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リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(政治編)

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ゴー=チョクトン政権の登場

リークアンユーの首相辞任とその背景

1990年11月26日、リー=クアンユーは首相を辞任します。

彼は31年間、シンガポールの首相として君臨していました。

そして、リーの首相辞任の翌日、11月27日に49歳のゴー=チョクトンが後継の首相として就任しました。

その背景には世界的な冷戦構造の崩壊がありました。

すなわち、ソ連・東欧の共産主義国家が崩壊し、自由と民主主義、そして市場経済が「グローバル・スタンダード」とされるようになり、リー=クアンユー政権のような開発主義国家は、その非民主的性格から国内外からの批判を浴びるようになったのです。

このような流れをうけて、フィリピンや韓国といった世界各地の開発主義国家は、激しい民主化運動をへて民主的体制へと転換していきました。

そして、この政権交代もまた、こうした流れを反映したものでした。

新首相・ゴー=チョクトン

ゴー=チョクトンは1941年生まれで、もと経済官僚で、政府系の海運会社であるネプチューン・オリエント・ラインズ社で社長をつとめました。

そして、社長在任中にその経営手腕を発揮して同社を赤字から黒字経営に立て直しました。

そのことを見込まれて政治家に転身した人物です(1976年、国会議員に初当選)。

その後、1979年には新しく設置された貿易産業相に就任して、シンガポールの貿易と産業の発展に尽力しました。

さらに1984年になると、副首相・国防相に就任して、リー=クアンユーの後継者として内外の注目を集めるようになります。

協調型の政治運営

このような経歴のうえで首相に就任したゴー=チョクトンですが、彼の政権ではリー=クアンユーのような独裁的なリーダーシップではなく、集団指導制による協調型の政治運営が行なわれます。

主要閣僚には、ゴー=チョクトンと同じ第2世代が就任して世代交代が印象づけられるとともに、次世代である第3世代にも積極的に政権に参加させました。

まず、第2世代の主要閣僚として、副首相には華語教育出身のオン=テンチョンが就任し、教育相には銀行家出身のトニー=タン、外相にはインド系のS・ダナバランが就任しました。

さらに第3世代では、副首相にリー=シェンロン(リー=クアンユーの長男)、情報・芸術相代行として当時36歳だったジョージ=ヨーが就任します。

そして、政権党として首相にならぶ権力を有する党書記長のポストも1992年にリー=クアンユーからゴー=チョクトン首相に移り、これをもってシンガポール政権中枢部における世代交代は完了します。

リークアンユーの「上級相」就任

しかし、これによってリー=クアンユーが政界から引退したというわけではありませんでした。

この時、リー=クアンユーの年齢はまだ67歳でした。

また、とくに失政が理由で首相を辞任したというわけでもありませんでした。

リー=クアンユーはゴー政権でリーのために新設されたポスト「上級相」に就任していわば院政をしいたのでした。

上級相の表向きの役割は政治経験の豊富な者として閣僚たちに助言することでした。

しかし、その実態は若い世代の閣僚たちの政治を政権内部から監視するというものでした。

こうして、新政権でもリー=クアンユーは影響力を行使しつづけます。

芸術文化政策の推進

その一方で、新世代による政権として長期政策ビジョンが提示されました。

『ネクスト・ラップ―2000年のシンガポール』というものです。そこで示された国家建設のプランは、経済発展を成し遂げたシンガポールが、これからは教育への積極的投資や芸術・スポーツの振興にも取り組んでいく、という内容でした。

その冊子の目次には「国民―最も貴重なわが国の資源」、「教育―国民への投資」といった次世代を担う若い国民への積極的投資を提唱するものや、「芸術とスポーツ―シンガポールのもう一つの顔」というようなリー=クアンユーの時代には見られなかった独自の国家課題がしめされています。

リー=クアンユーの時代、1989年まではシンガポールは香港ととにに「文化の砂漠」とよばれていました。

シンガポールにおいて芸術文化は一部の愛好家によって支えられており、国家はこれについてほとんど関心がありませんでした。

このような状況は、1989年に「文化と芸術に関する諮問委員会レポート」で国家的な芸術文化制度を確立することが提言されてから、変化がはじまります。

ゴー=チョクトン政権になって、それが徐々に実行に移されます。1991年に芸術評議会(NAC)が設立され、文化芸術のインフラ整備や芸術家および芸術団体支援の中心となりました。

