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シンガポールの有名人

シンガポール 生活   11,028 Views

シンガポールを形成してきた有名人にはどんな人がいるのかご存知ですか。知られているようであまり知られていないシンガポールの有名人をカテゴリー別に調べてみました。

 

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シンガポールの有名人 - 政治家

リークアンユー (Lee Kuan Yew)

リークアンユーは、シンガポールの有名人について語るときに、この人を置いては語れずというほど世界的に名の知られた人物です。シンガポールが現在のように発展できたのも、シンガポール建国の父と呼ばれるリークアンユーの存在があったからです。

リークアンユーについては特集記事「シンガポール建国の父、リークアンユー:その生涯と政治・思想」の中で詳しく書かれています。こちらをご覧ください。

 

ゴーチョクトン (Goh Chok Tong)

ゴーチョクトンは、シンガポールの2代目の首相で、1991年にリークアンユーが政界から退陣した際、後継者として選ばれた人です。1941年生まれで現在76歳です。

ゴーチョクトンの専門分野は経済で、シンガポール大学を卒業後アメリカのウィリアムズ大学で経済修士号を取得しました。政界に入る前は、政府関係の海運会社に勤め、その後同社の社長に昇進しました。

この会社は赤字経営で苦しんでいたのですが、ゴーチョクトンが社長に就任してからは、黒字経営に転換しました。このことによりゴーチョクトンの手腕が高く評価されました。

ゴーチョクトンが政界入りしたのは1976年の総選挙で当選したことがきっかけでしたが、その後貿易産業大臣、第一副首相、国防相など重要なポストに就任し、政界では長い間、ゴーチョクトンがリークアンユーの後継者になるのではないかと予測されていました。

その予測の通り、1990年リークアンユーが退陣すると、2代目首相として就任しました。

就任当時のゴーチョクトンはリークアンユーとは対照的なソフトで自由主義的アプローチを展開したため、国民から歓迎されました。

また、メディセーブ(Medi Save)という国民保健制度を確立しました。

 

リーシェンロン (Lee Shien Loong)

リーシェンロンは1952年にリークアンユーの長男として生まれました。シンガポールの3代目の首相で、2004年に就任してから今日までその座を守っています。

リー家では語学を重視したため、家庭では英語を話していましたが、子供たちは全員華語学校に通わされました。

またリーシェンロンは、マレー語の家庭教師にもついていました。このように3か国語を操れることが、後に政治家としてのリーシェンロンの強みにもなりました。

リーシェンロンは、幼い時から、政治に関心を示し、父親のリークアンユーの政治活動でもしばし行動を共にしました。

学業面では、加速教育を提供するジュニア・カレッジに入学し、卒業の際にシンガポールで最も名誉のある「総長奨学金」を獲得し、この奨学金でイギリスのトリニティ大学で数学を専攻しました。卒業後は、ハーバード大学で修士号を取っています。

修士修了後に兵役に付き、優秀な軍人に与えられる奨学金「国軍奨学金」も獲得し、この奨学金でケンブリッジ大学に入学し、コンピューター工学の学位を取りました。

その後ハーバード大学で行政学を学び、再び軍隊に戻りました。軍隊では3年間で准将に昇進しました。

1984年には軍隊から離れ、政治活動を始めました。政治活動を開始して間もなく国会議員に選出されました。

政治家としてのリーシェンロンは、経済不況打開委員会の委員長に選ばれ、テレビなどマスメディアによく登場し、経済政策の結果報告などをしたので、一躍国民に知られるようになりました。

このように、リーシェンロンは昇進が速かったため、親の七光りではないかと批判されたこともあります。

1990年にリークアンユーが政界から退くと、ゴーチョクトンが首相になりましたが、リーシェンロンは、その時の副首相に選ばれています。また副首相を兼ねて貿易・商業大臣も務めました。

プライベートの面では、1992年に悪性のリンパ腫瘍が原因で、治療のため5年ほど仕事を離れましたが1997年に無事政界に復帰しました。

2004年、選挙で当選し、シンガポールの第3代目の首相に選ばれました。

リーシェンロンの給料は世界の政治家の中で最も高額として知られています。

 

リム・キム・サン(Lim Kim San)

リム・キム・サンは1916年にシンガポールで生まれた政治家で、シンガポールの住宅建設に貢献したことで知られています。

6人きょうだいの一番上として生まれ、ラッフルカレッジで経済学を専攻し卒業しています。

日本軍がシンガポールを占領していた時に、共産主義者的と言う疑いをかけられ逮捕され拷問を受けました。この体験により、「他の民族に決して支配されたくない」という思いが強まり、後に政治への道を選ぶようになりました。

