これは華語大学としての南洋大学の意義を損ねるものであり、反対した理事もいましたが、皆辞任することとなりました。

また、これに講義して授業をボイコットした学生たちには停学や退学の処分を下しました。

そして、ついに南洋大学が息の根を止められます。1970年に英語大学であるシンガポール大学との合併を政府に強要され、設立25年にして南洋大学は吸収合併されてしまいました。

こうして、南洋大学を吸収合併したシンガポール大学はシンガポール国立大学と改名して、現在にいたります。

Sponsored Link




シンガポールの政治システムと政治的自由の抑圧

シンガポールの政治制度

1965年に独立して1つの国家となったシンガポールですが、その政治制度はどのようなものなのでしょうか。

すでにみたように、シンガポールは1963年にイギリスから独立し、その後1965年にマレーシアから分離独立しました。

しかし、その国家制度の基本的な枠組みは1959年にイギリス連邦内の自治州となった時のものが継承されています。

行政統治機構は、議院内閣制となっていて、議会で選出された首相がシンガポールの最高指導者となります。

そして、その補佐として副首相がおかれています。リー=クアンユーの時代には1人でした(ゴー政権以降は2人となります)。

自治州時代から大統領制が導入されていて、その任期は6年で、国会で選出されることとなっていました。しかし、政治的実権のほとんどない、対外的な国の象徴としての存在です。

議会制度については、一院制が採用されています。

議員の任期は5年です。定数は当初51人でした。

選挙制度と政党

議員定数は人口の増加とともに増えていて、2012年の時点では87人となっています。選挙制度は当初は完全小選挙区制でしたが、1988年に制度改革がありました。

これについてはのちほどお話しします。

普通選挙による投票が行なわれ、被選挙権は21歳以上の国民に付与されていて、この要件を満たせば、立候補は法的に可能です。

選挙権は同じく21歳以上の国民に付与されていますが、同時に投票義務制となっていて、投票しなければペナルティを課されるしくみになっています。

そのため、毎回98%前後の高い投票率となっています。

政党は人民行動党の事実上の一党支配体制ですが、形式的には複数政党制となっています。

政党は「団体法」によって登録制となっていて、20ほどの団体が政党として登録されていますが、ほとんどは名称だけのいわゆる「幽霊政党」だと言われています。

1968年4月の選挙以降、1981年の補欠選挙で野党が1議席を獲得するまで、全議席が人民行動党によって独占されていました。

このような事態は、自由選挙による選挙を実施している国ではきわめて異例なことです。

これは、人民行動党がさまざまな手段で対抗勢力を駆逐した結果であるといえるでしょう。

しかしながら、リー=クアンユー政権期にも野党は存在していました。ただ、激しい抑圧にあっていたのです。

1981年の補欠選挙で当選したインド系の弁護士で労働者党書記長のジェヤレトナムは、政府批判勢力の象徴的存在となって、1984年の選挙でも再選を果たしました。

そして、ジェヤレトナムは国会でリー政権や人民行動党のあり方に対する批判を繰り広げました。これに対して危機感をおぼえた人民行動党は彼を排除しようと考えました。

1984年に総選挙で当選したジャヤレトナムは、労働者党資金を不正利用したとして、起訴されました。

一審では無罪の判決が出されましたが、二審で逆転有罪となり、罰金刑をうけました。

この裁判に関連して、ジャヤレトナムは1986年に国会で、一審で無罪判決を下した裁判官がその判決の直後に人事異動になっていることを取り上げ、行政が司法に対して不当な介入をしたとして批判しました。

人民行動党はこれに対して、事実無根の非難であるとして、国会議員として不適切な発言だと攻撃しました。

しかし、このような発言を処罰する法がなかったため、人民行動党は国会法を改正して、国会で不適切な発言をおこなった議員は、議員資格喪失とするという条項を新設しました。

そして、ジャヤレトナムにこれを遡って適用したのです。

これにより、ジャヤレトナムは国会の議席を失ってしまいました。

ジャヤレトナムはその後、ゴー政権の時代になってようやく復権しましたが、罰金や賠償金の負担が大きく、結局2001年に破産宣告を受け、被選挙権を喪失してしまいました。

このように、リー=クアンユー政権期においては、政府批判をする野党政治家に対して、訴訟を起こし、有罪判決によって排除する方法によって、野党勢力を排除するという手法が用いられました。