そして、1995年には芸術評議会からシンガポールにおける芸術文化戦略の中期的目標を示す報告書「Global City for the Art」が出され、これにもとづいて芸術文化政策が本格的に展開されるようになったのです。

このような芸術文化政策は、次のリー=シェンロン政権に引き継がれ、さらに強化されていきます。

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自由化路線とその後退

自由化路線と選挙での「敗北」

また、ゴー=チョクトン首相のもとで、これまでの権威主義的な政治体制よりもソフトな政治が志向されるようになります。

ゴー首相の、たとえ野党が選挙で10議席獲得するようなことがあっても、それは民主主義国家であれば不自然なことでない、という趣旨の自由主義的な発言は国民の支持を得ました。

このようなゴー=チョクトンの自由化路線の結果は1991年8月31日に行なわれた総選挙の結果にあらわれました。

これまで1議席だった野党の議席が4議席に増えたのです。

もちろん、それでも圧倒的多数は与党・人民行動党が占めていたので、政権運営にただちに支障がでるものではありませんが、リー=クアンユー体制ではありえない「敗北」でした。

自由化路線の後退と野党への圧迫

これをうけて、上級相であったリー=クアンユーは自由化路線を模索していたゴー=チョクトン首相に対し、政治の厳格さを求めてきびしく批判しました。

こうして、ゴー=チョクトンが模索していた自由化路線は後退し、政府はリー=クアンユー政権に回帰したかのような野党への抑圧をはじめました。

そのターゲットとなったのが、野党最大の3議席を獲得した民主党でした。

人民行動党にとって、今は少数議席であっても将来的に人民行動党のライバルになりうる政党と目されたのです。

とくに民主党のなかでカリスマ的存在であったシンガポール国立大学講師のチー=スンジュアンが攻撃の的とされました。

大学教員であるチーが、大学の研究費を私的に流用したとして大学を解雇されたのです。

この解雇に抗議するため、チーはハンスト闘争を行ないました。

これに対し、チー=スンジュアンの元上司で人民行動党の現職国会議員をつとめる大学教員や、メディアを動員しつつ、チー=スンジュアンに対する執拗とも言える人格攻撃を繰り広げました。

のちにチー=スンジュアンはライバルとの党内闘争に勝利して、シンガポール民主党書記長に就任しますが、1997年の総選挙で同党は惨敗してしまいました。

さらに2001年の総選挙前には法廷侮辱罪によって投獄されたうえ、破産宣言を受け、この選挙に立候補すらできませんでした。

リー=クアンユー政権期のような野党勢力を葬り去る政治手法がふたたびゴー=チョクトン政権下で再現されたのでした。

その結果、97年の選挙では、野党の議席は4議席から2議席に半減し、人民行動党は全83議席中81議席を獲得し、うち47議席が無投票当選でした。

さらに2001年の選挙では野党が2議席にとどまったのに対して、定数を増やした1議席についても人民行動党が獲得し、82議席に増加させました。

うち、無投票当選は55議席にのぼったのです。

こうして、いったんは自由化路線を示したゴー=チョクトン政権ではありましたが、権威主義的政治を志向するリー=クアンユー前首相の指導もあり、人民行動党の権力を現状維持する方向へと舵が切られ、シンガポールの政治的自由化はのちの課題として先送りされてしまいました。

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アジア経済の発展とシンガポールの新成長戦略

アジアの経済発展と成長戦略の変化

ゴー=チョクトン政権期の1990年代には周辺のアジア諸国において急激な経済発展がみられました。

また、冷戦終焉にともなうアジア諸国のイデオロギーよりも経済を強調する機運の高まりは、その発展を加速させました。

シンガポールはこのような新たな経済機会を活用した新たな成長戦略を打ち出す必要がありました。

従来のシンガポールの成長戦略は先進国の企業をシンガポール国内に誘致して、その企業が国内で製品を生産し、これを輸出することで収益を上げる、というものでした。

この時期になると、このような外国資本を国内に呼び込む成長戦略を堅持しつつも、逆にシンガポールから海外、とりわけ急成長するアジア諸地域への投資による成長が指向されるようになりました。