戦争が終わった時はすでに36歳になっていたため、失われた時間を早く取り戻し生活を築こうとサゴヤシなどを売って生計を立てました。

その後、政治の道を歩むようになり、1963年から1980年まで国会のメンバーを務めました。

リム・キム・サンは1960年に住宅開発局の局長に選ばれ、住宅建設のプロジェクトをスタートしました。

このプロジェクトが始まる前のシンガポールには「チョップハウス」と呼ばれる今にも壊れそうな粗末な家屋があり、そのチョップハウスに入り切れないほどの人が身を寄せて暮らしていました。

この住宅状況をなんとか向上しようとして乗り出したのがリム・キム・サンで、リムは最初の3年間はボランティアとして無給で奉仕しました。解決策として考えたのが、高層アパート(HDB)です。高層アパートは今ではシンガポールのシンボルの一つにもなっています。

リム・キム・サンはその優れた組織力と計画性で、2年間で2000軒のアパートの建設を行い1965年までに、目標の5000軒のアパートを建設することができました。

リム・キム・サンは1965年から財務大臣を務めましたが、功績を認められ、シンガポールで最高の賞であるDarjah Utama Temasek 賞とRamon Magsaysay 賞を受賞しています。

 

ゴー・ケンスイ (Goh Keng Swee)

ゴー・ケンスイは1918年にマラッカ(現在のマレーシア)に生まれたシンガポールの政治家です。シンガポールの工業化計画や経済発展の面で大きな役割を果たしました。

ゴー・ケンスイは、ロンドン大学で経済学の博士号を取るなど学術面で優秀な成績を収めています。

ロンドン在住中は、「マラヤン・フォーラム」を結成し、マラヤやシンガポールの学生を集めマラヤの独立などについて議論をする活動をしていました。このフォーラムにはリークアンユーも参加しています。

1951年、ゴー・ケンスイはマラヤに帰国し、イギリス植民地政府の社会福祉調査主任になりました。政治への参加は1959年の選挙で当選したことがきっかけでしたが、当選後は蔵相に任命されました。

蔵相としても様々な政策を提案したのですが、シンガポールが完全にマレーシアから独立するまで、政情が不安定だったため、ゴー・ケンスイの提案した政策はほとんど起用されませんでした。

ゴー・ケンスイはシンガポール独立後、国防相、その後蔵相を務め、1973年からは副首相も兼任しました。そして1980年からは、第一副首相兼教育省に任命され、現在のエリート主義的教育制度を確立しました。

ゴー・ケンスイは、また、シンガポールの工業化や経済発展にも携わり、シンガポール西部の沼地だったジュロン地区を埋め立てて、そこに工業団地を建設するなど、思い切った政策を実施し、高く評価されました。

こうしたゴー・ケンスイの貢献を評価してマスコミはゴー・ケンスイの名字を文字って「ゴー・アヘッド博士(前進命令博士)」と呼び、ゴーがいなかったら今のシンガポールの経済の急成長はありえなかったとしています。

ゴー・ケンスイは1983年に膀胱がんに罹ったため政治から離れ、余生をほとんど病気の治療で過ごし2010年に亡くなっています。

 

S.ラジャラトナム(Sinnathamby Rajaratnam)

S.ラジャラトナムは、1915年に、スリランカでゴムのプランテーションの監督者をしていた父親の下に生まれたシンガポールの政治家です。生後6か月の時に当時のマラヤへ移住しました。

子供のころから読書が好きで、よく勉強したのでラッフルズ大学に入学し、その後ロンドンのキングズ大学で法律を学びましたが、在学中にマルキストの活動に携わり、大学を中退しています。

第2次世界大戦の際に、親からの仕送りが途絶えたため、S.ラジャラトナムは、生活費を稼ぐためにジャーナリストとなりました。ジャーナリストの仕事は1947年にマラヤに戻った際も続け、「ストレート・タイムズ」の編集長を務め、反イギリス、反共産主義を訴えました。

1959年、S.ラジャラトナムは政界入りし、シンガポール独立後の初代外務大臣に任命され、その後1980年~1985年は第2副首相を務めました。

S.ラジャラトナムは、また、多民族主義を謳った「シンガポールの国民の誓い」を起草したことでも知られています。

ジャーナリストとしての経験を活かし、S.ラジャラトナムは、書物を何冊か出版しています。代表的なものは、「Malaysia and the world (マレーシアと世界)」(1964)、「Asia’s Unfinished Revolution (アジアの未解決の革命)」(1966)、「Singapore : Global City (シンガポール;グローバル都市)」(1972)などです。