法廷を利用する、というのは弁護士でもあるリー=クアンユーらしい手法であるともいえますね。

一方で、1984年の選挙結果をうけて、選挙制度改革が行なわれました。

この選挙ではジャヤレトナムを含め野党議員が2人当選しました。

政府と人民行動党はこれに危機感をもちました。彼らの理想は‘野党のいない国会’でした。したがって、野党議員の存在そのものが問題になったのです。

このときの選挙改革の中心的なものが従来の小選挙区と併用されることとなった「集団選挙区制」でした。

これは3つの小選挙区をあわせて集団選挙区(GRC)とし、この集団選挙区に立候補する政党が3人の候補者を立てて争い、得票の多かった政党の候補者3人が当選となる選挙システムです。

また、候補者の3人のうち、1人はマレー人もしくはインド人でなければなりませんでした。

ここが実は、この制度のポイントなのです。

表向きには政府は少数民族の政治参加の機会拡大を理由としていましたが、野党が民族別に分かれていたことに目をつけた、巧妙な野党潰しであることは明白でした。

たとえば、華人の政党が、当選可能なインド人やマレー人を探すことは非常に困難なことであり、おのずと集団選挙区での立候補を断念せざるを得なくなるのです。

他方で、長年にわたって国会の議席を独占してきた人民行動党にとっては無名の新人を立候補させるにあたって、すでに知名度の高いベテランの現職とともにセットで立候補させることで、多くの新人議員を当選させることが可能になりました。

その結果、1988年の選挙では人民行動党の得票率は1984年の62.9%から61.8%へと減少したにもかかわらず、むしろ野党議員が2人から1人に減少しました。

選挙制度改革が人民行動党に有利にはたらいたのです。

政治的自由の制限

また、野党議員のみならず1980年代にさかんになった市民運動が反政府的な主張をした場合も「共産主義」というレッテルでこれを取り締まる、ということが度々ありました。

これに対しては欧米諸国などからも人権侵害であるとして批判の声があがりました。

このように、経済発展を最重要課題とするリー政権・人民行動党は複数政党制や自由選挙の形態をとるシンガポールの政治システムのなかで、さまざまなかたちで政治的自由を制限しながら強力なリーダーシップを実現しようとしたのです。

Sponsored Link




治安維持法による弾圧

治安維持法

「治安維持法」というと1920年代に制定・改定された日本の戦前・戦中に思想弾圧の道具として使われた法律を連想する方も多いかと思います。

この日本人にとって、暗い時代を想起させる法律と同名の法律がシンガポールに存在しています。

そして、この法律の存在こそが、シンガポールにおいて強権的な政権運営を可能にする決め手として機能してきました。

シンガポールの治安維持法は、容疑者を逮捕令状なく無期限に拘束することができる権限を治安を担当する内務省に付与する法で、イギリス植民地統治期の1919年に、「反英分子」への取締を目的として植民地当局が特別警察に与えた特別な権限がその起源です。

リークアンユーによる治安維持法の運用

1959年、シンガポール自治州政府の首相に就任したリー=クアンユーは、次のように述べています。

「治安維持法の効力は、民主国家を破壊しようとする人びとの企みを一時的にせよ砕くことにある」

この発言は、なぜイギリスに独立運動を弾圧するために運用されてきた治安維持法の廃止を求めないのかについて、説明したものです。

これをみると、リー=クアンユーが自らが統治する「民主国家」を「破壊しようとする」「企み」を「砕く」ために、治安維持法を首相として活用していく、というリー=クアンユーの考えがみてとれます。

事実、彼がライバルや対抗勢力を排除して独裁的な権力を掌握していく独立直後の1960年代後半から1970年代初めにかけて、「共産主義者への取締」のためとして、この治安維持法が活用されました。

例をあげると、1966年10月に野党・バリサンの党員・支持者が北ベトナム支援の展示場に集った際、治安維持法が適用されました。

この時に逮捕された元国会議員はみずからが共産主義者である、という自白をしなかったことで、24時間拘束されました。

あるいは、1971年に政府を批判した華字新聞の編集者らが治安維持法にもとづいて拘束されました。そして、数名が国外追放となったのです。

以上のように、政治的にリー=クアンユー政権とその与党である人民行動党に対して対抗したり、批判したりする団体や個人を「共産主義者」と規定することでその取締を正当化する、という形で安維持法は運用されていったのです。

1980年代にふたたび発動

反対勢力の排除が功を奏した1970年代後半以降には治安維持法の発動は激減しましたが、アジア各国で民主化運動が高揚した1980年代後半になって、再び発動されることとなりました。