アジアへの急接近

こうして、経済的理由から、シンガポールはアジアに急接近してゆくこととなります。

とりわけ、中国の改革開放の加速は、東南アジア経済にも少なからぬ影響を与えました。

改革開放の方針は、文化大革命の失敗をうけて、1970年代末からはじめられていましたが、1989年の天安門事件による一時的停滞を経て、「社会主義市場経済への移行」を本格化した1992年以降に急激に加速していくことになりました。

また、冷戦期にはアメリカと戦火を交える全面戦争で勝利したベトナムも、1986年のベトナム共産党第6回党大会でドイモイ(「刷新」の意)政策が提起され、主に経済と社会思想における新方向への転換が目指されるようになりました。

経済では、価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上がその方向性として示されました。

これによって、市場メカニズムや対外開放政策が導入され、政治面ではベトナム共産党の一党独裁体制を堅持しつつも、経済面では1990年代に入って大きな成果をあげつつありました。

冷戦体制崩壊後には、以上のように改革開放政策を強力にすすめて急速に発展する中国や同じくドイモイ政策で市場経済を導入するベトナムを含む、社会主義・資本主義の違いをこえた広大な経済圏が東南アジアとその周辺に出現したのです。

金融資本主義の発展したシンガポールからの資金はこれらの国々の成長にとって欠くべからざるものでした。

同時に、着実な成長を遂げているこの地域への投資は、シンガポールにとってもその効果が十分に期待できるものでした。

この時期、このような周辺諸国の情勢変化に応じた成長戦略を提示することが、シンガポールの経済政策を成功させるカギとなっていたのです。

成長の三角地帯

ゴー=チョクトンは副首相時代の1989年に「成長の三角地帯」という大規模投資構想を打ち出しました。

これは、シンガポール・マレーシアのジョホール州・インドネシアのリアウ州が1つの経済単位となる、という構想です。

1990年6月、シンガポールとマレーシア、インドネシア3国はこの「成長の三角地帯」と名づけられた地域経済協力計画に合意しました。

ここでは、シンガポールの技術・資本と、マレーシア・インドネシアの豊富な労働力を有機的に結合させ、工業団地や大規模リゾート開発などを進めることが計画され、シンガポールの後背地の形成も目標とされていました。

合意にいたった背景として、三国の利害が一致したことがあります。

外国企業が進出したことによりシンガポールでは労働力や工場用地が不足するようになっていました。

一方のマレーシアとインドネシアでは労働力や工業用地が豊富にある反面、これを活用するための資金と技術が必要だったのです。

これにより、当該地域全体の経済発展が期待されました。

「成長の三角地帯」の政治・外交的効果

さらにそれだけではなく、この「成長の三角地帯」には政治・外交的効果も期待できました。

すなわち、シンガポールの存立は隣接する大国であるマレーシア・インドネシア両国の関係にかかっていました。

マレーシアとインドネシアが軍事的緊張状態に陥ることなく、良好な関係を継続して維持することは、これら東南アジアの大国に挟まれた小国・シンガポールの平和と発展には欠くことのできない外的条件でした。

「成長の三角地帯」によって両国の経済的な関係が緊密になることは、そのまま政治的関係の緊密さにもつながるため、シンガポールにとっては経済だけにとどまらない意味をもつものでもあったのでした。

バタム工業地帯

このプロジェクトにおいて、シンガポールが力を注いだのはインドネシアのバタム島に建設されたバタム工業地帯でした。

ここにはシンガポールに進出していた日本やアメリカの企業、あるいはシンガポール企業が続々と進出しました。

そして、そこに若いインドネシア人女性が出稼ぎとして労働力を提供し、工場が操業されたのです。

これにより、70年代には6,000人ほどの住む漁業の島が2000年にはなんと70万人もの人々が居住する島へと大発展を遂げました。

対アジア投資強化へ

この「成長の三角地帯」は、その主要な対象がバタム工業地帯に限定されたこと、この計画に積極的だったインドネシアのスハルト大統領が90年代末に辞任したことなどもあって、結果として大成功とはいきませんでしたが、その後、シンガポールが展開していく対アジア投資の先駆けとなりました。