S.ラジャラトナムは、2006年に他界しました。

 

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シンガポールの有名人 - ビジネス関係者

チョウ・ジュン・セン (Chew Choon Sen)

チョウ・ジュン・センは、2003年から2010年にかけてシンガポール航空のCEOを務めた人物です。シンガポール大学(現在のシンガポール国立大学)で機械工学を専攻し、その後ロンドンの帝国大学で科学修士の資格をとりました。卒業後、1972年にシンガポール航空に就職し、企画、マーケティング、経理部門で管理職を務めました。

シンガポール航空は、チョウ・ジュン・センがCEOを務めていた2004、2007、2008年と「Airline of the Year」に選ばれています。

また、ボーイング747に代わる機種としてA380を導入したのもチョウ・ジュン・センでした。その他2004年から操業を開始したタイガー航空の支援活動もしていました。

チョウ・ジュン・センはビジネス関係者の中で、そのすぐれた手腕が高く評価された人で、2008年には、チョウ・ジュン・センの功労を讃えてシンガポール・ビジネス大賞が与えられています。

 

ホー・チン (Ho Ching)

ホー・チンはシンガポールの現首相であるリーシェンロンの妻ですが、同時に、2002年からは、シンガポール政府の投資会社「テマセック・ホールディングズ(Temasek Holdings)」のCEOを務めていることでも知られています。

テマサック・ホーディングズは以前は主にシンガポール国内に投資していましたが、投資先を海外にも広げるようになりました。現在の投資比率は、シンガポール国内が31%、北アジアと呼ばれる中国・台湾・韓国への投資が27%とそして日本、米国、ヨーロッパを含むOECDへの投資が22%となっています。

また、投資分野としては、交通、金融、通信、メディア、不動産などですが、そのおもなものとしては、メディアコープが100%、シンガポール航空56%、DSB銀行30%の株を持っています。

このような世界的な投資の拡大が高く評価されたため、ホー・チンはこれまで数々の賞を受賞してきました。

2004年~2016年にかけて、Forbes やTimes Magazineが実施する「もっとも影響力のある女性賞」を授賞し、2014年には、アジア・ハウスが与える「アジア・ビジネスリーダー賞」を授賞しています。

シンガポールの政府関係者の学歴は通常高いですが、ホー・チンも例外ではなく、シンガポール大学(現在のシンガポール国立大学)で工学部の電気工学を専攻し学士の資格をとり、その後スタンフォード大学の修士課程に進み、科学学部で電気エンジニアの資格を取っています。

夫のリーシェンロンとは、ホー・チンが防衛庁に就職した際に出会い、1985年に結婚しています。2人の間には娘一人、息子3人がいますが、このうち、娘と一人の息子は夫のリーの最初の結婚で生まれた子供です。

ホー・チンは、暖かいパーソナリティーや、フォーカスのあるビジネス手腕で多くの人から高く評価されています。

 

デスモンド・クエック(Desmond Kuek)

デスモンド・クエックはシンガポールの公共交通機関を運営している会社SMRTの最高経営責任者を2012年から務めています。

元々は軍人で、軍隊の奨学金をもらいオックスフォード大学で工学科学の学士号を取得した後、1981年に入隊しました。

入隊後は陸軍中将にランク付けされていますが、2007年から2010年までは、防衛庁の第6番目の長を務めました。

その後2010年から2012年まで、環境・水資源大臣の秘書を務めています。

デスモンド・クエックは、2016年5月に、SMRTの最高経営責任者としてシンガポール国立大学(NUS)との共同研究所を開設する旨を発表しました。

6千万シンガポールドルを投じるプロジェクトですが、交通における問題の検知システムの開発とサービス改善を図るためのソフトの開発を目的とし、大学生35人、研究者60人を起用するそうです。

 

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シンガポールの有名人 - エンタメ関係者

ジェット・リー (Jet Li)

ジェット・リーは、1963年に中国の北京で生まれ、シンガポールの国籍を持つハリウッドの俳優で、「リーリンチェイ」の名前でも知られています。

武術が得意で、ブルース・リーやジャッキー・チャンなどとならんで、武術映画の俳優として人気を博してきました。また、映画の中だけでなく、実際の武術界でも名を知られています。