これは1987年に「マルクス主義的国家転覆計画」に関与した、という容疑で22人が逮捕された、というものです。

このような逮捕劇に打って出た政府の主張はつぎのようなものでした。

1976年に不法出国してイギリスに滞在していた元学生活動家が「マルクス主義的国家転覆計画」を実行しようと、シンガポール国内のカトリック教会関係者や弁護士、学生らを組織しようとし、そしてカトリック教会関係者が解放の神学の影響で複数の社会運動体を利用してシンガポールの政治・経済問題に関与しようとした、というものです。

政府のこのような主張は多くの国民には受け入れられませんでした。

むしろ、1960年代の反対勢力への弾圧を思い出させるものであり、信ずるに値しない、と考えられたのです。

逮捕された人々が行なっていた活動は、外国人労働者の人権救済センターでしたので、直接的に政権を批判することを目的としたものではありませんでした。

しかし、同じ時期のフィリピンや韓国での民主化運動において、教会が大きな役割を果たしたことに対する不安が政権の側にあったのではないかと言われています。

結局、逮捕された22人のうち、首謀者とされた人物以外は年内に釈放されましたが、取り調べの過程で自白を強要する拷問が行なわれていた証拠が、国際人権団体から出され、国外の人権団体から、シンガポール政府を非難する声明が多数出されました。

国際的な非難

今日、シンガポールが人権弾圧国家であると批判される際にその批判の根拠となっているのがこの治安維持法の存在です。

この法によって、政権は「安定」を手にしてきましたが、この法を国際的な非難にもかかわらず、これからも存続させる意義がどこにあり、またそれにどのような正当性があるのか、21世紀のシンガポールに課された問題のひとつです。

かつて連邦としてシンガポールと結合していたマレーシアでは、2011年に治安維持法が廃止されました。これを契機にシンガポールでも廃止の議論が活発になってきています。

Sponsored Link




シンガポールの軍事制度構築

非同盟と武装中立

建国当初のシンガポールには、共産主義勢力やインドネシア、シンガポールをマレーシアの支配下に置くことをめざすUMNO過激派といった複数の脅威が存在していました。

このように立場が脆弱だった国防面について、リー=クアンユー首相はスイスをモデルとして、非同盟と武装中立を国是とすることを宣言しました。

それとともに、ゴー=ケンスイに国軍創設の準備を命ました。そして、他国に指導や訓練、軍事施設の設立などについての援助を要請し、国軍の充実につとめます。

イギリス軍撤退と兵役の義務化

1967年になると、イギリスはシンガポールならびにマレーシアに駐留する軍隊を撤退もしくは削減するとの宣言を行ないます。

これにともなって、シンガポール政府は必要兵力を満たすために、 国民役務 (National Service) の実施を発表し2年間の兵役を国民に義務づけることにしました。

装備増強

軍事装備の増強も図られました。

1968年1月にはフランス製の戦車AMX-13、1972年には最新式戦車を購入します。

さらに1969年、イギリスからBAC 167 ストライクマスターを購入して、テンガ空軍基地でパイロット養成のための基礎訓練を実施するようになりました。

五ヵ国防衛協定

イギリス軍は1969年~1972年にかけてシンガポールから撤退します。

しかし、シンガポールの安全保障には今後も関与することとなりました。

1971年、イギリスは旧植民地であるシンガポール・マレーシア・オーストラリア・ニュージーランドと「五ヵ国防衛協定」を締結して、シンガポールおよびマレーシアの安全が脅かされた場合、締結国が協議することにしたのです。

アメリカへの接近

しかし、アジアから軍を撤退したイギリスにのみ安全保障を依存するのは心許ないので、小国であるシンガポールは軍事的な後ろ盾となる大国が必要でした。

アジアの大国である中国や日本では体制の違いや歴史的経緯から、その実現は困難であると考えられました。そこでシンガポール政府はアメリカに接近したのです。

しかし、安全保障条約のような具体的に成文化された同盟関係ではありません。

しかし、アメリカもまた、企業が多くの資金をシンガポールに投資しており、シンガポールの安全保障は関心事のひとつでしたので、シンガポールへの軍事的プレゼンスに積極的でした。