その後、ゴー=チョクトン政権以降、アジアの巨大市場として成長目まぐるしい中国とインドなどアジア諸国への投資が積極的にすすめられ、利益をあげています。

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中国との国交樹立

かつての対中関係

この時代のシンガポールの対外関係で外すことができないのが、中華人民共和国との国交樹立です。

シンガポールにとって、中国は非常に「厄介な」存在でした。華人人口の割合が高く、中国は一定の影響力をもっていました。

したがって、人民行動党政権にとって「中国」という存在は、単に対外関係というのみならず、国内問題、すなわちシンガポール国内に存在する中国の影響力といかに対峙するのか、ということと結びついていました。

英語派華人を中心とする政権に対して、華語派華人たちには独立前から中国への帰属意識をもつものが多くいました。

また、それはリー=クアンユーらと対立する左派勢力の基盤でもありました。

彼らのなかには、バリサンの勢力が、かつて文化大革命を賛美するスローガンを掲げていたことなどに代表されるように(その後、かれらは文革賛美について自己批判しました)、中国の政治状況に影響を受けた行動をする者もいました。

他方で、外交面において、シンガポールは中台いずれとも国交を結ばず、中国とは基本的には経済を中心とした非政治分野での関係を重視する政経分離の姿勢を貫いてきました。

そして、中国とは1970年代に3度(75、76、78年)、首脳が相互訪問していましたが、それ以上の関係に発展することはありませんでした。

情勢の変化と国交樹立

そのような状況が変化するのが、中国で改革開放政策が不可逆的に定着し、世界的な冷戦終結の流れや、それにともなうマラヤ共産党など東南アジアの共産主義勢力の衰退、そして対立してきた中国とインドネシアとの急速な関係改善の動きなどのあった、1980年代末から90年ごろのことでした。

このような流れをうけて、ASEAN諸国で唯一、中国と国交がなかったシンガポールがついに中国との国交樹立に踏み切ったのです。

こうして、1990年10月3日、シンガポール共和国と中華人民共和国は国連総会出席のためニューヨークを訪問していた双方の外相が条約に調印して、国交が樹立されました。

中国との接近

国交樹立ののち、シンガポールは華語の復権、第1回世界華商大会開催、中台関係修復のための両岸代表者会談開催といった積極的な中国との接近をはかります。

とくに、1994年にはじまる蘇州工業団地の開発はその象徴的存在でした。これはシンガポール政府と中国の国務院が共同で建設した地域開発プロジェクトで、シンガポールの国家建設や経済発展の経験=「シンガポール経験」を中国の「近代化」に利用しようとするもので、注目されました。

しかし、蘇州工業団地は中国の中央と地方との認識の相違などから、計画変更を余儀なくされ、2001年に開発の主導権が中国に譲渡されました。

こののち、シンガポールでは投資先を蘇州開発から中国政府の保護が期待できる他のプロジェクトに分散投資するようになりました。

このほか、欧米型の民主主義とは異なる体制で経済成長を遂げた「シンガポールモデル」を中国の政治体制のモデルとすべきであるとの議論もあります。

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リー=シェンロンの首相就任

第3世代・リー=シェンロン

2004年8月12日、第2代シンガポール首相のゴー=チョクトンが退任し、リー=クアンユーの長男であるリー=シェンロンが第3代首相に就任しました。

リー=シェンロンは父であるリー=クアンユーら「第1世代」、ゴー=チョクトンら「第2世代」につづく「第3世代」の政治家でした。

まず、簡単に彼の半生をみてみましょう。

リー=シェンロンは1952年にシンガポールで誕生し、父・リー=クアンユーの教育方針によって華語教育学校に通いました。

その一方で同時に家庭教師からマレー語も学んでいました。

彼はもともと英語派華人だったので、英語・華語(中国語)・マレー語という3つの言語に堪能になりました。

高校を卒業した後、シンガポールで名誉ある国家奨学金である大統領奨学金と国軍海外奨学金を受給してイギリスのケンブリッジ大学に入学して、数学を専攻しました。

1974年に帰国して国軍に入隊し、さらに1979年にアメリカのハーバード大学で行政学を専攻しました。

その後、1982年に国軍統合幕僚長に就任、1984年6月には国軍のナンバー3である准将に昇進しました。

1984年12月の国会議員選挙で当選し、政界入りすると、すぐに国防担当国務相に就任、1987年には通産相をつとめました。

その後、ゴー=チョクトン首相のもとで1990年から2004年まで副首相をつとめました。その間に人民行動党でも第一書記次長に就任するなど、スピード出世を果たします。