ジェット・リーは、5人きょうだいの末っ子として生まれましたが、彼が2歳の時に父親が他界したため、経済的に苦労をしました。

子供のころから武術に優れ、8歳の時にはすでにその才覚を発揮していたので、北京業余体育学校に入学しました。

11歳の時には、中国全国武術大会に出場し、個人総合優勝を勝ち取り、その後5年間続けて優勝しています。この記録は中国でも類のないもので、まだ破られていません。

19歳の時には映画「少林寺」で映画界にデビューし、25歳の時には「ファイナル・ファイター鉄挙英雄」で初めて監督も務めました。

ジェット・リーが出演したその他の映画には、2000年に制作されたアメリカ映画「Romeo Must Die(ロミオ・マスト・ダイ)」と2002年の香港と中国の合作「ヒーロー」があります。後者は2003年のアカデミー賞で「外国語による映画部門」で最優秀賞を受賞しています。

ジェット・リー個人が獲得した賞としては、2006年に制作された「スピリット」で香港映画評論学会大賞で主演男優賞を獲得しています。ただし、この映画を機に武術映画からは引退しています。

私生活では、一度離婚し、現在は2度目の結婚で、最初の妻との間に娘が2人、また現在の妻である??との間にさらに2人の娘がいます。

ジェット・リーは、2004年にスマトラ島沖地震が起きた際に、家族と一緒にモルジブにいたため、被害に会い軽傷を負いましたが、このことをきっかけに慈善活動に参加するようになりました。

2007年には、「ワン基金」を設立し、募金活動に専念しました。ジェット・リーは、雑誌フォーブスで「アジアの慈善家48人」の一人に選ばれ、高く評価されました。

最近のジェット・リーは健康を損ない、あまり一般には姿を見せなくなりました。これは、これまでの激しいアクション映画に出演し体を酷使したためで、今後は車椅子の生活を強いられる可能性があると言われています。

 

ジーンネット・オウ (Jeanette Aw)

ジーンネット・オウはシンガポールの女優です。1979年に、フィ―ジー出身の中華系の両親の下に生まれました。

3人きょうだいの末っ子で姉と兄がいます。家族は中華系なのですが、家では英語しか話さなかったため、ジーンネット・オウは中国語はほとんど話せません。

ジーンネット・オウはこれまで主にテレビドラマに女優として出演してきており、メディアコープのスター賞を今まで29回獲得しており、シンガポールで最も有名な女優の一人としてその名を知られています。 

代表的なテレビドラマは、2008年に放送された「リトル・ニョニャ」です。このドラマは1930年代のシンガポールを舞台とし、シンガポールのプラナカン一家の生活を70年、3世代に渡って描いたもので高視聴率を記録しました。

ジーンネット・オウはこのドラマの主役として、競争率の高いオーディションを受け、そこで選ばれました。演技的にも素晴らしく、一躍有名になりました。

その後、数えただけでも2016年までに18個のテレビドラマに出演しています。最も最近の出演ドラマは、2016年に制作された「ドリーム・ジョブ」と「118II」です。

ジーンネット・オウは、また作家でもあり、これまでに2冊の本を出版しています。そのうちの1冊「ジーンネット・オウ - デフィニション」はベストセラーにもなりました。

小学校のころから、英語が得意で、本を読んだり書き物をしたりすることが好きでした。またシンガポール国立大学(NUS)では舞踊を専攻しました。

幼い子供への思いも強く、友人が三つ子を出産した直後病死してしまったため、友人に代わってその子供たちの面倒を見たこともありました。

 

ファン・ウォン(Fann Wong)

ファン・ウォンはシンガポールの女優、歌手、モデルです。1971年に洋裁師だった客家人の両親の下に4人きょうだいの2番として生まれました。

小学校のころから、美貌が讃えられ、テレビの子供番組に子役として出演していました。また、16歳の時には「彼女の世界(Her World)」というシンガポールのファッション雑誌が主催した美人コンテストで優勝し、その後2年間モデルの仕事をしていました。

ファッションが好きだったため、ラ・サラ国際ファッションスクールに通い、ファッション販売の学位を取得しました。

1993年、22歳の時に、台湾へ渡航し化粧品の宣伝などの仕事をしていましたが、その時にシンガポールのテレビ番組のディレクターにスカウトされ、再びシンガポールに戻り、テレビドラマに出演するようになりました。主な出演番組には「夢は叶う(Dreams come true)」や「挑戦者(Challenger)」があります。