こうして、シンガポールにはアメリカを後ろ盾とする安全保障体制が出来上がっていったのです。

のちにシンガポールは、ASEAN諸国や他の非共産主義諸国などとも強固な軍事関係を築くこととなっていきました。

トータル・ディフェンス

また、シンガポール政府は軍だけでなく、国民全員で国を守るという「トータル・ディフェンス」のスローガンを掲げて、全国民的な国防意識の高揚を呼びかけました。

Sponsored Link




台湾との軍事協力関係

台湾との関係

華人人口の占める割合が多いシンガポールでは、台湾との関係は対中国関係と同様に非常に複雑なものでした。

マレーシアから分離・独立したシンガポールは、当初、マレーシアをはじめとした周辺国から無用な疑念を招かないように、中国・台湾いずれとも外交関係を結びませんでした。

そして、経済・貿易を中心として政経分離政策にもとづいて関係を構築してきました。

しかしながら、「中華」という価値を共有し、自由主義経済体制をとる台湾はシンガポールにとって特別な存在であったことは間違いありません。

シンガポールのリー=クアンユー首相と台湾の蒋経国総統にはこういった価値の共有を背景として硬い絆が結ばれていたのです。

異例の軍事協力

そして、この絆を象徴するものとして、国交のない国どうしとしては異例の、軍事協力を行ないました。

1967年以降、台湾はシンガポール空軍でパイロットの訓練を行ない、補修技術者の教官を提供したりしています。

さらに、1975年から、砲撃・野戦などの訓練場が、国土が狭小なため設置できないシンガポールに対して、台湾は、台湾の内部にある軍事訓練施設をシンガポール軍に提供しています。

これを「星光計画」といいます。現在も、台湾のいくつかの基地に「星光部隊」と呼ばれる訓練のため台湾に駐留するシンガポール軍がいます。

このように、シンガポール軍最大の訓練施設が台湾にあることから、成人男子の80%が台湾で軍事訓練に参加した経験があるとされています。

中台間の仲介者

東西冷戦が終結した1990年10月にシンガポールは中華人民共和国と国交を樹立します。

しかし、この際、シンガポールは中国に上記の軍事基地利用を含む従来の関係を維持することを認めさせました。

このようなシンガポールの立ち位置により、シンガポールは中台間の仲介者としての役割を果たすこととなっていきました。

Sponsored Link




開発主義国家シンガポールの経済発展

国家主導型の経済発展

水源などの天然資源をマレーシア連邦に握られたままでは、政治的・経済的に支配下にある状況と同じです。

そこで国力強化のため、リー=クアンユー首相は経済政策を強固に打ち出します。

あらゆる分野で政府が先頭に立つ、いわゆる「開発主義国家」として国家主導型の経済発展をめざしたのです。

こうして、1961年にシンガポール自治州に設置され、マレーシアからの分離・独立後もシンガポール政府機関として機能していた経済開発庁が中心となって、精力的に企業への支援、起業支援、投資家支援を行っていくこととなりました。

企業への支援

企業への支援としては、既にある多国籍企業やシンガポールを拠点とする企業に、法的支援、労働力の支援を与え、それらの企業の利益の増加を促すことで、シンガポールの発展に寄与するようにしました。

また、起業支援として、新たに起業を行う企業家への資金、設備の提供を行ないました。

さらに、投資家には、投資家の永住やビジネスにおけるネットワークの提供等の支援をしました。

その際、海外からの投資を呼び込むのに重要なのは政治的安定性が重要だと、リー=クアンユー政権は考えました。

政治を管理することで投資を呼び込もうとしたのです。

人民行動党が野党や市民運動に対して抑圧・管理しようとしたのは、政治運営そのものを経済発展の手段としてみなしていたためでもあったのでした。

「雇用法」と「労働関係修正法」

そして、進出する外国企業に有利な労使関係を可能にするための法律も準備しました。

1967年に制定された「雇用法」と「労働関係修正法」です。

「雇用法」は労働者の労働時間を週39時間から44時間に増やし、公休日は年15日から11日に、そして休暇や病欠日の上限も減少させられました。

有給休暇も勤続10年以下で7日、10年以上は14日とされました。

一方の「労働関係修正法」では経営側の特権が大幅に拡大され、昇進・配転・人員削減・解雇・復職・仕事の割り当ては労働組合が交渉する内容ではない、とされたのです。

これにより、労働組合の活動は抑制され、その役割を事実上否定することで労働組合を弱体化させました。

さらに、1972年には労働集約型外国企業のニーズに対応できる低賃金を可能にするため、事実上、政府が労働者の賃金を決定する権限を有する全国賃金評議会(NWC)が設立されました。