そして、首相に52歳で就任したのです。

リー=シェンロン内閣

リー=シェンロン内閣は20人で構成されていました。

ゴー内閣が17人でしたので、リー新内閣ではより多くの人数で諸課題に対処しようとしていたことがわかります。

閣僚のうちジョージ=ヨー外相、リム=フンキア通産相、テオ=チーヒエン国防相はリー=シェンロン新首相と同世代であるだけでなく、大統領奨学金・国軍海外奨学金を受給してケンブリッジ大学でともに学んだ学友でした。

このほか、彼らを含め、11人が第3世代で占められています。

さらに、リー=クアンユーはこのとき新設された上級相に就任して、上級相に就任したゴー前首相とともに監督役として閣内にとどまりました。

「リー王朝」

ゴー前首相をはさんで、リー=クアンユーとリー=シェンロンが父子で首相の座についたことについては批判が少なからずあるのも事実です。

また、リー新内閣発足時にはリー=クアンユーの息子でリー=シャンロンの弟であるリー=シェンヤンがシンガポール・テレコム総裁、リー=シェンロン夫人が 政府系投資会社テマセク・ホールディングス(Temasek Holdings)の経営責任者であったりと、リー=クアンユー・リー=シェンロン父子とその一族がシンガポールの政治・経済を牛耳っている、という批判もあり、「リー王朝」と揶揄されることがあります。

路線転換とせまられる変化

リー=シェンロン首相は、就任の記者会見で新政権の目標を3つ示しました。

1つは若い世代の要望・情熱に応えること、2つ目は3・40代の国民のなかから次期の国家指導者を育成すること、そして経済活力と競争力を維持して国民生活を豊かにすること、でした。

また、これまでの成長一辺倒から「ゆとり」を重視するという路線転換についても語りました。

「ミニ・リー=クアンユー」と呼ばれるように、リー=シェンロンは父親譲りの権威主義的な政治姿勢は維持しつつも、父親の時代のような強烈なリーダーシップで有無を言わさず国民を引っ張っていく、というスタイルとは異なる政治を目指していくという姿勢がうかがえます。

これは社会が変化し、新世代に対応した政治がシンガポール社会が求めていたことを反映してのものだといえるでしょう。

2001年と2006年の選挙でも人民行動党が圧勝し、野党の議席はわずかにとどまりました。

しかし、経済発展の結果、多くの大卒ホワイトカラー・中間層が誕生したことで、社会構造は変化しています。さらに、インターネットの普及によって、政府の監視をかいくぐって自由に意見を交換している人々も少なくありません。

政権の側にもこのような状況に対応した変化が求められているのも事実でした。

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野党の躍進とリー=クアンユーの政界引退

野党の善戦

そのような動きがわずかながら現実のものとなるのが2011年の選挙でした。

この選挙を前にして、人民行動党は批判のあった野党候補への個人攻撃や野党議員を選出した地域に不利益を与えることなど、高圧的なやり方を停止すると発表しました。

一方の野党は人民行動党の政治をチェックすることを優先課題として共同戦線を組んだのです。

すなわち、野党候補同士がぶつかり合うことのないように、各党が協議して選挙区を分担し、有力候補を特定選挙区に立候補させることで一人でも多くの野党議員を当選させることを目指したのでした。