ファン・ウォンはまた、歌も得意で1996年にはアルバムも発売しています。このアルバムは発売当時は「Fanntasy」というタイトルがついていましたが、後に「I live alone」というタイトルに名前を変えています。

ファン・ウォンは2003年にジャッキー・チャンとオーウェン・ウィルソンが共演した「上海ナイツ(Shanghai Knights)」でChon Linの役を演じました。この時の演技は「優雅でありながら優れたカンフーファイター」として高く評価されました。

2009年には8年間付き合っていたマレーシアの俳優、クリストファ・リーと結婚しました。二人は結婚前から共演することが多く、付き合っていたことはかなり長い間公開されていなかったようです。二人の間には2014年に誕生した息子が一人います。

 

タン・ピンピン (Tan Pin Pin)

タン・ピンピンは1969年生まれのドキュメンタリー映画の監督です。シンガポールでは、独立後経済発展を重要視したため、映画などの文化振興には政府から支援がなく発展しませんでしたが、1990年代になって、政府の文化面への関心が高まるようになると、映画の製作も行われるようになりました。

タン・ピンピンは女性の映画監督で、これまで制作した映画はどれもシンガポールの社会を時には美しく、時には批判的に描いたことで知られています。

タン・ピンピンは学術面でも優秀であったため、奨学金をもらってオックスフォード大学に入学し、法律を学びましたが、その後アメリカのノースウエスタン大学で映像も学び、美術学の修士号を取得しました。

その卒業作品として制作した「お墓のお引越し(Moving House)」は学生アカデミー賞のベスト・ドキュメンタリー賞を獲得しました。これはシンガポール人としては初めてのことでした。

また、2005年に制作した「シンガポール・ガガ」は、シンガポールの過去と現在の風景を比べたドキュメンタリーですが、その中では大道芸人やチアリーダーなどシンガポールの街で聞かれる音に焦点を当て、実際の姿を映し出しています。この映画は劇場でも上演されました。

タン・ピンピンは、また「インビジブル・シティー」の制作でも知られています。この映画は政府が封印した過去の出来事などを映し出したもので、台湾の国際ドキュメンタリー映画祭などで、いくつかの賞を獲得しました。

その他、タン・ピンピンは、シンガポールで上映を禁じられた映画「シンガポールへ、愛を込めて」も制作しています。この映画はシンガポールから亡命した人々を取材したものですが、政府は禁止の理由を「亡命した人たちは自分たちの意思でシンガポールを離れた」とし、政府が弾圧したことを否定しています。

 

ガ―ミット・シン(Gurmit Singh)

ガ―ミット・シンは、1965年生まれのシンガポールの俳優・ホスト・コメディアンです。シンガポールのジム・キャリーと言われ国民に親しまれています。

特徴はシンガポール訛りの英語「シングリッシュ」をまくしたてて笑わせるコメディスタイルで、マレーシアでも人気があります。代表作は2009年から2010年にかけて放送された「プア・チュー・カン」という題名のコメディドラマで、このドラマの中で題名と同じ主人公のプア・チュー・カンを演じました。

このコメディドラマは、大変人気がありヒットしたので、ガ―ミット・シンは、本名よりも「プア・チュー・カン」として知られるようになり、2014年には、黄色い長靴をはき、カーリーヘアーのプア・チュー・カンに扮したガ―ミット・シンの蝋人形がマダム・タッソーの蝋人形館にも飾られました。また、アジアテレビ賞を5回受賞しています。

2005年8月9日のシンガポールの独立40周年記念パレードでは総合司会を務め、「我々は一つだ。一つの民族だ」と訴えました。

ガ―ミット・シンは映画にも出演しており、2016年制作の青春映画「Young & Fabulous (ヤング&ファビュラス)」では学校の道徳教師Mr. Booを演じました。

プライベート面をみると、ガ―ミット・シンの母は日本兵と中国人の混血児で、父はインド人でした。そのため、最初はシーク教の教徒でしたが、後にキリスト教に改宗しています。現在は、結婚し3人の子供がいます。

 

ジャック・ネオ(Jack Neo)

ジャック・ネオは、1960年生まれのシンガポールの映画・テレビ俳優及び映画監督です。映画への関心は14歳の時に中学でコメディのスキットを書いたことにより始まったとのことです。

映像会社であるメディアコープに1980年に入り、最初はテレビの番組への出演が主な仕事でした。ジャック・ネオの一番の代表作は「コメディ・ナイト」という番組で、この中では、リアン・ポーポーというおばあちゃん役とリアン・シーメイという男性役を一人で演じました。