政府・雇用者・労働者によって構成されましたが、労働者の代表は政府に管理されている全国労働組合評議会から選出されるため、現場の労働者の声を反映するものではありませんでした。

これは伝統的に労働組合が担ってきた賃金交渉権をも奪うものでした。

以上のような労使関係に関する施策は伝統的な労働組合の役割を否定し、労使関係について個別の企業と労働組合が交渉するのではなく、一律的に政府がこれを管理することで外国資本を誘致し輸出競争力を維持する、という経済発展重視の発想にもとづくものでした。

成長期に突入

こうして、天然資源が皆無のシンガポールはリー=クアンユー首相を指導者とする政府のもとで、外国資本の導入によって世界市場に工業製品を輸出する、輸出志向型の発展の道を選び、海外からの投資環境を整えるために人々の自由や権利を規制しながら社会の安定化に注力していったのです。

シンガポール初の工業団地、ジュロン工業団地の誕生とともに、シンガポールは一気に成長期に突入しました。

1億ドルの予算を投じてシンガポール経済開発庁(EDB)を強化し、シンガポールを海外投資家にアピールする取り組みをはじめました。

こうして、シンガポールの工業化計画が開始されて、衣類、繊維、玩具、木製品、カツラの工場生産がはじまります。

これらの労働集約型産業に、シェル・イースタン・ペトロリウム社、ナショナル・アイアン & スチール・ミル社といった企業の資本・技術集約型プロジェクトが加わりました。

この工業化計画は成功成功しましたが、これにともなってシンガポールは新たな課題に直面します。

それまでマレーシアに依存していた原材料の不足、国内需要の急激な拡大といった問題です。

その解決のためにシンガポールが行ったのは、輸出中心の産業の開発でした。

経済開発庁は、海外投資家をさらにシンガポールへと呼び込むために香港とニューヨークに最初の海外事務所を開設しました。

ビジネス・リソースの強化

1970年代に入ると、シンガポールは安定した製造基盤構築を積み重ねてきたため、あらたにビジネス・リソースの強化に重点を置くようになります。

工場の建設、有能な人材の育成、産業の多様化により、シンガポールはその後に起きたオイルショックの影響を最小限におさえることができました。

この時期になると、製造業では、コンピューター関連機器などより高度な製品の製造が行なわれるようになります。

そのことによって、特にエレクトロニクス部門および製品多様化に対する新たな投資が行なわれるようになりました。

こうして、世界的な不況にもかかわらず、シンガポールの輸出は飛躍的に伸びを示しました。

多国籍企業はすでに好調な製造事業の延長に、シンガポールでの研究開発(R&D)事業も開始します。

シンガポールをビジネスの拠点とする政策を推進するために、ヨーロッパ、米国、アジアの各地に経済開発庁は事務所を増設します。

同じ時期、テキサス・インスツルメンツ社は、600万ドルを投資して、世界市場向けの半導体と集積回路の製造ラインをたったの50日で立ち上げました。

これが今後のシンガポールのエレクトロニクス産業の先駆けとなるのです。

1971年から1976年にかけて、さらなる海外からの投資を促すために経済開発庁はチューリッヒ、パリ、大阪、ヒューストンに海外事務所をあらたに設置しました。

並行して、国内では人材育成機関を創設し、職業訓練に重点が置かれました。海外研修プログラムや、インドのタタ社、オランダのフィリップス社、ドイツのローライ社との共同研修センターも創設されます。

シンガポールの若年労働者が知識と技能の交換を目的としたこれらの研修プログラムに参加しました。

このような人材育成のためのパートナーシップが、シンガポールの投資促進計画を前進させる重要な踏み台となっていきました。

知識集約型事業への対応

1980年代になると、第二次産業革命によって研究開発(R&D)、工学設計、コンピューター・ソフトウェア・サービスなどの知識集約型事業への対応がせまられます。

はじめ、シンガポール政府は労働集約型産業から撤退し、ハイテク産業の誘致をすすめるため、高賃金政策を採用しました。

ところが、世界経済の減速と共に人件費が膨らんでしまい、結局はシンガポールの景気が傾き始めてしまったのです。

この事態を受けて、当時のリー=シェンロン貿易産業大臣(のち首相)を中心とする経済委員会は、シンガポールの競争力回復には何が必要かを協議し、企業の収益性に応じた賃金引上げを行う柔軟な賃金制度の導入を奨励しました。