そのため、これまで多かった人民行動党の無選挙当選は5議席にとどまり、全87議席のうち、82議席をめぐって選挙戦が繰り広げられることとなりました。

その結果、人民行動党の議席は81議席で、野党は労働者党が過去最高の6議席を獲得するにいたりました。

人民行動党苦戦の理由

例のごとく、「勝利」の記者会見を開いたリー=シェンロン首相は人民行動党が苦戦した理由として国民の失望、不満、満たされない要望、をあげました。

その背景として2つの要素が考えられます。

1つは雇用や住宅をめぐる経済的要素です。

政府が外国人移民奨励を進めたことによる、中間層の雇用機会の減少や、富裕層による不動産投資の影響が中間層などが住む公共住宅の価格に波及したことなどが考えられます。

もう一点は若い世代を中心にして管理政治への不満が高まっている、という政治的な要素です。

それが具体的にあらわれたのが選挙期間中のリー=クアンユーが野党候補を選んだ選挙区はその後の5年間後悔することになる、という発言をしたことに対するインターネット上の反応でした。

こういった発言はかつてであれば選挙民に対する威嚇として通用した手法でした。

しかし、この時の選挙民の反応は違いました。

この発言はネットをつうじて拡散するとともに、これに対する批判が数多く寄せられたのです。リー=クアンユーの息子でもあるリー=シェンロンが直接、父親に自制を求めたほどでした。

リークアンユーの政界引退

選挙後の2011年5月14日、首相を辞任して20年のあいだ上級相・顧問相として政治の中枢にいたリー=クアンユーが選挙結果をうけて「若いシンガポール国民の気持ちを理解する若い世代の閣僚に委ねる」との声明を出して第2代首相であったゴー=チョクトンとともに引退を表明しました。

選挙結果をうけて、リー=シェンロン政権と人民行動党は「国民目線の政治」を目指すことになりますが、その実現はいまだ未知数です。いずれにせよ、野党の躍進とリー=クアンユーの政界引退は、シンガポールの現代史があらたな段階に突入したことを告げるものであることは間違いないでしょう。

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人民行動党の大統領選での辛勝と補選での敗退

背水の陣で臨んだ大統領選挙

総選挙の3ヶ月後にはシンガポールの大統領選挙が行なわれました。この選挙でも人民行動党は苦しい選挙戦を強いられました。

シンガポールの大統領は政治的な権限を有しない象徴的な存在で、大統領が公選制は1990年前後のアジア各国ですすんだ民主化の流れをうけて1993年からはじまりました。

しかし、人民行動党から2人が立候補した第1回をのぞいて1999年と2005年は人民行動党の候補が無選挙で当選するという結果でした。

国会での野党の躍進をうけて、人民行動党はソフト路線とのイメージで国民の支持が得やすいと考えられたトニー・タン前副首相を候補として擁立しました。

表面上は国会議員選挙での厳しい批判をうけていたことから、推薦はしませんでしたが、政権はみずからについて国民の信を問うこの選挙に背水の陣で臨みました。

辛うじて当選

この選挙には立候補者が4人出馬することとなりました。

このときの得票率はシンガポール社会が変化していることを示すものでした。

なんと人民行動党の人気政治家であったトニー・タンの得票は35.19%にしかすぎなかったのです。

2位のタン・チェンボクが34.85%、3位のタン・ジーサイが25.04%でしたので、与党に反対する勢力が候補を一本化していた場合には落選の可能性もありました。

辛うじて選挙には当選しましたが、これまでの選挙での人民行動党の得票率とは比べものにはならないものでした。

小選挙区補欠選挙での敗北

続いて2012年5月28日には不倫を理由に辞職した議員の後任を選出するための小選挙区補欠選挙が行なわれました。

辞職した議員は野党の所属でしたが、人民行動党からすれば、総選挙後の「国民の目線」が国民にどう写っているのかを初めて審判する場であったので、負けられない選挙でした。選挙は人民行動党候補と労働者党候補との一騎打ちとなりました。

その結果、労働者党の候補が約62%の票を獲得して当選したのです。

この2つの選挙を通して、人民行動党に対する不満が一時的なものでなく、広範な国民にひろがっていることが示されました。

 

下記はシンガポールの歴史記事についての一覧です。

シンガポールの歴史【完全ダイジェスト版】 約1万文字

シンガポールの歴史 完全版 約10万文字

シンガポールの前近代 

「大英帝国」の形成とシンガポールの植民地化

イギリス統治下のシンガポール

第二次世界大戦とシンガポール

シンガポール自立への模索

シンガポールの独立とリー=クアンユー体制

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(政治編) 今回読まれた記事

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(社会編) 

リー=クアンユーの辞任以降のシンガポール(国家戦略編)

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