また、映画監督としては、「That One Not Enough」(1999)が処女作でその後自分の芸能会社を設立し、いくつかの映画を作りました。

内容としては、社会風刺的なものが多く、例えば「子供の面倒をよく見ない親」、「シンガポールとマレーシアの水の取り合い」などをテーマとして扱いました。

ジャック・ネオはその精力的な制作活動が高く評価され、多くの賞を獲得しています。そのいくつかをあげると次のようになります。

1998 シルバースクリーン賞で「最優秀監督賞(Best Director Award」

1999 短編映画に対する「功労章(Lifelong Achievement Award)」

2004  「公共サービス賞 (Public Service Award)」

2013年、ジャック・ネオは「Jチーム・アカデミー(J Team Academy)」を設立し、それ以来映画制作における教育を行ってきました。2014年には、マダム・タッソーの蝋人形館にジャック・ネオの蝋人形が展示されました。

プライベート面では、結婚し4人の子供がいますが、女性関係のスキャンダルを起こしたこともあります。

 

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シンガポールの有名人 - アーティスト

ジェー・ジェー・リン(JJ Lin   林俊傑)

ジェー・ジェー・リンは1981年生まれのシンガポールのシンガーソングライター、レコード製作者、俳優です。2004年にデビューして以来、多くの曲を生み出してきました。

主な活躍の場は台湾ですが、シンガポール人としてもっとも成功したアーティストとして評価されています。

特に、受賞したアワードの数が多く、シンガポール、台湾、中国で50以上もの賞を受賞しています。以下、そのおもなものです。

2004年 第15回ゴールデンメロディーアワードの「最優秀新人賞」(台湾)

2005年 シンガポールヒットアワード「最優秀作曲賞」など全部で4部門

2007年 第2回北京ミュージックポップアワードで「最優秀人気男性歌手賞」など5部門

2009年 第8回スプライト・ビルボードで「台湾最優秀歌手賞」など4部門

2010年  第10回グローバル中国音楽で「最優秀男性歌手賞」など5部門

2014年  第14回恒例作曲者・作家協会賞で「最優秀アーティスト賞」など3部門(英国)

2016年 Mネットアジアミュージックアワードで「シンガポール最優秀アーティスト賞」

ジェー・ジェー・リンの得意とするところは作曲ですが、彼は他の歌手のための曲も作曲しています。このように、これまで精力的に音楽生活を送ってきましたが、2017年には1年間音楽の世界から離れることを表明しています。

ジェー・ジェー・リンは、その他、2007年に2時間半で3052枚ののCDの曲を歌いこなしたということでギネスブックの記録にも乗っています。

私生活では、プレイボーイとの評価もありますが、台湾の女優Ady Anと密かに3年間結婚していたのではと言うニュースが流れたこともありました。

 

マビス・ヒ― (Mavis Hee )

マビス・ヒ―は1974年生まれのシンガポールのシンガーソングライターで女優でもあります。1992年のミスチャイナタウンで賞を勝ち取っています。

マビス・ヒ―は1994年に最初のアルバム「Knowingly」を出しました。その後台湾のエンタメ関係者からスカウトの話がありましたが、マビス・ヒ―はシンガポールのメンターであったチェン・ジアミン(Chen Jiaming)の下を離れたくなかったため、台湾からの申し入れを却下しました。

その後再度台湾でデビューするチャンスが訪れたため、アルバム「Regret」をリリースしました。このアルバムによりマビス・ヒ―は台湾で有名になり、その後に発売された「Living by Night」は30万枚も売れました。

また香港にも進出し、アルバム「Listen Quietly」を出しました。このアルバムは3週間続けて香港のチャートでトップとなり、香港で、シンガポール人としては初めての「人気女性歌手賞」を授賞しました。

音楽以外では、マビス・ヒ―は1999年からシンガポールの全国腎臓基金の大使を務めています。

ただ、良くない出来事もあります。2006年、イタリアを旅行していた際にリッツカールトンホテルで、他の宿泊客の部屋に押し入り逮捕されています。

近年では、うつ病にかかり、エンタメの世界から離れ、キリスト教徒として静かな生活を送っています。

 

コリン・メイ(Corrinne May)

コリン・メイは、1973年にシンガポールに生まれロスアンジェルスに基盤を持つシンガーソングライターです。ピアノやギターも弾き、澄んだ声と美しいメロディーの曲が多く、普通は歌詞があるとなかなかBGMとしては適さないのですが、コリン・メイの音楽は歌詞があってもBGMとして聞けるほど自然で美しい音楽の世界を造り出しています。