同時に経済委員会は、経済開発庁が経済活動を全面的にリードすることも提言しました。

そして、経済開発庁は、シンガポールをトータル・ビジネス・センターにするという新しい目標を掲げます。そのうえで、金融、教育、ライフスタイル、医療、IT、ソフトウェアなどの分野の国際的なサービス企業の誘致を推進します。

これらの分野を投資家に売り込んだ結果として、1980年代前半に、東南アジア初のシリコン・ウエハー製造工場が設立されたのでした。

さらに1981年にはアップル・コンピューターがこれに続き、1982年には同社のディスク・ドライブ製造工場も開設されました。

また、国内企業の振興も次第に重要になってきました。そのため、経済開発庁は1986年に中小企業局を開設して、中小企業発展のためのあらゆる支援プログラムを整備しました。

国際加工基地への脱皮

以上のように、それぞれの時代状況に対応した柔軟な政策が実を結び、GDPは独立後4年間で60.9%増加し、1960年代にはまだ商人による中継貿易が主流を占めていた産業構造が、90年代には製造業中心に転換します。

すなわち、中継貿易は相対的に衰微しましたが、これに代わって製造業がGDPに占める割合が年々増加していきました。

シンガポールは多国籍企業の林立する国際加工基地へと脱皮したのです。

このような発展に決定的に貢献したのは、政府の思惑通り、外国資本でした。

1965年の外国投資累計額が1億5,700万シンガポール・ドルだったのが、1974年には30億5,400万シンガポール・ドルに急増しています。

投資国はアメリカ・イギリス・オランダが多く、70年代後半からは日本からの投資が急激に増加しました。

これらの資本によってシンガポールの製造業は成長し、強化されていきました。

労働力不足の時代へ

同時に、これによってイギリス軍撤退にともなう失業問題にもプラスの影響を与えることとなりました。

1969年末にはかつて10数%を超えていた失業率が6.7%にまで改善したのでした。そして、1971年ごろにはほぼ完全雇用状態となり、それ以降はむしろ労働力不足が問題になっていきました。

こうして労働力不足を外国人労働者によって補う時代がやってきました。

また、労働力不足は潜在的労働力としての女性の社会進出を促すこととなりました。

これにともなって、家事労働を担う外国人労働者も流入するようになっていきました。

こうして、もともと移民によって発展したシンガポールは、その発展をさらに移民を受け入れることによって支えられる、ということになっていきました。

国際金融センターとして発展

以上のような努力に加えてシンガポールはアジア各国へのアクセスの良さや、無関税の自由港であった背景から、国際的に貿易・金融市場を大幅に発展させることに成功します。

さきほど述べた製造業の発展やインフラ整備のための資金供給のために1968年にシンガポール開発銀行が設立されます。

そして、1969年にはライバルである香港との誘致競争の末に、バンク・オブ・アメリカのシンガポール支店にオフショア勘定を開設します。

これにより、シンガポールの中核市場であるアジアダラー市場が誕生しました。

くわえて、イギリス統治時代から銀行業や保険業が発達していたところに、さらに1970年代以降欧米や日本の金融資本が、東南アジア進出の拠点としてシンガポールに支店を置きました。

あるいはイギリス式の法制度が続いていたことや、ロンドンとニューヨークの間にあって24時間市場取引が可能なことも幸いしました。

1984年にはシンガポール国際金融取引所が設立されて、多彩な金融商品が提供されるようになりました。

こうして、1970年代から、シンガポールは目覚ましい経済の高度成長を示し、国際金融センターとしても発展しました。

繁栄をもたらした経済政策

その経済発展のスピードは著しく、独立した1965年からの30年の間、平均で10%の年間の経済成長率を達成していました。

シンガポールは1979年から「日本に学べ」運動を推進しました。これはアジアで高度な経済発展を成し遂げた日本の企業経営、労使一体型経営、勤勉な態度、インセンティブ、QC活動、技術習得などを学ぼうとしたものです。

政府介入で一気にインフラが整備された後は、現在のような経済先進国の一つへと変貌を遂げました。

政府による過剰な規制が人権侵害だと欧米からの非難を受けながらも、リー=クアンユーの強力なリーダーシップが、シンガポールに繁栄をもたらしたのです。

Sponsored Link




ASEANの結成とシンガポール

ベトナム戦争中の1967年8月、ドミノ理論による東南アジア諸国の共産主義化を恐れるアメリカが支援して、タイのバンコクでASAを発展的に解消する形で現在の東南アジア諸国連合(Association of South‐East Asian Nations、ASEAN)が設立されました。