コリン・メイは敬虔なカトリック教徒でもあるせいか、賛美歌的な雰囲気を持った静かで厳かな曲を多く作っています。

シンガポールではシンガポール国立大学(NUS)でマスコミと英文学を専攻し卒業しましたが、その後マサチューセッツ州のボストンにあるバークリー音楽学校(Berklee College of Music)で音楽を学びました。この時に後に夫になるKevin Hooに出会い、二人は2003年に結婚しています。

1999年、本格的に音楽の仕事をするために、ロスアンジェルスに移住しましたが、今でもシンガポールには毎年少なくとも1回は帰っています。

これまで5枚のアルバムを発売していますが、最初に出したのが「フライ・アウェイ(Fly Away)」というタイトルのアルバムです。

最初のころはシンガポールでもあまり知られていませんでしたが、2番目にリリースしたアルバムの中の2曲がテレビドラマ「チェイス(Chase)」の中で使われたことによって、人気者になりました。

2012年に発売したアルバム「クルキッド・ラインズ(Crooked Lines)」は自分の娘を育てた経験から感じ取ったことを音楽にして作ったアルバムです。

2014年には、「ビューティフル・ライフ(Beautiful Life)」という曲がシンガポールの恒例作曲家・作家協会賞を受賞しました。

また、「イフ・ユー・ディドゥント・ラブ・ミー(If you didn’t love me)」はキャロル・キングとキャロル・ベイヤーセイガーが作った詩にコリン・メイが作曲しコンテストで優勝したものです。

 

ケルビン・タン(Kelvin Tan)

ケルビン・タンは1981年生まれの盲目のシンガーです。中国のポップソングの影響を受け、音楽の世界に目覚めました。

2005年に開かれた「プロジェクト・スーパースター」という歌のコンテストに参加し、優勝したことで有名になりました。

このコンテストは聴視者の投票によるもので、ケルビン・タンが優勝したのは同情票によるものではないかとの批判も出ましたが、その後ケルビン・タンは3枚のアルバム「All I want is” “i-Weilian” “Moving Notes – KelvinTan”をリリースし実力を示しました。

2006年のシンガポール博覧会ではソロコンサートを開き、5000人を前にして、美しい歌声を披露しました。

テレビのドラマに出演したこともありますが、結局は盲目の人の訳しかできないということで、興味を失い、それ以降はドラマには出演していません。

ケルビン・タンは、自身が障害者であることから、身体障害者への思いが強く、チャリティを開いて一般の人の理解を深めようとしています。

ケルビン・タンはASEANパラゲームmpゴールボールの競技にも出場したことがあります。

映画製作会社M2D2は、2016年からケルビン・タンの生き方をテーマにしたドキュメンタリー「Where is he Raisin」を制作しています。現在は制作の最終段階に入っています。

このドキュメンタリーは盲目の人がどのような生活をし、どのような気持ちで生きているのかに焦点を当て、一般の人の理解を求めることを目的としています。

 

ターニャ・チュア(Tanya Chua)

ターニャ・チュアは、1975年生まれのシンガポールのシンガー・ソングライターです。中国人の親の元に生まれたため、英語だけでなく中国語の歌もたくさん作っています。

ターニャ・チュアの経歴を見ると、大学では音楽とは関係のないビジネス管理の学位を取得していますが、その後カリフォルニアのハリウッド音楽院へ入学し、歌の世界に入りました。

初めてのアルバムを出したのは1997年で、リリースしたアルバムのタイトルは「Bored」と言います。同年、アジアソングフェスティバルで、シンガポール人としては初めて賞を受賞しています。

ターニャ・チュアは特に台湾で人気があり、1998年には、台湾のユニバーサル・ミュージック会社と契約を結びヒットした歌を中国語に訳しアルバムにまとめました。

その後、契約会社をワーナー・ミュージック社に変更し、「Stranger」というタイトルのアルバムをリリースしました。また、ゴールデン・メロディー・アワードでは、ベスト女性歌手に3回選ばれています。

これまでリリースしたアルバムは英語のものが4枚、中国語の物が10枚となっています。

私生活では、8歳年下のペイストリーシェフ、ジョナサン・マーチン氏と付き合っています。2人の出会いは、ターニャ・チュアがパリで参加した料理教室の講師がマーチン氏だったとのことです。

 

 