1961年にタイ、フィリピン、マラヤ連邦の3か国が結成した東南アジア連合(Association of Southeast Asia, ASA)を前身とし、EAN(東アジア協会)設立が土台となっています。

各国外相共同の設立宣言は、東南アジア諸国連合設立宣言や「バンコク宣言」などと呼ばれています。

原加盟国はASAの3ヶ国(タイ、フィリピン、マレーシア)とインドネシア、シンガポールの計5か国でした。

いずれも親米的で反共主義を国是としており、当初は冷戦下で東南アジアの共産化を防ぐ国家連合としての性格がありました。

しかし、その後、1980年代以降にシンガポールやタイなどの高度経済成長が進展すると、次第に反共国家連合という性格から、総合地域開発など経済共同体としての性格を徐々に強めていきました。

英語中心でエリート主義的な教育システム

シンガポールの教育制度

シンガポールの経済開発は、それを支える人材の育成と不可分のものでした。

リー=クアンユーは、不平等を解決するためには、より有能な人をパブリックサービスに就かせるべきだ、という思想に基づいて国家建設をすすめました。

とくに経済官僚を中心とする優秀な官僚の育成は、シンガポールの発展と密接な関係のある問題であると考えられていました。

シンガポールの教育制度は小学校が6年、中学が4年、高校が2年、大学が4年となっていて、小中が義務教育となっています。このほかに専門学校などがあります。

これらの教育機関では、小学校1年生から始まる英語+母語の2言語教育とエリート主義的な選別による教育が実施されているという2つの特徴があります。

つまり、母語のほかに英語を教育することで英語による国民統合をはかりつつ、成績のよい・わるいで小学校段階から生徒を選別し、成績に応じた進路を決めることで経済発展の人的基盤づくりをする教育です。

そして、そこから一度脱落すると、二度とエリートになることはできないのです。

教育制度改革と英語教育強化

1978年に行なわれた教育制度改革では英語教育の強化をさらに加速しました。

これは、小学3年終了時から中等教育終了時までに4回の統一学力試験を実施して、そのたびに成績別に進路を決定させる、というものでした。

優秀な生徒は「スーパースクール」へ進学でき、12年間(小学6年、中学4年、大学進学課程2年)で国立大学へ入学できます。

一方の「学力」がない、とされた生徒は8年かけて小学校を卒業し、中学へは進学できません。

この繰り返し行なわれる進級試験で試される「学力」の基礎は英語でした。このため、華語系華人にとって不利となるのは明白です。

こうして、華語校に学ぶ児童・生徒は年々減少していきました。そしてついに、1988年にはすべての小学校が英語校となったのです。

第二次世界大戦前は華人の80%が華語で教育されていました。

そこから考えると、劇的な変化であるといえるでしょう。実社会でも、英語を修得することが社会的・経済的上昇に直結し、1980年に英語のみを解する者の平均年収は、華語のみの者の2.3倍であったといわれています。

国家奨学金の給付による官僚育成

さらに、高校卒業試験で優秀な成績をあげたものに対しては、官僚への道を歩ませるため、「国家奨学金」を給付します。

これは家庭の経済事情にかかわりなく成績に応じて与えられるものです。

この奨学金は国防省、内務省、教育省がみずからの人材確保のために提供しているものと、公務員委員会(日本の人事院に相当)がすべての官僚機構における官僚育成のための国家奨学金があります。

公務員委員会の奨学金は高校卒業試験において上位約250人に与えられるものです。

これには2つの種類があります。

海外優秀生奨学金と国内優秀生奨学金で、それぞれ約半数づつが割り振られます。なかでも特に優秀な者に対しては大統領奨学金あるいは国軍奨学金などが給付されます。

とりわけ、エリート育成で重要なのは海外優秀生奨学金です。

これにより、海外の大学に留学させるのです。

留学先は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ。オーストラリア、日本、中国の8つの国から本人が自由に選択します。

しかしながら、学生はアメリカもしくはイギリスの大学を選択します。

そして、この制度によって海外に留学した者は卒業後に官僚になることを義務付けられていました。これをボンド制度といいます。

違約金を支払うことで民間への就職も可能ですが、そういった人はごくわずかです。

このような国家奨学金制度は人民行動党政権の登場からはじまって、1970年代はじめまでに現在のような形態となりました。

Sponsored Link




都市計画

1965年の独立後、シンガポールでは社会資本の整備が国家の急務となりました。

「住宅開発庁」が都心再開発事業の中心となって、都市中心部に形成されていたスラムを撤去しました。

また、土地の有効活用のために都心部にあった低層・密集住宅をつぎつぎと取り壊し、新しいビルを建設します。こうして、都心部の生活環境は改善されていきました。

しかし、ここで問題になったのが急速な環境変化に住民が対応できなかったことです。 市街地のスラムが撤去され、国民のほぼ9割が公共住宅に住むようになりました。

その結果、高齢者が高層アパートの生活に馴染めなかったり、華人やマレー人がそれぞれの伝統的な住居での生活を懐かしむという声があがったのです。

シンガポール政府は同じ民族・同じ言語の集団形成を排除しようとそれを住宅政策に反映させていました。

イギリス植民地期には、民族や出身地ごとに居住地をわける方針がとられてきましたが、それと逆に、地域ごとの民族別構成にかたよりがないように住民を住まわせる方針にしたのです。

その結果、かつての同郷者の地域集中や、民族別の居住区は解体されてゆき、新しい地域社会が出現していきました。

四大華人企業グループ

四大華人企業グループの発展

シンガポールの経済発展は政府と外国資本が両翼となってすすめられたことは、これまで見てきたとおりです。

1980年代になると、このような経済発展に牽引されるようにして華人企業も成長していきました。

その象徴的存在が「四大華人企業グループ」と呼ばれる4つの企業グループです。

まず、そのうち最大のものが戦前からゴム事業で成功したリー=コンチェン一族の華僑銀行(OCBC)グループでした。

華僑銀行グループは、第2次世界大戦が終わった後、シンガポールから撤退しようとしていた保険、清涼飲料水、食品などのイギリス資本有力企業を買収して巨大な企業グループを形成するようになりました。

この他にも、リー=コンチェン一族が所有するゴム関連巨大企業グループがあり、この2つを合わせると、東南アジアでも有数の規模の企業グループとなります。

ウィー=チョウヤオ一族所有の大華銀行(UOB)グループと、オー一族所有の華連銀行(OUB)グループは植民地時代に設立された銀行を核として工業化時代にホテルや不動産業へと事業分野を拡大して大きくなりました。

最後にホンリョン・グループは中国人移民の四兄弟が戦後になって創ったもので、セメントや建設など軽工業を中心に戦後の工業化に乗って発展した企業グループです。

マレーシアでも同様に、工業化にしたがって巨大な企業グループを創りました。

シンガポール華人企業の特徴

シンガポールの有力な華人企業は多くがイギリス植民地期にはじまったものですが、他の東南アジア地域の華人企業とは次の2つの点が特徴的です。

まず、政治との関係があまり深くない、ということです。他の東南アジアでは開発主義的な国家リーダーをはじめとした政治家との癒着によって成功した事例が多いのに対して、シンガポールの場合は、企業家たちが当初、人民行動党と政治的に対立関係にあったために、政治とは距離を置きながら、自力で発展の道を歩んだものと考えられます。

もう一点は工業化時代に製造業に参入することで発展した他の東南アジア諸国の企業グループとは異なり、ホンリョン・グループをのぞいて、シンガポールにはこのような例がほとんどありません。

政治や政策と、一定の距離をおきながら、自分たちの力で成長してきた、これがシンガポールの華人企業グループの特徴であったのです。

 

下記はシンガポールの歴史記事についての一覧です。

シンガポールの歴史【完全ダイジェスト版】 約1万文字

シンガポールの歴史 完全版 約10万文字

シンガポールの前近代 

「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

イギリス統治下のシンガポール

第二次世界大戦とシンガポール

シンガポール自立への模索

シンガポールの独立とリー=クアンユー体制 今回読まれた記事

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(政治編)

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(社会編)

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(国家戦略編)

Sponsored Link




\ SNSでシェアしよう! /

シンガポール移住生活&観光&ビジネス singainfo.comの注目記事を受け取ろう

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

シンガポール移住生活&観光&ビジネス singainfo.comの人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

その他の記事

  • リークアンユー:シンガポール建国の父、その生涯と政治・思想

  • 第二次世界大戦とシンガポール

  • シンガポール自立への模索

  • イギリス統治下のシンガポール

関連記事

  • シンガポールの歴史

  • リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(政治編)

  • シンガポールの前近代

  • リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(国家戦略編)

  • 第二次世界大戦とシンガポール

  • リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(社会編)