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シンガポールの有名人 - スポーツ関係者

ファンディ・オーマッド (Fandi Ahmad)

ファンディ・オーマッドは1962年にシンガポールで生まれたサッカー選手ですが今は引退しています。

ファンディはシンガポールの代表チームの一員として優勝杯を101回勝ち取り、またゴールも55回決めています。東南アジア大会でも3回シルバーメダルを獲得しています。

1993年から1997年にかけてはキャプテンも務め、ファンディ・オーマッド・アカデミーという教育機関も運営しています。

ファンディはまた、ヨーロッパのサッカーの試合でシンガポール人として初めて出場した人でもあります。シンガポールの英雄とも呼ばれています。

プライベートの面では、ファンディは南アフリカ出身のモデル、ウェンデー・ジェイコブと結婚し5人の子供がいます。ファンディは、シンガポールの偉大な50人のスポーツ関係者の中で第6位にランク付けされています。

子供のころからサッカーが好きで夢中になり、いつもボールを蹴っていました。家族はそれほど裕福ではなく、寝室が2つしかないHDBに住んでいました。

父親のオーマッド・ワルタンはサッカーチームのゴールキーパーを務めていました。ファンディのサッカー好きも父親の影響を受けました。

 

リー・ジアウェイ (Li Jiawei )

リー・ジアウェイは、1981年に中国の北京で生まれ、後にシンガポールに帰化した人で、元卓球の選手として有名です。

シンガポールに帰化したのは、中国で卓球の大会に参加していた際に、シンガポールの「外国人スポーツタレント制度」と呼ばれるスカウト制度の代表者によりスカウトされたためで、1995年にシンガポールへ移住し、1999年、18歳になった時に市民権を取得しました。

リー・ジアウェイの卓球の試合への参加は大変多く、オリンピックにも4回出場し、メダルも2回勝ち取っています。こうした功績により、リー・ジアウェイは、国際卓球連盟のトップ10の一人として認められています。

最初のメダルは銀で、北京オリンピックで獲得したものです。2回目のメダルはロンドンオリンピックに出場した時です。ロンドンオリンピックでは、準決勝で日本と対戦し、0-3で負けましたが、3位決定戦で勝ち銅メダルを勝ち取っています。メダルは二つともチームとしてもらったものです。

この他、世界選手権でもダブルスで銅メダル、チームとして銀メダルを2回、金メダルを1回勝ち取っています。

プライベート面では、アテネオリンピックで知り合ったバドミントンの選手だったロナルド・スシロと出会い婚約しましたが、財産の問題をめぐって、関係は破局に終わり、その後北京で知り合ったビジネスマンと結婚し、現在息子が一人います。

リー・ジアウェイは2012年のロンドンオリンピックの後に開かれた記者会見で引退を発表し、卓球の大会からは引退しました。

これまでシンガポールの「スポーツウーマン・オブ・ザ・イヤー」に5回も選ばれるなど、シンガポールへの貢献も大きかったと評価されています。

 

タン・ピン・ジン(Thum Ping Tjin)

タン・ピン・ジンはシンガポール人として初めてイギリス海峡を泳いで渡ったことで知られています。

また以前は、シンガポールの全国競泳チームのメンバーでもあり、アテネオリンピックにも参加しました。PJという愛称で親しまれていますが、スポーツ界からは2002年に引退し、現在は、英国のオックスフォード大学の東南アジア研究プロジェクトを担当しています。

タン・ピン・ジンは若い時から学術面で優秀であったため、16歳の時に米国のハーバード大学に付随のハーバード・カレッジに入学し、東南アジア研究を専攻し卒業しました。

また、スポーツ界引退後は再び大学に戻りハーバード大学で現代歴史を勉強し博士号を取得し、2012~2014には、シンガポール国立大学でリサーチ・フェローに従事しました。

2015年には世界経済フォーラムの青年部門でリーダーも務めています。

タン・ピン・ジンはシンガポールの独立について、ただ単に国として植民地から解放されるだけでなく、国民のレベルで、生活や文化の面で植民地的な考えから脱却すべきだと主張しています。

 

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まとめ

シンガポールの有名人と言えば、まず上がってくるのがリークアンユーですが、今回、調べていくうちに、政界、芸能界、スポーツ界そしてビジネス界など様々な分野で活躍してきた、また現在も活躍している多くの有名人の生き方に触れることができました。

これまでは、それほど詳しく知らなかったシンガポールの「人」の面がよくわかるようになり、シンガポールの社会を更にによく理解する上での参考になるよう願っています。

 

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